その時、総司は呆気にとられた。
土方がそんな言い方をするなど、思ってもいなかったのだ。
むろん、土方もすぐ己の失言に気づいたようだった。
気まずそうな顔で舌打ちすると、視線をそらしてしまった。
「……すまん、嫌な言い方をした」
謝る彼の姿に、総司は慌てて首をふった。謝られることではないと思ったのだ。
「土方さんが謝らないで。私が間違っていたから……その、気がまわらなくてごめんなさい」
「……」
「でもね、伊東先生は土方さんとは違うのです。土方さんは私の血の繋がった兄同然だけど……伊東先生は友人なのです。だから、どちらかを選ぶとか、そういうことじゃなくて」
「わかった」
「土方さん、あの、私は……」
尚も言い募ろうとした総司に、土方は手をのばした。子供を宥めるように、ぽんっと大きな手のひらを頭の上に置く。そのまま優しく髪を撫でられた。
「わかっている、おまえの言いたいことは。だから、もう何も言うな」
「……」
「この話は終わりだ」
そう言い切って去ってゆく土方の背中を、ぼんやりと見つめた。
……いつもそうだった。
土方は、総司を子供扱いしているためか、話をしていても、最後まで言わせないことが時々あった。総司が懸命に伝えようとすればする程、途中で遮り、わかったと言ってくるのだ。
確かに、総司は言葉足らずなところがあったし、途中から話が支離滅裂になってしまうこともあった。土方のように頭の切れる男からすれば、途中で、何が言いたいんだと、苛立ってきてしまうのだろう。
そんなふうに総司は考え、一人落ち込むことも多かった。
むろん、しっかりと最後まで聞いてくれることの方が多いが、二人の間が喧嘩になりかけたり、土方が不機嫌そうな時は途中で遮られることが多かったのだ。
今度もそうだった。
土方は初めから不機嫌そうだった。ひどく眉を顰め、その黒い瞳に苛立ちの色をうかべていたのだ。
それが総司には怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。
土方さんに嫌われたら、どうしよう。
見捨てられたら、どうしよう。
そんなことばかり考えて、余計に言葉が出なくなってしまった。
何と言えばいいのかわからなくて、混乱してしまったのだ。
そして、また、いつものように土方は総司の話を遮り、背を向けた。総司はそれを追いかけることも出来なかった。唇を噛んでうつむくことしか出来なかったのだ。
ただ、その事で伊東との関係をやめようとは思わなかった。
その点では、総司もかなり気が強く、意思が強かった。自分が決めたことは、他の誰が何を言おうと変えることはないのだ。それが愛する土方であっても、同じことだった。
だから、もしあの時、土方が真っ向から伊東とのつきあいをやめるように言っていたのなら、喧嘩になっていただろう。その事がわかっているからこそ、土方もあの程度で引いたのもしれなかった。
そのため、伊東とのつきあいは続いている。
むしろ、土方に言われた時よりも親密になっていた。最近では土方と話すよりも、伊東と話すことの方が多いほどだ。
総司自身、土方を避けているところもあった。苦しくて切なくてたまらないのだ。
彼を見れば、どうしても休息所のことや、そこにいる彼の愛する女性のことを考えてしまう。
そんな自分が嫌だったし、哀しかった……。
「きみは、この書が随分と気にいったようですね」
ひとしきり今、読んだ書物について話した後、伊東は穏やかな口調で言った。
それに、総司は頷いた。
「まださわりしか読んでいませんが、でも、とても面白いと思います。新しいことを知るのが好きなので」
「そうですね、書物は色々な新しい世界を私たちに開いてくれます。それが良くも悪くもあるのですが」
「悪く?」
「そうですよ。偏った考え方の書物ばかりを読んでいると、どうしても思想が偏ってしまいがちです。だからこそ、きみのように次々と新しい書物を読み、先入観なく取り入れていくことは大切なのだと思います」
「でも、私はまだまだ理解が足りない気がします」
総司はふと目を伏せた。長い睫毛がなめらかな頬に翳りを落とした。
「書物を読んでも、伊東先生のように理解を深めることは難しいし、伊東先生のように話すことも出来ません」
「総司」
たしなめるように、伊東はその名を呼んだ。
「前にも言ったでしょう? きみはきみなのですよ。私はむしろ、そのきみの感性を……感じ方を大事にして欲しいと思っているのです」
「私の……感じ方ですか」
戸惑ったように見上げる総司に、伊東は微笑みかけた。
「そうです。きみが感じたように話せばいいし、どんなふうに理解するかは人それぞれです。それが何よりも大切なのだと思いますよ」
「でも、私は、その気持ち自身から逃れるために、書物を読むのかもしれません」
そう言った総司は、はっと口をつぐんだ。
伊東に言っても仕方がないことを、口にしてしまったのだ。甘えているのかもしれないと思った。
「すみません……恥ずかしいことを言いました」
「恥ずかしいことですか?」
伊東は微かに笑った。
「私はそれが恥だとは思いませんよ。気持ちから逃れるために、書物を読む。それでもいいでしょう。気が紛れますし、新しい世界でくつろぐことが出来る。私も辛いことがあった時、よく書物の世界に逃げこむことがありますからね」
「伊東先生もそんな事をするのですか」
びっくりしたように目を見開く総司に、伊東は肩をすくめた。
「私も人ですからね。悩み事があったりしますよ。それとも、悩み事などなさそうな呑気者に見えると?」
「あ、そういう意味で言った訳じゃ」
「なら、どういう意味です」
そう言った伊東は、くすくすと笑いだした。楽しげに笑う彼につられ、総司も声をたてて笑ってしまう。鈴を転がすような笑い声は部屋に響いた。
伊東と話すうちに気持ちが晴れていく。
それを感じて、総司は花のように微笑んだ。
だが、だからこそ知らなかった、気づいていなかったのだ。
仲睦まじく談笑する二人に、遠く渡り廊下から、鋭い視線をあてていた男の存在に……。
数日が過ぎた。
それでも、状況はまったく変わらなかった。
他の者には話すことが出来る。だが、土方がいる場所になると、まったく声が出なくなった。
幸い、土方と二人きりで話す事はなかった。打ち合わせの場で一緒になり、総司がまったく意見を言わないということぐらいだった。ただ、もともと総司は打ち合わせの場で意見を言うことが少ないため、不審には思われていないようだった。
だが、そのままでいいはずがないのだ。
総司にとって、土方と話すことが出来ないことはとても辛い事だった。
逢えば、辛くて悲しい気持ちになるが、それでも彼を見ていたい、彼の声が聞きたいのだ。愛しい彼の傍にいたいと、本当は心から願っているのだから。
(どうすればいいのだろう……)
きつく唇を噛みしめた。
医者に行こうかとも思った。だが、すぐに考えなおした。
彼の前でだけ声が出ないなんて、そんな事、どう話せばいいのかわからなかった。気のせいだと失笑されてしまうかもしれない。
ましてや、自分は新選組一番隊組長なのだ。そんな事で思い悩んでいるなど、外部にもらせるはずがなかった。
思い悩んだ総司は、結局、友人である斉藤に相談することにした。
「声が出ない?」
斉藤は不思議そうに首をかしげた。
総司を上から下まで、確かめるように眺める。
「声が出ないって、実際、今、ちゃんと話せているじゃないか」
「違うのです」
総司は首をふった。
「ある人の前でだけ、声が出なくなってしまうのです。何も話せなくて、困っているのです」
「特定な訳? それは何かおかしいよな。風邪とかで喉がおかしけりゃ、誰に対しても話せないだろうに」
「そうでしょう? こうして、斉藤さんにだって普通に話すことが出来るのに、あの人の前では全然……」
物憂そうに目を伏せてしまった総司に、斉藤は困った表情になった。
そうして哀しげに俯いている総司は、まさに雨に打たれる可憐な花のようで、片恋している斉藤としては何とか力になってやりたいのだ。だが、いったいどうすればいいのか皆目わからない。
とりあえず、その特定の相手を聞いてみることにした。
話すことが出来ないということは、話したくない相手なのかもしれなかった。なら、総司が嫌っている相手になる。
誰だろうと訝しく思いつつ、訊ねた。
「で、誰なんだ」
「え?」
「その特定の人。おまえが声が出なくなる人だよ」
「あ……土方…さんです」
小さな声で告げられた名に、斉藤は驚いた。
まったく予想外の名だったのだ。
嫌っているどころか、総司の兄代わりであり、総司が密かに恋していることが明らかな相手だ。斉藤は総司に惚れているだけあって、総司の瞳が誰を追っているのか、とうの昔にわかっていた。総司は幼い頃から土方だけを愛してきたのだ。
だが、理解できなくて思わず念押ししてしまう。
「土方さんって、あの……土方さんか。新選組副長の」
「そうです」
こくりと頷き、総司は唇を一瞬だけ噛んだ。
「この間、斉藤さんの前でも声が出なくなったことがあったでしょう?」
「あぁ、あの風邪をひいた日」
「それが風邪なんてひいていなかったのです。ただ、声が出なかっただけで。翌日から普通に声が出せるようになったから安心していたのに、巡察の後で土方さんがいる副長室に行ったとたん、声が出なくなって」
「その時だけ、たまたまだったんじゃ」
「違うのです。打ち合わせの時も、土方さんがいないと話せるのに、土方さんがいると声が出なくなってしまうのです」
そういえば、先日の打ち合わせの時、総司は何も話さなかった事を、斉藤は思い出した。普段から打ち合わせの時、口数が少ないため不審に思わなかったのだが、そういう事だったのか。
「斉藤さん」
気がつけば、総司は大きな瞳でじっと斉藤を見上げていた。
「私、どうすればいいと思います?」
「どうすればって……いや、その……」
「何で、土方さんの前でだけ話せないのかな。私、本当に辛くて……」
それはそうだろう。
片恋している男と話すことも出来ないのだ。
辛いに決まっていた。
そう思った瞬間、斉藤は何かが頭の奥を掠めたのを感じた。
だが、それは掴もうとしたとたん、すっと消え去ってしまう。
それでも、一つ思いついたことはあった。こんな事を訊ねるのは、総司には残酷だろうが、聞かなければならない気がした。
「総司」
斉藤はまっすぐ総司を見つめた。それに、総司が小首をかしげる。
「何ですか?」
「おまえ、土方さんの休息所に行ったことがあるか。あの妾に会ったことがあるのか」
「……」
それを聞いた瞬間、総司の顔がさっと青ざめた。
愛する男の休息所。そこにいる女性。
そんなもの、見たいはずがなかった。考えるだけで苦しくなってしまう。
だが、斉藤の問いかけを、総司はすぐに否定することは出来なかった。黙ったまま俯いてしまう。
「総司」
そっと肩に手がおかれた。
「オレは何も責めている訳じゃないんだ。ただ、聞いているだけだ」
「斉藤さんは……」
ぽつりと、小さな声で言った。
「私の気持ち……知っていたの?」
「……」
「土方さんを好きっていう、私の気持ち。全部、知っていたから……そんな事を聞くのでしょう?」
「そうだよ」
一瞬、目を閉じた。
他の男に恋している総司に、嫉妬しないと言えば嘘になる。だが、それでも、斉藤は微かに笑ってみせた。
「ずっと昔から知っていた。総司って、顔に結構出るからな」
「え、そうですか」
総司はびっくりしたように目を見開いた。土方にも言われてしまったことだが、自分にはあまり自覚がないのだ。
「私……じゃあ、みんな、知っているってこと?」
不安げな総司に、斉藤は慌てて否定した。
「それはないよ。たぶん、気づいたのはオレぐらいじゃないかな。だから、大丈夫」
「そ…う、よかった」
ほっとしたように、総司は微笑んだ。それが花のように愛らしく可憐だ。
それを見て、斉藤はある意味不思議だと思った。
こんなにも総司は土方に恋していることは明らかなのだ。
なのに、土方はその事にまったく気づいている様子がなかった。総司をとても可愛がっていることは確かだが、その恋心に気づくことはまったくない。
それから考え得ることは、土方に総司への情愛がないという事だった。女にしか興味がなく、総司の事も弟としてしか思っていないのか。
だから、総司にあんな瞳で見つめられているのに、さんざん遊んでいたし、この間は休息所を構えて妾をそこに置いてしまった。総司の恋慕を知っているなら、とても出来ることではないだろう。
土方にとって、総司は恋愛の対象ではないのだ。
(けど……そうとも思えない事もあるんだよな)
正直な話、土方の総司への可愛がりよう、甘やかし方は、弟への愛情の域をはるかに超えていた。溺愛と言ってもよいほどの可愛がり方なのだ。
土方は整った顔だちだが、その鋭いまなざしもあるためか、冷たく見られることが多い。実際、新撰組副長として容赦なく敵を斃してきた男だし、その冷酷さは誰もが震え上がる程だ。
だが、それが総司に対しては全く別だった。くつろいだ様子で話しかけ、からかったり悪戯っぽく笑ったりしている。きれいな笑顔と柔らかな口調は、普段の副長としての土方とはまるで別人だった。
なのに、その土方が総司に弟としての感情しか持っていないとは、少し考えにくかった。むろん、弟として可愛がる延長上にあるとも言えるかもしれない。
だが、土方は総司にひどく執着していたし、総司が他の男と話をしたり笑ったりしていると、いつも不機嫌になっていた。明らかに嫉妬していたのだ。弟相手に嫉妬することなど、あるのだろうかと思ってしまう。
斉藤としては、もちろん、恋敵である土方が総司に恋愛感情を持っていない方がよいのだが、ただ、総司の気持ちや幸せを考えるとまた複雑なものになった。
土方は今、休息所を構えて妾まで置いている。思い切らせた方がよいとわかってはいたが、なかなか言い出すことが出来なかったのだ。
「私……一度だけ行ってみたことがあるのです」
ぽつりと総司が言った。
それに、はっとして斉藤は総司を見た。
「行ったって、休息所にか」
「はい」
「そこで、おまえ……その、会ったのか。土方さんの妾に」
「……」
黙ったまま、総司はこくりと頷いた。短い沈黙の後、桜色の唇が微かに震えた。
「あの女性と一緒に……土方さんがいました」
「え」
「私が行った時、ちょうど土方さんが来ていたみたいで、庭先に出ていて。それで、女性と話をしていて……」
「土方さんはおまえに気づいたのか」
「いいえ」
ゆるく首をふった。
「すぐに逃げてしまいましたし。私、そのまま見ていることなんて出来なかったから」
「そうだろうな」
「私……何をしているんだろうと思いました。あんな処まで行って、何をするつもりだったのか。私はただ、土方さんの弟みたいに可愛がってもらっているだけなのに、それなのに勝手に横恋慕して、嫉妬して、休息所まで押しかけるなんて……」
「総司、それは当然のことじゃないのか」
斉藤は眉を顰めた。
「おまえが土方さんを好いているなら、相手を見てみたいと思っても当然のことだろう」
「当然のことですか」
「おまえはその女に何かした訳でもないんだ。自分を責める必要はない」
「なら、いいけど……」
総司は斉藤の言葉に、少し気持ちが和らいだようだった。ほっとしたように目を伏せる。
それを見つめ、斉藤は訊ねた。
「で、これから、おまえはどうするんだ」
「え……?」
意味がわからぬように小首をかしげる総司に、斉藤は胸の痛みを覚えつつ言った。
「土方さんの休息所に行った、妾を見た。その後、おまえはどうするつもりなんだ。これからもあの人を想い続けるのか、思い切るのか」
「……」
総司の目が見開かれた。
思い続けることはともかく、思い切るなんて考えてもみなかったことなのだ。
幼い頃から彼だけを見つめ、憧れ、愛してきた。なのに、その彼を愛さない日がくるなんて、想像も出来なかった。
だが、このまま思い続けても、報われないことは明らかだった。今は土方に知られることがなくとも、もしも知られれば、侮蔑されてしまうだろう。望みのない恋ならば潔く諦めてしまった方がいいのだ。
(私が土方さんを愛さないなんて、本当にできるの……?)
のろのろと胸もとを掴んだ。指さきが白くなるほどの力で縋るように着物を掴み、俯いてしまった総司に視線をあてながら、やるせない思いに斉藤はきつく唇を噛みしめた。
その日、総司は外出していた。
研ぎに出していた刀を受け取りに行っていたのだ。頼んでいた刀を受け取り、屯所へと戻る。ゆっくりと帰り道を辿りながら、考えずにはいられなかった。
声が出ない理由だ。
愛する男に起因していることは明らかだった。
土方の前になると声がまったく出なくなってしまうのだ。明らかだろう。
だが、どうすれば治るのか、どうして彼だけなのか、まったくわからなかった。いっそ医者に聞いてみようかとも思ったが、何と説明すればいいのか分からず、言えずじまいだったのだ。
己が彼に対して抱いている感情が恋愛である限り、容易に人に打ち明けられることではなかった。
この間、斉藤に話をしたことで少し気持ちが楽になったが、それでも、やはり土方の前では話せないままなのだ。
(このままだと……いつか土方さんに気づかれる)
幸いにして話す機会はなかったが、そのまま過ごしていけるはずもないのだ。
「……」
ため息をついた時だった。
何気なく前方に視線をやった総司は、息を呑んだ。
ちょうど前を通りすぎようとしていた神社の鳥居。その陰から、すっと一人の男が総司の前へ歩み出たのだ。
土方だった。冷たく澄んだ黒い瞳が総司をまっすぐ見つめている。
「……っ」
思わず身体が竦んだ。