新撰組に戻った土方は、以前と変わらなかった。
相変わらず多忙な日々をおくり、あの山里での出来事など、彼自身の記憶からも消し去られてしまったかのようだった。
むろん、総司は何も覚えていないため、以前と同じように伊東の傍にいる。隊へ戻った時、真っ先に迎えたのは、伊東甲子太郎その人だった。
「総司」
駕籠から降りた総司に、伊東は歩み寄った。柔らかくその躯を支え、労る。
「大変な目にあったそうですね。傷の具合は?」
「大丈夫です」
総司は小さく笑ってみせた。
「怪我を負ってから日も経っていますし、そろそろ歩けるだろうと思っています」
「そう。だが、あまり無理はしないように」
穏やかな口調で云った伊東は、ふと目を細めた。探るような視線を、総司にむける。
それに、総司も気づき、小首をかしげた。
「……伊東、先生?」
「……」
「何か? どこか私……おかしいですか?」
「いや」
伊東は視線をそらした。
「おかしくなどありませんよ。ただ、何か……変わった気がしたのです」
「私が?」
不思議そうに目を見開く総司に、伊東は微かに苦笑した。
「余計な事を云ってしまいましたね。恐らく、私の気のせいでしょう」
「……」
黙ったまま目を伏せた総司を、伊東は静かに見つめた。
気のせいだと云ったが、出張へ発つ前と比べれば、総司の様子はまるで違っていた。
微かに潤んだ瞳、ふっくらした桜色の唇。
愛らしい小さな顔。華奢な躯つき。
そのどれもが以前と同じでありながら、纏う雰囲気が全く異なっていた。
固かった蕾が、艶やかに花開くように。
今も、駕籠から降りたった総司に、伊東は息を呑んだ。長い睫毛を瞬かせ、ゆっくりと目をあげた総司に、男心を惑わすような濡れた色香さえ感じさせたのだ。
何かあったとしか、考えられなかった。
となれば、原因は、土方しかいない。彼が総司をこうして変えたのだ。
だが、二人の関係が変わったように思われなかった。もし、二人が念者になったのなら、今、出迎えているのは伊東ではなく、土方であったはずだ。なのに、土方はこの場へ顔を見せようともしない。
(私の考えすぎだろうか)
そう思いつつ、伊東は総司を部屋へと促した。
己の背に鋭い視線を感じた気がしたが、ふり返ろうとは思わなかった。傍を歩く総司は、その視線を知っているのかいないのか、静かに目を伏せた表情のまま歩いている。
愛らしく可憐な白い花。
その小さな花を開かせた男に、伊東は心の底から嫉妬した。
「おまえ……変わったな」
いきなりそう云われ、土方は目をあげた。
打ち合わせの後だった。
よもやま話をしていた近藤が不意に、そう云ったのだ。友の言葉に、土方は眉を顰めた。
「俺が?」
「あぁ、そうだ。変わった」
「どこが」
「例えば、総司に対してだ」
「……」
思わず息を呑んだ土方に気づかぬまま、近藤は穏やかな口調でつづけた。
「きつい物言いをしなくなった。相変わらず他人行儀だが、それでも、穏やかになっただろう」
「……そうかな」
「総司はそれを感じているに違いない。だからこそ、あれ程反発していたのが、ほら、戻ってから一切逆らわぬようになった」
そう云えば、だった。
あの山南の事件以降、打ち合わせの度に反発していた総司が、何も云わなくなっていた。土方が下す命令に対しても、従順にしたがっている。
それが自分の態度の変化に起因しているとは、思ってもいなかったが。
「何かあったのか」
友の問いかけに、土方は僅かに目を伏せた。微かな笑みが口許にうかぶ。
「別に……何もねぇよ」
「……」
「何も、あいつとの間にあるはずがない」
「……まぁ、どちらでも良いが」
近藤は短い沈黙の後、静かに云った。
「反目しあっているおまえたちを見るのは、おれも辛かったからな。少しでも関係が修繕されたなら、それで云うことはない」
「だが、それでも」
土方は思わず低い声で云った。切れの長い目が昏い光を宿す。
「あいつは……総司は、伊東と共に行くだろう」
「……」
「俺との関係が修繕されようが何だろうが、あいつは出ていってしまう。それは確かなことだ」
「そうかな」
しばらくの間、土方の言葉を黙って聞いていた近藤が呟いた。
訝しく思いながら顔をあげた彼の前で、微かに笑ってみせる。
「おれが思うに、総司は出ていかんよ。ここに残るだろう」
「そんな事……あるはずねぇだろう」
思わず声が掠れた。
ずっと長い間、恐れてきたこと。
総司を奪われる、それこそ会うことも見ることも出来なくなる遠くへ、連れ去られてしまう。
その恐怖と嫉妬、怒りは、土方を何度も打ちのめし、苦しめてきたのだ。
それを簡単に、まるでわかりきった事のように云われ、感情が波立たぬはずがなかった。
「あいつは奪われる。去ってしまう。それは……もはや、どうしようもない事なんだ」
「本当に、そうか」
「何が」
「だから、総司のことだ。もはや、どうしようもない事か。おまえは、その結論を出すまでに出来ることはやり尽くしたのか。初めから諦め、逃げているのではないか」
「……」
近藤の言葉に、息を呑んだ。
(俺は……また逃げているのか)
ほろ苦い思いがこみあげた。
総司のためと云いながら、また、自分は逃げているのだろうか。
正直な話、記憶を失った総司に、安堵したことも確かだった。むろん、隊に戻ってからも、総司を愛しつづけるつもりでいた。手放す気など毛頭なかった。
だが、総司はそれを望まなかったのだ。
どれほど、総司のためなら捨てると云っても、総司自身がそれを望まなかった。土方が今の地位を守り、副長として戦いつづけることを、何よりも願ったのだ。
……傷つけたくなかった。
悩み、苦しみ、泣く姿を見るのが、辛くてたまらなかった。それも、自分故なのだ。愛しているからこそ、身をひこうとする総司がいじらしく、可愛かった。
抱きしめて、そんな事はするな、俺の傍にいろと云ってやりたかった。
だが、総司は記憶を失うことで、軽々と彼の手から逃れてしまったのだ。愚かな男は、それを追うことも出来ず、ただ呆然と見送るばかりだった。
愛している。
この世の誰よりも、おまえだけを愛してる。
だが、その想いが総司の為にならないなら、自分の愛が総司を苦しめるだけならば、追うべきではなかった。そう思ったからこそ、伊東と寄りそう総司を見ても、堪えつづけてきたのだ。
だが、それは。
(間違い、だったのだろうか)
局長室を辞した後も、土方は物思いに沈んでいた。
そのまま副長室へ戻るつもりだったが、ふと思いたってそれをやめ、縁側から庭に降りた。ゆっくりと、西本願寺の境内を歩いてゆく。
副長室へ戻れば、仕事が山積みだった。監察方も報告のため待ち受けているだろう。
だが、帰営以降の連日の激務に、さすがの土方も息抜きしたくなったのだ。
小芳の処へもう通っていない。
帰営してすぐ、別れを告げたのだ。
自分なりのけじめだった。総司を愛しながら小芳を抱くなど、どちらにも不実な話だと思ったのだ。
穏やかな別れだった。
小芳は旦那になってくれなくてもいいと云ってくれたが、それでも、土方が筋を通したいと云うと、微かに笑って承諾してくれた。立ち去る時、ずっと見送っていてくれた小芳の姿は、今も目の裏に焼きついている。
だが、総司をこれ程までに愛している以上、遊びならともかく、心の拠り所として他の誰も傍に置く気はなかった。
例え結ばれぬ定めであっても、己の想いに誠実でいたいと願ったのだ。
総司を愛しているという真実に。
(……総司)
土方は一本の樹木に寄りかかると、瞼を閉ざした。
奪われたくない。どこにもやりたくない。
だが、手放したことが間違いだったとしても、今更、どうすればいいのかわからなかった。何も覚えていない総司に、あの日々の事を告げても、困惑させるだけだ。
何よりも、総司の気持ちを乱したくなかった。思い出すにしろ、思い出さないにしろ、総司は土方と伊東の間で苦しむに違いないのだ。
ため息をもらし、土方は身を起こした。
ゆっくりと歩き出したが、幾らも行かぬうちに、その足は止まった。鋭く息を呑む。
向こうから、人が歩いてくる処だった。
総司だ。
だが、一人ではなかった。伊東と一緒だったのだ。
「……っ」
きつく唇を噛みしめた土方は、すぐに己を取り戻した。平静を装い、歩き出してゆく。
総司は伊東と談笑していた。もう怪我はすっかり治ったのか、以前のように軽やかな足取りで歩いている。
伊東の言葉に、朗らかに笑った。
……花のような笑顔だった。
幾度も、あの日々の中で見た愛らしい笑顔だ。
だが、それが他の男に向けられていることに、腹の底から滾るような怒りと嫉妬がこみあげた。
今すぐ、その細い手首を掴んで引寄せ、おまえは俺のものだと叫びたくなる。
むろん、そんな事できるはずもなかったが。
互いの間が二間ほどになってから、総司は土方に気づいた。
「!」
はっと息を呑み、立ち止まった。愛らしい顔が青ざめる。だが、すぐに目を伏せ、再び歩き出した。
その様子に、まるで化け物を見たようだと、土方は苦々しく思ったが、素知らぬふりで、すれ違ってゆく。
すれ違った瞬間、土方と伊東はかるく目礼しあった。公私ともに敵同士であっても、表には出さないのだ。
伊東の傍で総司が息をつめているのが、わかった。不安に怯えているのだろうと、微かに眉を顰めた。そんな怯えずとも、自分は何も手出しする気はないのに。
「……」
互いの距離が遠ざかり、土方は思わず吐息をもらした。固く瞼を閉ざす。
先程見た総司の表情が目の裏に残っていた。
彼を見たとたん、怯えたような表情になった若者。
いくら自分を愛してくれていると云っても、あれではどうにもならない。
何しろ、総司は何も知らないのだ。あの日々の中、土方が弁明したことも、解けた誤解も、皆、未だ抱えたままだった。
総司は、彼に嫌われていると思っている。同性故に一縷の望みもない恋だと、思いこんでいるのだ。
ましてや、土方自身も、山南の事件以降、冷たく辛くあたってきた。彼とすれ違うだけで、怯えた表情になるのは当然だった。
そんな総司に、いったいどうすればいいと云うのか。
「……どうしようもねぇよ」
ため息まじりに呟いた。
総司を取り戻そうにも、話をつけることさえ出来そうにない。彼が声をかけるだけで、怯えた表情で逃げ出してしまうだろう。
だが、このままでは総司を奪われてしまうのだ。二度と手の届かない処にいってしまう。
そうなった時、自分がどうなるのか、わからなかった。
平然としていられるのか、或いは───
「狂う、かもしれねぇな」
自嘲するように呟いた土方は、ふと顔をあげ、冬の空を見上げた。
あの日々から時が過ぎ、そこにあるのは冷たく凍えるような冬の空だ。その重く沈んだ空の色は、己の心に叶っている気がした。
しばらくの間、土方は空を見上げたまま、そこに佇んでいた。
「総司」
後ろから声をかけられ、総司はふり返った。
ゆっくりと、斉藤が歩み寄ってくる処だった。外から戻ってきた処なのか、何か包みを手にしている。
「少し話をしないか」
「え?」
びっくりしたように小首をかしげる総司に、手にした包みをかかげてみせた。
「ほら、おまえの好きな菓子。ちょうど通りかかったら、売っていたんだ」
「あ、もしかして、泉乃屋さんの?」
「たまには甘いものも良いだろうと思ってさ。一緒に食べないか」
「ご馳走になります。私の部屋でもいいですか?」
「あぁ」
部屋に戻ると、火鉢がおこっていた。ふわりとあたたかい部屋が心地よい。
だが、それを総司は訝しく思ったようだった。
「あ、れ? 誰があたためてくれたんだろう」
「桜井君じゃないのか」
「え、でも、私は頼んでいないのに」
「いや、おまえじゃなくて……」
云いかけ、口を閉ざした。
どうやら、土方が秘かに桜井に命じているようだったのだ。
総司の世話をあれこれ焼くのに、一番隊の年若い桜井が適任だと思ったのだろう。実際、桜井は気配りのきく若者で、総司を医者に連れて行ったり、滋養のつく食べ物を用意したりしている。
「私じゃなくて?」
不思議そうに問いかける総司に、斉藤は黙ったまま首をふった。
記憶のない総司に云っても仕方のないことなのだ。
自分に向けられる土方の愛情も何も知らないからこそ、あんなふうに振る舞える。でなければ、彼の前で伊東と寄りそうなど、到底できないだろう。
残酷な話だと思った。
以前はお互いの想いを知らなかった故、致し方のない事だった。
だが、今は違う。
土方だけが総司の想いも皆、知っているのだ。愛していることも、愛されていることも、皆知っている。なのに、それを告げることさえ出来ない。
どれほど愛してやりたくても、甘やかせ、優しくしてやりたいと願っても、それは決して許されないのだ。遠くから見守るしか出来ない。
ましてや、もうすぐ奪われる存在だった。
近いうちに、見守ることさえ出来なくなってしまうのだ。
(その時、土方さんはどうするつもりなのか。今のまま素知らぬ顔でいるのか、それとも……)
斉藤は、あの時の「これで良かったのさ」と呟いた土方の表情を思い出し、吐息をもらした。
「? 斉藤さん……?」
押し黙ってしまった斉藤に、総司がそっと呼びかけた。
それに我に返った。
「あ、あぁ……ごめん。ちょっと考え事をしていて」
「疲れているのではないですか?」
「いや、大丈夫だよ。それ程、忙しくしてないし」
「そうですか?」
小首をかしげた総司は、ふわりと微笑んだ。
「随分と忙しそうに見えますけれど」
「……」
一瞬、どきりとした。
斉藤自身が、土方からさし向けられた間者である事を、揶揄された気がしたのだ。
そっと伺ってみたが、総司は愛らしい笑みをうかべているばかりだ。だが、その澄んだ瞳は、心の奥底まで見据えている気がした。
しばらく二人は見つめあっていたが、やがて、総司の方がふっと視線をそらせた。桜色の唇を噛みしめている。
聞きたいことは、山ほどあるに違いない。
本当に伊東派の一人となったのか、それとも、今も土方の腹心であるのか。
だが、それを訊ねるのは、自らの嫉妬を口にする事だった。
総司は真摯で、誇り高い若者だ。そういった言動をする己は、矜持が許さないのだ。
俯いてしまった総司に、斉藤は思わず身をのりだした。その白い手をとって握りしめ、瞳を覗き込む。
「一つ、聞いていいか」
「え?」
顔をあげた総司を、斉藤は真っ直ぐ見つめた。
「おまえは、どうするつもりだ」
「何をですか」
「この先の事だ。土方さんと伊東先生……どちらを選ぶつもりなんだ」
「……っ」
総司の瞳が見開かれた。
次、お褥シーンがありますので、ご注意下さい。あ、もちろん土沖です。