「総司ッ!」
さしのべた腕の中へ、細い躯は花が手折られるようにくずれた。
肩から血がふきだし、みるみるうちに着物を真っ赤に濡らしてゆく。それを土方は信じられぬものであるように見た。
だが、今、彼の手を濡らすのは、総司の血だ。
彼の命を守るため、贖われた恋人の血。
愕然としたまま総司を抱きしめている間もなく、土方を刃が襲った。躰が鋭く反応し、相手の胴を横薙ぎに払う。それが最後の一人だった。
あらためて抱え起こした土方の腕の中、総司が彼の名を呼んだ。
「……土方、さ……」
「どうして、俺なんかを庇った! どうして……っ」
男の言葉に、総司は目を開いた。青ざめた顔で彼を見上げ、唇を震わせる。
細い指さきが彼の頬にふれた。
「あなた…が無事で、よかっ…た……」
苦しそうな息の下から告げると、総司は目を閉じた。痛みを堪えるように細い眉を顰め、唇を噛んでいる。
その様子に、土方はようやく我に返った。手拭いで傷口を縛りあげると、己の羽織で躯をくるんでやり、そのまま両腕に抱きあげる。
「屯所へ連れ帰ってやるからな。ここなら屯所の方が早い、それから医者を呼んで……」
云っている最中から、走り出していた。出来るだけ総司の躯を揺らさぬよう気をつけつつ、それでも懸命に屯所への道を駆けてゆく。
血まみれの総司を抱いた土方の姿に、門番の隊士たちも驚いた。慌てて中へ知らせ、医者の手配が行われる。
部屋へ担ぎこんだ処で、近藤が足早にやってきた。医術の心得が多少はある山崎と共に手当をする土方の様子に、驚いた。
「いったい、何があったのだ」
「俺を庇って傷を負った」
端的に告げた土方は、その時の事を思いだしたのだろう、眉根を寄せた。
「黒谷からの帰り、浪士たちが狼藉を働いていたんだ。押し込み強盗の末、金が得られぬとわかったとたん、火をつけたらしい。斬り合いになった処へ、総司が加勢したのだが……」
そのまま言葉を途切れさせ、きつく唇を噛みしめた。端正な顔に、苦渋の色が濃い。
やがて、急いでやってきた医者に手当てをまかせたが、容態はあまり芳しくないようだった。何しろ、総司は細い躯であり病身だ。その躯に傷が酷であることは明らかだった。
「もう熱が出てきておられる」
医者は眉を顰めた。
「ここ二日程が峠でしょうな。後は、この方の体力次第という事ですが……」
体力がなければ、死んでしまうということなのだ。
その言葉に、土方は、目の前が真っ暗になった気がした。
──総司を失う。
それは、土方にとって絶望を意味していた。ずっと子どもの頃から愛してきたのだ。総司だけを見つめ、この手の中で大切に育て、慈しんできた。それが、こんな事で奪われてしまうのか。
総司に庇われるなど、望んでいなかった。むしろ、総司を守ってやりたかったのだ。なのに、現はどうだ。実際は、総司は血に染まって倒れ、彼自身は総司のおかげで無事でいる。その事が許されない気がした。間違ったことであるように思えた。
一度は切り捨てた恋人だった。総司のためであったが、それでも、こんなにも愛してくれる総司を切り捨てたのだ。
なのに、総司は、そんな彼を庇い、倒れた。
命がけで愛してくれている証だった。否、今までもずっとそうだったのだ。総司は、己のすべてで愛してくれた。
それを今、たった一つの命を彼に捧げることで、証をたてたのだ。
「……死なせるものか」
土方は低く呻いた。
総司の躯を、おおいかぶさるように抱きしめた。山崎や近藤が驚いたように見ていることを知っていたが、何もかも構わなかった。
この愛しい恋人を救えるならば、俺はもう他には何も望まない。
ただ、総司だけを。
総司の命が救われるならば。
「……総司……っ」
抱きしめた腕の中、恋人の躯が小さく震えた。
傷のために発した熱が下がったのは、三日後のことだった。
峠を越した事で総司の容態もようやく落ち着き、あとは傷口が塞がるだけだと医者にも云われた。
その事に誰よりも安堵したのは、本人である総司よりも、むしろ土方だったに違いない。寝食も忘れ、総司の世話をする土方の姿に、皆驚いていたが、彼を庇っての傷なのだと聞かされれば、致し方のないことだと誰もが納得した。
総司が土方を命がけで守ったことは、隊内に知れわたっていた。伊東派を離れながら、土方の庇護を毅然として受けず、それでも事あれば、副長であり兄代りである土方のために我が身さえも投げうったのだ。
「誰も、もう総司を責めたりしないさ」
見舞いに訪れた原田が、眠る総司を見下ろしながら云った。それに、薬を煎じていた土方が切れの長い目をあげた。
「責めない、とは?」
「だから、あんたの許に戻ってもという事だよ。総司は命がけであんたを守った。新撰組隊士として戦い、副長を守り抜いたんだ。その総司が今、あんたのもとに戻るのなら、当然の事だと誰もが思うだろうよ」
「……俺は」
土方は低い声で云った。
「誰に何を云われても思われても構わなかった。自分のせいで俺が嘲りや侮蔑を受けるだろうと、総司は泣いていたが、そんなものどうでも良かった」
「なら、どうして強引に己のもとへ引寄せなかったんだい?」
「責任を感じている総司が可哀相だったんだ。俺が嘲りを受けることで、総司は悲しむ。自分を責める。それが辛くて可哀相で、躊躇ってしまった。だが、それではいけない。やはり取り戻すべきだと思った矢先に……」
「今回の事になったという訳か」
そう呟いた原田は、しばらくの間、総司の寝顔を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔をあげると、静かに云った。
「今度はあんたの番だよ、土方さん」
「……」
「総司はあんたのために命をかけたんだ。あんたを守り抜いたんだ。なら、今度はあんたの番だ。あんたが気張って、総司を守り抜かなきゃならねぇよ。むろん、意味は違うけどな。総司の心を守ってやれるのは、あんたしかいないって事さ」
原田の言葉に、土方は頷いた。
意志の強さを感じさせる光が、黒い瞳に湛えられた。
「わかっている。俺は総司を守る。どんな事からも……総司を守りつづける」
その時だった。
ふうっと意識が戻ったのか、総司の長い睫毛が震えた。ゆっくりとその目が開かれる。
思わず身をのりだした土方の傍で、原田が立ち上がった。黙ったまま部屋を出てゆく。それを見送ることなく、土方は総司の細い手をとった。
総司の潤んだ瞳が彼の姿をとらえた。
「……土方、さん……」
小さな蕾のような唇が、そっと彼の名を呼ぶ。
その事に例えようもないほどの幸せを感じながら、土方は頷いた。
「あぁ。ここにいる……もう大丈夫だ。大丈夫だからな」
子どもに話しかけるような声音に、総司は小さく首をかしげた。ぼんやりと彼を見上げている。
それに、土方は眉を顰めた。そっと問いかける。
「おい? 総司……また忘れちまったんじゃねぇだろうな」
「……」
「おまえは俺を庇って、傷を負ったんだぞ」
「……覚えていますよ」
総司は弱々しく笑ってみせた。
「大丈夫、全部覚えています。何があったかも……あなたのことも、全部」
「なら、いいが」
安堵の息をもらした土方は、総司の手を握りしめた。じっと瞳を覗き込み、低い声で云う。
「守ってもらって云う事じゃねぇが……総司、二度とあんな事はするな」
「土方さん……」
「俺のために、おまえは死にかけたんだ。そんな事、許せるはずがねぇだろう。絶対にあんな事をするな」
「でも、私は、あなたがいなければ、生きてゆけない」
即座に、総司は答えた。
真摯で心のこもった言葉。
そして、人を一途に愛する者だけが持ちうる強さが、総司の澄んだ瞳に湛えられている。
「あなたは、私の命なのです。土方さん、私は死んでも、あなたの傍にありつづける、守りつづける。それが私の気持ちだから、愛しているという気持ちだから」
素直で、何のてらいもない言葉だった。
総司の真っ直ぐで純粋な愛情がそのまま表れている気がして、土方は息を呑んでしまう。しばらく黙った後、小さく苦笑をもらした。
「……おまえには叶わねぇな」
「ごめんなさい」
「謝る事じゃねぇよ。けど、おまえの気持ちはその……嬉しかった」
彼にしては珍しく、少年のような照れを見せつつ、云った。それから、身をのりだすと、総司の頬に口づけを落とした。
「愛してる、総司……」
「土方さん……」
「二度と離さない。おまえは俺の傍にいて……構わないんだ。誰もおまえを責めないし、誰に遠慮することもない。これからは、俺がおまえを守ってゆく」
男の言葉に、総司は戸惑ったようだった。
まだ目覚めたばかりで、状況がよくわかっていないのだろう。だが、土方の腕の中、逆らうことなく、じっと彼の言葉を聞いている。
そのいじらしい様子に目を細めつつ、土方は囁いた。
「愛してる」
と。
総司の傷が癒える頃、土方は伊東と話す機会があった。
たまたま廊下で行き会ったのだ。
「総司の具合は如何ですか」
伊東にしては珍しく単刀直入に訊ねたきたことに驚きつつ、土方は切れの長い目を恋敵にむけた。
だが、低い声で穏やかに答える。
「おかげさまで、快方にむかっています」
「そうですか。……お大事にと伝えて頂きたい」
「承知しました」
土方は頷き、すっと足早にすれ違った。背中に伊東の視線を感じたが、一切ふり返らなかった。
本当は、伊東も総司を見舞いたいのだろう。あれ程、大切に思いあっていた仲なのだ。
だが、それを許すつもりはなかった。嫉妬だけではない。何よりも総司を守るためだった。
今、伊東と逢うなど、立場を再び悪くしてしまう。ようやく戻ってき総司に、何の憂いもあたえたくなかった。
後ろめたい思いだけはさせたくない。罪の意識も、自責の念も。
ただ、愛する総司を、穏やかに幸せに過させてやりたいのだ……。
部屋に戻ると、総司は褥の上に起き上がっていた。
白湯を飲んでいたようだ。土方の姿を見ると、ぱっと顔を輝かせた。
「土方さん」
笑顔でこちらを見上げてくるのが、可愛らしい。
土方はすぐ傍らに腰を下ろしながら、問いかけた。
「大丈夫なのか、起き上がったりして」
「えぇ。後しばらくで、床上げできると思います」
「無理だけはするなよ」
そう云った土方に、総司は素直に頷いた。それから、少し不思議そうに小首をかしげた。
「土方さん? 何かありましたか……?」
「え?」
「様子が何だかおかしいから」
総司の言葉に、土方は驚いた。
他の者は欺けても、この恋人には本当に何一つ隠せない。今まで、よくも己の恋心を隠し通せたものだと思った。むろん、それは、総司が一縷の望みもないと思いこんでいた故だっただろうが。
「おまえには、隠し事ができねぇな」
「やっぱり、何かあったんですね」
「いや……伊東と逢ったのさ」
「──」
とたん、総司の瞳の色が沈んだ。哀しげな表情になって、俯いてしまう。
その白い項を見下ろしながら、土方はつづけた。
「お大事にと伝えてくれとさ」
「……そう、ですか」
「伊東と逢いたいか」
そう問いかけてすぐ、土方は、総司の返事を恐れるように言葉をついだ。
「いや、逢いたくても駄目だ。おまえの立場が悪くなるからな、伊東と逢うことは厳禁だ」
「わかっています」
こくりと素直に頷いた総司を、土方は見つめた。だが、不意に顔を背けると、苦々しげに吐き捨てた。
「俺は……最低だな」
「え?」
「おまえのためだと云い繕って、その実、怖くてたまらねぇんだ。また、おまえを奪われるんじゃねぇか。こうして傍におまえがいてくれる事は夢で、やっぱり、おまえは伊東と共に行ってしまうのではないかと、つい考えてしまう」
「土方さん、そんな」
「あの時のせいだろうな。おまえが山里であった事を皆忘れてしまった……あの時のことが、俺自身、思った以上に影を落としているらしい」
土方は胡座をかいた膝に肘をつき、頬杖をついた。どこか思い悩む少年のような表情で、ため息をつく。
それを、総司は息をつめたまま見つめていたが、やがて、そっと手をのばした。彼の膝に手をおき、大きな瞳で見上げる。
「あのね、土方さん」
彼の怒りを恐れるあまり、声が震えた。だが、云わなくてはならない事だった。
「その事だけど、私……覚えているのです」
「? 何のことだ」
「だから、山里でのこと、全部覚えています。あなたに愛されたことも、だ、抱かれたことも……その……」
「……」
土方は呆気にとられた顔で、総司を見つめた。それから、意味がわからぬというように、眉を顰めた。
「どういう意味だ? おまえ……全部覚えていたって」
「ごめんなさい」
「だから、それは……つまり」
短い沈黙が落ちた。
やがて、土方は顔を強ばらせた。押し殺した声で訊ねる。
「つまり……おまえは俺を騙したのか」
「ち、違います!」
思わず叫んだ。
「結果的にはそうなってしまったけれど、あの時は本当に覚えていなかったのです。でも、ここに帰ってきて暫くして、思い出して……知らぬ顔をしてくれているあなたに、今更、云うことも出来なくて……」
固い表情で押し黙ったままの土方に、総司は口ごもり、俯いてしまった。
やっぱり云うのではなかったと思った。
こんな事を聞かされれば、誰でも怒るだろう。
だが、どうしても黙っていられなかったのだ。これ以上、彼を偽るなんて到底できなかった。
涙がこみあげたが、泣き出さぬよう必死に堪えた。きつく唇を噛みしめる。
そんな総司の頭に、そっと彼の手が置かれた。おそるおそる見上げると、土方は静かな瞳で総司を見つめていた。
視線があったとたん、くすっと笑う。
「そんな泣きそうな顔するなよ」
「土方…さん……」
「怒っちゃいねぇよ。そりゃ騙されたのかと思った時は、かっとなったが、云い出せなかったおまえの立場もわかる。俺は知らぬ顔をしていたからな。けど、じゃあ、何か? あの夜、おまえを抱いた時も、全部思い出していたのか」
「はい。だから、その、とても……嬉しかったです」
素直に答える総司に、思わず笑みがこぼれた。
土方は喉奥で低く笑うと、総司の細い躯を膝上に抱きあげた。柔らかく腕の中に引寄せ、頬に、髪に、口づける。
「おまえは俺を想って、俺はおまえを想って、お互いのためにと我慢して、随分遠回りしていたんだな。答えはすぐそこにあったのに」
「土方さん……」
「けど、もうあんな事はするなよ」
不意に厳しい口調になった土方に、総司は目を瞬いた。
「あんな事って?」
「斉藤に云ったことだ。山里を去る時、伊東の許へ帰ると云ったのだろう。おまえの方から俺の手を離そうとした。それだけは絶対に許さねぇからな」
「じゃあ、あなたから手を離した時はいいの……?」
「そんな事ありえねぇよ」
土方は小さく笑い、総司の頬に頬を寄せた。
「俺はおまえを愛している。いつまでも、手放さないさ。俺たちはずっと一緒だ」
「土方さん……」
愛する男の腕の中、総司は目を閉じた。
彼の言葉は、誠実そのものだった。
それでも、総司は知っているのだ。
いつか、土方が自分を手放す日が来るという事を。
今はいい。
まだ、今は彼の傍にいることが許される。
だが、いつかそう遠くない日、自分は彼から離れなければいけないだろう。
土方も自分を手放す決意をせざるをえない。そんな日が必ず訪れる。
この人の激しい人生のために。
彼は自分を手放すのだ。
それは、雪に残された足跡の如く、明らかな定めだった。
総司は土方の肩口に頭を凭せかけた。
仔猫が甘えるように、そっと擦りよせる。
それに微笑んだ土方が、優しく抱きすくめてくれた。
彼のぬくもり。匂い。声。
何もかもが愛おしい。
愛し、愛される夢のような日々。
(今も、まだ夢がつづいているのだろうか……)
あの山里で思ったように、幸せな日々は夢だから。
儚く消えてしまう夢。
けれど、夢はいつか終る。
あの夜、この手の中で儚く消えた雪のように。
いつかは終わる、このよのはて───
総司は手をのばすと、愛する男に口づけた。
そして。
訪れる終わりを知りながら、微笑んでみせたのだった。