彼の名を呼ぼうとしても、声は出ない。
黙ったまま立ちつくす総司、土方は唇の端をあげた。ひどく冷たい笑みだ。
「驚いた顔だな。何でこんな処にいるんだって思っているのか」
「……」
「総司、話がある」
それに、小首をかしげた。
何だろう。
なぜ、彼が自分をわざわざこんなところで待ち伏せをするのか。
屯所で話せばいいのに、何故なのか。
その理由がまったくわからなかった。
不思議そうに彼を見つめる総司に、土方は目を細めた。
大股に歩みよってくると、手をのばし、ぐいっと乱暴に総司の手首を掴んだ。
「相変わらず無視かよ。何も話さねぇつもりか、ふざけるな」
「…!」
それに、慌てて首をふった。ふざけているつもりなどないのだ。
だが、その行動が尚更土方の怒りを煽ったようだった。眉根を寄せると、荒々しく総司の身体を引き寄せた。
声が低く押し殺されたものになる。
「……おまえ、俺を莫迦にしているのか」
「……っ」
「声が出ないふりなんざ、やめろ!」
男の言葉に、総司の目が大きく見開かれた。それに、土方が荒々しく言葉をつづけた。
「他の男にはいくらでも話せるくせに、俺の前では話せないだと? はっ、莫迦にするんじゃねぇよ」
言いざま、乱暴に突き放された。その反動で総司は後ろへよろめいてしまう。
倒れはしなかったが、土方から初めてされた乱暴に息を呑んだ。
土方が心底怒っているのだとわかった。
彼は……すべて見ていたのだ。
知られていたのだ。
総司が伊東や斉藤と話しているところも、隊士たちと笑い合っている姿も皆、見られていたのだろう。
誤解されて当然だった。彼の前でだけ声が出ないなど、思うはずがないのだ。
総司自身、こうして彼の前でだけ声が出なくなる自分が信じられないのだから。
何も言えず立ち尽くしていると、土方が、ちっと舌打ちした。はっと顔をあげれば、踵を返すところだった。
相変わらず黙ったままの総司に呆れたのか、そのまま背を向けて歩み去っていこうとしている。遠ざかる広い背に、総司の身体が震えた。
このまま別れたら、もう二度と元に戻れない気がした。
恋人になれなくてもいい、愛されなくてもいい。
兄弟のような関係であっても構わないから、彼に傍にいて欲しかった。
「……ッ!」
喉奥から掠れた悲鳴がもれた。
だが、それは声にならない。
総司は走りだし、土方に追いつくと同時に両手をのばした。後ろから男の背に抱きつき、ぎゅっと縋りつく。
「!」
土方は足をとめた。その背に抱きついたまま、総司は必死に嗚咽をこらえた。
泣いてはいけないとわかっている。それではまるで娘のようではないか。だが、自然と涙がこぼれた。
愛しい男のぬくもりを感じて、誤解されていることが辛くて、彼に背を向けられたことが切なくて、ぽろぽろと涙がこぼれた。
それを感じたのだろう、土方が深く吐息をついた。
「……まったく、おまえは……」
俯き、そう呟くと、土方は強引に総司の手をほどかせた。突き放されるのかと思ったが、すぐさま身体の向きを変え、そのまま両腕で抱きすくめられる。
気が付けば、男のあたたかい腕の中にいて、優しく抱きしめられていた。
それに、総司は目を見開いた。涙でいっぱいの瞳で見上げると、土方は困ったように苦笑した。
「そんな顔をするな。俺は本当におまえの涙には弱いんだ」
「……っ」
「あぁ、わかったよ。これじゃ、俺がおまえを苛めているみたいじゃねぇか」
そう言ってから、土方は総司の細い肩を抱いて、柔らかく促した。神社の境内へと入ってゆく。木陰になった石段を見つけると、そこに総司を坐らせた。すぐに隣に腰を下ろし、笑いかけてくれる。
「おまえにはかなわねぇよ。俺はおまえには甘すぎるからな」
確かに、彼の言葉どおりだった。
いつも土方は総司に甘く、ある意味、特別扱いしてくれてきたのだ。
むろん、それに甘えるつもりはなかった。総司は可愛らしい容姿だが、一方で凛として清廉な性格だ。仕事と私事は分けているつもりだった。
だが、やはり私事となると、弟のように甘えてしまう。
これだから子供扱いされるのだと思いつつも、甘やかしてくれる土方の腕の中が心地よかったのだ。
しばらく沈黙が流れた。
土方も、総司が何か言うことを待っているのか、黙りこんでいる。だが、声が出ない以上、何も言うことが出来ないのだ。
総司は困った挙句、ある事に気づいて手をのばした。土方の手をとり、手のひらに指をあてる。
訝しげに見下ろす土方の前で、ゆっくりと綴った。
「声が出ない」
と。
たちまち、土方が不快そうに眉を顰めた。
「おまえ、いい加減にしろよ。俺はもう見ちまっているんだ、他の奴らと話していたおまえを」
「……っ」
総司は首をふり、また指で綴った。
「あなただけ」
「俺だけ?」
「あなたの前だけ出ない」
「……」
それに、土方の目が見開かれた。
驚きと戸惑いの表情で、総司を見下ろしている。やがて、それは怒りと悲しみの表情に変わった。
「……おまえ」
何か言おうとして、結局は口を閉ざした。総司を見つめている。
長い沈黙の後、静かに問いかけた。
「おまえは……俺が怖いのか」
「!」
総司は弾かれたように顔をあげた。必死に首をふって、彼の言葉を否定しようとする。
だが、土方は怒りに我を忘れてしまっているようだった。強い力で肩を掴まれる。総司を覗きこむ黒い瞳に、苦痛の色が濃かった。
「俺を怖れている、嫌っているから、声が出ねぇんだろうが。それ以外、考えられるかよ」
「……っ」
何度も何度も首をふった。土方の手をとり、言葉を綴ろうとするが、乱暴に振り払われてしまう。
顔を背ける男に、総司はどうすればいいのかわからず、混乱した。
どうすれば、わかってもらえるの。
怖いだなんて、嫌いだなんて、そんなことありえるはずがないのに。
この世のすべての人が彼を嫌っても、私だけは彼を愛している。
それは、この命のように確かなことなのに。
総司はたまらず土方の胸もとに縋りついた。必死に、好きという気持ちをあらわすために、身体を密着させる。
それに、土方は戸惑ったようだった。半ば呆然として、抱きついてくる総司を受けとめている。
だが、やがて、総司の気持が伝わったのか、土方の手が背にまわされた。優しく、そっと抱きすくめられる。
心地よいぬくもりだった。
うっとりと身をあずけてしまうが、次の瞬間、はっと思い出した。
彼は、もう他の誰かのものなのだ。
この手も、この声も、このぬくもりも、他の人のためにあるのだから……。
切なさに固く瞼を閉ざした。
少し落ち着いてきたのだろう。
しばらくすると、総司は土方の腕の中から逃れた。
きちんと石段の上に座り直し、彼の手をとる。それから、いい? と確かめるように小首をかしげてみせた。
それに土方が頷くと、細い指さきで綴ってくる。
「嫌いじゃない」
「……」
「好き、だい好き」
「総司……」
指で綴られた言葉は短く、もどかしい。
その「好き」という言葉に込められた意味を、土方は、焦がれるほど知りたいと思った。
だが、一方で怖くもある。
ただの兄だと断言されたら? 彼の想いをあっさり否定されたら、立ち直れるのか自信がなかった。
「……」
土方は口もとを引き締め、総司を見下ろした。
そんな彼の視線に気づいた総司が顔をあげ、大きな瞳で見上げてくる。
(……だから、そんな顔するなよ)
舌打ちしたくなる思いだった。
総司は自分の魅力にまったく気づいていないのだ。
その幼さゆえの艶かしさや、清楚で愛らしい姿、花のような笑顔、どれも男の心を強く惹きつけた。
総司に惚れている男たちは数えきれぬほどだ。
土方が守ってやらなければ、総司は危ない目に幾度もあっていたはずだった。それらをすべて、土方は総司が知らない処で容赦なく片付けてきたのだ。
可愛い総司だった。
弟のようではない。恋人として、愛する人として可愛いのだ。
いつから愛していたのかなど、わからない。
だが、土方にとって総司は掌中の珠だった。幼い頃から見つめ、育て、愛しんできた大切な宝物だったのだ。
土方は昔から人を愛することが出来ない男だった。
誰も彼もが上辺や容姿だけで寄ってきた。土方は頭も切れたし、容姿も優れている。多くの男女に好かれたし、誘いをかけられた。
だが、どんな者も、彼の中にある暗い闇のような孤独と寂寥感を、知ることはなかった。
総司が知ってくれているとは思わない。ただ、土方が己の孤独を感じた時、いつの間にか総司が傍にいてくれた。まるで愛らしい鳥のように、彼の手のひらの上へ舞い降り、甘く可愛い声で囀ってくれたのだ。
いつまでも、自分の手の中にいて欲しかった。
淋しい時、辛い時、総司の笑顔を見るだけで癒やされた。
だが、少年は幼いままではいてくれないのだ。いつの間にか、総司は周囲の者に心開くようになっていた。それを土方は止めようとは思わなかった。
むろん、嫉妬は感じたが、束縛すれば総司に嫌がられることはわかっていた。そのため、黙って見守るだけにとどめたのだ。
なのに、総司は彼の前で話すことさえしなくなった。
初めは声が出ないという言葉を信じた。
だが、そのすぐ後に、総司が伊東と話をしているのを見てしまったのだ。
鈴のような笑い声をたて、楽しそうに話をしていた。
(俺とは話したくねぇのか)
腹の底から燻るような怒りを覚えた。
土方が見ていると、総司は自分以外の者の前では普通に話をしていた。笑いあい、話をしている。なのに、土方が傍にいると一切口をきかなくなるのだ。
激しい怒りで頭がおかしくなりそうだった。
総司が自分を嫌っているとしか思えなかった。だが、むろん、そのままにしておくつもりはなかった。
(総司は……俺のものだ)
他の誰にも渡すつもりもなかった。
諦めなければならないと思った恋だった。初で子供な総司が彼の想いを受け入れてくれることなど、万に一つもない。総司にとって恋愛とは男女のものであり、それも淡くままごとのような恋であるはずだった。
いずれ、似合いの可愛らしい娘を嫁にもらって、幸せになるのだろうと、思っていた。いや、そうであって欲しかったのだ。それならば堪えることも出来た。
激しい嫉妬と情愛を押し殺しながら、それでも、兄代わりとして祝福してやることが出来ただろう。
だが、他の男に奪われるなら、話はまったく別だ。
総司が伊東に心を許していることは、わかっていた。自分とは違う雰囲気をもつ伊東に惹かれたのだろう。総司も土方と伊東の対立は知っているはずだったが、それでも一緒にいるということは、かなり惹かれている証だった。
総司がどんな感情を伊東に抱いているかはわからない。だが、明らかに伊東は総司に友人以上の気持ちを抱いていた。彼から奪う気でいるのだ。
(……させるかよ)
獣のように目を細めた。
どんな事があっても、他の男に渡す気はない。他の男に奪われるぐらいなら、この手で殺してやるとまで思った。
長い年月、己の情愛も何もかも押し殺し、見つめてきただけに、男の想いは激しく狂気じみたものになっていたのだ。それは土方自身も自覚があるが、変えるつもりなど一切なかった。
総司を失えば、生きてゆけない。
それがわかっているからこそ、手放すぐらいなら殺してやるとまで思いつめてしまうのだ。
土方は総司を待ち伏せた。外出すると聞いて、帰り道にある神社の鳥居で総司が歩いてくるのを見守っていたのだ。
だが、彼の姿を見たとたん、総司がみせた態度には激しく傷ついた。以前なら、喜び、駆け寄ってきてくれただろう。なのに、総司は化け物でも見たように目を見開き、怯えた表情で後ずさってしまったのだ。
冷静に話をしようと思っていたのに、余裕を失ってしまった。新選組副長としてなら幾度もの修羅場もくぐり抜けている、どんな凄惨な事にも眉一つ動かさず対処することが出来た。
だが、この若者を相手にすると駄目なのだ。愛しい、可愛いという感情と裏腹に、男として見られない屈辱と苦しさに、つい我を忘れてしまう。理性を失い、感情的になってしまうのだ。
相変わらず口をきこうともしない総司に、かっと頭に血がのぼった。憎らしささえ覚えてしまう。
このままでは手を上げてしまいそうだった。そのため、土方は背を向けたのだ。
だが、そんな彼を総司は追ってくれた。あまつさえ、彼の背に抱きついてくれたのだ。
心の臓が跳ね上がった。その愛しい存在が自分に縋りついているという事実に、息をとめる。挙句、総司が泣いていることに気がつけば、もうお手上げだった。たちまち、土方の胸は愛しさと切なさでいっぱいになり、思わず抱きしめてしまった。
神社の境内に入ってから告げられた事実は、土方の眉を顰めさせた。
特定の者の前でだけ声が出なくなるということは、聞いたことがあった。だが、その場合、大抵は相手を嫌っていたり怖がったりしていたのだ。
やはり嫌われているのかと思い、問いかけたが、総司は必死に首をふって否定してくれた。その上、「好き」とまで指で綴ってくれたのだ。
……わかっている。
それが兄代わりとしての感情だということを。
だが、それでも、土方にすれば、少なくとも総司に嫌われていない、怖がられていないという事を確かめられただけでも、収穫だった。
むろん、問題はまったく解決していない。
総司は本当に声が出ないようだし、それが何に起因するのか、さっぱりわからなかった。
「とりあえず屯所に戻るか」
そう問いかけた土方に、総司は一瞬、長い睫毛をふせた。
それから、また彼の手をとり、問いかけてくる。
「一緒」
「いや、俺はこの後、寄る処があるから……」
言いかけたとたんだった。さっと総司の顔が強張り、綴るためにとっていた彼の手をきつく握りしめた。
驚いて見下ろすと、総司は懸命に何度も首をふった。意味がわからずにいる土方に、告げられた。
「ここにいて」
「……わかった。なら、しばらくここにいよう」
土方にしても急ぐ用ではなかった。それに、総司よりも優先すべき用など何処にもない。
こんな状態の総司を放っておけるはずがなかったし、少しでも傍にいてやりたかった。
総司は、ほっとしたように微笑んだ。
「うれしい」
指で綴るためか、たどたどしい言葉が胸に痛い。
素直で幼い頃の総司のようだった。土方の胸に強い庇護欲がわきおこる。もともと総司を守っていきたいと思っていたが、こうして声が出せない総司を見ると、より強く守りたいと思ってしまうのだ。
静かな声で問いかけた。
「おまえは、その……俺の前でだけ声が出ないことに、何か思い当たることがあるのか」
それに、総司は首をふった。きゅっと唇を噛みしめる。
「医者には相談してみたのか」
それにも、首をふる。
「まぁ、確かに医者に相談してみて治るものでもないだろうしな。そうだ。おまえは……本当に俺の前でだけなのか。他に誰か、声が出なくなる相手はいるのか……そうか、いないのか」
ため息をついた土方に、総司は手をのばした。彼の腕に手をかけ、そっと大きな瞳で見上げる。
それに苦笑した。
「すまねぇ、おまえの方が悩んでいるだろうに……だが、そうだな、俺の前でだけおまえが声を出せないってことに、かなり落ち込んじまっている」
「……」
「よりによって、何で俺の前だけなんだとか、やっぱり嫌われているんじゃねぇのかとか、考えちまうんだ……」
それに、こう考えずにはいられないのだ。
もしも。
総司が彼を嫌悪しているのなら、それは土方自身に起因しているのだと……。