「……えっ」
総司はびくりと肩を跳ねあげた。
驚き、慌ててふり返った。いつの間に戻ったのか、そこに土方が立っている。
きつく唇を噛みしめ、獣のように光る黒い瞳で総司を見据えていた。
「ひ、土方さん」
思わず身をすくめてしまった総司に、土方は目を細めた。ふっと唇を歪める。
「……化け物でも見たような驚きぶりだな。えぇ?」
そう云いながら、ゆっくりと框に腰かけた。草鞋を脱いでいる男の背を、総司は見つめた。何か云おうとするが、言葉が出てこない。
いったい、いつから聞いていたのか。
もしかして、全部聞かれていた……?
「伊東でなく俺といるのが、そんなに面白くねぇか」
苦々しく吐き捨てられた言葉に、聞かれていたのだと知った。
押し黙っていると、土方がふり返った。
「あいつが恋しいなら、恋しいと云えばいい。契ってなくとも、気持ちの上では念者なのだろう」
「そんな、違います」
「おまえ、云ったじゃねぇか。ある意味、念者と云えるかもしれないと」
「土方さん、違うの。聞いて」
必死に弁明しようとした。だが、突然、土方が腰をあげ、框にあがった。足早に歩み寄ってくると、乱暴に総司の手首を掴みあげる。
「あっ」
思わず声をあげた総司を、土方は睨みすえた。
「おまえの話なんざ、聞きたくねぇよ。幾ら話したって、やっちまった事は戻らない。昨日、俺はおまえと気持ちが通じたと思ったが、どうやら違っていたようだな」
「え、それはどういう……」
「おまえは伊東のもので、俺はおまえをどんなに望んでも、手にいれられん。その事が、今さっきのおまえの表情で思い知らされたよ」
「土方さん、ちが……っ」
「躯は遠く離れていても、心は繋がっているか」
土方は、薄く嗤った。彼らしくない昏い笑みだ。背筋がぞっと寒くなる。
総司は怯えに目を見開いた。
「土方さん……」
そう呼んだ瞬間だった。
不意に、がんっと音が鳴った。板間に押し倒されたのだと知ったのは、しばらくしてからだった。
呆然と天井を見上げていると、土方がのしかかってきた。手首を床に押しつけ、傲然と見下ろしてくる。
「な……」
訳がわからず身を捩ろうとすると、躯で押え込まれた。足をばたつかせるが、それも男の膝で抑えられる。
身動き一つ出来ぬ状況に、総司は息を呑んだ。
見上げた先で、土方がゆっくりと目を細めた。
「……初めから、こうすれば良かったんだ」
「土方、さ……」
「もっと早く、おまえを俺のものにしておけば……」
呻くような声で呟いた土方は、総司の襟元に手をかけた。そのまま着物が裂けるほどの乱暴さで、勢いよく引き下ろす。
それに呆然となっていた総司は、やがて、肌に唇を押しあてられたことで、土方が自分を抱こうとしている事に気がついた。
総司は目を見開いた。
「いやッ!」
思わず叫んだ。
確かに、自分はずっと彼に恋焦がれていた。
愛されたい、抱かれたいと思っていた。
だが、こんな暴力的な行為を望んだ訳ではなかったのだ。
まるで罰するような、己の怒りを発散させるためだけの行為。
ずっと一途な恋心を抱いてきた総司にとって、それはあまりも酷い行為だった。
「やめて、土方さん……い、いやだぁッ」
必死に身を捩り、逃れようとした。
だが、力の差は圧倒的だった。抗うことさえ出来ない。
土方はまるで総司の声が聞こえぬように、貪るように肌へ口づけた。片手で両手首を纏めておさえこんだまま、もう片方の手であちこちを撫でまわす。そのくせ、土方は口づけ一つ、言葉一つあたえようとしなかった。
それに、総司は自分が人形にでもなったような気がした。
自分という存在、人格などかき消され、ただ男の欲望を満たすためだけの物として扱われる。
土方の冷たく残酷な態度は、総司を激しく打ちのめした。
「……っ……」
総司は抵抗をやめた。すべてを消し去るように、目を閉じる。
その様子に、土方も気がついた。訝しげに眉を顰め、顔をあげる。だが、総司を見た瞬間、はっと息を呑んだ。
「……総司」
総司は青ざめた顔で、声を殺し、泣いていた。
なめらかな頬をこぼれる涙。固く目を閉じ、血が出そうなほど唇を噛みしめているその姿は、たまらなく痛々しかった。
何もかも諦めたような切なくて辛い表情を、土方は呆然と見つめた。
突然、憑き物が落ちたように、我に返った。
(俺は……? 俺は今、総司に何をしようとしたんだ……)
ずっと慈しみ、可愛がってきた総司だった。
宝物のように大切に、胸もとに抱きこむようにして守り、愛してきたのだ。
なのに、今、彼自身がその総司を傷つけようとしたのだ。それも、最悪の形で。
「……っ」
自己嫌悪に、土方は思わず片手で口許をおおった。
のろのろと総司の上から退き、すぐ傍に坐り込む。そのまま掠れた声で云った。
「……すまん」
とても総司の顔を見ることができなかった。自己嫌悪と罪の意識で、気が狂いそうになる。
土方は顔を背けると、立ち上がろうとした。だが、それは出来なかった。不意にのばされた細い手が、彼の躯に縋りついたのだ。
「いや……!」
──総司だった。
総司が土方の腰にしがみつくようにして、抱きついていた。
「いや、行かないで……っ」
「総司……」
「お願い、もうどこにも行かないで下さい」
「……総司、離せ」
土方は苦しげに顔を歪めた。
「今の俺はおまえに酷い事をする。何をするか……自分でもわからねぇんだ」
「それでも……いいから」
総司は泣きながら縋りついた。
「お願い、いなくなるのだけはやめて」
「……」
「私は、土方さんがいなくなるのが、置いていかれるのが怖い。それが一番いやなの」
その言葉に、土方はかっとなった。
振り返り、たまらず叫んでしまう。
「逃げ出すのは、おまえの方だろうが……!」
いつもいつも自分の手から逃げてばかりのくせに、彼が背をむけようとしたとたん、こうして縋りついてくる若者が憎らしい。
だが、一方で、愛しくて愛しくてたまらないのだ。
土方は燃えるような目で、総司を見下ろした。
「あの時も、追った俺におまえは背をむけた。昨日だってそうだ、追ってきた俺を見たとたん、おまえは逃げだしたじゃねぇか」
「……ご、ごめんなさ……」
「いつも俺から逃げるのは、総司、おまえの方だ。なのに、そのおまえが俺にそんな事云えた義理なのかよ……ッ」
「……っ」
総司の目が大きく見開かれた。
呆然と、土方を見あげている。やがて、その綺麗な瞳が涙でいっぱいになり、ぽろぽろ零れた。
唇を震わせ、泣き出してしまう。
「っ…ぅっ……ッ……」
彼にしがみついたまま泣き出した総司に、土方は狼狽した。罪悪感がこみあげる。
乱暴な事をしたのは己の方だったのに、こんなにも大切な総司を、感情のまま怒鳴りつけてしまったのだ。
「すまん」
慌てて跪き、細い躯を抱きかかえた。胸もとに引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
「怒鳴ったりして、すまねぇ。あんな乱暴な事をして悪かった」
「……っ」
総司はすぐには泣きやめぬようだった。潤んだ瞳で土方を見上げ、しゃくりあげながら問いかけてくる。
「も……ぃか、な……?」
「? 何だ?」
「どこ…にも、行かな…い……?」
「総司」
「行ったら…いや、だ……お願い、一緒にいて……」
「──」
土方の胸に熱いものがこみあげた。腕の中にいる総司が、いじらしくて可愛くてたまらず、思わずきつく抱きしめてしまう。
「あたり前だろう……!」
その髪に頬をすりよせ、告げた。
「おまえを残して、行ったりするものか。一緒にいるよ」
「土方…さん……っ」
小柄な躯が小さく震えた。嬉しさと安堵のためか、大きなため息をもらす。
それに微笑み、土方は、泣き濡れた頬に口づけてやった。そっと涙をぬぐってやると、びっくりしたように目を見開く総司が可愛い。
土方は、その愛しい若者を見つめながら、己が告げた言葉を何度も胸の内にくり返していた。
一緒にいる。
おまえを永遠に離さない。
それが、嘘か真実か、己自身わからぬままに……。
戸口に手をかけた時だった。
中から、総司が呟く声が聞こえたのだ。
「伊東先生……」
と。
確かに、そう呼んでいた。
それを聞いた瞬間、土方は躯中の血が逆流するような怒りに襲われた。
人を殺したいと思うのは、こういう時だ。それは斬るではない、殺すだった。
総司の心を奪ったあの男をこの手で殺し、この世から消し去ってしまいたいと、心の底から願った。
憎くて憎くてたまらなかった。憎悪と怒りに、吐き気さえしたのだ。
だが、それでも怒りを押し殺し家の中へ入った土方の目に映ったのは、人恋しげな表情で坐り込む総司の姿だった。伊東の事を想い、瞳を潤ませているその姿に、胸奥が鋭く刺し貫かれた。
その上、総司はこう呟いたのだ。
「そうだよね。一緒にいられたら……いいよね」
目の前に、赤い靄がかかった。
もし、あの時、ふり向いた総司が逃げ出していたなら、その場で殺していたかもしれない。斬るのではなく、この手で、総司の肌の感触を息づかいを味わいながら、縊り殺したかもしれないのだ。
むろん、後悔しただろう。総司の亡骸を抱いて慟哭し、後を追ったに違いないだろう。
だが、それもある意味、幸福だったかと、土方は苦々しく嗤った。
(この家の主のようにな……)
逃げ出した女。それを追って消えた男。
今頃、二人ともこの世におらぬかもしれないと、村の者たちが云っていた。
男は娘を殺したのかもしれない。己だけのものにするために。
土方は柱に背を凭せかけ、目を閉じた。
あの男は幸せものだ。
二人で逃げたにせよ、殺したにせよ、追いつづけたにせよ。
世のしがらみも何もかも捨て去り、恋人を愛することだけに、身を投じることができたのだから。
ひるがえって、俺はどうだ。しがらみや下らない矜持に絡みつかれ、愛しいものを、愛しいと告げることさえ出来ぬまま、もがき続けている。
人は俺を羨むだろう。目も眩むような立身出世をした男と、思うだろう。
だが、今の俺には、欠片ほどの自由もない。何も持たず彷徨い歩いていた江戸の頃は、あんなにもあった自由なのに、こうして立身出世をはたした今の俺には到底持ちえないのものだ。
愛しい者と共にいる。
そんなささやかな事さえ、許されないのだ……。
「……土方さん?」
小さな声で呼ばれ、ふと目を開いた。
見れば、総司が褥の中から不安げにこちらを見つめている。
土方は笑みをつくってみせた。
「どうした、眠れないか」
「土方さんは……寝ないのですか」
「あぁ」
柱にまた凭れかかり、小さく喉奥で笑った。
「今夜は妙に気がたっていてな。眠れそうにない」
「それは……私のせい?」
きゅっと唇を噛んでから、つづけた。
「昼間、私が土方さんを怒らせたから、だから……気がたっているのですか」
「総司」
ため息をついた。
「例えそうだとしても、おまえが気にやむ事じゃない。これは俺の勝手だ」
「そう、ですけど」
しばらく黙り込んでいた総司は、不意に身を起こした。細い肩に小袖を羽織ると、土方の傍へ寄ってくる。
思わず眉を顰めた。
「風邪をひくぞ」
「大丈夫です。それより、土方さん……あの、昼間の事だけど」
「あの話は、終わりだ」
土方は低い声で云い捨てた。
あの時の怒りや嫉妬を再燃させたくなかった。今度同じような事があれば、自分は総司を傷つけずにはおられない。そんな恐ろしい予感がしたのだ。
口早に言葉をつづける。
「俺も忘れるから、おまえも忘れろ。俺が悪かったんだ」
「土方さんは何も悪くありません。私が身勝手だから、わがままだから……ごめんなさい」
傍に端座した総司は、そっと俯いた。さらりと絹糸のような黒髪が細い肩にかかる。
その儚げな様を見ると、思わず抱きしめたくなった。
昼間、抱きしめた感触が蘇る。この腕の中、この愛しい存在は驚くほど華奢で、男の庇護欲を激しくかきたてたのだ。それと同時に、獣のように貪りたいと願う嗜虐心もわきおこったが。
「……おまえが謝る事ではない」
土方は固い声で云った。
それに、総司がはっとしたように彼を見た。大きな瞳で見つめてから、きつく両手を握りしめる。
「いいえ、私が全部悪いのです。昼間、あなたが云ったとおり、私は逃げてばかりだった。あなたからも、自分の気持ちからも逃げつづけて」
「……」
「自分が傷つきたくなかったから。辛い思いをしたくなかったから……でも、そんな逃げてばかりの人生なんて、何もならないのに」
「辛い思いから逃げるのは、当然じゃねぇのか」
土方は静かに総司を見つめた。
「人は誰でも辛い思いはしたくねぇさ。俺だって同じだ。そりゃ、仕事の事や隊の事なら幾らでも冷徹になれる。けど、己自身の事になったら、からっきし意気地なしになっちまうな」
己の総司への想いを胸に、苦笑しながら云うと、総司は驚いたように目を見開いた。
「土方さんが? そんなふうになる事があるの?」
「あたり前だろう。俺も男だ、色々あるさ」
土方の言葉を聞いたとたん、総司の瞳が暗く翳った。ふと長い睫毛が伏せられる。
「……小芳さん、の事とか……?」
小さな声で聞かれ、一瞬、土方は何を云われたかわからなかった。
ここで小芳の名が出てくること自体が、不思議だったのだ。だが、ふとある事に思い至り、顔を強ばらせた。
「まさか、おまえ……小芳に気があるんじゃねぇだろうな」
「え?」
心底びっくりしたように、総司が目を丸くした。その反応に安堵しつつ、土方は言葉をつづけた。
「色街の女になんざ、ひっかかるんじゃねぇぞ。おまえなど、簡単にいいようにされちまう」
「いいようにって……そんな事ありませんよ。だいたい、私は色街のひとなんて、知りもしませんし。土方さんと違って、よく通ったりしませんし」
「俺だって、そんな通っている訳じゃねぇよ」
「嘘ばっかり。山南さんの事の時、ずっと通っていたじゃないですか。小芳さんの事ばかり構っていたじゃないですか」
拗ねたような総司の声音に、思わず小首をかしげた。
まるで、嫉妬されているようだった。これでは可愛いやきもちをやく幼妻のようではないか。
そんな甘い考えを抱いてしまった己に苦笑しつつ、土方はからかうような口調で云った。むろん、本気ではなかったのだが。
「おまえ、妬いているのか?」
だからこそ、ぱっと頬を赤く染めた総司の表情に、驚いた。
次、お褥シーンがありますので、ご注意下さいませ。