(な、何……?)


 こちらを見据える土方の顔に、表情はなかった。だが、その切れの長い目の眦はつりあがり、奥歯はきつく噛みしめられている。
 激しい怒気が彼の全身から迸っていた。明らかに彼は怒っているのだ。
 殺意、憎しみさえ感じさせる激情に、総司は目を見開いた。思わず後ずさってしまう。だが、それが男の激昂を煽ったのだろう。
 ちっと舌打ちするなり、土方は片手をのばした。細い手首を掴み、荒々しく引寄せる。
「……っ」
 総司は思わず固く目を瞑った。
 重い沈黙が落ちた。
 張り詰めた空気が恐ろしくて、逃げ出してしまいたくなる。だが、逃げる事はできなかった。今、総司は土方に捕らえられているのだ。
 細い手首を掴んだ男の手は強靱で、一切の逃げを許さなかった。
 きつく目を閉じて身を竦ませていると、やがて、土方の低い、嘲笑を含んだ声が耳に届いた。
「……何を怯えてやがる」
「──」
「俺に殴られるとでも、思っているのかよ。えぇ?」
 ぐいっと手首を引寄せられ、総司は思わず目を開いた。驚くほど近くに、彼の端正な顔がある。切れの長い目が深々と総司を見据えていた。
 目を瞠る総司に、土方は薄く嗤った。
「つまりは、殴られるような事を云った自覚がある訳だ」
「ち、ちが……っ」
 必死に首をふった。
「そんな、私は……わからなくて。土方さんが怒っているみたい、だったから」
「……」
「怒って……いるの、でしょう? 私が何かいけない事をしたから、だから……っ」
「あぁ」
 土方はゆっくりと目を細めた。それは、まるで、獲物を見つけた獣が舌なめずりするようで、総司は背中がぞっと寒くなるのを覚えた。
「おまえはいけない事をした。俺を怒らせたのさ」
「ご、ごめんなさい」
 思わず謝った。何が彼を怒らせたのか全くわからなかったが、それでも、総司は彼の怒りから逃れたかった。愛する男の怒りは恐ろしく、そして辛く悲しい。
「私が土方さんを怒らせたなら、謝ります。本当に……ごめんなさい」
「……おまえは」
 だが、総司の謝意は尚更、土方を苛立たせたようだった。黒い瞳に凶暴な光が宿る。
「おまえは、俺を莫迦にしているのか。俺が何故怒ったか知ろうともせず、とりあえずは謝って、それで済むと思っている訳か」
「だって……私、わからない!」
 混乱した総司は、首を激しくふった。
「土方さんが何に怒っているのか、全然わからない。でも、あなたを傷つけたのは悪いと思ったから、だから……」
「……」
 しばらくの間、土方は押し黙ったまま総司を見つめていた。だが、やがて、不意に手を離すと、顔を背けた。
 不安げに見上げる総司の前で、ため息まじりに呟いた。
「……おまえは子どもだな」
「え?」
「さんざん男を翻弄しながら他意がないなどと……本当に始末におけねぇよ」
 吐き捨てるように云うと、土方は立ち上がった。そのまま框を降り、家を出ていってしまう。
 総司は坐りこんだまま、その男の広い背を呆然と見送る他なかった。だが、ぴしゃりと閉められた戸の音を聞いたとたん、涙がこぼれた。
 いきなり嵐のような彼の激情にさらされた衝撃のためか。それとも、彼にまた背を向けられた故なのか。
 何も理由さえわからないまま、彼の言葉どおり、幼い子どものように総司は一人泣いた。
 あの時と同じだと思った。山南の事件の時と。


(あの時も、土方さんは私に愛想をつかした……)


 山南が脱走し、その挙げ句、切腹となって。
 その事は、隊の誰にとっても衝撃だっただろうが、一番、それが酷かったのは土方だった。対立をくり返しはしたが、土方にとって、山南は友人だったのだ。だからこそ、心が離れてゆく互いに苦しみ悩んでいたし、山南に死をあたえたのが自分だったという事が、耐えられなかったのだろう。
 山南が死んだ日、土方は総司の部屋を訪れてきた。
「土方さん……」
 いきなり障子を開いて入ってきた土方に、総司は驚いた。見上げると、彼は酷く酔っているようだった。足もとさえ覚えぬ様子に、慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか? あなたが酔うなんて」
「……俺だって、酔いたい時もあるさ」
 部屋に入ると、土方は壁に凭れるようにして坐り込んだ。総司はその傍に膝をつき、彼の端正な顔を覗き込んだ。髪が僅かに乱れ、酔いのためか黒い瞳が潤んでいるさまが男の色香を感じさせる。
 胸の鼓動を早くしながら、総司は訊ねた。
「水でも持ってきましょうか」
「いらん。おまえはここにいろ」
 不意に手首を掴まれ、どきりとした。そのまま引寄せられ、半ば彼の胸もとに抱き込まれたようになる。
「ひ、土方さんっ」
 驚いた総司は慌てて身を起こそうとしたが、それを土方は許さなかった。細い躯をきつく抱きしめ、髪に顔をうずめる。
「総司……俺は間違っていたのか」
 突然の言葉に、総司は動きをとめた。彼の声音に、深い慟哭と孤独を感じたのだ。
「隊のためにと戦ってきて……どこで何を間違えたんだろうな。俺は、大切なものを知らぬうちに失っていたんだ」
「土方さん……」
「山南を殺してまで、何を求めるんだ。俺はいったい……」
 珍しく弱音を吐く彼の姿に、総司は驚いた。だが、それと同時に、胸奥から奇妙なほどの歓喜がこみあげるのを感じた。


 本当に、嬉しかったのだ。
 愛する男が心弱った時に、自分のところへ来てくれた。
 そして、弱音を吐いてくれた。
 他の誰でもない、自分を選び、心許してくれたのだ。
 こんなに嬉しいことがあるだろうか。


「土方さん」
 総司は思わず膝だちになり、土方の頭を抱えこむようにしていた。幼い子どもをあやすように、優しく抱きしめる。
 彼の心が少しでも癒されるように。いつもの強い彼に戻ることができるように。
 そのまま眠った土方の傍で一夜を明かし、総司は朝の支度をするため部屋を出た。彼のために朝の膳を用意しようと思ったのだ。
 だが、急いで戻った部屋に、土方の姿はなかった。
「……」
 総司は膳を抱えたまま、ぼんやりと立ちつくした。誰もいない部屋は不思議なほど淋しく感じた。先程までいた彼がそこにいない。その事がたまらなく淋しく感じ、総司はしばらく何もする事が出来ない程だった。
 だが、それでも仕方がないと思った。矜持の高い彼だ。たとえ弟同然の総司にも、心を明かしたことを恥じたのだろう。彼は誰かに甘えるような事は、決してしないのだ。
 そう自分に云い聞かせた総司は、だが、やがて、それが間違いである事を知らされた。土方は翌日から、連日、祇園の小芳のもとを訪れるようになったのだ。
 彼女に救いを求めるように。
 男の行動は、総司を酷く打ちのめした。


(私では、駄目だったの……?)


 やはり、駄目なのか。女ではない私では、彼を何も慰めてあげられない。ただ話を聞く事しかできない私など、彼にとっては何の慰めにもならなかったのだ。
 これから先も、きっとそうなのだろう。どんなに自分が愛しても、彼がふり返ることは絶対にない。弟として大切にしてくれても、それ以上の対象として愛してくれる事は永遠にないのだ。


 一縷の望みもない恋。


 それを思い知らされた時、総司は、彼への想いを断ちきるべきだと理解した。
 いつまでもこんな想いを抱きつづけていれば、いつか彼に知られてしまうかもしれない。冷たい侮蔑の表情で自分を見やる土方が、目にうかぶようだった。
 そんなこと、耐えられないと思った。彼に知られるぐらいなら、死んだ方がましだ。
 ならば、もう一刻も早くこの想いを絶ってしまうべきだった。
 この恋は、殺してしまわなければならないのだ。
 総司は、少しずつ彼から離れていった。心も躯も、彼から距離を置いていったのだ。
 それが後になって、あれ程、自分自身を苦しめる事になるとは思いもよらぬままに……。













 怒りのまま家を飛び出した土方は、再び、山の中を彷徨い歩いていた。
 もうすぐ夕暮れのため、風は冷たかったが、土方にはかえって心地よかった。
 気持ちを落ち着けなければ、家の中へは戻れなかった。こんなにも感情が激したままでは、総司をもっと傷つけてしまう。それだけは避けたかった。
「……俺も大人げねぇな」
 ため息をついた。


 総司は何も他意があって、あんな言葉を口にした訳ではないのだ。
 それをよくわかっていたはずなのに、苛立ってしまった。
 仕事や他のことでは、常に冷静沈着でいられた。どんな酷い事や突発事項があっても、眉一つ動かさなかったのだ。
 なのに、総司のことだけは別だった。まるで初めて恋を知った男のように、総司の言動で一喜一憂してしまう。
 情けないとは思うが、どうしようもなかった。それだけ本気なのだと思えば、自嘲さえも甘い疼きにかわる。


「まぁ、総司にわかれという方が無理だろうが」
 土方がどんな想いで総司を見つめているかなど、知る由もないのだ。どれほど長い間、総司だけを欲し求め、気が狂いそうなほど愛してきたか。何も知らぬからこそ、あんな事が云える。あんな残酷なことが出来るのだ。
「死んでしまうかもしれない、か」
 ほろ苦い想いを噛みしめた。
 ならば、総司は今、そういう思いでいるのだろうか。顔を見るほど嫌な男と二人きりにされて、それで……このまま彼の好きにされたら? 我が身を恥じて、伊東のために純潔を守るため、自害するのだろうか。
 うがち過ぎだと思いながら、あの苦く狂おしい過去があるだけに、そう受け取らずにはいられなかった。










 伊東と総司が近づいていると噂に聞いた時、初め、土方は理解できなかった。
 自分の元から逃げたのは、このためだったのか。
 彼と対立する伊東の元に走るため、自分に背を向けたのか。
 あの素直で優しい総司が、そんな事をするとは到底思えなかった。思いたくもなかった。
 だが、やがて、その噂が二人の親密さを揶揄するものになり、ついには念者の契りを結んだと聞かされた時、土方は半ば呆然となった。
 まさか、あの総司がと思った。
 初で、娘とでさえ接吻もした事のないような総司が、男と契りを結ぶなど信じられなかった。
 どれほど心から愛しても、嫌悪の表情とともにふり払われると思っていたからこそ、優しい兄代りの仮面を被り堪えつづけてきたのだ。
 なのに。


(おまえは、他の男になら平気で抱かれると云うのか)


 目前が真っ赤に染まるような怒りに襲われた。
 その噂を聞いたのが公的な場所でなかったなら、到底堪える事はできなかっただろう。
 矜持も立場も何もかも投げだし、総司を捕らえに向ってしまいそうだった。その細い肩を掴み、激しく問い詰めたに違いない。
 嫉妬と怒りのまま。
 だが、そんな事をして何になっただろう。冷たい瞳で彼を眺め、「あなたに何の関係があるのです」と云い放つ総司が目にうかぶようだった。
 ある意味、公の場でよかったのだ。
 だからこそ、土方は、彼の中で荒れ狂う嫉妬と怒りを押し殺し、何もなかったように隊務をとり続けることが出来た。
 もっとも、友人である近藤は土方の感情の揺れにすぐ気づき、心配そうな視線を投げかけていたが、それに応える余裕もなかった。


 やがて、総司が伊東の念弟であることは、公然の噂となった。
 伊東は大きな翼で守るように、総司の傍に寄りそっていた。それに総司も安堵しきった様子で、他の誰にも見せない笑顔で甘えている。
 二人が深い関係であることは、誰の目にも明らかだった。
 何度も思った。


 俺では駄目だったのか。
 総司が選んだのが、何故、俺ではなかったのか。
 あんなにも愛していたのに、大切にしてきたのに。
 自分には指一本ふれさせなかったくせに、あの男にはその身をまかせるのか。


 慟哭のような男の叫びは、だが、総司に届くことはなかった。
 否、届いたとしても、その細い眉一つ動かすことはなかっただろう。愛らしい顔に冷笑をうかべ、侮蔑の表情で視線をそらすに違いなかった。
 彼には、そんな想いを抱く資格さえないのだと、云わんばかりに。
 狂ったような慟哭を抱きながら、土方は次第に表情を失っていった。感情の在処さえ忘れたように、冷徹な副長としてのみ振る舞い、仕事に没頭してゆく。
 それを、友人の近藤や、今や右腕となっている斉藤などは酷く心配していたが、そんな彼らの気づかいさえ寄せ付けなかった。


 誰にもふれられたくなかった。


 総司を奪われた心の傷が、何をしても癒されるはずもない。
 伊東に総司を奪われたことは、二重の意味で、土方を深く傷つけていた。愛する者を奪われたこと、そして、自分では駄目だったのかという屈辱。
 むろん、土方はそれを表には決して出さなかった。二人に会う事があっても無関心な態度をとり、表情一つ変えなかったのだ。あくまで副長としての態度を崩さない彼に、その中にある激情を思わせるものはなかった。
 だが、本当は違ったのだ。
 愛する者を奪われた故の憎しみ、屈辱。
 激しく狂おしい情愛、嫉妬、怒り。
 そのすべては表に出されぬが故に深く激しく、青白く燃えつづけていた。いつか暴発する時を待つように。


(なら、今、暴発してもおかしくねぇか)


 薄く苦笑した。
 ずっと堪えつづけてきたのだ。
 挙げ句、あんな残酷な言葉を投げつけられて、あの時、総司に乱暴を働かなかった自分が不思議なぐらいだった。むろん、暴力をふるうという事ではない。迸る感情のまま、あの細い躯を己のものにしなかった事だ。
 だが、一方で出来るはずもないとわかっていた。
 今、土方と総司は二人きりだ。
 しかも、総司は何故か、ここに来てから態度を和らげている。あれ程、冷たく余所余所しかった総司が、昔のように柔らかな表情を彼にむけてくれているのだ。
 それを失いたくはなかった。
 せめて、ここにいる間だけでも、昔のような総司でいて欲しい。


(俺もほだされているな)


 惚れた弱みなのか。
 総司の事になると際限なく甘くなってしまう己を自嘲しつつ、土方は踵を返した。山を降りてゆく。
 戸を開ける時、少し躊躇いを覚えたが、それは表に出さぬまま家の中へ入った。しんと中は静まりかえっている。
 それを訝しく思いつつ、土方は声をかけた。
「総司?」
 土間を横切り、先程まで総司がいた場所を見やる。とたん、息を呑んだ。
 そこには、誰もいなかった。
 狭い家の中だ。どこに誰がいるか、すぐわかってしまう。なのに、総司の姿はどこにもなかった。
 慌てて確かめれば、総司の草履がない。荷物も消えていた。
「……逃げ…た?」
 声が震えた。


 俺から逃げたのか。
 好きでもない男と二人きりになるぐらいなら、死んだ方がいいと云った総司。
 だから、その言葉どおり、俺から逃げ出したのか……!


 かっと目の前が真っ赤になった。
 激しい怒りが突き上げ、あまりの感情の揺れに耳鳴りさえした。怒りと屈辱で、頭がどうにかなってしまいそうだ。
 土方は壁に背を凭せかけ、息をとめた。宙を睨みすえる。
 逃がさない、と思った。
 絶対に逃がすものか。


 あれは……俺のものだ。