総司は傷を負った身だ。
そう遠くへ逃げられるはずがなかった。
「……っ」
家を飛び出した土方は、山にむかって走り出した。一番近い山の道を駆け上がってゆく。
今すぐ追えば、見つけられるだろう。この手に捕らえられるに違いないと思った。
だが、その傍から、ふと恐れがわきおこった。
……総司は?
追いかけてきた彼を見た時、総司は、いったいどうするのか。
嫌悪と恐怖の表情で彼を見て、そして──また逃げるのだろうか。
共にいるぐらいなら死んだ方がいい程、嫌いな男から。
無我夢中で走りながら、土方は奥歯をきつく噛みしめた。
狂おしいほど愛しかった。
そして。
この手から逃げ出した若者が、誰よりも憎かった……。
この家を出よう。
そう決意したのは、土方が出ていって暫くたってからだった。
彼が何に怒って出ていったのか、今尚わからない。だが、彼の気持ちを傷つけてしまった事だけは確かなのだ。
こんな傷をおって足手まといで、迷惑をかけて。その上、気持ちまで害してしまうなんて。
「私は、土方さんのためにならない事ばかりしている……」
ため息がもれた。
子どもの頃から、本当は、彼のために生きたいと願ってきたのだ。
彼が望むことなら何でもしたかったし、彼のためなら命だって捨てられると思っていた。なのに、それを彼が全く望まないと、やすらぎも癒しも他の誰かに求めるのが当然なのだと、そう知らされた時、総司の恋は砕けてしまったのだ。
だからこそ自ら離れたのに、そのくせ、心の奥底では彼だけを求めつづけていた。いつかまた、優しい笑顔をむけてくれるのではと、儚い願いに縋りつづけていたのだ。
だが、それでは駄目なのだ。
「ここを出て、隊へ戻らないと……」
自分さえいなくなれば、土方は隊へ戻れるはずだった。
総司はもう新撰組に戻るつもりはなかった。あそこへ戻っても、また辛い日々が始まるだけだ。なら、いっそここで消えてしまいたかった。
死にたいとは思わない。ただ、どこか誰も知らない遠くへ行ってしまいたい。消えてしまいたい。
それが逃げることなのだとわかっていたが、総司はもう限界まで来ていた。
大坂への出張中、土方の総司にたいする態度は、酷く冷ややかなものだった。
他人だと思い知らされる鋭い視線、蔑むような冷笑、冷たい声音。
何もかもが、総司を追いつめた。
ここ最近、伊東の庇護のもとにいたため、土方と接する事は皆無に等しくなっていたのだ。そのため、少し気持ちも落ち着いていた。
そこへふってわいた出張への同行に、総司は初め断った。
それを近藤は静かに窘めた。
「大事な仕事なのだ。歳の手助けをしてやってくれないか」
「でも……」
「おまえが最近、歳を避けているのは知っている。だが、それでも、行って欲しいのだ」
「私よりも、もっと適任の方がいらっしゃると思います」
「そうかな」
近藤は苦笑した。
「おまえ以上に適任の者がいるとは、思えんが」
「いえ、います。私よりも……」
斉藤さんに、と云いかけた。
だが、とたん、声がつまった。
的外れだとわかっていたが、総司は、土方の腹心となった斉藤に嫉妬していたのだ。
斉藤は、総司にとっても大切な友人だ。
だが、それ以上に、彼が唯一胸の内を打ちかける腹心の立場へ、自分の代りにおさまった斉藤に、強い嫉妬を覚えていた。
こんな嫉妬をする事さえ恥じるべきだとわかっていながら、それでも、総司はどうしても斉藤を推すことが出来なかった。己の心の狭さに、涙がにじみそうになる。
黙って俯いてしまった総司の肩に、そっと近藤の手が置かれた。
驚いて顔をあげると、穏やかな表情で近藤が総司を見ていた。
「おまえは昔から、無理をしすぎるな」
「え……?」
「先々の事まで考えて、必死に頑張りすぎる。もっと力を抜いた方がいいと思うぞ」
「近藤先生?」
「まぁ、おまえのためにも、大坂へ出張させた方がいいようだな。歳と仲直りするいい機会だと思って、同行しなさい。切っ掛けになるかもしれん」
そう云うと、呆然と坐り込んだ総司を残し、近藤はさっさと部屋を出ていってしまった。
そして、なし崩しのように大坂出張が決まってしまったのだ。
だが、総司は、その出発の朝、出てきた自分を見た土方の表情が、今も忘れられなかった。
「……」
朝靄の中、旅装に身をかためた長身の男が佇んでいた。足音に気づき、ふり返る。
総司を見た瞬間、切れの長い目がすっと細められた。
それは、明らかな侮蔑の表情だった。
立ちつくす総司に冷たい一瞥をあたえた土方は、その後、すぐ興味を失ったらしく顔をそむけた。背を向け、足早に歩き出す。まるで、総司などそこに存在していないような態度だった。
切っ掛けなど、何処にもなかった。
二人の関係を修復する機会など、土方が与えてくれなかったのだ。挙げ句、この足止め、口論だ。今、家を出ていってしまった土方は、もう二度と戻ってこぬかもしれなかった。今度こそ愛想をつかされたのだ。
なら、その帰ってこない彼を、ずっと待ち続けるなど耐えられなかった。儚い期待など、もう抱きたくない。
のろのろと、総司は立ち上がった。
框まで辿り着くと、荷物を手に草履へ足を突っ込む。
足はかなり痛んだが、それでも歩けぬことはなかった。壁伝えに出ると、必死に自分を励まし、歩きはじめる。
外にも、土方の姿はなかった。もう完全に愛想を尽かし、去ってしまったのかもしれなかった。それならそれで良かったはずなのに、心の奥がぎゅっと痛んだ。
最初に別れたのは、私の方なのに。
今更、見捨てられても、泣く資格さえないのに。
総司はきつく唇を噛みしめると、山の坂をのぼっていった。
夕暮れが迫ってきていた。
少しずつ薄暗くなってくる山奥は、視界も悪い。
土方は足早に坂を上りつづけた。こちらの方角だという確信がある訳ではない。
だが、この先に総司がいる気がしたのだ。必ず追いつけるのだと。そして、それはあたっていた。
追いかけるのは、屈強の男の足だ。もともと病弱で華奢で、しかも怪我を負っている。そんな若者に追いつくのは、たやすいことだった。
「総司!」
薄闇の中、細い背を見つけた瞬間、土方は思わず叫んでいた。
それに、びくりと総司の肩が震える。ふり返ったとたん、大きく目を見開き、呆然と彼の名を呼んだ。
「土方…さ……」
だが、不意に、総司は身をひるがえした。慌てて逃げるように、坂を駆け上がってゆく。
その必死の様に、頭の奥がかっと熱くなった。
そんなにも嫌なのか。
俺と共にいる事さえ、堪えられないと云うのか。
「総司ッ」
大声で怒鳴り、土方は走り出した。一気に間合いをつめ、その細い手首を掴む。
「い、いやっ」
総司が身を捩り、叫んだ。懸命に男の手をふり払い、引寄せられても逃れようとする。
その様に、ますます怒りがこみあげた。
「そんなに……俺が嫌か!」
気がつけば、叫んでいた。
「俺といるのが、逃げ出すほど嫌なのかよ! こんな…怪我を負ってまで山奥に逃げ出すなど、おまえはそこまで俺を嫌っているのかッ」
「……っ」
総司の目が大きく見開かれた。必死にふり払おうとしていた動きがとまる。
唖然とした顔で土方を見上げ、唇を震わせた。
「な…にを云っているの……?」
やがて、小さな声が呟き、ゆるゆると首をふった。
「私が土方さんを嫌うって……いったい、何を……」
「おまえは俺を嫌っているだろうが。それこそ蛇蝎のようにな」
「え、土方さ……」
「それとも、伊東の念弟として大切にされているおまえから見れば、俺など嫌うにも値しない男か。そんな関心もねぇのか」
「だ、だって、そんな事……ある訳ないでしょう」
総司は慌てて云いつのった。
「あなたは、私の兄代りだったし……ずっと優しくしてくれた人だから。なのに、そのあなたを嫌うとか、そんな事……」
「兄代り、ね」
苦々しく、土方は呟いた。
「おまえにとって、俺はあくまで都合のいい兄代りだった訳だ。それで? 伊東は違うというのか。あいつは、おまえが身も心も許していいと思った、初めての男だからな」
「な……っ」
総司の頬が真っ赤にそまった。
いきなり直接的な言葉を、それも、ずっと望んできた男自身から云われ、絶句してしまったのだ。
身も心も許していい、なんて。
そんなこと、ただ一人にしか思ったことはない。それは、当然のことながら今、目の前にいる彼自身だった。
せめて一度でいいから、その逞しい腕に抱かれたいと、どんなに夢見てきたことだろう。
耳朶まで真っ赤になり、総司は俯いてしまった。
恥ずかしくて、とても土方の顔を見られなかったのだ。
だが、それを見た土方の顔色が変わった。
肯定の意味だと理解したのだ。
噂では何度も聞いていた。実際、寄りそう二人を見ることもあった。だが、本当は信じたくなかったのだ。あえて目をそらしてきたのだ。
総司は清らかで純潔なのだと。誰のものでもないのだと、そう信じたかった。
なのに。
(やはり、そうだったのか。おまえは、とっくに伊東のものになっていたのか)
「ッ、いた……っ」
不意に、総司が悲鳴をあげた。
土方がその細い肩を痛いほど掴んできたのだ。驚いて顔をあげれば、怒りに燃える男の瞳が総司を睨みすえている。
「な、何……っ?」
総司は息を呑んだ。
こんな土方は見た事がなかった。弟のように可愛がってもらっていた時も、疎遠になった時でさえ、土方は常に端然としていた。あまり感情を表に出すことはなかったのだ。
それどころか、最近の土方は、感情など消し去ったようにさえ見えた。冴え冴えとした瞳は感情を映さず、どんな残酷な処置にも眉一つうごかさない。まさに、血も涙もないと噂される冷酷な副長そのものだった。
なのに、どうだろう。
今の土方は、激情を露にしていた。切れの長い目の眦がつりあがり、形のよい唇がきつく噛みしめられている。黒い瞳にある獣じみた衝動は、今にも総司に襲いかかりそうだった。
血に飢えた獣に睨み据えられたような、そんな感覚さえ覚え、ぞっと背中が冷たくなる。
「……土方…さん……?」
おそるおそる呼びかけた総司に、土方は肩を掴んだ手により力をこめた。だが、悲鳴をあげた瞬間、不意に荒々しく引寄せられ、息もとまるほど抱きしめられる。
鼓動がぬくもりがつたわり、総司は全身で男の存在を感じた。
もう肌寒い秋だというのに、駆けてきたのか、土方は薄く汗をかいていた。躯も熱い。
それが必死に探してくれた証のように思え、突然、総司は泣き出したくなった。
ずっと昔の事を思いだしたのだ。
幼い頃、まだ土方と逢ったばかりの頃だった。
迷子になって泣いていた宗次郎を、一番はじめに探し出してくれたのが、歳三だったのだ。
怖くて怖くてたまらなかった。道がわからず、そればかりか転んで膝をすり剥いてしまい、うずくまり泣き出してしまったのだ。
助けてと、泣いた。それは何故か、他の誰でもなく、歳三だった。きっと助けに来てくれる、探し出してくれる。そんな気がしていたのだ。
そして、それは本当だった。
暗闇の中、激しい足音がしたかと思うと、提灯を手にした歳三が現われたのだ。うずくまり泣いている宗次郎を見るなり、歳三はもの凄い勢いで駆け寄ってきた。
「宗次郎!」
次の瞬間、ふわりと躯が浮いた。
歳三は駆け寄ってくるなり、逞しい腕で小さな躯を抱きあげたのだ。
「宗次郎! あぁ、宗次郎」
大きな手のひらが背中や肩をさすり、きつく抱きしめた。それは痛いほどの力だったが、宗次郎は構わなかった。嬉しかったのだ。嬉しくて嬉しくて、たまらなかったのだ。
やっぱり、この人が探してくれた。
私を必死に捜してくれたんだ。
嬉しさと安堵と、奇妙なほどの誇らしさ。
それらが入り混ざった感情のまま、宗次郎は細い両腕で男の首に抱きついた。ぎゅっとしがみつき、目を閉じる。
「よかった、無事でよかったな。俺はもう心配でたまらなくて……」
歳三は汗だくになっていた。余程、あちこちを探し回ったのだろう。はぁはぁと肩で息をし、額にも汗があった。だが、その黒い瞳は宗次郎を見つけた歓びにきらきら輝いて、とても綺麗だった。
きれいに澄んだ瞳。
優しい笑顔。
いつからだったのだろう。彼が笑顔を見せなくなったのは。
京に上ってきて以降か。いや、違う。
自分が彼の手を払いのけてからだ。背を向けた時から、土方は表情を一切消し去った。その端正は顔に、冷たい笑みや嘲笑しか浮かべなくなってしまったのだ。
私が、この人から笑顔を奪った……?
ゆっくりと顔をあげた総司は、土方を見つめた。
視線に気づいた土方も、間近で見つめ返してくる。二人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
先程までの激情はどこかへ消え去り、だが、そのかわり、押し殺されたが故に狂おしい情念を感じた。
じりじりと燻り、いつ暴発するともしれぬ炎のような黒い情念。
それを互いの中に見いだした故に、二人は何も云えなかった。ただ、世界の中に互いの息づかいしか感じぬまま、見つめあう。
抱きあったままのため、互いの肌を感じた。
熱い肌も、匂いも、鼓動も。
夕闇が迫る中、次第に男の息づかいが荒くなるのを、総司は感じた。
彼の瞳にあるのは、自分だけだ。それを思うと、背中がぞくぞくするほどの心地よさを覚える。
もっと、見て。
私だけを見て、そして……愛して。
不意に、土方が手に力がこもった。ぐっと細い腰を抱きよせ、顎を掴んで仰向かせる。
総司は素直に従い、目を閉じた。誘うように唇を開く。
「……っ」
吐息ごと奪われた。
背中が撓るほど抱きしめられ、深く唇を重ねられる。
貪るような激しい口づけだった。濃厚で、まるで上質の酒にでも酔うような接吻に、総司は頭の中がぼうっとなるのを覚えた。
何度も角度をかえて口づけられるうち、次第に膝に力が入らなくなってゆく。
「ふ…ぁ、ッ…ん……」
それでも、土方は総司を離さなかった。大きな手のひらで躯のあちこちを撫でまわし、額に、頬に、首筋に口づけを落とす。そうして、また深く唇を重ね、総司の躯を熱くとろけさせた。
だが、総司にとっては初めての口づけなのだ。遊び馴れた土方に翻弄されるばかりで、本当に酔ったようになってしまった。
やがて、男の胸もとにぐったり凭れかかると、さすがに土方もまずいと思ったようだった。柔らかく抱きすくめてやりながら、耳もとで問いかける。
「大丈夫か……?」
「……ぁ……」
ぼうっとした表情で見上げると、土方は一瞬、目を見開いた。それから、短く舌打ちする。
「まったく、そんな顔をするな。ここでやっちまいたくなるだろうが」
「え……?」
意味がわからず目を瞬く総司に、土方はため息をついた。そうして、かるく身をかがめると、総司の膝裏と腰に手をまわして抱きあげる。
初めてこの山で迷った時と同じように、抱いて連れ帰るつもりなのだろう。
それを知った総司は羞恥に、思わず身を捩った。子どもでもあるまいに。抱きあげられて帰るなど、恥ずかしい限りだと思ったのだ。
「お、降ろし……」
だが、最後まで云えなかった。
土方が総司を抱きしめたかと思うと、耳もとで低く囁いたのだ。
「……逆らうな」
「!」
「これ以上逆らえば、俺は何をするかわからんぞ」
凄味さえ感じさせる声音に、息を呑んだ。