喜びも哀しみも
 つきぬけた境界線
 あなたと二人駆けてゆきたい
 この世の果てまでも









 夜の闇が迫り始めていた。
 本来なら、もうとうの昔に宿へたどり着いてなければならない頃だ。
 だが、二人は未だ戸外にいた。宿どころか、ここが何処かわからぬ有様だった。


(いったい、どうすればいいのだろう)


 総司は細い眉を顰め、暮れ始めた空を見上げた。
 辺りは薄暗くなり始めていたが、まだ周囲の様子はわかる。樹木が生い茂り、鬱蒼とした山中だった。傍にいる男の横顔も見える。
 だが、それは何の慰めにもならなかった。否、かえって──。
「……」
 思わずため息をもらした。
 新撰組一番隊長として戦ってきた総司にも、全く不測の事態だった。まさか、こんな事になると思っていなかったのだ。
 出張先の大坂から京へ戻る最中だった。
 この山中で浪士達と斬り合いになり、足を滑らせ崖下へ落ちてしまったのだ。思わず庇おうとした男も共にだった。幸いにして命に別状はなかったが、総司は足を怪我してしまっていた。


 これから、どうするべきなのか。
 否、どうなるのか。
 この人以外なら、他の誰でもよかった。
 よりによって、土方さんとこんな事態になるなんて───


 そう思っている総司の前で、土方がゆっくりとふり返った。
 薄闇の中、切れの長い目が僅かに細められた。
「……」
 思わず見つめ返した総司に、男の低い声が訊ねた。
「……怪我の具合は?」
「折れてはいないと思います」
「だが、一人では立てないのだろう」
「たぶん」
 頷いてから、総司は男を見上げた。
「山小屋でも……探すのですか」
「まだ日のあるうちにな」
 土方は淡々とした口調で答え、こちらに手をのばした。総司の腕を掴み、柔らかく立ち上がらせてくれる。
「歩けるか」
「……わかりません」
「ゆっくりと足を踏み出してみろ」
 云われ、総司は怪我してない方の足を踏み出した。だが、すぐによろめいてしまう。
 耳もとで、土方が短く舌打ちした。びくりとして見上げれば、僅かな苦笑をうかべている。
「抱いていった方が早いようだ」
「え……っ」
 驚く総司の前で、土方はかるく身をかがめた。そのままするりと膝裏にも腕をさし入れると、軽々と抱きあげてしまう。
「!」
 抗う暇もない行動だった。
 まるでごく当然のように若者の華奢な躯を抱きあげた土方は、山中を歩き出した。それに一瞬、身を捩りかけたが、動揺していると知られれば嘲られるだけだと気づいた。黙って身をまかせる事にし、男の逞しい肩に手をまわす。
 土方も無言だった。何も云わぬまま、総司を抱いて歩いてゆく。いくら華奢だと云っても、それなりに鍛えている躯だ。それを軽々と抱いてしまう彼に、体格や力の差を見せつけられた思いで、総司はきつく唇を噛みしめた。


(この人はいつだってそうだ)


 圧倒的な存在として、常にあった。
 総司にとって、永遠に追いつくことのできない存在。
 幼い頃から憧れて恋して、ずっと見つめてきた。兄として慕い、優しく接してくれる彼に心を躍らせた。
 だが、それは永遠の片思いだった。
 土方は女にしか全く興味を示さず、男色など思った事もないようだった。否、むしろそれが当然なのだ。江戸にいた頃から、端正な容姿のため大勢の美しい女を惹きつけていた彼だった。誰が好きこのんで少年になど手を出すのか。
 土方にとって、総司は弟のような存在でしかなかった。年下の友人としての愛情は見せてくれたが、そこまでだったのだ。
 結局、総司は一縷の望みもない恋に疲れ果ててしまった。
 そして、総司の恋は終わったのだ。


(あれから、私たちの関係は変わってしまった)


 終った恋を消し去るため、総司は土方に背をむけた。
 恋しい人としてどころか、友人として、兄弟のような関係からも、身を引いたのだ。そうでもしないと、耐えられないと思った。恋しい男の傍に、これ以上いられるはずもない。少しでも距離を置き、別の道を歩みたいと望んだ。
 彼に気づかれぬよう、仕事を云い訳にし、少しずつ距離を置いていった。だが、鋭敏な土方が、そんな総司の態度に気づかぬはずがなかった。
 否、気づいてはいたのだろう。
 だが、土方もまたそれを追おうとしなかった。
 総司が彼から離れようとしていると気づいたとたん、酷く冷ややかな目をむけたのだ。そして、何かを嘲るように嗤うと、彼の方から突き放してきた。
 それは信じられぬような豹変ぶりだった。今までの優しい笑顔が偽りだったのかと思うほど、酷薄な瞳で見据えられた瞬間、総司は、彼の中にある本質を知った。


 むろん、長い年月、彼が自分を愛しみ、優しくしてくれた事は、偽りだと思わない。
 だが、土方は誰よりも誇り高い男なのだ。自ら去ろうとする者を追うなど、彼の矜持が許すはずがなかった。今まで、様々な男女に対しても行ってきた事だった。
 そして、それは、総司に対しても何一つ変わらぬ行為だったのだ。
 今まで切り捨てた男女と同等の存在なのだと、思い知らされた。むろん、恋だの、愛だの、期待した訳ではない。だが、せめて、弟として大切に思ってくれていると、そう信じていた総司にとって、手のひらを返したような土方の冷たい態度は、衝撃だった。
 自分が悪いとわかっている。離れようとしたのも、自分だったと。
 だが、それでも辛かった。悲しかった。
 そんな総司の想いに追い討ちを掛けたのは、土方の行動だった。
 まるで花でも摘むように、美しい女たちの間を遊びまわり始めたのだ。彼にとって、恋など遊びにすぎぬようだった。島原や祇園に馴染みの女がいると噂に聞いた。実際、彼女たちにしなだれかかられている土方を見た事もある。
 そのたびに胸を刺し貫く痛みに、総司は息がとまるかとさえ思った。
 

 そして、今や、弟としてさえ傍にいることも、許されないのだ。
 どれ程、隊の中で冷然と振る舞おうとも、総司にだけは心を許し、江戸の頃と同じ笑顔をむけてくれていた彼。だが、そのすべてが失われた。今更どれ程悔い、懇願しても、土方は決して許さないだろう。
 何故なら、土方の傍には、総司の代りが既にいるのだ。
 三番隊組長、斉藤一だった。
 今まで総司が占めていた腹心という位置に、斉藤はいるようだった。
 もともと剣術にも優れ、その上、総司の数少ない友人である斉藤は、土方の右腕となって働いているようだった。むろん、土方と総司のように兄弟のような関係ではない。だが、総司が今までいた場所に、斉藤は存在していた。
 土方にとって、斉藤は、背中を預けて戦える存在となっていたのだ。
 そうして並び立つ二人を見た時、総司は、自分がどれほど大切なものを手放したのか、ようやく知った。己の愚かさを心から悔いた。
 だが、総司はそれらの感情を、表に出すことだけは堪えた。
 自分自身の矜持が許さなかったし、何よりもこれ以上、土方に軽蔑されたくなかったのだ。こうして一人泣いているさまを知られれば、今更未練がましいと嘲られるに違いない。だからこそ、総司は必死に自分を抑えた。


 本当は苦しくて、淋しくて。泣きたくて。


 だが、そんなこと許されるはずがなかった。許してはいけなかった。今の状態を招いたのも、望んだのも、自分自身なのだから。
 そうして己をがんじがらめに縛り、戦いつづけ、もう半ば自暴自棄になりかけていた時、そんな総司に、一人の男が手をさしのべた。
 土方とは違う。
 だが、深く澄んだ鳶色の瞳をもった男は、静かに云ったのだ。


 私と共に来なさい──と。


 そして、総司は、さしのべられた手を拒めるほど、強くはなかった……。












 山の谷間に、一軒の家があった。
 それを見つけた時、彼らは人がいるかと安堵した。だが、間違いだった。
 うち捨てられた家だった。とは云っても、まだ最近らしく、中はそれ程酷く荒れていなかった。それどころか、豪商の別邸か何かだったのか、なかなか贅沢な造りで、畳敷きの部屋に、濡れ縁、囲炉裏や土間もある。
 皿や鍋などもあり、また、押し入れの中には布団も、箪笥の中には真新しい着物まであった。男物と女物だ。だが、人の気配は全くない。
「どうやら空き家らしいな」
 そう呟いた土方は、総司を床に下ろすと、手早く囲炉裏に火を起こし始めた。秋口とはいえ、山間の夜は冷える。二人とも躯が凍えそうだった。とくに、総司はなめらかな頬が青ざめてしまい、小さく震えている。
「早く火にあたれ」
 そう云った土方を、総司は大きな瞳で見上げた。それから、のろのろと囲炉裏の傍に寄ると、手をかざす。
 ぱちぱちと音をたてて火がおこり、あたたかさが家の中に満ちていった。それに、安堵し、土方は家の中を見回した。
 冬の間は使われていないのか、それとも本当に誰も住んでいないのか、鍋や箪笥に埃がうっすらと積もっていた。
 土方は外へ出ると、裏に小川を見つけた。そこで鉄瓶を洗って水をくみ、それを持ち帰って囲炉裏にかける。
 白湯でもよいから、何かあたたかいものを総司に飲ませなければと思ったのだ。
 湯をわかす間に、怪我の手当をした。傷口はなく、だが、足が酷く腫れてしまっている。折れてはいないようだが、骨に罅ぐらいは入っていそうだった。
 冷やし、いつも常備している軟膏を塗って晒しで巻いてやる。これで少しは腫れがましになるはずだ。手当が終る頃には、湯もわき、それを土方は湯飲みに注いだ。
「ほら、これを飲め」
 さし出されたそれを、総司はすぐに受け取ろうとはしなかった。黙ったまま、見つめている。


 ……不意に、泣き出したくなったのだ。
 目の前にさし出された、彼の優しさに。


 こうして火を起こしてくれたことも、手当をしてくれることも、まるで昔に戻ったようだった。
 あの頃も、こうしていつも彼は自分の世話を焼いてくれたのだ。幼い頃から食事や着替えの世話まで手伝ってくれ、彼の膝上で食事をとった事もあり、その度に近藤が呆れていたのをよく覚えている。





「いい加減にしろよ、歳」
 呆れきった表情で、近藤が云った。
 試衛館ではない。宗次郎がまだ道場に入る前の頃だ。
 土方の姉であるおのぶが嫁いだ佐藤家で、食事をする事になったのだが、いつものように、土方は宗次郎を膝上に抱きあげた。そうして、まるで雛に餌をやるように、可愛い唇へ料理をいちいち運んでやるのだ。
 その様にたまりかねた近藤が云った。
「甘やかしすぎて、後悔しても知らんぞ」
「後悔って、何で」
 心底不思議そうに、土方は問いかけた。
「だから、あまり甘やかしすぎて、宗次郎がきちんと独り立ちできなくなったらどうするのだ。おまえは、その責任をどうとるつもりだ」
「どうって……食事ぐらいで、固いことを云うなよ」
「食事だけではないだろう。着替えやら何やら、どこぞの姫様にするように、おまえが宗次郎の世話をしていると、もっぱらの噂なんだぞ。人形遊びでもあるまいし、何の気まぐれを起こしたが知らんが、いい加減にしろ」
「人形遊び、ねぇ」
 くっくっと喉を鳴らし、土方は笑った。そうして、膝上に坐った愛らしい少年のつやつやした髪を撫でてやる。
 白い額に口づけを落しながら、切れの長い目で親友を眺めやった。その様はまるで流し目のようで、端正な顔だちの彼がそんな仕草をすると、ぞくりとする程の色気が漂う。
 精悍で水際だった容姿をもつ男が、そうして愛らしい少年を腕に抱いているさまは、どこか倒錯的でありながら艶やかで、一幅の絵にしたいような光景だった。
 今も、二人が話している間、男の膝上に坐った少年は、彼の逞しい胸もとに凭れたり、頬を寄せたりしている。
「人形遊びだとしたら、こんな面白い贅沢な遊びはねぇよな」
「歳、宗次郎は侍の子なのだぞ。それを」
「人形遊びと云ったのは、あんたの方だろうが。俺は全然そう思っちゃいねぇし、俺なりに宗次郎を大切に思っているからこその行為なんだぜ」
「大切に思っているなら、独り立ちさせろ。甘やかせばいいってものではないだろう」
「そうかな。俺は宗次郎をうんと甘やかして可愛がって、大切にしてやりてぇよ」
 低い声で答えた土方の瞳に、暗い翳りが落ちた。
 何を彼が思っていたのかは知らない。ただ、土方が、宗次郎の身の上をよく知っていたのは確かだった。貧しさ故に、口減らしのため道場へやられると聞いていた事も、事実だったのだ。
 他人に興味などもった事もない男だった。ましてや子どもなど、道ばたの小石ほどにも思わなかっただろう。
 だが、何故か、土方は宗次郎を慈しんでくれた。愛し、大切に守り、優しく甘やかせてくれたのだ。
 そうして、彼の庇護のもと、宗次郎は成長した。彼だけを見つめてきたのだ。
 京へのぼってからも、その関係は変わる事はなかった。総司が手をはなすその瞬間まで、土方は優しかったのだ。
 なのに……。





 いつのまにか、思いに沈み込んでしまっていた。
 総司は瞳を翳らせたまま、ぼんやりとさし出された湯飲みを見つめていた。
 それが誤解を招いた事は確かだった。
 はっと気づいた時には、土方は忌々しげな表情で短く舌打ちしていた。もう湯飲みは置かれてしまってある。
「俺の手から物を受け取るのが、そんなに嫌か」
「え」
 総司は目を見開き、慌てて弁明しようとした。
「ち、ちが……っ」
「まぁ、何でもいいさ。とにかく飲んでおけ。後で倒れられたら迷惑だからな」
 吐き捨てるような彼の口調に、頬がこわばった。きんと指さきまで冷たくなる。
 これは、優しさ故ではないのだ。
 足手まといである総司が迷惑だから、仕方なくしているだけの事なのだ。


(そんなの、今更なのに。よくわかっていた事なのに……)


 総司は俯き、きゅっと唇を噛みしめた。
 それから、湯飲みを取り上げると、口にはこぶ。ふわりと柔らかな湯気が頬をくすぐった。
 土方はもう総司に何の興味も失ったのか、知らぬ顔で立ち上がり、家の中を探っている。やがて、安堵したように息をついた。
「米があったぞ。とりあえず、これで粥でもつくって食うか」
「……はい」
「おまえのその足じゃ夜までに山を下りられねぇだろう。とりあえずここに泊まって、明日の朝、山を下りればいい」
 怪我をしている以上、土方の言葉に従う他なかった。
 土方は、いつも隊で身の回りの世話を小姓たちにさせている男とは思えぬ手際の良さで、米をとぎ、粥を炊き始めた。それをぼんやり見ていた総司は、はっと我に返った。
「あ、私がします」
「怪我人が何を云っている。歩く事もおぼつかねぇくせに」
「でも、それでは申し訳ありません。そんなこと、土方さんが……」
 云いかけ、声を呑んだ。
 土方が訝しげに眉を顰め、ふり返ったことに気づいたからだ。その表情を見たとたん、気がついた。
 彼の名だ。
 もう随分と長いこと、「土方さん」という呼び方をしていなかった。言葉を交わすことを極力避け、どうしても呼びかけなければならない時も、「副長」と呼ぶことで己を抑えてきたのだ。
「あ……」
 思わず顔を伏せてしまった総司の前で、しばらくの間、土方は押し黙っていた。だが、やがて、目を伏せると、低い声で呟いた。
「……土方さん、か」
「……」
「久しぶりだな、その呼び方。おまえにまた、そう呼んで貰えるとは思ってもいなかったよ。まして」
 冷笑が男の口許にうかんだ。
「あの男のものとなったおまえから、な」
「……っ」
 総司はますます躯を固くし、俯いてしまった。膝上に置いた手がぎゅっと袴を握りしめている。
 それを眺め、土方は目を細めた。だが、それきり何も云わぬまま、粥の用意をしてゆく。
 やがて、さし出された椀を、総司は黙ったまま受け取った。甘くあたたかだった。
 いつも冷たく見える彼の本質そのままのように。