脅しのような言葉だった。
それに、総司は怯えきった表情で、息を呑んだ。
身を固くし、薄闇の中、土方を大きな瞳で見上げてしまう。
土方は自嘲するように口角をあげた。だが、総司の怯えた様子をみとめると、僅かに目を細めた。
宥めるように、柔らかな口づけを頬に落してくれる。
「頼むから、おとなしくていろ」
「……土方…さん……」
「山の寒さは、おまえの躯に良くねぇ。早く連れ帰ってやるから」
「……」
夕闇が迫ってきていた。確かに、辺りもぐんと冷えてきている。
総司は思わずぬくもりを求め、土方に身をよせた。男の腕に躯をあずける。
その甘えるような仕草に、土方の瞳の色も和らいだ。
「……いい子だ」
優しい声で囁き、もう一度口づけてから、歩き出した。総司の小柄な躯をしっかりと抱いたまま、山を下ってゆく。
まるで子どもの頃に戻ったようだった。
あの頃はたて抱きだったが、歳三さんと呼んでいた彼は、宗次郎をよく抱いてくれたものだった。いつも道場を訪れるたび、抱きあげ、頬ずりしてくれた彼。その甘やかしぶりに、近藤などが呆れていた事も覚えている。
むろん、大人になってから、土方に抱き上げられた事などなかった。
仲違いする前でもあり得ない。今回が初めてだ。
だからなのか、彼のぬくもりが心地よかった。愛する男に抱かれているのだ、嬉しいに決まっているが、それ以上に懐かしさがこみあげ、総司は彼の胸もとに頭を凭せかけた。
とくんとくんと聞こえる彼の鼓動が、愛おしい。
躊躇いがちに土方の着物を指さきで掴むと、彼がちらりと視線を落としたのがわかった。咎められるかと思ったが、土方は何も云わなかった。ただ総司の躯を抱き直し、また山を力強く降りてゆく。
やがて、家にたどり着くと、土方は前と同じように手早く囲炉裏に火を起こしてくれた。総司を囲炉裏の前に坐らせ、あたたかいものを飲ませてくれる。
だが、以前とは決定的に違っている事があった。
土方は総司のすぐ傍に坐り、手をとって飲ませてくれたのだ。その後は総司の細い肩を優しく抱き寄せ、囲炉裏の火を見つめている。
「……」
ちらちらと茜色の火が照らす男の端正な横顔を、総司は躊躇いがちに見上げた。
艶やかな黒髪が額に乱れ、伏せられた長い睫毛が頬に翳りをおとす。
切れの長い目。頬から顎にかけての引き締まった輪郭。形のよい唇。
この人は、何もかもが美しいのだ。しなやかな指さきまで綺麗で、思わずうっとりと見惚れてしまう。
ぼんやり見つめていると、不意に、土方が総司の方を見下ろしてきた。訝しげに眉を顰めている。
「何だ」
問いかけられ、総司は我に返った。羞恥に、かぁっと頬が熱くなる。
「……い、いえ、何でもありません」
「さっきの事でも考えていたか」
「え」
「俺が何であんな事をしたか、おまえにはわからねぇのだろう」
「あんな事……」
そう呟いて、すぐに気が付いた。
土方は先程の口づけの事を云っているのだ。
むろん、彼の言葉どおりだった。
どうして、彼があんな事をしてきたのか、わからなかった。
黙っている総司の前で、土方は苦々しく嗤った。
「わかるはずがねぇよな。だいたい、おまえにとっては、嫌な男に口づけられるなんざ、ぞっとするような行為だ。考えたくもねぇか」
「そんな……」
総司は慌てて首をふった。
「そんな事、思っていません。嫌だとか、ぞっとするなんて。私には別にさっきの行為が嫌だなんて、思っていないから。だって、私は……」
あなたが好きなのです、と云いかけた。
だが、どうしても云えない。そう告げた時の土方の驚きを思うと、つい躊躇ってしまうのだ。
俯いてしまった総司を、土方は冷たい目で眺めやった。
「あぁ、成程」
皮肉げに唇を歪めた。総司の肩を抱いていた手を、ゆっくりと離しながら云った。
「おまえにとっては、馴れきったことか。接吻なんざ、男とし馴れているからな」
「な……っ」
総司は驚き、顔をあげた。
まるで遊び馴れているように云われたことが、心外だった。それも土方から。
「私、馴れてなんかいません! 誰ともした事ないし」
「そんな事あるはずねぇだろう」
吐き捨てるような口調だった。
「伊東と念者の契りを結んでいながら、接吻はした事ないだと? そんなふざけた話があるかよ」
「──」
土方の言葉に、総司は目を見開いた。
確かに、噂されているのは知っていた。
あれ程、伊東と寄りそっていたのだ、噂になって当然だった。
だが、土方がそれを耳にしていると思っていなかったのだ。
もし知ったとしても、無関心だと思いこんでいた。なのに……。
「……怒って、いるの?」
思わずそう問いかけた総司に、土方は固く唇を引き結んだ。しばらく黙ってから、低い声で答えた。
「あぁ、俺は怒っている」
「……」
「おまえが逃げたこと、おまえが伊東の念者の契りを結んだこと、男馴れしていること、何もかもに腹をたてている」
「土方さん、聞いて」
総司は手をのばし、彼の腕を掴んだ。身を乗り出して、その顔を覗き込む。
「私は確かに逃げたけど、その事は謝るけど……でも、あとの二つは誤解です」
「誤解?」
「そう。私は伊東先生と契りを結んだりしていないし、男馴れなんかしていません」
「それを俺に信じろと?」
土方は僅かに目を眇めた。鋭い視線をむけられ、総司は身を固くした。
だが、ここで引く訳にはいかないのだ。
どういう意図で土方が聞いているのかわからないが、それでも、彼にだけは誤解されたくない。
「すべて真実だから」
「……」
「確かに、伊東先生は傷ついた私を受け入れてくれました。優しく受けとめてくれたし、尊敬もしています、好意ももっています。でも……契りは結んでいないのです。精神的な繋がりだけを考えれば、念兄弟と云われても仕方がないですけれど……」
「……そうか」
不意に、土方が遮った。
驚いて見ると、顔の片面を手でおおい、土方はくっくっと喉奥で嗤っていた。それが自暴自棄になった男のようで、息を呑んでしまう。
「土方さん?」
「そうか、おまえの云う事はよくわかったよ」
「え……?」
「つまりは、おまえは伊東のものって訳だ。躯の契りは未だでも、心はあいつのものになっていると云いたいんだろう。だから、俺から逃げた。伊東のもとへ帰るため、俺と共にいるのが嫌だったから、逃げた。そうじゃねぇのか」
「違います……!」
思わず彼の膝にすがった。必死になって云いつのる。
「私は、そんな理由で逃げたんじゃない。土方さんに、これ以上迷惑をかけたくなかったから」
「俺がいつ迷惑だと云った。おまえが迷惑だなどと、俺は云った覚えはない」
「でも、足手まといになっているのは真実です。私がいるから、あなたは隊へ戻れない。それに、私はあなたに嫌な思いばかりさせている。どうして、あなたが怒るのかそれさえわからない私は、ここにいるべきではないのです。もっと他の誰かなら……あなたも良かったはずだし……」
「他の誰か?」
訝しげに問い返した土方の前で、総司は俯いた。小さな声で答える。
「例えば……小芳さん、とか」
「……」
土方は押し黙ってしまった。重い沈黙が落ちる。
だが、その沈黙こそが肯定のように思えて、総司は自分が云い出したことながら泣きたくなってしまった。ぎゅっと唇を噛みしめる。
黙って膝もとばかり見つめていると、その細い肩を男の手が抱いた。驚いて顔をあげる総司の方を見ぬまま、土方は、ぐいっと乱暴に引き寄せる。
耳もとで、低い声が呟いた。
「そんな事あるはずねぇよ」
「……」
「俺は……おまえといる方がいい」
「──」
男の腕の中、総司は目を見開いた。
今、信じられない言葉を聞いたのだ。山南の時も、自分より小芳を選んだ彼なのに。
思わず叫んだ。
「じゃあ、どうして、あの時、小芳さんを選んだの!」
「選んだ?」
土方は驚いたように目を見開いた。突然、激昂した総司を、呆気にとられた表情で見下ろす。
それに、総司の怒りがより高まった。あの時の悲しみ、切なさ、失望が躯の奥底から込みあげ、総司の感情を激しく揺さぶる。
「だって、選んだじゃない! 山南さんが亡くなった時、あなたは私に失望して、小芳さんを選んだ。小芳さんの処にばかり通ったじゃない」
「失望…だと?」
理解できない言葉に、土方は眉を顰めた。
「それは、おまえの方だろうが。おまえが情けない俺に失望して、部屋を出ていった。そうじゃねぇのか」
「失望なんてする訳ないでしょう?」
総司は頬を紅潮させ、土方を見上げた。
「私があなたに失望する? どうして、そんな事になるの。あの時、私は嬉しかったのに。あなたが私を頼ってくれて、私に心の内を明かしてくれて……嬉しくてたまらなかったのに」
「……」
「なのに、私が朝の支度のために部屋を出て戻ったら、誰もいなくて……翌日から、あなたは小芳さんに通って、それで、わ、私じゃ駄目だったんだと思ったから、だから……っ」
込みあげる感情のため、声が震えた。涙がこみあげてくる。
こんな事を云えば、また土方に呆れられてしまう。
何を情けないことをと嘲られてしまう。
そうわかっていながら、口をついて出る言葉をとめられなかった。
そのまま泣きだしてしまった総司を、突然、男の両腕がきつく抱きしめた。背中が撓るほど抱きしめられ、頬を擦りよせられる。
「……ぁ」
呆然と目を見開く総司に、土方が掠れた声で云った。
「すまない」
「……っ、土方…さん……?」
「本当にすまない。俺たちは行き違っていたんだな。あの時、目覚めたら誰もいなくて……おまえに呆れられたんだと、思っていた。悔いても仕方のない事を悔いてしまう、情けない男だと。だから、俺は部屋を出ていったんだ」
「じゃあ、土方さんは……私のこと、駄目だと思ったんじゃ、ない?」
「思うはずがねぇだろう!」
土方は顔をあげると、荒々しく総司に肩を掴んだ。間近でその小さな顔を覗き込み、激しい口調で云いきる。
「俺は、おまえが大切なんだ。誰よりも大事に思っているんだ。だからこそ、みっともない処も見せたし、俺のことは何でも知って欲しいと思ったんだろうが」
「土方さん……」
総司は桜色の唇を震わせ、土方を見つめた。それに、土方の瞳の色が和らぐ。そっと両手で頬をつつみこみ、優しく唇を押しあてた。
「おまえが大切だよ。俺は……おまえさえいれば、他には何もいらない。それぐらい、大事に思っているんだ」
「私も……です」
小さな声で、総司は答えた。土方だけを見つめ、たどたどしい口調で懸命に告げる。
「私も、あなたが大切です。だい好き…です」
「総司……」
その言葉に、土方は嬉しそうに笑った。
久しぶりの彼の朗らかな笑顔に、総司は頬を染めてしまう。
好きだと思った。
この人が本当にだい好きなのだ。
(ずっと、このまま傍にいられたらいいのに……)
それが叶えられぬ願いだとわかっていた。
今は、ただ夢を見ているだけに過ぎないのだと。
総司は土方の腕の中で身をまるめると、そっと静かに目を閉じた。
想いが叶った訳ではなかった。
彼に愛されたのではない。ただ、仲直りをしただけなのだ。
その事に総司が気づいたのは、翌日になってからだった。
何しろ、土方はあの後、総司に何もしなかったのだ。褥を共にするどころか、口づけ一つせず、いつもどおりの態度を貫き通した。
挙げ句、翌朝は食事をすませると、いつものように一人で出ていってしまったのだ。
総司は呆然と彼の背を見送りながら、思い知らされずにはいられなかった。
一人不思議なぐらい舞い上がっていたが、よく考えてみれば、土方は肝心の言葉は何も云っていない。
「大事だ、大切だ」と云ってくれたが、愛の言葉は告げていないのだ。
好き、とさえ云われていなかった……。
その事に気づいたとたん、総司は一人舞い上がっていた自分がもの悲しくなってしまった。
(……莫迦みたい)
だい好きとまで云ったのに、土方は何も気づかなかったのだ。
きっと弟からの言葉だと、受け流したのだろう。だいたい、遊び馴れた彼にとって、好きだの惚れただの云われ馴れているに違いなかった。
なのに、一人想いが通じたと喜んでいたなんて、羞恥に頬が熱くなる。
総司は両膝を抱え込み、ため息をついた。
私が土方さんに愛されるなど、ありえない事なのだ。
美しい娘でもなく、病身で、九つも年下で。
弟として可愛がって貰っているだけでも幸せに思わなければいけないのに、それ以上望もうとするから、辛い思いをしてしまう。切ない片思いに泣いてしまう。
一番隊組長として、剣士として、凜と戦いつづけてきた総司だったが、本当は、心脆い若者だった。一縷の望みもない片思いに身を焦がし、涙を堪えつづける日々だったのだ。
そんな総司に手をさしのべてくれたのは、一人の男だった。
『辛いときは、泣いた方がいい』
伊東はそう云って、ありのままの総司を受け入れてくれた。
素直で優しく、誰に対しても人当たりの良い総司ではなく、子どものように泣いたり拗ねたり、我侭を云って困らせたり。そんな総司を、伊東は黙って受け入れてくれたのだ。
あの頃、総司は失恋の悲しみに、誰に対しても心を閉ざしがちだった。八つ当たりのように、伊東に我侭を云って喧嘩をふっかけた事もある。だが、それに手を焼きつつも、伊東は呆れて背を向けたりしなかった。
苦笑したり、時折叱ったりもしたが、それでも傍にいてくれたのだ。
そんな伊東に、総司が心を開いていったのは、ごく当然の事だった。次第に総司は伊東を尊敬し、慕うようになった。伊東も総司を愛おしみ、慈しんでくれた。
確かに、二人の精神的繋がりは深くなっただろう。念者という意味あいからすれば、それに近いものがあったかもしれない。
だが、伊東はともかく、総司は土方に抱いたような熱情を、伊東に対してもつ事はなかった。総司にとって、伊東は、あくまで年長の友人だったのだ。
「伊東先生……」
そっと、総司は呟いた。
心配しているかもしれないと思った。
いつもあれ程慈しみ、傍にいてくれた彼なのだ。いつまでも帰らぬ総司を心配して、当然のことだった。
だが、伊東には申し訳ないが、今の状況に歓びを感じてしまう自分がいる事も真実だ。土方の傍にいられる、二人きりでいられる。
どんなに辛い片思いであっても、ここ最近ずっと離れていた総司からすれば、彼の傍にいられるだけで泣き出したくなるぐらい幸せだった。
「そうだよね。一緒にいられたら……いいよね」
欲張ってはいけないのだと思った
そう思いながら目を閉じかけた、その時だった。
「……そんなにあいつが恋しいか」
突然、低い声がかけられた。