あの時、土方は小芳を、自分は伊東を選んだ。
今更それを裏切るなど出来るはずもないのだ。
今、こうして土方の腕に抱かれていながら、それは決して揺るがぬ真実だった。
(夢の中でしか、結ばれない私たち……)
総司は切ない想いに、涙があふれそうになった。
そのまま土方の背中に両手をまわすと、ぎゅっとしがみつく。いきなり抱きついてきた総司に、土方は驚いたようだった。
不思議そうに見下ろしたが、すぐ抱きかかえると、額に口づけを落としてくれる。
「どうした。また何か考え事か」
「そうじゃないけど……」
「けど?」
「あなたを……もっと感じたいのです」
直接的な言葉に、土方は目を見開いた。だが、すぐ、その切れの長い目に男の情念が宿る。
それを認めながら、総司はより強く躯を押しつけた。縋りつき、目を閉じる。
ゆっくりと、その場へ押し倒された。苔の上に横たえられ、男の両腕に抱きしめられる。愛しい彼のぬくもり、鼓動、肌の感触。そのすべてを忘れたくないと思った。
今、この瞬間は、幸せでありたいのだから。
なのに。
───背徳の恋。
そんな言葉が、ぽつりと心にうかんだ。
私たちの恋は、不義密通ではないのか。
お互い、伴侶をもっている訳ではない。
だが、それでも、精神的な意味あいからいけば、背徳を犯している気がした。小芳を、伊東を、裏切り背き、深く激しく愛しあう。
それは許されぬ恋なのだ。
私たちが愛しあえるのは、夢の中でだけ。
この世の果てのような場所でしか、愛しあえない。
「……愛してる」
不意に、低く囁きかけてきた男に、総司は目を見開いた。
驚いて見上げると、土方は深く澄んだ黒い瞳で、じっと総司を見つめていた。まるで、総司の心の動きを皆、わかっているように。
息をつめるようにしている総司に、土方はくすっと笑った。しなやかな指さきで髪をかきあげ、額に唇を押しあてる。
そうして、また耳もとで優しく囁いた。
「愛してる、総司」
「土方、さん……」
「何があろうとも、どんな事があっても……俺はおまえだけを愛してる」
土方の声は深く静かだった。
不安と悲しみに揺れる総司の心の奥底までそっと届き、柔らかく包みこんでくれる。まるで砂地に染みこんでゆく水のように満たし、そして、愛してくれるのだ。
「もう何も考えるな」
柔らかく頭を抱き寄せられ、男の胸もとに押しつけられた。
土方は総司の身に寄りそい横たわると、その細い躯を両腕で抱きすくめた。何度も何度も、優しい口づけを落としてくれる。
「俺に愛されることだけを思っていればいい。俺はおまえを手放す気はない」
「でも」
「何も云うな。今は、ただ俺に愛されていろ」
傲慢な命令とは裏腹に、彼の声音は優しかった。それに、総司はこくりと頷いた。抗えるはずもない。
ただ、愛されていればいい。
それは不思議なほど、総司の心を落ち着かせた。
愛されること、それだけに身も心もまかせればいいのだ。
一途に愛し、愛される。
そのためだけに、私は今ここにいるのだから。
「愛しています」
そう告げざま、土方の首を両腕でかき抱いた。
唇を重ね、深く互いを求めあう。熱くて濃厚な接吻に躯がとろけ、今にも暴走しそうになってしまう。
こんなにも欲しいのだ。彼が欲しくて欲しくて、たまらない。
いっそ、めちゃめちゃに壊れてしまうほど──愛されたい。愛しつくされたい。
この願いを叶えられるのは、彼だけだ。
「抱いて……私を抱いて」
熱っぽい囁きは口づけごと、奪われた。
森の中、秘密の恋人たちは躯を重ね、互いだけを求めあう。まるで、一つにとけあいたいと願うように。
すべてを壊したいと、願うように。
(土方さん……愛してる)
抱きしめる男の腕の中、総司はそっと目を閉じた。
山間のためか、日が暮れるのが早い。
総司は縁側に出ると、山を染めあげる茜色をうっとりと眺めた。
紅や黄金色の樹木がきらきらと輝き、とても綺麗だ。どんな絵にも叶わぬ自然の美しさに、思わず見惚れた。
今日、土方は山を越えた処にある村を訪ねている。米や野菜を買うためだった。この地での暮らしも、もう幾日になるのか。
だが、それを不安に思った事はなかった。むしろ、隊からの使いが訪れ、土方を連れ去ってゆく日を心の底から恐れている。
この穏やかで幸せな日々がいつまで続くのか。
総司はため息をもらし、縁側の柱に凭れかかった。
「……あ」
その時、山の道を一人の男が下ってくるのが遠目に見えた。土方だ。
彼の姿を見たとたん、安堵と喜びが胸に満ちた。
愛しい彼といられる時は、何の不安もない。
ただ睦みあい、互いを熱く激しく求めあうだけだ。
その行為が総司の躯に負担をかけている事は確かだったが、それを土方に告げようとは思わなかった。
愛されることが許されるうちに、愛されたい。
この躯に、この心に、彼のすべてを刻みつけたいから。
その笑顔も、綺麗に澄んだ瞳も、優しい唇も、しなやかな指さきも――何もかもすべて、自分の中に深く深く覚えこませたい。
そうすれば、この先引き離されても、二度と言葉一つかわせぬ間柄になっても、それでも生きてゆけるはずだから。
「土方さん……」
縁側から声をかけると、視線を落とし歩いていた土方は、総司の姿にようやく気づいた。
顔をあげ、「あぁ」と頷きながら、縁側に歩み寄ってくる。右肩に掛けていた籠を下ろす土方の姿に、総司は細い眉を顰めた。
様子がおかしいのだ。
いつもなら笑いかけてくれるはずなのに、表情が固い。眉を寄せ、他の事を考えているようだった。
「……何かあったのですか?」
思わず問いかけた総司に、土方の手が一瞬とまった。だが、すぐ何事もなかったように、籠から荷物を取り出しつづける。
「別に何でもねぇよ」
「でも、土方さんの様子がいつもと違うから……」
「……」
土方がきつく唇を噛みしめた。じっと宙を見据えたまま、押し黙っている。
やがて、微かに吐息をもらすと、掠れた声で呟くように云った。
「死体が見つかったんだ」
「え……?」
「この家に住んでいた二人だ。男と女……二人とも山中で死んでいたらしい」
「──」
総司の目が見開かれた。
もしかしたら、と思ってはいたが、まさか死体が見つかるとは。それも二人ともにとなると……
「心中、ですか」
「そうじゃねぇのか。男が女を殺した後、自害したらしい。昨日、村人が山で見つけて、それで酷い騒ぎになっていた」
「この家にも……役人がくるのではありませんか」
「それはねぇな。今時の役人は、心中事件になんざ興味ないだろう」
土方は肩をすくめた。
「まぁ、来ても構わねぇさ。そんなものどうだっていい」
そう云い捨てると、土方は土間の方へ歩み去っていった。片付けているらしい物音が聞こえてくる。彼のいる気配を感じながら、総司は目を閉じた。
(心中……)
それは、互いが了承しての行為だったのだろうか。
否、おそらく違うだろう。逃げ出した女に逆上した男が、殺してしまったに違いない。そして、愛しい者を手にかけた罪に狂った男は、自らの命も絶った。
酷たらしい話だった。忌まわしいことだ。
「でも……幸せ……?」
総司はぽつりと呟いた。
自分がその女であるのなら、もしも男のことを愛していたとしたら、それは……幸せな終わりだったに違いない。
自分だって、逃げたに違いないのだから。
男を愛していればこそ、己自身のために招き寄せられる破滅が目に見えていたなら、きっと逃げ出すに違いない。
そして、最後は彼の手で殺される。
愚かな愛かもしれないが、それでも、総司には幸せであるように思えた。
むろん、真実はわからない。
女は本当に男を嫌っていたのかもしれない。それとも、嫌っているふりをしながら本当は愛していたのか。
誰にもわからないのだ。
二人だけの秘密───
「同じ、だよね」
総司は柱に凭れかかり、目を閉じた。さらさらと、夕暮れ時の風が髪を吹き乱してゆくのが心地よい。
自分たちにしても、どんな想いで互いを求めあい愛しあうようになったかなど、余人が知るはずもないのだ。
もしも、この先、二人が死への道を選んだとしても、真実は誰もわからない。
すべては闇の中へ葬られてしまうのだ。
「そんな結末を……求めているの?」
病的などころか、狂気じみている。
今彼といられればいいと思ったはずなのに。
こうして愛されることが僥倖なのだと、わかっているはずなのに。
「……どんな結末を求めている」
不意に低い声をかけられ、総司はびくりと目を開いた。
慌ててふり返れば、いつの間に戻ってきたのか、土方がそこに佇んでいる。着替えをしたらしく、濃紺の小袖を着流した姿は男の色香を漂わせていた。かるく襟元を整える仕草にさえ、目を惹かれてしまう。
「あ……」
驚きのあまり声がでない総司の傍に、土方は腰を下ろした。
切れの長い目でじっと見つめつつ、低い声で問いかける。
「俺とおまえの事だろう。二人の行き着く先……結末を、おまえは思い描いているのか」
「……」
「まぁ、だいたい予想はつくがな。先程の話から」
くすっと笑った土方は、胡座をかいた膝に頬杖をついた。悪戯っぽい光をうかべた黒い瞳が、まるで少年のようだ。
「心中だろ? いいぜ、いっそ二人で死んじまうか」
「じょ、冗談……」
「冗談なはずがあるか。俺は実際、あの話を聞いた時、羨望さえ感じたんだ」
「羨望……」
総司は呆然と呟いた。その前で、土方はゆっくりと言葉をつづけた。
もはや、その顔に笑みはなく、昏いものさえ湛えた瞳が総司を見つめた。
「おまえをこの手にかけ、俺も死んでしまう事が出来たなら……そうすれば、おまえは永遠に俺のものだ。ずっと二人だけでいられる。ここに来て以来、何度か考えたことだ」
「土方さん……」
「だが、俺はおまえを殺せなかった。おまえを苦しめ、傷つけるなど……俺には到底できなかったから」
土方は手をのばし、そっと総司の頬を手のひらで包みこんだ。
「可愛い総司。俺はおまえを決して傷つけない。いや、そんな事出来るはずがねぇんだ。おまえが苦しんだり、痛がったりする姿を見るぐらいなら、俺がそれを受けた方がいい。ましてや、この手で苦痛を与えるなど……考えただけで、ぞっとする」
「……」
「あの心中した男がどんなふうに女を愛していたかは、知らない。だが、俺はあんな酷い事、おまえに強いるなど出来ない。おまえには生きて欲しい。俺の傍で生きて欲しい。それが俺の一番の願いなんだ」
「でも……!」
総司は首をふり、大きな瞳で彼を見上げた。
「私は、あなたの傍にいられない。隊へ戻れば、あなたの傍にいる事さえ許されない身です」
「総司……」
「それを思うと、私は気が狂いそうになる。土方さんと離れて過す日々が、また始まると思うと私は……」
「離れなければいいだろう。俺はおまえを手放す気はない」
男の言葉に、総司は瞳を燃えあがらせた。かっとなり、思わず男の躯を突き放す。
「そんな事できるはずがないでしょう? あなたの立場で、今更、私を傍に置くなど出来るはずもない。私は伊東先生の派の一人なのですよ。それを、副長である土方さんが傍に置くなど、裏切り者を許すなど、そんな事……許されない」
「おまえは裏切り者なんかじゃねぇよ」
「土方さんがそう庇ってくれても、いいえ、庇えば庇う程、隊内の目は私を裏切り者として見るのです。ましてや、念者だという噂までたって。今度は土方さんを誑かしたと、噂されるに違いない。そうなれば、あなただって醜聞沙汰に巻き込まれる。私に誑かされた男として嘲笑されるでしょう。そんな酷い立場にあなたが晒されるなんて……そんなの嫌。絶対に嫌です」
そう叫ぶなり、総司は俯き、ぽろぽろと涙をこぼした。
言葉の激しさとは裏腹に、必死に声を殺しての静かな涙は、総司の中にある葛藤と苦悩の激しさを思わせ、土方はたまらなくなった。
細い躯を抱きよせ、腕の中に引き込んだ。子どものように抱きすくめ、ゆっくりと背中を撫でてやる。
「すまない、総司。おまえの想いを知らず、勝手な事を云ってしまった」
「……っ」
「だが、俺は醜聞沙汰なんざ気にしねぇよ。誰に何を云われても構わない。おまえが手に入るのなら、矜持も地位も何もかも捨てて構わないと思っている」
「土方さん……」
総司は泣き濡れた目で、彼を見上げた。それから、土方が本気でそう云っている事を知ると、激しく首をふった。手をのばし、彼の着物をぎゅっと掴む。
「だめ。そんなの、許されない……」
それ以上は何も云えなかった。
抱きしめられ、その先の言葉を奪うように口づけられたのだ。深く唇を重ね、抱きしめてくる男に、総司が抗えるはずもなかった。彼の広い背中に手をまわし、目を閉じる。
夕闇が落ちてくる中、互いのぬくもりを求めるように愛しあった。
理性も感情も消え失せた、獣のように。
翌日、土方はまた村へと出かけていった。
総司に滋養あるものを食べさせたいと、昨夜は手に入らなかった卵を買い求めに行ったのだ。それを申し訳なく思いながら、総司は熱っぽい躯で男の背を見送った。
足手まといになっているのは、わかりきっているのだ。
だが、それでも傍にいたいと願ってしまう自分は、どこまで身勝手なのか。
「……っ」
総司は褥の中で躯を丸め、きゅっと唇を噛みしめた。
その時だった。
外で足音が響いたかと想うと、戸が開く音が鳴り、総司は細い眉を顰めた。
まだ昼前だ。
土方が帰ってきたにしては、早すぎる。忘れ物だろうかと訝しく思いつつ、躯を起こした。
土間の方を見やる。
とたん、ひゅっと息を呑んだ。
「──」
そこには、一人の男が佇んでいた。
少しつりあがった目と、剣客らしい躯をもつ若者。黒い隊服に身をつつみ、両刀を差している。
総司が彼の元を去って以来、腹心となり支え続けてきた、新選組三番隊組長。
呆然と、その名を呼んだ。
「……斉藤、さん」
そんな総司の前で、斉藤はゆっくりと目をあげた。