夜明け前だった。
 障子越しに、朝の気配が少しずつ近づいてくる。
 土方はそれを感じながら、己の腕の中で眠る恋人を見つめていた。
 彼の肩口には、小さな頭が凭せかけられていた。褥に艶やかな黒髪が波うち、なめらかな頬は昨夜の名残か、淡く上気している様が愛らしい。


 ようやく取り戻した恋人だった。
 否、本当に取り戻した訳ではない。


 だが、昨夜、総司は土方の腕に抱かれてくれたのだ。
 今も、彼が目覚めた時、逃げることなくこうして腕の中にいてくれる。
 それを何よりも幸せに感じつつ、土方は、この先の道の険しさを思わずにいられなかった。
 一度は手放した恋人なのだ。それを奪い返そうとする以上、困難があることは当然だった。そして、総司自身に、あの幸せな日々の記憶はないのだ。
 どうすればいいのか、戸惑うばかりだった。
 ただ、想いを告げればいいのか。昨夜のように抱けばいいのか。
 この愛しい存在を引きとめる術さえわからぬまま、土方は唇を噛みしめた。思わず細い肩を抱きよせ、その髪に頬を押しつける。
 とたん、総司が小さく身じろいだ。息を呑んで見守るうちに、長い睫毛が瞬き、ゆっくりと目が開かれた。
 その綺麗に澄んだ瞳に、思わず見惚れる。
「……土方、さん……」
 小さな声で呼ばれ、土方は目を細めた。様子を探るような男の前で、総司はあどけなく微笑った。
「よかった……」
「え?」
「昨夜のこと。夢じゃなくて……よかった」
「総司……」
 胸が熱くなった。
 こみあげる愛しさに細い躯を思わず抱きしめ、頬を擦りよせてしまう。うっとりと男のされるままになりながら、総司が囁いた。
「夢だったらどうしようと思ったの……だから、目が覚めた時、あなたがいてくれて本当に良かった」
「俺の方こそだ」
 土方は想いのまま、囁きかけた。
「おまえが俺の腕の中にいてくれる。……今でも信じられねぇぐらいだ」
「土方さん……」
 二人は互いを抱きしめあい、口づけあった。
 とろけるような接吻。
 甘く濃厚な口づけに、総司の躯から力が抜けた。男のされるがまま、素直に身をまかせている。
 角度をかえて口づける土方に、総司は小さく喘いだ。細い指さきが男の着物を縋るように掴んでいる。
 二人は褥の中、夢中で互いを求めあった。何度も口づけあい、抱きしめあう。二度と離れたくないと、その想いを互いに伝えるように。
 だが、夢は終わりを告げる。現がすぐ近くまで来ていることを、否応なく知らされるのだ。
 遠く響いた喧噪に、総司は小さく躯を震わせた。
 早朝の巡察に出てゆく隊士たちのざわめきだろう。新撰組の一日が始まるのだ。
 それは、とりもなおさず、愛しあった恋人たちから、しがらみに絡みつかれた副長と一番隊組長に戻らなければならぬ事を意味していた。
「……」
 総司は吐息をもらし、土方の肩口に小さな頭を凭せかけた。甘えるように擦りよせ、目を閉じる。
 それが愛らしい仔猫のようで、土方は、できることならずっとこのまま手許に置いておきたいとさえ願った。だが、それは叶わぬ願いなのだ。
 やがて、思いきるように、総司が身を起こした。するりと土方の腕の中から抜け出ると、褥のすぐ傍で手早く身支度を始める。
 それを黙って眺めていた土方は、不意に手をのばした。細い手首を掴むと、驚いたように総司がふり返る。
「土方さん……?」
「頼みがある」
「え」
 戸惑ったように見上げる総司を、土方は真っ直ぐ見つめた。
「伊東と共に行かないでくれ」
「……」
 男の言葉に、総司の目が大きく見開かれた。その綺麗な瞳が男を映し、儚く揺れる。
 抱きよせた腕の中、小柄な躯が竦んでいることを知りながら、土方は言葉をつづけた。
「新撰組に残ってくれ。伊東と共に出ていかないで欲しいんだ」
「土方…さん……」
「頼む」
 低い声でそう囁いた土方に、総司は息をつめた。細い指さきが縋るように、男の胸もとを掴む。
 やがて、彼のぬくもりを鼓動を、感じとるようにしていた総司が、ゆっくりと顔をあげた。微かに潤んだ瞳が土方を見上げる。
「……わかりました」
 小さな声だった。
 だが、意志の強さを感じさせる、しっかりとした声音だった。
「新撰組に残ります。伊東先生とは共に行きません」
 そう云うなり、総司は土方から躯を離した。後はふり返ることもなく、小走りに部屋を出ていってしまう。
 遠ざかってゆく足音を聞きながら、土方はきつく唇を噛んだ。
 先程まであったぬくもりが、今は誰よりも遠い。再びその細い躯をこの腕に抱くためには、多くの困難を乗り越えなければならなかった。
 だが、障害も困難もわかりきった上での想いなのだ。
「……」
 土方は切れ長の目をあげると、真っ直ぐ前を見据えた。














「おまえは……隊に残るのか」
 斉藤の言葉に、総司は目をあげた。
 稽古の後だった。井戸端にいた総司に、斉藤が話しかけてきたのだ。
 着物の袂に腕を通しながら、総司は小さく笑いかけた。
「耳が早いですね」
「おまえの事だからな」
 あっさり答える斉藤に、総司は目を伏せた。
「伊東先生には、申し訳なかったけれど……」
「それで良かったんだよ。でなければ、おまえ、自分を壊していただろう」
「壊して……?」
 不思議そうに問いかけた総司は、少し考えてから、くすっと笑った。
「そうかもしれませんね。自分を壊していたかもしれない。二つの想いに引き裂かれて、でも、あの人の傍にいたくて……」
「……」
「伊東先生は了承してくれました。あの方の立場を考えれば、難しい事であるはずだけど……」





 それでも、静かに受け入れてくれたのだ。
 試衛館で育った身である以上、裏切ることが出来ないと云った総司に、伊東は何も云わなかった。
 ただ、しばらく黙った後、ぽつりと呟いたのだ。
「想いは変わらないという事ですか」
「え……?」
「何があっても、どんな事があっても、想いは変わらない。一度死まで思い詰めた相手なら、どんな地獄でも構わないと……きみは、そう願っているのでしょう」
 そう云ってから、伊東は鳶色の瞳を総司にむけた。
 穏やかに微笑んだ。
「私は、きみの全てを欲していました。むろん、念者だと噂されていた事も知っていますし、それを望んでもいた」
「伊東先生」
「だが、きみは彼のものだった。私と共にいる時も、きみの喜びや悲しみはすべて彼故だった……そうではないですか」
「……申し訳ありません」
 小さな声で謝った総司に、伊東は吐息をもらした。文机に凭れかかりながら、苦笑した。
「それは肯定の意味ですね。なら、私も何も云う事はない。私が欲したのは、きみの心です。喜びも悲しみも失った人形のようなきみを連れて出ても、虚しいだけでしょう」
「……」
「行きなさい、総司。そして……もう二度と間違わぬように」
 静かな声だった。
 今まで、ずっと支え、守ってくれてきた人からの餞の言葉だった。
 総司はそれを心の奥底まで留めるように目を閉じると、静かに頭を下げた。





「……それで」
 伊東との会話を思い出していた総司に、斉藤が訊ねた。
「この先、どうするつもりなんだ」
「……」
 それに、総司は訝しげに長い睫毛を瞬いた。じっと斉藤を見返す。
「どうする、とは?」
「だから、この先だ。伊東先生から離れて、土方さんのもとに戻るのか」
「戻りません」
 きっぱりとした口調だった。
 総司は凜とした表情で、云いきった。
「そんな不義理なこと、しようと思わない。隊に残ることは決めたけれど、それがとりもなおさず、土方さんの元に戻ることになるとは……」
「だが、それ以外、術はないだろう。でなければ、おまえは間者として疑われるぞ」
「別に構いません」
 総司はくすっと笑った。
 風が、さらさらと黒髪を吹き乱してゆく。それを手でおさえながら、答えた。
「間者として疑われても、挙げ句……誅殺されても構わない。私は、一度……死んだ身なのだから」
「え?」
 最後の方の言葉が聞き取れず、斉藤は聞き返した。
 だが、総司はゆるく首をふっただけだった。それきり、黙り込んでしまった。
 きれいな顔に何の表情もうかべぬまま、部屋へと戻ってゆく。その細い背を見送り、斉藤はきつく唇を噛みしめた。












 その夜、総司は一人外出していた。
 薬を貰いにいった帰りだった。遅くなり、夜になってしまったのだ。
 屯所への道を歩いていた総司は、ふと気づき、顔をあげた。そっと手をさしのべる。
「……雪」
 ぽつりと呟いた。
 暗闇の夜空から、ひらひらと雪が降り舞ってくる。
 初雪だった。儚いそれは手のひらに落ちれば、すぐさま溶け消えてしまう。
 総司はその感触に目を閉じた。


(あの人の手の中で、私も、雪のように消えてしまえたなら……)


 どんなに幸せだろうと思った。
 こんな辛い思いをするぐらいなら、いっそ叶わなければ良かったのだ。想いが通じなければ良かったのだ。
 だが、一方で、総司にとって、あの日々は大切な宝物だった。


 美しい山里の一軒家で、愛する男と二人きり。
 まるで桃源郷のようだった。
 ただ、ひたすら互いを愛しみ睦みあった、幸せな日々。


 ずっとこのままであれば……と、何度願ったことか。
 だが、総司にはどうしても出来なかった。愛する男の人生を歪めるなど、穢すなど、できるはずがなかったのだ。
 土方が今の己を得るために、どれ程の苦難と忍耐を越えてきたか、傍にいただけによくわかっていた。容易に手に入れられた場所ではなかった。
 新撰組副長という、今の場所に昇りつめるため、多くのものを切り捨て、傷だらけになりながらも戦いつづけてきた男の背を、ずっと見つめてきた。
 だからこそ、それを捨てさせる訳にはいかなかったのだ。己のせいで、土方が苦境にたたされるなど、到底堪えられなかった。


 あの時、確かに記憶を失った。
 だが、屯所に戻ってしばらくしてから、徐々に思い出していったのだ。
 むろん、誰にも告げられなかった。土方は諦め、総司を手放そうとしている。それは、彼の態度ですぐにわかった。
 辛くあたられる事はなかったが、かといって、昔のような親しさを見せてくれた訳でもなかった。構えて淡々と接しようとしている事がわかった。
 時折、ばれたのかと不安になった時もあった。何かを感じたのか、瞳を覗き込まれたこともあったのだ。
 だが、出来るだけ無表情に見返すと、諦めたように視線をそらされた。その度、胸を痛みが貫いたが、それでも、彼を巻き込むよりは良かった。自分さえ堪えればいいのだと、何度も云い聞かせていたのだ。
 なのに───


「……土方さん」
 そっと彼の名を呼んだ。


 先日、抱かれた時のことが忘れられない。
 久しぶりに感じた、彼の匂い、ぬくもり、声、そのすべてが総司の身の内に嵐をわきあがらせた。
 欲しいのだ。
 彼が愛しくて愛しくて、たまらない。
 今すぐにでも土方のもとへ駆け寄り、その躯に縋りついてしまいたかった。その逞しい腕に抱きしめられ、熱い口づけを受けたい。すべてを愛されてしまいたい。
 許されるはずのない恋だからこそ、総司は気が狂いそうなほど彼が欲しかった。
 愛して欲しくてたまらなかった。


「こんな状態で、本当にやっていけるの……?」
 総司は己の不甲斐なさに、きつく唇を噛んだ。
 伊東と別れる判断をしたのは、むろん、土方の言葉があったからだった。愛しい男に懇願までされて、断れるはずもない。それに、何よりも、総司の身と心が、彼から引き離されることに、悲鳴をあげていた。
 だが、だからといって、今更、土方のもとに戻れるはずがなかった。
「──?」
 総司はふと顔をあげた。
 犬がひどく吠えていた。喧噪と刀の鳴る音が聞こえる。
 斬り合いだと思った総司は、駆け出していた。新撰組隊士として身にしみついた衝動だった。
 だが、角を曲がって斬り合いの場を見た瞬間、躯中の血が逆流するかと思った。
「土方さんッ!」
 思わず叫んだ。
 火が激しく燃えていた。幾つかの家屋が燃え、その前で中で、彼らは斬り合っていた。
 夜の闇の中、炎が朱く爆ぜる。
 浪士たちが火をつけたのだろう。辺りは逃げまどう人々で騒然となっていた。土方もそれらを庇いつつの斬り合いなので、苦戦しているようだ。
 総司はすぐさま刀を抜き放ち、斬りこんだ。目の前の敵を袈裟懸けに切り倒し、そのまま土方の傍へ走り寄る。
「土方さん、怪我は」
 訊ねる総司に、土方は「大丈夫だ」とだけ答えた。だが、着物のあちこちが切られ、血も滲んでいる。
 恐らく黒谷からの帰りだったのだろう。黒羽二重の羽織に、小袖、仙台袴という正装姿だった。
 総司の加勢に、浪士たちは浮き足だった。応戦一方になってゆく。それに総司は容赦しなかった。
 何度も踏み込み、鋭く突きをくり出してゆく。逃げまどい始めた浪士たちを、総司は追いかけた。だが、その瞬間、目の端にうつった光景に愕然となった。
 一人の浪士が小刀をかざしたかと思うと、土方めがけて投げたのだ。
「!」
 躯が無意識のうちに動いていた。思わず彼の前に走り出る。
 次の瞬間、熱い衝撃が総司の肩を貫いた。
「総司ッ!」
 男の叫びが闇に響き渡った。
















次で最終話です。