ただ一つの言葉さえあれば
           他には何もいらない



















 声が出なくなった。
 ある日、突然のことだった。
 朝、目が覚めて身支度をして、廊下で会った斉藤に挨拶をしようとしたとたん、気がついたのだ。
「……ぁ」
 微かな息を吐くような声は出たが、その先が出ない。
 それに、斉藤は眉を顰めた。
「どうしたんだ、総司。喉でも痛めたのか」
 かもしれないと思った。
 ここの処、梅雨であるためか、妙に肌寒い日が続いていて、総司は少し風邪気味だった。
 こんと小さく咳き込んだ総司に、斉藤は心配そうな顔になった。
「大丈夫か、寝ていた方がいいんじゃないか」
 そういう訳にはいかなかった。
 今日は一番隊に巡察の予定が入っているのだ。
 いつも自分に厳しい総司は、仕事を疎かにすることがとても嫌だった。それに、仕事が出来ないのなら、ここに存在する意味さえなくなってしまう。
 首をふった総司に、後ろから声がかけられた。
「無理をするな、総司」
「……」
 どきりとした。
 なめらかな低い声。幼い頃から聞き慣れた声だった。
 ふり返ると、思ったとおりの男がそこに佇んでいた。


(……土方さん)


 今日は朝から黒谷屋敷に出かけるのか、黒羽二重の羽織に黒い小袖、仙台袴という正装だ。
 艶やかな黒髪を結い上げ、切れの長い怜悧な目でこちらを見ている土方は、息を呑むほど端正できれいだった。こうして西本願寺の屯所の廊下に佇んでいても、それだけで絵になってしまうのだ。
 そんな事を考えながら、ぼんやり見ていると、土方は心配そうに眉を顰めた。歩み寄り、手をのばして額にふれる。
「熱はねぇな。だが、調子が悪いなら永倉にでも代わってもらえ」
「……っ」
 頑固に意地をはって首をふる総司に、土方は苦笑した。
「それでは命も下させんだろう。とりあえず、今日だけだ。しっかり休んで明日から働いた方がいい」
「……」
 確かに、彼の言葉どおりだった。
 これでは何かあっても部下たちを指揮することも出来ない。
「……」
 俯いてしまった総司に、土方は一瞬、複雑な表情になった。
 だが、すぐに、子供にするようにぽんっと軽く頭を叩いた。桜色の唇を尖らせて見上げる総司に笑い、「ちゃんと休めよ」とだけ言って歩み去ってゆく。
 それを、総司は見送った。斉藤にも促され、仕方なく部屋に戻る。


 京に来てから三度目の初夏が訪れようとしていた。
 初夏と言っても、梅雨に入ったばかりで、体調崩しやすい時期だった。総司も最近、体調がよくない。
 もともと労咳もちの身だった。池田屋で血を吐いてから、躰がどんどん弱っていっている。
 だが、それを総司は周囲に隠していた。
 とくに、土方には知らせていない。絶対に知られたくなかった。土方はおそらく総司が労咳だと知れば、その躰を気遣うだろう。江戸へ帰し、療養させようとするに決まっていた。
 それは総司にとって、絶望そのものだった。


 あの人の傍にいられない。


 それだけは堪えられなかった。
 他のどんな事でも堪えられる。死の病である労咳だと告げられた辛さも、不安、怖さも、何もかも一人で抱えていくことも。
 愛する男の傍にいられるのなら、どんな事だって堪えていくことが出来るのだ。
 だからこそ、総司は土方には絶対に病のことを知られたくなかった。
 それでなくとも、土方は総司の躰が弱いことを知っているので、昔から気遣ってくれていた。先程も、あぁして休むように言ってくれるのは、そのためなのだ。これ以上、心配をかけたくなかった。
 それに、体調が優れないのは病や季節のせいだけではない。病は気からとよく言ったものだ。


 総司は目を伏せた。


 失恋をしても……病になるのだろうか。


 否、失恋などという、かわいらしいものではない。
 執着、嫉妬、恋慕、情愛それらすべてが混ざり合った、どろどろしたものを私は抱えている。
 笑顔で話しかけながら、その実、心の奥底ではみっともないぐらい子供みたいに泣きわめいていることを、あの人は知らない。
 もちろん、知られたくなんてない。絶対いやだ。
 でも、心も身体も嘘はつけなくて。
 だから、この頃、ずっと調子が悪い。


 はぁ、とため息をつき、総司は布団に身体を横たえた。
 それを斉藤が心配そうに見やる。
「大丈夫か、何か欲しいものはないか」
「……」
 黙ったまま首をふった総司に、斉藤は小さく頷いた。しばらくそこにいてから、静かに部屋を出てゆく。
 遠ざかる足音を聞きながら、ごめんなさいと思った。


 斉藤は総司にとって新選組の中で唯一と言っていいぐらいの、大切な友人だった。
 だが、最近、この友人に心配ばかりかけている気がした。体調が優れないことが多い総司を、あれこれ斉藤は気遣ってくれているのだ。それが有り難い反面、申し訳ない気持ちも強い。
 斉藤だって忙しいのだ。いつまでも総司にばかり関わっていられないだろう。
 それに、いくら心配されても気持ちがこれでは、体調がよくなる見込みは低かった。叫び出したいほどの気持ちを、表に出せぬ苦しさ、秘められた慟哭が、身体の力を容赦なく削りとってゆく。
 総司自身が一番よくわかっていることだった。


(……土方さん……)


 心の中、そっと彼の名を呼んだ。
 大好きな、兄代わりの人だった。幼い頃から総司を育て、慈しみ、愛してきてくれた男だ。
 昔は、ただ憧れのみだった。格好よくて粋で、大人っぽい彼に憧れ、好きで好きでたまらなかった。
 恋だと気づいたのは、いつだったのか。
 その日から、総司の苦しみは始まったのだ。
 ……叶うはずのない恋だった。
 確かに、土方は総司を可愛がってくれている。それは江戸から京にのぼり、彼が新選組副長となってからも変わることはなかった。近藤が時折、「歳は総司には滅法甘いからな」と苦笑するほどの甘やかしぶりだったのだ。
 だが、そこには弟への慈しみ、愛情しかなかった。
 むしろ、それは当然の事だと言えただろう。
 土方と総司は同性であり、ましてや、彼は女には不自由しない身なのだ。いつも美しい艶やかな女と関係し、気ままに遊び歩いている土方を、陰から見つめつづけていた。
 だからこそ、よくわかっていた。
 一縷の望みもない恋なのだと。


 弟として可愛がってもらっているだけでもいいと、思っていた。
 それで満足していられると、信じていた。
 だが、それが間違いだったと気づいたのは、土方がある芸妓を休息所に住まわせたと聞いた瞬間だった。
 妻でないだけいいとは、到底思えなかった。
 あれほど遊び歩いていた彼が、一人の女だけを選んだのだ。土方がどれだけその女を愛しているか、わかる気がした。
 さんざん遊びまわっている彼だったが、意外と、一途な処があることを総司は知っていた。本当はとても誠実な男なのだ。その彼が一人の女を選んだのなら、心から愛しているということを意味していた。
 それは、総司の心をずたずたに引き裂いた。こんなにも胸が痛くて苦しいと思ったのは、初めてのことだった。
 本当はその話を聞いた瞬間、土方のもとに走っていって、縋りつきそうになった。


 お願い、そんな事しないで。
 他の誰かを愛さないで、私を愛して下さい──と。


 だが、そんなこと出来るはずもなかった。
 総司は弟として愛してくれる土方を裏切る気には、到底なれなかったのだ。想いを告げた瞬間、彼の目に浮かぶだろう侮蔑と怒りを思うだけで、背中がぞっと寒くなった。怖くて怖くてたまらなくなる。
 そんなこと、絶対に出来るはずがなかったのだ。


(愛してる、と告げることもできない。ただ、私は見ているだけ、あなたが他の誰かを愛する姿を……)


 涙がこぼれそうになった。
「……っ」
 きつく唇を噛んで、嗚咽をこらえた。


 さっき、土方は正装姿だった。
 黒谷屋敷へ行って、その後──どうするのだろう。
 決まっている、休息所に寄るのだ。そこでは、彼が愛した女が待っていて、彼を嬉しげに迎えてくれる。ふたり仲睦まじく笑いあい、愛しあうのだろう。
 それを思うだけで、頭がおかしくなりそうだった。


 こんな嫉妬するなんて、おかしいのに。
 間違っているのは、私の方なのに。
 挙句、体調までくずして、彼の役にもたつことが出来ないなんて……こんな私は嫌いだ。


 総司は子供のように布団の中で身を丸めた。ぎゅっと目を閉じる。
 とたん、一粒だけ涙がぽろりと零れた。












 おかしいなと思ったのは、その翌日だった。
 昨日は結局、一日中、声が出なかったが、翌日になって、斉藤に声をかけられ、しっかりと話すことが出来た時は安堵した。
 よかったと思い、昨日のことを謝る。
「ごめんなさい、昨日は心配をかけました」
「たいした事してないから、そんな謝るようなことじゃないよ」
 斉藤は笑ってみせた。それから、ちょっと心配そうに、総司の顔を覗きこんだ。
「けど、大丈夫か? まだ熱っぽいとか、そういうことないか?」
「大丈夫です。ちゃんと話せていますし」
「まぁ、声はそのとおり出ているみたいで、良かったけど」
 そう言いながら、斉藤は歩み去っていった。
 その後、総司は永倉を探して昨日、巡察をかわってもらったことのお礼を言って、今日の二番隊の巡察の指揮を行った。
 巡察は何事も起こらなかった。新選組の巡察にわざわざ斬りこんでくるような浪士もいない。最近は何事も無く終わることが多かった。
 総司は巡察を終えると、副長室に向かった。たてられた障子から土方がいることは確かだった。そのため、報告をしようと片膝をつき、自分の名を名乗ろうとする。
 その時、気がついた。
「……っ」
 声が出ないのだ。
 また、何も声を出すことができなくなっている。
 それに驚きつつ、どうすればいいのかと思いあぐねていると、不意に中から障子が開かれた。土方が呆れたような顔で立ち、見下ろしている。
「……何をやっているんだ」
「……っ」
 必死に話をしようとした。
 だが、どうしても声が出ない。
 その様子に、土方は眉を顰めた。
「おまえ、まだ声が出ないのか。そんな状態で巡察に行くなんて、あれほど無理をするなと言っただろう」
「……」
「もういい。報告は別のやつから聞くから、おまえは部屋に戻って休んでいろ」
 思わず激しく首をふった。


 また休むなんていやだった。
 せめて、仕事だけはしっかりと行い、彼に認められたい。
 そうでなければ、土方の傍にいることも出来なくなるだろう。


 黙ったまま俯いてしまった総司に、土方はため息をついた。呆れられてしまったかと見あげれば、視線があった。微かに苦笑される。
「わかったよ。おまえの頑固さには俺もかなわねぇ。好きにしろ」
「……っ」
「わかっている、俺は怒っている訳じゃねぇ。ただ、本当に調子が悪くなったら、必ず俺に言えよ」
 不思議だと思った。


 どうして、この人は私の言いたいことがわかってしまうのだろう。
 見つめるだけなのに、俯いたりしているだけなのに。


 その思いも伝わってしまったのか、土方が答えてくれた。悪戯っぽく笑う。
「おまえ、顔に全部出ちまうからな。すげぇわかりやすいのさ」
 彼の大きな手がのばされ、総司の髪をくしゃりとかきあげた。そのまま耳もと、首筋にふれ、頬を柔らかく包みこまれる。
 濡れたような黒い瞳に見つめられ、心の臓がどきりと跳ね上がった。思わず息をつめてしまう。
 それに、土方は僅かに首をかしげた。それから、ふと吐息をもらすと、もう一度、総司の髪を撫でてから手を離す。
「……」
 踵を返して副長室に戻っていく彼の背中を見つめながら、総司はきつく唇を噛みしめた。
 だが、そのままそこにいる訳にいかず頭を下げると、部屋へ戻るため歩き出した。途中、角を曲がったとたん、どんっと誰かにぶつかった。
「……っ」
 びっくりして顔をあげると、そこには伊東が佇んでいた。反射的に転びそうになった総司の腕を掴んで、支えてくれる。
「大丈夫ですか」
「あ……はい、すみません」
 反射的に謝ってから、総司は微かに息を呑んだ。


 どうして。
 今、声が出るの。
 話すことが出来るの。
 あの人の前では、言葉ひとつ発することも出来なかったのに。


 愕然とした表情の総司に、伊東は眉を顰めた。
「どうしました、どこか怪我でもしましたか」
「い、いえ……大丈夫です」
 総司は慌てて首をふった。
 だが、一方で不安でたまらなくなった。自分はどこかおかしいのだろうか。何か間違ってしまっているのか。
 彼の前では声がまったく出なかったのに、なぜ、他の人の前では普通に話すことが出来るのか、まったくわからなかった。
「総司……?」
 柔らかく呼びかけられ、はっと我に返った。
 顔をあげれば、伊東が心配そうに顔を覗きこんでいた。
「本当に大丈夫ですか、顔色が悪いですよ」
「大丈夫です」
「ならいいですが……あぁ、ちょうど良かった」
 伊東は手にしていた書物を、総司に示してみせた。
「きみを探していたのです、これが手に入ったのでね」
「あ、この間、言っておられた書ですね」
 総司の顔がぱっと明るくなった。嬉しそうに書物を受け取り、さっそく読もうとする。
 それに、伊東が苦笑した。
「廊下で立ち読みなど、いけませんよ。ほら、この部屋に入りましょう」
「すみません……」
 はしたないと窘められた気がして、総司は頬を赤くした。それに、伊東はくすっと笑う。
「咎める気などありません。私も書を手に入れると、すぐにでも読みたくなってしまいますからね」
「はい」
 こくりと頷いた総司に、伊東は穏やかに微笑んだ。





 伊東は総司にとって、最近できた年上の友人だった。
 もともと子供の頃から年上の男ばかりに囲まれていたため、総司は年上の男と親しくなることに対して、躊躇いは一切なかった。また、伊東は総司が今まで会った事がなかった型の男だった。


 土方は頭が非常に切れる男だが、独学ですべて取り入れる事が多いため、学問への欲が少ない。己なりのやり方しか取らない男なのだ。
 但し、政事や時勢などの情報はそれらとは別のものだ。情報を得る重要性はわかっているため、近藤とはまた別に、様々な人物と会うことで情報を集め、自分なりの判断や考えを構築しているようだった。だが、それが総司に明かされることは一切ない。


 一方、伊東は学識が深く、時勢や政り事についての情報を集めることにも、貪欲だった。また、総司に対して、それらを話した。どちらかと言えば、総司と論議を交わすことを楽しみ、それによって総司を育てていこうとしているようだった。
 総司はもともと聡明な若者だったのだが、試衛館に入ってから書物などを読むことはほとんどなかった。そのため、学識が深く論議を戦わせることが多く、また隊士たちに講義まで行っている伊東に対して、考えを押しつける高圧的な人という印象があり、初めは拒絶感があった。
 だが、話してみて、それらの印象が間違いだということに気づいた。伊東は己の考えを総司に押しつけようとはしなかった。むしろ、個々の人である以上、食い違う意見は当然であり、そうであるべきだと言い切った。


 ただ、それは新選組の中では異質な考え方だった。土方は新選組を最強の武装集団としてつくりあげている。むろん、それが彼が意図したものかどうかは別だったが、隊を統率していくためには意見が統一されている必要があった。
 そのため、隊の中では思想や時勢についての論議がほとんど行われなかったのだ。もしも新選組のあり方について反論すれば、粛清される。そのような雰囲気があった。


 総司も新選組のあり方や土方のやり方に、異を唱えようとは思っていない。ただ、知識は得たかったし、新しい友人である伊東と色々と書物について話すことは楽しかった。
 総司にとって、伊東は新しい世界を開いてくれる存在だったのだ。
 土方への望みのない恋に泣いて絶望していた総司は、彼が休息所をもち、そこに妾を置いたと聞いた時から、より伊東に接近するようになっていた。


 むろん、その事に土方があまり良い顔をしていない事はわかっている。
 一度などは、面とむかって、
「俺よりも伊東を選ぶのか」
 などと言われたこともあったのだ。