鳥の声が賑やかだった。
 それを感じながら、総司はうとうとと微睡んでいた。
 いつもなら肌寒いのだが、今日は優しいぬくもりに包まれている。それが何故なのか、わかっていた。
 自分を逃がさぬようしっかり抱きしめた、男の力強い両腕。胸もとにすっぽりと総司の小柄な躯を抱きすくめ、眠っている男が、誰よりも愛しかった。
「……」
 総司はうっとりとした表情で、男の逞しい胸もとに頬を寄せた。聞こえてくる鼓動が心地よい。
 こんな朝を、幾度夢見たことだろう。
 むろん、現になるなどと思ってもいなかった。彼が自分を抱いてくれるなど、一縷の望みもない願いだと思っていたのだ。
 だが、実際、彼は自分を抱いてくれた。そればかりか、愛していると囁いてくれたのだ。
 まさに、夢のようだった。
 そう思った瞬間、総司は何故か背中がぞくりと寒くなるのを感じた。


 ──儚い夢。


 ここ数日の出来事は皆、現ではないかのようだった。
 こうして土方と二人きりでいる事も、想いを遂げられた事も、抱かれた事も。
 すべて、隊にいる時には、考えることさえ出来なかった事ばかりだ。それは、総司よりも土方にとって、尚のことであるはずだった。
 土方は新撰組副長であり、今やその重責は凄まじいものがある。局長は近藤であるが、実質、隊を動かしているのは副長である土方なのだ。
 京へのぼり、新撰組副長となってから、土方は立身出世を果たしたが、それと引き替えに自由を失った。江戸の頃、己の人生は己だけのものだと、自由気儘に生きていた彼から考えれば、驚くほどの束縛だった。
 縁談も友も女も何もかも、若い男である彼自身より、まずは新撰組副長として考えなければならなかった。彼は常に新撰組副長である事を求められ、そう振る舞いつづけてきたのだ。
 だからこそ、総司が離れていった時も、追わなかったのだと云える。そんな愁嘆を晒せるはずがなかった。
 だが、今は違う。
 今、この時だけは土方は自由だった。新撰組という場所にいないからこそ、夢を見ることもできるのだ。


(儚い夢……)


 男の腕の中、総司はそっと目を伏せた。
 総司もまた同じくであると云えた。隊へ戻れば、総司は伊東派の一人と目されている。それどころか、念弟として噂されている身なのだ。
 今更、土方と寄りそえるはずがなかった。ましてや、恋人として愛されるなど、許されない。愛する彼を酷い醜聞沙汰に巻き込んでしまう事は、確かだ。
 ならば、今だけと思い定めなければならないのか。
 儚い夢なのだと。
 今この瞬間、抱きあえた事だけでも、僥倖だと思わなければいけないのだと。


(土方さん……)


 総司は唇を噛みしめ、土方の躯に縋りついた。
 だが、それが彼の目覚めを誘ってしまったのだろう。睫毛が震え、ゆっくりと目が開かれた。黒曜石のような瞳が総司を見つめる。
「……総司……?」
 寝起きの掠れた声に、総司は何も云えなかった。黙ったまま、彼の躯のぬくもりを感じている。
 その様子をおかしく思ったのか、土方が総司の顔を覗き込んできた。形の良い眉を顰める。
「どうした……泣いているのか」
 長い睫毛が濡れている事に、気づいたのだろう。
 土方は総司の小柄な躯を抱きよせ、優しく宥めるように背中を撫でてくれた。
「怖い夢でも見たか。大丈夫だ……俺がここにいるよ」
「はい……」
 男の腕の中、総司は身を丸めた。子どものように。その仕草が尚のこと、彼の庇護欲を強めたのだろう。
 土方は総司を抱きすくめたまま、耳もとに唇を寄せた。そっと囁きかけてくれる。
「ずっとおまえの傍にいる。だから、もう泣くな」
「……土方…さん」
「総司、愛している……」
 いつまでも、永遠に。
 男の声は低く、そして優しかった。












「たまには外へ出てみないか」
 そう云った土方に、総司は、え?と驚いた。
 朝餉の片付けを終えた後、外の様子を確かめてきた土方は、いきなりそう云ったのだ。
「ずっと家の中にいるのでは、おまえも退屈だろう」
「そうですけど……でも」
 総司は視線を走らせた。
 足の怪我は少しずつ良くはなってきている。だが、それでも、楽に歩けるまでは回復していないのだ。この家の中でさえ、物につかまって少し歩くか、もしくは躯をずらすしかない。
 こんな状態で外に出ても、土方に迷惑をかけるだけだと思った。
「ちゃんと歩けませんから……」
「俺が抱いていってやるよ」
 あっさり答えた土方に、総司は目を見開いた。慌てて首をふる。
「そんな、いいです!」
 総司にしては強い口調に、土方は眉を顰めた。たちまち不機嫌そうな表情になってしまう。
 切れの長い目が、恋人を見据えた。
「……俺に抱かれるのが、嫌なのか」
「え?」
 総司は驚いた。
 一瞬、何を怒られているのか、わからなかったのだ。だが、すぐ言葉の意味に気づき、はっと息を呑んだ。
 もう誤解されたくないと、慌てて云いつのる。
「違います! ただ、あなたに迷惑かけたくなかったから……だから」
「迷惑などと思っていない」
「でも、その……」
 総司は口ごもった。なめらかな頬が柔らかく紅潮する。
「……恥ずかしいし……」
「誰も見やしねぇさ。この辺りには人気などない」
 そう云いきると、土方は総司を抱えるようにして土間まで連れていった。草鞋を履かせ、細い腰と膝裏に手をまわす。あっと思った時には、もう抱きあげられていた。
「ひ、土方さん」
 思わず叫んだ総司に、土方が唇の端をあげた。
「ほら、しっかり掴まっていないと、落としちまうぞ」
 そんな意地悪な事を云いながら、その実、男の両腕は小柄な躯をしっかりと抱いている。世にも稀な宝物のように。
 土方は総司を抱きなおすと、さっさと家の外へ出た。
 清々しい朝の風が、二人の髪をさらさらと吹き乱してゆく。
 初めて見る、陽の光の下での光景に、総司は思わず目を瞠った。縁側から見る事はできたが、それでも、外に出てその中に身を置くのとでは大きく違う。
 山は秋の紅葉を迎えていた。色とりどりの樹木が美しく、まるで艶やかな千代紙を散らしたかのようだ。鮮やかな黄金色と紅色が朝の陽を受けて、きらきらと輝き、眩いほどだった。
「なんて、綺麗」
 思わず感嘆の声をあげた総司に、土方は「あぁ」と短く答えた。
 ゆっくりと歩き出していきながら、総司に、あちこちの美しい紅葉や鳥の姿を指さして教えてやる。ここ数日、何度も入るうち、土方はこの山のことを知りつくしてしまったようだった。
 山の中腹、平地になっている処へ総司を連れ出した。
 泉がわき出ている処で足をとめた。二人で水を手ですくい、飲む。
「おいしい……」
 総司は声をあげ、土方の方をふり向いた。
「こんなおいしい水、初めてです」
「そうだな。生き返るような気がするな」
「えぇ」
 二人はしばらくの間、そこにで休んだ。
 そのあたりは森のようになっており、苔むした地面が柔らかだった。
 二人は苔の上に腰を下ろし、樹木に凭れかかった。男の肩に小さな頭が凭せかけられ、その細い肩を男の腕が抱いた。
 二人ぴったりと躯を寄せあい、互いのぬくもりを感じながら、緑の憩いに身をゆだねる。
 鳥の囀りと木の葉の擦れあう音だけが聞こえる静寂に、総司はうっとりと目を閉じた。


 愛しい人と、こうして心穏やかに過すことができる。
 これ以上の幸せがどこにあるだろうか。


 どんなに金を積んでも、立身出世を重ねても、手にいれることのできない幸せがそこにあるのだと、心から思った。
「総司……」
 そっと囁かれ、髪に、頬に、首筋に、口づけの雨が降らされた。
 優しい彼からの愛撫に、総司は陶然となる。男の腕の中はあたたかく、そして安らげた。
 人の肌は、ぬくもりは、こんなにも心地よいものなのだ。
 いつまでも、ずっとこうしていたい。
「土方さん……好き」
 小さく告げた総司に、土方が微笑んだ気配がした。見上げると、やはり柔らかな色をうかべた瞳が、総司を見つめている。
 にこりと笑ってみせると、土方はちょっと眉を寄せた。それを不思議に思ったとたん、ぎゅっと抱きしめられる。
「……あまり煽るな」
「え?」
「幾ら何でも、二度目で野合はねぇだろう」
「?」
 意味がわからず抱かれている総司に、土方はため息をついた。
「無意識に男を煽るんだからな、本当に始末におけねぇよ」
 小首をかしげている総司に苦笑しつつ、土方はその躯に腕をまわした。そのまま、軽々と己の膝上に抱きあげる。
 横抱きにされた総司は、驚いて声をあげた。
「ひ、土方さん……」
「いいだろ? 別に誰が見ている訳でもねぇし」
「でも、恥ずかしいです」
「この方がずっと近くに感じられる」
 男の言葉に、総司は目を見開いた。だが、すぐ目元を赤らめながら頷き、男の背に両手をまわす。
 総司だって近くに感じたいのだ。もっともっと土方の傍に寄りそって、その鼓動とぬくもりを感じていたい。
 長い間、引き離されていただけに、総司は彼のぬくもりに飢えていた。
 それは土方も同じくだったようで、視線があうと、小さく笑った。
「俺だって、おまえを感じたいさ。もっと……深くな」
 意味深な男の言葉に、総司の頬がぱっと赤くなった。恥ずかしそうに男の胸もとへ顔をうずめる。
 その細い躯を抱きしめながら、土方は頬に口づけを落とした。
「……いつから、だったんだ?」
 低い声で問いかけられ、総司は目を瞬いた。
「何が……ですか?」
「だから、おまえが俺に想いを寄せてくれた事さ。京へのぼってからだったのか?」
「違います。もっと前です」
「もっと前?」
「江戸にいた頃から、いつの間にか……あなたが好きになっていたのです」
 総司は一つ一つ己の想いを確かめるように、つづけた。
「あなたに逢って、憧れて、でも……いつか、あなたが女の人と寄りそうたび、胸に痛みを覚えるになりました。私以外の誰かがあなたにふれるのが、いやでたまらなかった。もしかすると、逢った時から、恋していたのかもしれませんね」
「なら、俺は随分とおまえに酷い仕打ちをした」
 土方の端正な顔に、悔恨の表情がうかんだ。
「おまえを諦めようと、女遊びをくり返していたんだが……それがおまえを傷つける事になっていたのか」
「土方さん」
 総司は身をおこすと、大きな瞳で彼を見上げた。
「今は、もう……いいのです。あなたが私を好いてくれていた、その事がわかっただけで幸せだから。でも」
「でも?」
「小芳さんのことは……」
「おまえが思い煩う事じゃねぇよ」
 土方は少し乱暴な口調で遮った。
 だが、それに、びくりと総司が身を竦めたことに気づくと、細い躯を抱き寄せた。背中を撫でてやりながら、和らげた声音で囁く。
「すまん、悔いるあまり荒い云い方をした。だが、思い煩う必要はねぇんだ。小芳とはただの芸伎と客の関係、それ以上でもそれ以下でもねぇ」
「本当……に?」
「あぁ」
 そう答えながら、土方は苦々しい思いを噛みしめていた。


 確かに、小芳とは芸伎と客の関係だ。
 だが、彼の妾同然となりつつあるのも事実だったのだ。
 総司が伊東の念者になったと聞いてから、土方は小芳のもとへ足繁く通うようになっていた。
 柔らかく受けとめてくれる小芳に救いを求めたのも、確かだ。そんな己を情けないと思いつつ、滾るような感情をもっていく場所が他になかった。
 彼も一人の男だ。
 冷徹な新撰組副長である以前に、若い男なのだ。傷つきもするし、怒りも嫉妬も悲しみもする。否、本来、土方は人並み以上に感情の激しい男だったのだ。
 だからこそ、総司を激しく愛したし、その存在を奪おうとする者には激しい憎しみも抱いた。
 そのくせ、土方は、その感情を一切表には出さなかった。新撰組副長として振る舞う以上、出せるはずがなかったし、何よりも矜持が許さなかった。
 そして、彼の感情は押し殺されただけに、奥深くでより昏く激しく燃えた。
 吐き出す場所が必要だった。
 そうでなければ、狂ってしまっていただろう。


 人はそんなに強くはないのだ。


 唯一の心の拠り所だった総司を失った以上、小芳のもとへ通うしかなかった。
 総司に去られる以前から、小芳の許へ通ってはいたが、これ程、頻繁ではなかったのだ。
 小芳はいつも土方を柔らかく受けとめてくれた。
 年上の男である彼を、まるで母親のように宥め、受け入れてくれたのだ。そのくせ、決して客と芸伎以上のものを求めぬ筋の通し方も、心地よかった。
 いつしか、小芳は、土方にとって大切な心の拠り所となっていたのだ。


(俺は、小芳を今更切り捨てられるだろうか)


 苦しい時、支えてくれた女なのだ。
 冷たく見える外見と裏腹に、その身の内に熱い情愛を秘めた土方にとって、いったん心許した者を自ら切り捨てるなど、到底できぬ事だった。
 何度も人に裏切られてきただけに、尚のことだったのだ。
 だからこそ、今、総司と想いが通じたからといって、手のひらを返したように小芳と縁をきることは、気がすすまなかった。
 客と芸伎の関係のままであったならいい。
 だが、今、土方と小芳の間には、他の者にはわからぬ確かな絆が結ばれつつあるのだ。


 土方は黙ったまま、目を伏せた。
 憂いの色がその端正な顔におちる。それを、総司は見つめた。


(私は……なんて身勝手なのだろう)


 男と女のことなのだ。
 幾ら芸伎と客の関係だと云いきっても、何度も情を交わした相手ならば、それなりに関係も深まっていくに決っていた。
 ましてや、小芳は、総司が土方と仲違いしていた間、ずっと傍にいた女なのだ。その想いを受けとめてきたのだ。土方が、それなりの情愛をもっても当然のことだった。
 それらの事を理解した上で、小芳の名を出したのだ。問いかけたのだ。
「……」
 総司は、そっと男の肩に小さな頭を凭せかけた。
 甘えるように擦りよせれば、気づいた土方が柔らかく頭を抱きよせ、髪に、額に口づけてくれる。
 恋人らしい愛撫を何よりも幸せに感じながら、総司は己の中にある闇に、そっと身震いした。
 

 幾度も嫉妬した。
 彼にふれる女たちすべてに嫉妬し、殺意まで覚えたこともあるのだ。
 だが、今、小芳に感じるそれは、限度を越えていた。
 いっそ、土方の前から消えてしまえばいい。
 そんな酷い事さえ願ってしまう己の罪深さに、息を呑んだ。


「総司……?」
 土方は訝しげに問いかけた。
 少しずつ陽が空の頂きに近づきつつあったが、二人はまだあの森の中にいた。苔の上に坐り、身を寄せあっている。
 だが、総司はずっと黙ったままだった。口を閉ざしたまま、何か深く考え込んでいる。
 それに、気遣わしげな視線をむけた。
「どうした。何か気にさわった事を、俺が云ったか?」
 総司は俯き、小さく首をふった。
「……何でもありません」
「それが何でもないって顔か」
 土方は、先程までの会話を思い出した。微かに眉を顰める。
「小芳のことなら、総司、おまえが心配する事ではないんだ」
「わかっています……ごめんなさい」
 土方の躯に身を寄せた。そっと小さな頭を彼の肩口に凭せかけ、目を閉じる。
 だが、その目の裏に浮かぶのは、小芳と寄り添う土方の姿だ。


(いやだ……)


 きつく唇を噛みしめた。
 京へ戻れば、それは現のこととなる。
 実際、土方の傍にいるのは小芳なのだ。総司ではない。
 総司が愛されるのは、今、ここにいる間だけ。
 夢の中でしか愛されない自分なのだ。
 それがたまらなく惨めだった。いつでも、土方の傍にいられる小芳が羨ましくてたまらない。
 だが、彼女を羨ましく思う資格など、自分にはなかった。それがよくわかっているからこそ、尚、堪らなくなる。
 時は二度と戻せぬのだ。