山から戻ってきた土方は、総司を驚かせた。
 土方は土間を大股に横切り、板間に坐っている総司の傍までやってきた。そして、悪戯っぽい笑みをうかべると、その膝上に手拭いに包んでいたものをぶち撒けたのだ。
「な、何……?」
 びっくりして見下ろした総司の目に、緑も瑞々しい山菜、色鮮やかな木の実などが飛び込んできた。
「これ、どうしたのです」
「山で採ってきたのさ」
 事もなげに答えながら、土方は框に腰掛けた。草鞋を脱ぎ、さっさと部屋の中へ上がってゆく。
「米ばかりじゃ腹もふくれねぇし、何よりもおまえの躯に悪いからな。卵ぐらいあれば良かったのだが、まぁ、贅沢も云っておられんだろう」
「という事は、つまり……今夜もここ泊まりなのですか」
「あぁ」
 土方は頷き、切れの長い目で総司を見やった。形のよい唇の端があがる。
「不安か」
「い、いえ……不安じゃありませんけど」
 総司は慌てて首をふり、俯いた。きゅっと唇を噛みしめる。


 本当は、不安だった。
 不安で不安で、たまらないのだ。
 だが、それは、何も山奥で迷ってしまったからではなかった。
 彼と二人きりでいるのが、怖いのだ。ずっと堪えてきた一途な想いが堰を切ってしまいそうで、恐ろしい。


 黙って俯いてしまった総司を眺め、土方は目を細めた。
 だが、すぐに視線をそらすと、低い声で云った。
「山の中腹まで登ってみたが、道一つ、人家一つ、見えなかった。どのみち、ここから抜け出すには、山を越えるしかねぇだろう」
「……」
「だが、おまえのその足じゃ、到底無理だ。しばらく様子を見るしかねぇな」
「なら……」
 総司は顔をあげ、土方を大きな瞳で見つめた。
「ここに私を残して、土方さんだけでも山を越えて下さい。後で迎えに来てくれれば……」
「どれぐらいかかるか分からねぇのに? 怪我人のおまえを残していけるか」
「でも」
「俺はおまえを残して去ったりしねぇよ」
 荒々しい口調で云いきった土方は、これで話は終りだとばかりに立ち上がった。框から降りて草履に足を突っ込むと、家から出ていってしまう。
 それを見送り、総司は桜色の唇を震わせた。


 怒らせたのかもしれない。
 それでも云わずにはいられなかった。
 足手まといになっているのは、明らかなのだ。土方一人なら、とうの昔に山を越えていたはず。なのに、ここで足止めをくらっているのは、総司のせいだった。
 だからこそ、云ったのだ。
 自分を残して彼だけでも、と。
 ただ、きっぱり断られたことで、戸惑いはあったが、歓びがある事も確かだった。
 あの頃と同じように、彼は今でも優しいのだ。
 他の男なら総司を残し、自分だけでも山を越えてゆくだろう。助けは寄越してくれるだろうが、それでも、手負いの総司を残す事に躊躇いも覚えないに違いない。
 だが、土方は違った。
 彼の中には初めから、総司を残すという選択肢は全くないのだ。


 そんな事を考えていると、土方は再び家の中へ戻ってきた。小川から桶で水をくみ、運んでいるらしい。ざぁっという水音がする。
 総司は周囲のものに掴まって立ち上がり、土間へ降りた。
「土方さん、私がやります」
 そう云った総司を、土方は驚いたようにふり返った。無理をして土間に降りてきている姿に、眉を顰める。
「おまえは、坐っていろ」
「でも、土方さんにさせてばかりで……」
「たいした事じゃねぇよ。おまえは怪我を早く治すことに専念しろ」
「じゃあ、坐ったままでも出来ることをさせて下さい。でないと、私の気が済みません」
 きっぱりとした口調で云うと、土方はため息をついた。木の実を指さす。
「なら、それを剥いてくれ」
「はい」
 総司は安堵して頷き、板間に戻った。丁寧に木の実の皮を剥いてゆく。
 それをちらりと一瞥した土方は、黒い瞳に柔らかな色をうかべたが、すぐ視線をそらせた。












 幸い旅の途中だっため、着替えには困らなかった。
 だが、食べ物があまりに少ないので、もともと少食の総司はともかく、土方の方が到底足らない。卵でもあれば総司のためにも滋養になるのだが、見つかりそうもなかった。
「明日は魚でも捕ってくる」
 そう云った土方に、総司は驚いたように目を見開いた。
 何だ? と見れば、大きな瞳でじっと彼を見つめている。そうして、云った。
「土方さん、子どもみたい」
「? どういう意味だ」
「何だか楽しそうです。魚を捕るってことも、嬉しそうに云うし」
「そうかな」
 肩をすくめたが、土方は内心ひやりとするものを覚えていた。


 この現状を、総司はともかく、土方自身は歓びさえ覚えているのだ。
 総司が怪我を負い、身動き一つならぬことまで、嬉しく思っている自分を知れば、この若者はいったいどう思うだろう。


 異常だと、あの細い眉を顰める総司が目にうかぶようで、土方は唇を噛んだ。
 だが、表向きはそ知らぬ顔で言葉をつづける。
「明日も山へのぼってみよう。そのうち、地元の者にも会うかもしれん」
「そうですね。お願いします」
 素直に頭を下げる総司を、土方は眇めた目で眺めやった。
 自分でも歪んでいるとわかってはいるのだ。こうして足止めされている事よりも、早く帰りたいが為に頭を下げる総司の方に、苛立ちを覚えるなど。だが、あの男──伊東の元へ戻りたいが為の行動だと思うと、腹の底が煮えたぎった。
 どす黒い感情を押し殺しつつ、土方は総司から視線をそらせた。
「そろそろ休んだ方が良い。おまえは病持ちなのだから、早めの方がいいだろう」
「土方さんは?」
「もう少ししてから、休む」
「わかりました。では、お先に失礼します」
 丁寧に挨拶した総司は、やがて、寝床に入った。昨日ろくに休めなかった分、疲れていたのだろう。すぐさま寝入ってしまったようだった。
 その事に安堵しつつ、土方は、囲炉裏のちろちろ燃える火に照らされた寝顔を見つめた。


(……総司……)


 この若者を愛しつづけて、どれ程の年月が流れたのだろう。
 彼が己の想いを自覚したのは、総司が十五ぐらいになった頃だった。切っ掛けなど覚えていない。ただ気がつけば、この若者は、己の命よりも大切な存在となっていたのだ。


 ……総司を愛していた。


 この世の誰よりも何よりも、大切だった。総司を守るためなら、どんな事でも出来た。
 無邪気で愛らしい総司に、邪な考えで近づき穢そうとする輩を、常に追い払った。その連中が二度と近づこうなどという考えを起こさぬよう、徹底的に制裁を加えた。
 その事を知った近藤が眉を顰めたのも知っているし、土方の所業を鬼だ、残酷だと罵ってきた連中に対しても、平気だった。総司のためなら、どんな事でもできた。
 ──兄として慕ってくれる総司の前で、己を偽りつづけることも。
 総司のためには、そうするより他なかった。純真で清らかで、何一つ疑うことの知らない総司なのだ。それが、今まで兄代りと思ってきた男から、そんな感情を向けられていたと知れば、どれ程傷つくか。
 云えるはずがなかった。
 だからこそ、土方は、総司への激しい情愛を押し殺し、優しい兄がわりの仮面をかぶりつづけたのだ。
 なのに、総司はそれでも彼の手許から離れていった。背をむけ、彼の存在ごと切り捨ててしまったのだ。その時の衝撃を、今も忘れていない。
 それは、山南の事件が切っ掛けだった……。





 山南の脱走、それに続く切腹は、土方にも大きな打撃を与えた。
 人はどう思っていたか知らないが、少なくとも、土方と山南は友人だったのだ。友人だからこそ、お互い腹の底を隠さず論議することが出来た。だが、いつの頃からか、山南は難しい顔で考えこむようになり、土方と言葉を交わさぬようになった。
 新撰組も発足当時とは大きく違ってきていた。隊士の上下関係も厳しくなり、差が開き、規律はより苛烈さを増した。何よりも様々な思想が渦巻き、剣一筋だけでは纏まりきれなくなっていたのだ。
 多くの思惑が渦巻く中、西本願寺への移転問題が起こり、土方と山南は激しく対立した。それが原因だったのか何かは未だわからない。ただ、山南は江戸へ帰るとだけ告げて、出ていってしまった。
 結局、山南が切腹することになった時、土方はそれを呆然と見守ることしかできなかった。


 もっと何か方法があったのではないか。
 別の道があったのではないか。
 いったい、どこで俺たちは何を間違ってしまったのか。


 今更詮無きこととわかっていながら、土方は何度も何度も己に問いかけた。
 その夜、土方はしたたかに酒を飲み、総司の部屋へ行った。どうしようという考えもなかった。ただ、気持ちを聞いて欲しかったのだ。
 土方が吐露したすべてを、総司は黙って聞いてくれた。否、驚くほど何も云わなかった。
 酒に酔っていた土方にとって、その時の記憶はあやふやだ。だが、総司の綺麗に澄んだ瞳が、じっと彼を見つめていたことを、よく覚えている。
 翌朝、目を覚ますと、土方は総司の部屋で一人横になっていた。
「……総司?」
 呼びかけ、身を起こしてみたが、他に誰もいなかった。総司の姿はどこにもなかったのだ。
 土方は胡座をかき、乱れた黒髪を片手で乱暴にかきあげた。襟元も緩み、常の彼からすれば驚くほど自堕落な恰好だった。
 だが、それがまた危ういまでの艶っぽさをあたえているのだが、むろん、本人は気づいていない。
「呆れられたか」
 思わず苦笑した。


 隊の者は皆、土方が山南を追い詰め、脱走、切腹に追いやったと噂している。
 追っ手となり、山南の切腹に際し介錯をした総司もまた、そう思っているはずだった。
 なのに、今更何を云っているのかと。
 だからこそ、総司は何も云わなかったのだろう。黙っていたに違いなかった。


「……ざまぁねぇよな」
 土方はため息をついた。
 総司にまで呆れられては、どうしようもない。
 だが、一方で、総司だけはわかってくれるのではないか、という甘えがあった事も否めなかった。この世の誰よりも愛しい存在。総司にだけは、己のすべてを理解して貰いたい。
 身勝手だとわかっていながら、知らず知らずのうちにそう願っていたのだ。
「……」
 土方は、総司のいない部屋を見回した。しんと静まり返ったその部屋は、まるで総司自身の拒絶をあらわしているように冷たい。
 いつまでもそこに一人いる事が辛く、土方は立ち上がった。自室に戻り、身支度を整えてゆく。髪を整えて着物を替え、帯を締めると、気持ちも引き締まった。
 副長である彼に、休む暇はないのだ。やがて、監察の山崎が部屋を訪れ、報告を始めた。
 それに頷き、手早く指示をしてゆく。
 土方は何も考えるなと、己に云いきかせた。
 思った以上に、総司の拒絶が胸に重くのしかかっている。だが、自分も悪いのだ。弱さをみせ、甘えてしまった自分が男として情けないと思われた以上、仕方のない事だった。
「あとで謝るか」
 そう呟き、土方は仕事に没頭していった。結局、その日は総司に会う事はなかったが、後日にでも詫びを入れるつもりだった。
 だが、土方も感情をもった人間だ。まだ若い男なのだ。己の中にある鬱々としたものを発散したかった。その事で、気持ちを切り換え、前を見据えていきたいと思ったのだ。
 その日、土方は祇園に足を運んだ。馴染みの芸妓小芳に会うために。
 小芳は美しく艶やかで、包容力もある女だった。年下であるくせに、いつも土方を優しく包みこむように受け入れてくれる。
「……俺は、間違っていたのかな」
 小芳のふわりとした膝を枕にしながら、土方は呟いた。
 それに、小芳が首をかしげる。
「何がどす」
「何もかもさ。山南のことも、隊のことも……総司のことも」
 総司のことは、この小芳に話してあった。
 俺は昔から想う者がいるので、いくら馴染みになっても、妾には出来ぬのだと。それに、小芳は小さく笑って答えた。
「そないなこと、どないてもよろしおす」
「どうでもいいか」
「うちはあんさんに話を聞かせてもろて、こうしいや傍にいさせてもらえる。それやけで幸せどす」
「そうか」
 土方は微かに笑い、小芳の躯に手をまわした。華奢な総司と違い、柔らかで弾力のある女の躯だ。それが今はたまらなく心地よく感じた。
 そうか、こういう時に男は女が欲しくなるのか。
 改めてそんな事を考えつつ、土方は小芳を求めた。自らの気持ちを吐露するように。総司に受けとめて貰えなかった甘えを、許してもらうように。そんな土方を、小芳はどこまでも優しく受け入れてくれた。
 むろん、小芳には彼女なりの思惑があるだろう。所詮、客と芸妓の関係なのだ。だが、それでも構わなかった。
 今だけは何もかも忘れたかった。
 失った友も、その死も、しがらみも策略も、己の立場も何もかも。
 弱音を吐いている場合でない事は、よくわかっていた。
 だが、何かが間違ってしまったのだ。
 一番大切にしたかったものが、一番遠くへ行ってしまった気がした……。












 翌朝、再び土方は山にのぼった。
 昨日とは違う山に登ってみたが、やはり、人とは会わず道も見えない。
 その事に落胆と奇妙な安堵を覚えつつ、土方は山道を歩いた。
 新撰組へ一刻も早く戻るべきなのは、わかっている。だが、そこで彼を待っているだろう様々なしがらみを思うと、足取りが重くなった。
 江戸にいた頃、風来坊のように彷徨い歩いていた彼だったが、今や、その土方の肩に、新撰組という組織と、百人からの男たち、京での治安などがのしかかっていた。新撰組は彼が作ったも同然なのだ。副長である土方がいなければ、何一つまわっていかない。
 なのに、土方は孤独だった。
 大勢の男たちに囲まれ、多忙な日々をすごし、武士という身分を手にして戦いつづけて尚、哀しいほど孤独だったのだ。


(俺は、やはり一人だ)


 その思いが、この数ヶ月ずっと彼の頭から離れなかった。
 昔から、土方は人を信じることが出来なかった。それは両親を早くに亡くし、幸薄い育ちからでもあった。とりもなおさず、同じように幸薄い宗次郎に対しての、異常なほどの愛情へ繋がっていったのだが。
 この世で信じられるのは、己だけ。そう思っていた。後々、盟友となる近藤と会い考えを変えたが、それでも、自分が誰かを愛することが出来るなど、思ってもいなかった。
 宗次郎に初めて逢った時も、ただ愛らしい少年だと思っただけだった。
 だが、時にふれて逢うにつれ、その素直で優しい性格、綺麗に澄んだ瞳、どこか淋しげな笑顔に、心惹かれていった。
 そして、宗次郎の身の上を知った時、自分と同じだと強く思ったのだ。
 両親が亡く、姉たちに育てられ、その上、間もなく道場に入れられる。早くから奉公に出され、どこにも居場所がなかった自分と重なった。歳三は端正な容姿から冷たく見えるが、もともと脆く優しい処のある男だ。
 そうと知ってしまうと、尚更、自分に懐いてくれる宗次郎がいじらしくてたまらなくなった。
 今ままで誰も愛さなかった飢えを満たすように、歳三は夢中で宗次郎を愛した。
 やがて、少年はその腕の中で成長し、稀なほどの美しく、そして剣術にも優れた若者となった。だが、土方にとって、総司は、いつまでも愛しい若者だった。大切な大切な宝物だった。
 愛し、そして、信じた。
 誰にも心を許さない男が、この世でただ一人、愛した存在なのだ。
 なのに。


 土方は瞼を固く閉ざした。拳を固め、きつく握りしめる。
 こうして堪えなければ、今尚、嫉妬と怒りが暴れ狂い、我を忘れてしまいそうなのだ。
 それ程、総司の裏切りは、大きな傷となって彼の心に食い込んでいた。酷たらしい程の爪痕を残していた。


 彼の手から逃れた総司は、その存在だけで、土方を追いつめたのだ。 


 無邪気な笑顔で。
 鈴のような声で。
 何よりも、他の男の腕に抱かれた華奢な躯で……。