山南の事件から数日後、土方は総司の変化に気づいた。
 極力土方を避け、話しかけることもなくなった。いつも副長室に入り浸っていたのが、全く訪れなくなり、彼の傍に寄ることさえしない。公の事で話しかけても、他人行儀な言葉が返されるばかりだった。
 初めは、怒っているのかと思った。先日、総司の前で弱音を吐いた自分を情けなく思い、怒っているのかと。
 だからこそ、土方は総司に直接訊ねようとしたのだ。
「ちょっと、来い」
 ある日、土方は、隊士たちのたまり場から総司を強引に連れ出した。それに周囲は目を瞠っていたが、総司自身は奇妙なほど落ち着いていた。まるでわかっていた事のような表情で、おとなしくついてきたのだ。
 副長室に引っ張り込むと、土方は総司の方へ向き直った。その顔を見下ろし、話そうとする。
 だが、次の瞬間、息を呑んだ。


(総司……)


 もともと、綺麗に整った顔だちだった。
 それが冷たく見えなかったのは、明るく無邪気に笑ったり、澄んだ声でお喋りしたりしていた故なのだと、思い知らされた。
 まるで、精緻につくられた美しい人形のようだった。
 完全に、心を閉ざしてしまっているのだ。総司はもはや、土方に笑顔一つむける気はないようだった。
 それでも、土方は問いかけたのだ。何故、と。
「何か気にくわねぇ事があるのか」
 そう云った土方に、総司は黙ったまま目を伏せた。時が過ぎるのをただ堪え待っている、そんな印象さえ受けた。
 それに苛立ちを覚えつつ、言葉をつづけた。
「謝る事があれば謝る。何かあるなら、はっきり云ってくれないか」
「……別に、ありません」
 小さな声で、総司が答えた。だが、その声音は冷たく、酷く固い。
 土方はため息をついた。
「最近のおまえ……何を考えているのか全然わからねぇよ」
 そう云った瞬間だった。
 ゆっくりと、総司が顔をあげた。
 長い睫毛がゆっくりと瞬き、冷たく澄んだ瞳が彼を見上げる。
 それは、冷たい無機質なまなざしだった。彼を見ているようで、誰も見ていない。総司にとって、今そこに彼は存在さえしないのだと、そう思い知らせるような……。
 そして、それは誤りではなかったようで、総司は目を伏せると、静かに身をひるがえした。何も彼に言葉をかけぬまま、まるで何事もなかったように部屋を出ていってしまう。
 それを引き留めることも追うこともせぬまま、土方は、静かに閉じられた障子を見つめた。


 山南の事で、総司と口論になった事は確かだ。切腹の後、彼が弱音を吐いたことも。
 だが、そのことで、総司がまさか土方に背をむけるとは、思っていなかった。何をしても許されるとは思っていた訳ではない。だが、二人の関係はそんな簡単に罅が入るほど、脆いものではないはずだった。
 この手で育て、愛し、慈しんできたのだ。土方にとって、もはや総司は己の一部であり、総司にとっても同じくであるはずだった。己の一部が裏切ることなど、誰が考えるだろう。土方にとって、総司は、信じる信じないかなど考える必要もない存在だったのだ。
 だが、総司は、土方に背を向けた。


 結局、総司も同じなのか。
 総司も、今までの奴らと一緒だったのか。
 所詮、その程度の関係だったのか。


 昔から、土方は幾度も裏切られてきた。
 もともと見目形の優れた男だ。それに惹かれ、様々な者が彼に近づいてきた。だが、一方で、土方が心を許したとたん、手酷く裏切られた事も数えきれぬほどあったのだ。
 信じては裏切られる。また信じては裏切られる。それを幾度もくり返すうち、土方は人を全く信用しなくなった。人とは裏切るものだと、考えるようになったのだ。
 あんなにも愛した若者。この手で育てた、愛しい総司。
 だが、総司もまた、今まで彼を裏切った連中と何一つ変わらないのだと知った時、土方の中で、何かが凍えた。
 それは、ようやく芽生えた愛だったのかもしれない。
 生まれて初めて愛した、大切な存在。
 その相手自身から、愛も信頼も否定された時、土方の中で、何かが凍りついてしまったのだ。












 土方は嘆息し、髪を片手でかきあげた。
 そうしながら崖の下を見下ろし、唇を噛みしめる。
 山々が連なり、紅葉の美しい光景だったが、人の姿はおろか道もない。
 さすがの土方も、この先どうすればよいのか思いあぐねてしまった。もっとも、彼の中に、総司を残していくという選択肢はない。今は遠い存在であっても、傷ついた総司を残し、一人だけ発つなど出来るはずもなかった。
 踵を返し、歩き出した。
 少し遠回りをして、北側から総司が待つ家へ戻っていこうと思う。
 土方は目についた木の実や花をとりながら、しっかりした足取りで山をのぼり、下った。
 そして、それは山間を流れる川を越えたすぐそこにあった。
「……」
 目の前の光景に、土方は足をとめた。はっと息を呑む。
 樹木におおわれた坂を下り、川のせせらぎを聞きながら歩いていたのだが、不意に、目の前が開けたかと思うと、そこには田畑が広がっていたのだ。
 人里だった。小さな農家が幾つか並び、微かな喧噪がここまで届いてくる。
「村が……あったのか」
 思わず呟き、足を踏み出した。
 村に行けば人に逢える。
 そうすれば、使いも出せるし、隊へ戻ることも出来るのだ。
「京へ使いを頼んで、隊から迎えを出してもらおう。そうすれば……」
 そう呟いた土方は、だが、不意に足をとめた。足下の地面を見据え、息をつめる。


 ──新撰組に戻る。


 それはとりもなおさず、しがらみの中へ戻ることだった。
 欺瞞と裏切り、憎しみが渦巻く日々の中へ戻り、新撰組副長として縛られつづける日々を意味していた。
 あそこでは、一人の男として生きる事も許されない。
 土方は、新撰組副長として存在し、それ以外の何者でもないのだ。一人の若い男でさえない。
 総司が傍にいる頃はまだよかった。
 新撰組を大きくするためだけに心血を注ぎ、そのためには敵味方関係なく様々なものを切り捨てた。その冷酷で容赦のない言動に、憎まれている事も、鬼と呼ばれていることも知っていた。
 むろん、土方とて傷つきもするし、迷いもする。
 だが、新撰組のためには、冷徹に振る舞わなければどうしようもなかった。新撰組の副長としてのみ、存在することを、己からも、周囲からも科せられていたのだ。


 そんな中、総司と話している時だけは、一人の男に戻った気がした。
 総司はまるで万華鏡のようだった。いつでも明るく笑い、彼をびっくりさせたり、笑わせたり、時に手を焼かせて怒らせたりした。
 そんな総司が可愛くてたまらず、まだ、そうして笑ったり怒ったりしていると、人であることを実感することができた。少なくとも、総司の前でだけは、熱い血の通った人として、一人の男として存在することが出来たのだ。
 だが、その総司は彼の元から去った。
 今や言葉を交わすどころか、逢うことさえ滅多にない。
 彼は一人だった。
 大勢の者に囲まれながら、それこそ気が狂いそうなほど孤独だったのだ。


 新撰組に戻ることは、再びあの日々へ戻ることだ。
 それを、自分は本当に望んでいるのか。


 村の穏やかな光景の中、土方は立ちつくした。












 帰ってきた土方は酷く疲れているようだった。
 無言のまま草鞋を脱いでいる男の広い背を、総司は不安げに見つめた。
 また、山里も道も見つからなかったのだろうか。その事で失望しているのだろうか。
 足手まといになってしまった自分が申し訳なく、一方で、そうして一刻も早くこの状況から抜け出たいと望んでいるに違いない男を、切なく感じた。


(土方さんは、私といるなんて苦痛だから……)


 目を伏せ、きゅっと唇を噛みしめた。
 だが、土方の切れの長い目がこちらを一瞥したのを感じ、慌てて顔をあげる。そっと問いかけた。
「今日も……道は見つかりませんでしたか」
「……」
 それに答えぬまま土方は家の中にあがると、囲炉裏に手早く枝を入れた。形のよい眉を顰めている。
 何も見つからなかったため不機嫌なのだろうと、目を伏せた総司に、低い声がかけられた。
「総司」
「はい」
「何故、もっと火をおこさない」
「え……?」
 総司は顔をあげ、目を瞬いた。意味がわからなかったのだ。
 それに、土方は叱りつけるような口調で言葉をつづけた。
「俺が出ている間、もっと火をおこしてあたたまればいいだろう。枝はすぐそこに置いてあるんだ」
「でも、あれが無くなったら、また取って来ないと駄目だから。これ以上、土方さんの手をわずらわせたくなかったのです」
「たいした手間じゃねぇよ。ただでさえ病もちのおまえなんだ、火をたやすな」
 きつい声音で命じられ、総司はびくりと躯を竦めた。
 今も昔も、土方にきつい云い方をされると、酷くこたえるのだ。他の誰に何を云われても平気なのに、土方だけは別だった。彼の言動一つで、いつも一喜一憂してしまう。
「……」
 俯いてしまった総司に、土方は嘆息した。しばらく何か考えているようだったが、やがて、ぽつりと云った。
「きつい云い方をして、すまん」
「……っ」
 総司は小さく息を呑んだ。彼が総司を気遣ってくれたからこその、言葉だった。なのに、その云い方がきついからと謝るなんて、思ってもみなかったのだ。
「……私、こそ」
 想いを伝えようと、懸命に唇を開いた。
「心配をかけて……すみません。今度からはちゃんと火をおこします」
「あぁ」
 土方は頷き、立ち上がった。いったん土間に降りると、入り口近くにおいていた籠を持ってくる。
 籠の中には野菜や卵が入っていた。どう見ても人の手を経たものだ。
 それに、総司は目を見開いた。
「……土方、さん?」
「人里があった」
「え……っ」
 言葉がなかった。
 それを喜んでいいのか、悲しむべきなのかさえわからない。
 総司は呆然と坐り込んでいたが、やがて、ゆっくりと土方を見上げた。
 その表情に、土方は息を呑んだ。総司自身は意識していなかったが、それはまるで、捨てられる際の子どものような表情だったのだ。
 土方は眉を顰めた。だが、ふいと顔を背け、ぶっきらぼうな口調でつづけた。
「と云っても、小さな村だ。使いをたてようにも、なかなかな」
「……」
「とりあえず、行商人がちょうどいたので、京への使いを一応頼んだ。あれで何とかなるだろう」
「そう……ですか」
 掠れた声で答えた。
 行商人がついでに文を届けるのだ。その者にも仕事があり、商いをしながらの旅だ。彼のしたためた文が隊へ届くのも、迎えが来るのも、いつになるやら皆目見当もつかなかった。
 だが、それでいいと心から思った。少しでも救いになる。
 それは決して迎えを待つためではなく、文が遅れることへの安堵だった。


 一日でも長く。
 ほんの少しでも長く、この人の傍にいられるなら……!


 総司の祈るような想いに全く気づかぬまま、土方は胡座をかいた膝に頬杖をついた。
 囲炉裏の火を眺めながら、苦笑を口許にうかべる。
「まぁ、待つより他ないだろうな」
「はい」
「金もあるし、食い物もその村で買ってくればいい。何とかしのいで行くしかねぇ」
「そう、ですね」
 総司は頷き、答えた。
「ここで……土方さんと二人、暮らしていきましょう」
「……」
 不意に、土方が黙り込んだ。
 その沈黙を不審に思い、顔をあげると、黒い瞳が総司を見つめていた。
 それに、息を呑む。
 何か奇妙な表情だった。まるで、初めて見るような、珍しいものを見るような表情で、土方はこちらをじっと見つめていたのだ。
 思わず身じろいだ。
「な、何か……?」
 怯えた声で訊ね、躯をすらせる。不自由な足を庇っての動きではあったが、それでも気持ちの怯えが瞳に出たのだろう。
 土方は黙然としたまま視線を外し、低い声で云い捨てた。
「何でもねぇよ」
「あの……」
「……そう云えば、奇妙な話を聞いたな」
 突然、わざとらしい程の調子で話をかえた。おずおずと見やれば、土方は形のよい唇に微かな冷笑をうかべている。
 それに、どきりとした。


 この家へ辿り着いてから、彼は優しかった。
 新撰組で、総司が彼に背を向けた時から、当然の事だが、優しい言葉、笑顔をあたえられた事などなかった。無関心どころか、存在さえ忘れてしまったのかと思わせるような冷淡な態度だったのだ。
 それがこの家へ辿りついてからは違った。昔のようにとまではいかないが、少なくとも、気を使ってくれた。
 穏やかで優しい態度だったので、総司も安堵していたのだ。
 だが、今、土方の表情は、最近よく見るようになった冷たいものだった。


「……っ」
 何を云われるのかと、総司は思わず身構えてしまった。大きな瞳を見開き、息をつめる。
 そんな総司を知ってか知らずか、土方は懐手をしながら言葉をつづけた。
「この家は、男と身請けされた遊女が住んでいたものらしいぞ」
「え……?」
「男は裕福な家の者だったのか、贅をつくしてこの家を建て、遊女を身請けした。二人だけの桃源郷をここにつくった訳だな」
「こんな山里離れた場所に……」
 思わずそう呟いた総司に、土方はくすっと笑った。
「だから、選んだんじゃねぇのか」
「え?」
「こんな山里離れた場所じゃ、逃げられねぇだろう。誰も近寄らねぇから、その女を閉じこめ好きにできる」
「逃がさないため? でも、どうして? その遊女は男のことを……」
「好いていなかったし、他に好いた男もいたらしい。なのに、身請けされた挙げ句、二人だけにされたんだ。嫌で嫌でたまらなかっただろうよ」
「……っ」
 総司は思わず身をすくませた。


 何だか、自分が遊女のような気がしてしまったのだ。
 好きでもない男に閉じこめられ、好きにされるなど、どれほどの苦痛だろう。
 自分ならいっそ……


「恐ろしい、話ですね」
 小さな声で呟いた。
「そんな、好きでもない男と二人きりで、好きにされるなんて」
「……」
「私なら……いっそ死にたいと願うかもしれない」
 そう云った瞬間だった。
 奇妙な沈黙が落ちた。息をするのさえ憚られるような。
 それを訝しく思い顔をあげた総司は、目の前の男の表情に、はっと息を呑んだ。