しばらくの間、何も云うことが出来なかった。
 お互い、黙ったまま見つめあっていたのだ。様々な想いが互いの中に渦巻いているのは、確かだった。
 やがて、総司が口火を切った。
「……隊に知らせが行ったのですか」
 でなければ、ここに斉藤が現われるはずがない。
 だが、しかし、迎えの者が斉藤であることは、総司に不吉な予感を抱かせた。


 斉藤は伊東に近づきつつあるが、その意図はよくわからない。
 何よりも総司が去った今、土方の右腕同然となっていた。
 その斉藤がここに現われたからには、土方を早急に隊へ戻すためであり、総司を排除するためとしか考えられない。


 だが、斉藤は全く別の言葉を口にした。
「駕籠を用意してある」
「え……?」
「まずは、おまえを隊へ戻さなければ、土方さんも戻らないだろう。だから、駕籠を用意した」
 淡々とした口調で云われた言葉に、総司は何故だか笑いだしたくなった。
 まるで、何もかも知っているようだと思ったのだ。土方と総司が反目しながら想いあってきたことも、そして、ここで気持ちをわかちあい愛しあうようになったことも。
「斉藤さんは全部、わかっているのですか」
 そう問いかけた総司は、長い睫毛を瞬かせた。艶然とした笑みをうかべる。
「私が土方さんを誘惑したことも皆、わかっていて……だから、そんな事を云うのでしょう?」
「……」
「今の土方さんの立場に、私は害にしかならない。引き離すには、先に私を帰してしまう方がいい。そう決めたのは、斉藤さんですか?」
「おれの一存だ。だが……おまえが誘惑したなどと、思っていない」
 斉藤は静かな声でつづけた。
「おれは、総司……おまえの友人だ」
「……」
「おまえがおれの存在を、土方さんの傍にあるおれを疎ましく思っているのは、わかっている。だが、おれ自身にとって、おまえは大切な存在だ。おまえを傷つけたいなどと、思うはずがない」
 黙ったまま目を伏せてしまった総司を、斉藤は見つめた。
「土方さんとおまえが想いあっている事も、薄々気づいていた。だから、この地で想いが成就したことも、喜ぶべきことだとわかっている。だが……」
「斉藤さん」
 小さな声で、総司は遮った。顔をあげ、澄んだ瞳をむける。
「私は土方さんを心から愛しています」
「……」
「土方さんのためなら、命もいらない。すべてを捧げてもいい。そう思っている私が、あの人の為にならない事をするはずがないでしょう。身を引くべき時は弁えています」
「総司……」
「斉藤さんの言葉に従います。それが土方さんの怒りを買う事になっても、そうすべきだとわかっているから」
 そう云った総司は、ゆっくりと立ち上がった。壁に縋るようにして部屋を横切ると、土間に佇む斉藤の前に立つ。
 大きな瞳で彼を見上げた。
「お願いだから、斉藤さん。あの人には、私が勝手に去ったのだと云って下さい。私がもうここでの生活が嫌になり、伊東先生の元へ帰る事にしたのだと、そう告げて欲しいのです」
「だが、総司」
「でなければ、土方さんは私を追います。この間、あの人は云ってくれました。私のためには、矜持も地位も捨てても構わないと」
 斉藤の目が見開かれた。
 そこまで、土方が云うとは思っていなかったのだ。
 だが、同時に、不思議と納得するものもあった。土方が総司に対して抱く半ば狂気じみた愛情を、感じとっていたのだ。
 同じように総司を愛している斉藤だからこその、直感かもしれなかった。
 総司は真っ直ぐ斉藤を見つめた。
「そんな事させる訳にはいきません。土方さんを必要としている人は大勢いるのだから……私のために道を誤らせるなんて、そんなこと堪えられない」
「本当にそれでいいのか。土方さんのためにも、それで正しいのか?」
 斉藤は問いかけた。
「おれは、ここで二人過していても何の解決にならぬからこそ、迎えに来たんだ。二人共にいることを望んだのなら、隊へ戻り、現と向き合い戦うべきだと思ったから」
「戦う必要などありません。あの人には小芳さんがいる。私には伊東先生がいる。それで……いいのです」
「いいはずがないだろう」
 思わず声が激した。
「また、自分自身を偽り、堪えるつもりなのか。おれは……おまえを大切に想っているからこそ、そんなおまえ自身を傷つける手助けなど出来ない」
 きっぱり云いきった斉藤に、総司は胸が熱くなった。
 こんなにも思ってくれる斉藤の存在が嬉しい。だが、土方のことを想うなら、自分がここで身を引くべきだった。それは譲ることが出来ないのだ。
「それでも、お願いします。斉藤さん」
「……総司」
「私は辛くても構わない。土方さんに憎まれてもいい。それで……あの人を守ることが出来るのなら」
 総司の言葉に、しばらくの間、斉藤は押し黙っていた。じっと足下を見据えている。
 やがて、顔をあげると、両手を握りこんだ。そして、云った。
「断る」
「!」
 はっと息を呑んだ総司に、斉藤は鳶色の瞳をむけた。
「おれには出来ない」
「斉藤さん」
「おまえが自分を犠牲にするなら、おれはそれを止める。もうすぐ、土方さんが戻ってくるだろう。なら、土方さん自身に話をつけ、別の始末のつけ方を考えるさ」
「だ、だめ……っ」
 思わず叫んだ。
 だが、斉藤はもう背を向けている。この後、土方と会い、話をつけるつもりなのだろう。


 土方は、隊へ戻ってからも総司を手放す気などないようだった。
 矜持も地位も捨てても、愛してゆくと云ってくれた彼なのだ。
 だが、そんな事させる訳にはいかなかった。今、二人が置かれた立場を考えれば、到底できる事ではない。
 彼だけは絶対に醜聞沙汰に巻き込みたくなかった。


 総司は必死になって框を降りた。斉藤を追いかけようと、手をのばす。
 だが、その足下が狂った。もともと怪我をしている身なのだ、支えられるはずもない。がくりと身が沈んだ。
「あっ」
 小さく声をあげた総司に、斉藤がふり返った。慌てて手をさし出すが、もう遅い。
 細い躯は上半身から、固い土間に叩きつけられていた。衝撃が走り、総司は目の前が白く染まるのを感じる。


(……土方、さん……)


 それを最後に、意識が途絶えた。












 村里から戻る土方は、気がはやっていた。
 総司のために、手にいれた卵で滋養のつく食事をつくってやりたかったのだ。
 割れぬよう藁をしいた籠を大事に抱え、土方は道を急いだ。山を下り、総司が待っているはずの家へ戻ってゆく。
 だが、近くまで戻ってくる最中に、異変を感じた。
 何よりも、見慣れぬ駕籠がすぐ近くにあり、数人の男たちがいたのだ。駕籠かきらしく、武家姿の土方を見ると、慌てたように立ち上がり頭を下げる。馬も傍にとめられてあり、土方はそれを見てようやく思いあたった。
 迎えの者が来たのだ。
「……総司!」
 思わずその名を呼びながら、家の中へ駆け入った土方は目を見開いた。
 そこには、確かに総司の姿もあったが、新撰組三番隊組長斉藤一がいたのだ。彼を見ると、何か総司に話しかけていたのをやめ、斉藤は静かに身を起こした。
 思慮深げな鳶色の瞳で、じっと彼を見据えてくる。
 それに話しかけようとした瞬間、こちらを見つめている総司に気がついた。何か様子がおかしいのだ。
 怯えたように目を見開き、信じられぬ者を見るようなまなざしを、彼にむけている。
「? 総司……?」
 呼びかけると、その怯えはますます酷くなった。斉藤の背に隠れようとする。
 土方はその行動自体に苛立ちを覚え、足早に歩み寄った。手をのばし、総司の腕を掴んで引寄せようとする。
 そのとたん、
「いやッ!」
 鋭い悲鳴とともに、彼の手は払いのけられた。呆気にとられる。何が起こったのかさえ、わからなかった。
 のばした手をそのままに立ちつくす土方の前で、総司は後ずさった。激しく首をふる。
「どうして……っ?」
「総司、いったい」
「嫌! どうして、ここに土方さんがいるの……っ?」
「……」
 呆然と見下ろす土方の前で、総司はぎゅっと目を閉じた。身を竦め、斉藤の背に隠れてしまう。
 理解できぬまま立ちつくしていると、斉藤が厳しい表情で合図した。外へ出ようと云っているのだと気づき、仕方なくそれに従った。
 家の外に出ると、斉藤は戸をきちんと閉め、少し離れた小川のふちで土方と向き合った。落ち着いて聞いて下さいよと前置きをしてから、話を始める。
 斉藤の話を聞いた土方は、息を呑んだ。
「……記憶、が?」
「だと思います」
「だが、あいつは俺を覚えていた。土方さんと呼んだじゃねぇか」
「だから、全部ではないのです。ここしばらく……京を発ってからの記憶がないようなのです。或いは、混乱しているだけなのか」
「……ちょっと待てよ」
 土方は額に片手をあて、しばらく考え込んでいた。やがて、顔をあげると、切れの長い目で斉藤を見据えた。
「そもそも、何で記憶を失ったんだ。いったい何があった」
「今朝、おれは総司を訪ねたのです。そこで云い争いになった。ここに二人でいるより、京へ戻ってきちんと向き合った方がいいと云ったおれに、総司は自分は身を引くと云ったのです。土方さんの害になるから、土方さんを窮地に追い込みたくないから、だから……自分は嫌気がさして伊東先生の処に帰ったと、云ってくれと」
「……」
 難しい表情で黙り込んでしまった土方に、ため息をつきながら、斉藤は云った。
「当然、断りました。そんなやり方、間違っていると思ったから。総司が可哀相でたまらなくて……幸せになる道を探してやりたかった、手助けしてやりたかった。けど、土方さんに話をつけてくると云ったおれを追ったあいつは、無理に土間へ降りようとして……」
「それで、怪我をしたのか」
「頭を打ったみたいです。おれの……落ち度だ。申し訳なく思っています」
 低い声で謝した斉藤に、土方は唇を噛んだ。ゆっくりと首をふり、「いや」と云った。
「おまえのせいじゃない。成り行きでそうなっただけだ。ただ……そのせいで、総司は記憶を失ったんだな。出張へ行くあたりから、今日までの記憶を」
「そうみたいです。何故、今、自分がここにいるのかさえ、全くわかっていないみたいでしたから」
「となると、今のあいつにとって、俺は……険悪な関係の副長という事か」
 苦笑まじりの言葉に、斉藤は眉を顰めた。
「土方さん……」
「仕方ねぇだろう。実際、あいつは俺を避けてきた。俺もあいつに辛くあたった。最悪の関係だったんだ。むろん、あいつがずっと俺のことを想ってくれていたと、今はわかっている。それでも、今のあいつにとって、俺は敵同然の男だ」
 そう呟いた土方は懐手すると、しばらくの間、遠くの方を眺めていた。その厳しさと、どこか淋しさをうかべた端正な横顔を、斉藤は見つめた。
 やがて、低い声が、その形のよい唇からもれた。
「……これで良かったのかもしれねぇな」
「え?」
 目を瞬いた斉藤の前で、土方は目を伏せた。口許に苦笑をうかべる。
「これで良かったと云ったのさ。あいつが全てを忘れてくれて……良かったんだ」
「いったい何を……」
「斉藤」
 土方は顔をあげ、斉藤をまっすぐ見つめた。いつもの副長らしい命令しなれた口調だった。
「おまえは総司を連れて帰れ。俺は悪いが、馬で先に戻らせてもらう。仕事が山積みになっているだろうからな」
「それは構いませんが、でも」
「これで良かったのさ」
 もう一度、土方はくり返した。そして、微かな笑みをうかべた。
「このまま、総司をここに置いておく事はできなかった。医者もなく、薬もない。じきに凍えるような冬がやってくる。こんな山奥では到底乗り切れなかっただろう」
「確かに……そう思いますが」
「それに、総司を思うなら、俺はあいつを突き離すべきだった。俺があいつを愛しつづければ、伊東との間で苦しんだはずだ。どちらを取るべきか、悩みもがくだろう。俺と伊東、どちらかを選び切り捨てるかなど、あの優しい総司に出来るはずがない」
「……」
「なら、いっそ、何もなかった事にした方がいい。俺と愛しあったことも皆、忘れてしまえば……」
 土方は言葉を切り、唇を噛みしめた。端正な顔に昏い翳りが落ちる。
 だが、それは一瞬のことだった。すぐさま表情を消し去り、いつもの冷静沈着な副長の態度をとり戻した。
 すっと踵を返し、止められてある馬に歩み寄った。手綱をとり、鐙に足をかける。
 敏捷な身ごなしで飛び乗った男を、斉藤は見上げた。
 手綱をさばきながら、土方は斉藤を見下ろした。視線がからみあう。
「……総司を頼む」
 一言だけだった。
 それを告げるなり、馬にぴしりと鞭をあてた。嘶きをあげ、土方を乗せた馬が勢いよく駆け出してゆく。
 山間の道を遠ざかる姿を見送りながら、斉藤は両手を固く握りしめた。


『これで良かったのさ』


 そう云った時の、男の表情が忘れられなかった。
 切なく、そして、何か大切なものを失ってしまった男の顔だった。
 あれ程、愛しているのに──否、だからこそなのか、互いが互いだけを思いやるのだ。互いのためならと、己の想いも愛も何もかも犠牲にしてしまうのだ。
 ただ、相手の幸せだけを願って。
「……」
 斉藤はため息をもらし、家へと戻った。
 すると、ぼんやりした表情で框に坐っていた総司が、顔をあげた。
「……斉藤さん」
「気分はどうだ」
 歩み寄りながら、問いかけた。
「頭は痛くないか」
「少し目眩がしますけど、大丈夫です。今から隊へ戻るのですか」
「あぁ、駕籠を用意してある」
 そう云った斉藤に頷いてから、総司は小首をかしげた。
「本当に、どうして私はここにいるのですか? それに、副長まで……」
「おまえは土方さんと大坂出張に出かけたのさ。その帰路、怪我をし、ここで迎えを待っていた」
「それを全部忘れてしまうなんて……頭を打ったせいだと、わかりますが」
「こういう事もあるのだろう。おれは初めて見るが、噂に聞いた事がある」
「そう……ですか」
 不思議そうにしつつも、総司は頷いた。それから、はっと気づき、顔をあげた。
「副長は? さっき、酷い態度をとってしまって、謝らないと……」
「もう帰ったよ」
「……帰った?」
 総司の目が見開かれた。傷ついた表情が、その愛らしい顔にうかぶ。
 それを痛々しく思いながら、斉藤は頷いた。
「あぁ。馬で先に帰った。あの人も忙しいからな」
「……そう…ですね。副長は、忙しい……から……」
 口ごもり、総司は俯いてしまった。淋しそうな表情で視線を落としている。
 傍にいれば怯えてしまう。下手すれば、冷たい応酬のやり取りだ。だが、それでも、総司は土方に恋していた。身も焦がすような激しい恋心を抱いているのは、誰の目にも明らかだったのだ。
 わかっていなかったのは、土方だけだった。なのに、今、その想いを知りながら、土方はすべてを断ちきろうとしている。
 一度は手に入れた恋人を、自らの意思で捨て去ったのだ。


『これで良かったのさ』


 到底そうは思えぬと、斉藤はきつく唇を噛みしめた。