「忘れちまった方がいい」
そう言うと、歳三は黙り込んでしまった宗次郎に、返事を促すように髪を優しく撫でた。
「そんな辛い夢など……忘れた方がいいんだ」
「……」
「いいか、わかったな?」
「……でも……っ」
宗次郎は言わずにはいられなかった。
忘れたくても、忘れることなど出来るはずもないのだ。
何度も何度も見た夢だった。
まるで、現の出来事のように生々しい夢。
それも、目の前でこうして語りかける男が夢の中に出てくるのに。
なのに。
「あんな……何度も見るのに?」
「……」
「今日の夢は初めてだったけど、いつもは……っ」
「……いつも?」
歳三の眉が顰められた。きっと口許を引き締めると、身をかがめ、宗次郎の顔を覗きこんでくる。
少年の気持ちを探るように鋭い視線をあてた後、静かな低い声で問いかけた。
「いつも……夢を見るのか」
「……」
「いったい、どんな夢を見るんだ。宗次郎」
「……ぁ」
息がつまった。
なんと答えればよいのかさえ、わからなくなる。
まるで、夢の中にいるようだった。熱っぽい瞳で見つめてくる男と、自分。
彼が自分に話しかける声音は、夢の中そのままだ。
宗次郎はきつく両手を握りしめた。ゆるりと首をふる。
「言えない……言わない」
「宗次郎」
「歳三さんには……言いたくない」
そう言って身をひるがえそうとした宗次郎の手首が、素早く?まれた。驚いて見れば、歳三が強い力でつかみ、引き寄せるところだった。
怒ったのかと思って身をすくめるが、男は恐ろしいほど無表情だ。冷たく澄んだ瞳が宗次郎を見据えた。
「俺には言えないのか」
顔を近づけ、問いかける歳三に、宗次郎は息をつめた。そのまま見つめ返していると、やがて、歳三はふっと唇の端をあげた。
目を細め、独り言のように呟く。
「そうだな……俺にだけは言いたくねぇか」
「歳三…さん」
「あの夢が現になっちまったら、たまらねぇよな」
「!」
宗次郎は目を見開いた。
まるで、何もかも知っているような言い方だった。宗次郎がどんな夢を見たのかさえ、知っているような口調に、言葉に、息を呑む。
呆然と見上げている宗次郎から、歳三はゆっくりと手を離した。そのまま身を起こすと、背を向ける。
部屋を出ていこうとしている歳三の背中を、宗次郎は見つめた。
あの、背だった。
ずっと追いかけて、一緒に逃げて、自分を守り──そして。
愛して、愛して、愛し抜いた。
彼の……
「……っ!」
なんと叫んだかは、わからない。
覚えていない。
だが、次の瞬間、宗次郎は両手をのばし、歳三の背中に抱きついていた。後ろから縋りつき、抱きしめる。
それに、歳三は雷に打たれたように立ちすくんだ。目を見開き、呆然と抱きつかれるままでいる。
何を宗次郎が口走ったのか、少なくとも、歳三には理解できたようだった。
それは、彼の名だった。
あの夢の中の。
生涯でただ一人、命がけで愛した彼の……
「──」
ふり返った歳三の前で、宗次郎の身体が花が手折られるようにくずれた。
それを抱きとめる男の瞳が暗く翳った。
(……愛してる……)
いつ変わらぬ言葉だけを胸に。
清々しく晴れ渡った空だった。
雲ひとつない晴天だ。
汗をぬぐいながら、宗次郎は青空を見上げた。
佐藤屋敷での稽古が終わったところだった。稽古はいつもどおりの事であり、宗次郎も剣術の事になれば夢中になってしまう。他の事も忘れ、稽古に打ち込んだ。
だが、稽古が終わってみれば、やはり、他の事が胸奥をしめてしまうのだ。
(……歳三さん……)
あの後、宗次郎は気を失ってしまったようだった。
気がつけば、夜は明けていて何事もなかったように寝かされていたのだ。
だが、夢を見たことも、歳三と言葉をかわしたことも現だった。
その証に、朝餉をとるために現れた宗次郎に、おのぶが心配そうに声をかけてきたのだ。もう大丈夫なのかと気遣うおのぶに頷く他なかったが、その場に歳三の姿はなかった。
どこへ行ってしまったのか、屋敷の中にもその存在はないようだった。
おそらく江戸へ戻る時には現れるだろうが、それでも、宗次郎にすればとても複雑な気持ちだった。
どんな顔をして逢えばいいのか、わからないのだ。
考えれば考えるほど、昨夜の歳三の言葉が頭の中に蘇った。
あの夢が現になっちまったら、たまらねぇよな
まるで自嘲するようだった言葉。
昨夜は夢を知っていると言わんばかりの様子に気がとられていたが、歳三はあの時、酷く切ない傷ついたような声音で呟いたのだ。
当然のことだと、自嘲するようだった。
宗次郎は、その言葉の意味が狂おしいほど知りたかった。
なぜ、あんなことをいったのか、あんなにも哀しげだったのか。
わからないからと言って、逃げてばかりでは何も解決するはずがなかった。
自分が夢で惑わされるだけならいい。
だが、そのことで歳三が傷ついているのなら、話は別だ。
歳三が傷つく姿など、二度と見たくなかった。自分が傷ついた方がいい、苦しんだ方がいい。
彼の暗い瞳を見た瞬間、胸奥が抉られるような気がしたのだ。
宗次郎は部屋へ戻って稽古着からこざっぱりした小袖に着替えると、歳三を探すためにおのぶのところへ向かった。
縫い物をしていたおのぶは、宗次郎が来たのに気づくと笑顔になった。
「けいこはおわったのかい?」
「はい」
「じゃあ、お茶でも入れて……」
「あの」
宗次郎は訊ねた。
「歳三さんは、どこにいますか?」
「歳三かい?」
おのぶは振り返り、かるく小首をかしげた。
「さっき戻ってきたようだから、自分の部屋だと思うけどね」
「ありがとうございます」
宗次郎は勢い良く頭を下げると、すぐさま彼の部屋へ向かった。
今日も、冷たく拒絶されるかもしれない。すげなくされたり、誤魔化されるのかもしれない。
だが、それでも彼に逢いたかったのだ。逢って、訊ねてみたかった。
あなたは、あの夢の中の人ですか? と。
緊張しながら宗次郎は歳三の部屋に向かった。
歳三の部屋は庭に面している。障子が開け放たれ、朝の光が射し込んでいた。だが、そこに誰の姿もない。
「……」
宗次郎は戸惑い、周囲を見回した。すぐに小首をかしげた。
どこにも歳三の姿はないが、塀の向こう側で人の気配がしたのだ。話し声も聞こえてくる。
縁側から降りた宗次郎は、庭下駄に足を入れた。塀の向こうはむろん、外だ。
そっと出てのぞいてみると、少し離れたところに歳三の背が見えた。
「……歳三さ……」
声をかけようとした瞬間、はっと息を呑んだ。
白い手が彼の肩にかけられたのだ。
歳三の背に隠れてわからなかったが、一人の女が彼に寄り添っていた。何か囁きかけている。
この辺りではあまり見かけない女だった。歳三を江戸から追ってきたのか、それとも、日野での知り合いなのか。どちらにせよ、親密な関係であることは確かだった。
女は白い手を男の身体に絡みつかせ、甘く囁きかけていた。それに歳三がどんな表情で応えているのか、こちらからは見えないが、宗次郎にとってはどちらにせよ同じことだった。
(私は……何をしようとしていたの)
のろのろと宗次郎は両手で唇をおおった。
叫びだしそうな気がしたのだ。恥ずかしくて、切なくて、みじめでたまらなくて。
娘でもないのに、彼を好きになってしまっていた。
こんな痩せっぽっちの子どもなど、彼が相手にしてくれるはずもないのに。
あれだけ、さんざん冷たくされて、それでもわからなかったなんて。
夢の中の人かと訊ねることは、つまり、愛した男かと問いかけることだ。
歳三と宗次郎の間に、愛などあるはずがなかった。恋も愛も、ありえるはずがないのだ。
それなのに、自分は彼に問いかけようとしていた。夢だけでなく、現でも愛されたいと願っていた。
夢の中の男と瓜二つだからではない。
歳三が好きだから、今、ここにいる彼が好きで好きでたまらなくなってしまったから……。
「……っ」
気がつけば、視界が歪んでいた。
大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。それに、慌てて手の甲で拭った。
だが、無意識のうちに嗚咽がもれてしまう。
「──」
不意に、歳三がこちらをふり返った。そして、細い身体を震わせて泣く宗次郎を見た瞬間、息を呑む。
「宗次郎……!」
慌ててこちらへ駆け寄ってこようとする男の気配に、びくりと肩が跳ね上がった。
反射的に身をひるがえし、その場から逃げ出す。
塀の中へ入れば、他の誰かに泣き顔を見られてしまうと思った。
そのため、宗次郎は佐藤屋敷から離れ、その近くにある雑木林めざして駆け出した。雑木林に入ってしまえば、誰の目にもふれなくなる。そこで、思う存分泣けばよいと思ったのだ。
まさか、歳三が追ってくるとは考えてもいなかった。
だからこそ、雑木林の中へ逃げ込んだとたん、手首を掴まれ、心の臓がとまるほど驚いた。
「っ!?」」
ふり返れば、歳三が鋭い瞳で見下ろしていた。
だが、その瞳も、宗次郎の泣き顔を見たとたん、和らぐ。
「宗次郎」
なめらかな低い声で呼ばれ、宗次郎は我に返った。それまでは驚きのあまり、呆然と彼を見上げていたのだ。
慌てて後ずさり、首をふる。
「ど、うして……」
「……」
「どうして、私を追いかけてなんか……」
「泣いているおまえを、放っておけるか」
荒々しく言い捨てた歳三は一瞬、きつく唇を噛みしめた。
「自惚れかもしれねぇが……おまえ、俺のせいで泣いたのだろう? 俺が女といたから……」
「……っ」
宗次郎の頬がかっと熱くなった。恥ずかしくてたまらず、俯いてしまう。
ぎゅっと両手を握りしめた。
「ごめん…なさい」
「宗次郎」
「あなたが誰といても自由なのに、私には関係ないはずなのに……なのに、たまらなくて……泣きだしてしまって……っ」
言っているうちにも、涙がこみあげた。瞳に大粒の涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。
なめらかな白い頬をつたう涙に、歳三は息を呑んだ。
「……」
何も言えぬまま手をのばすと、宗次郎の細い身体を引き寄せる。そのまま胸元にきつく抱きすくめた。
髪に頬をすりつけ、まるで愛しい恋人にするかのように、耳もとや額に何度も口づけの雨を降らせる。
「宗次郎……もう泣くな。おまえが泣くと、俺は息ができないぐらい辛くなっちまうんだ。たまらなくなるんだ」
「歳三、さん……っ」
「二度と、あんな思いはさせねぇから。おまえの前で女と逢ったりしねぇよ。いや、おまえが俺の傍にいてくれるなら、もう一度、おまえがこの俺を……」
言いかけ、歳三は不意に言葉を途切れさせた。そのまま黙りこんでしまう。
長い沈黙を訝しく思い、宗次郎は顔をあげた。歳三を見上げる。
「……歳三さん?」
彼は、固く目を閉ざしていた。何か激しい苦痛に堪えるかのように眉根を寄せ、奥歯を食いしばっている。
必死に何かを堪えているようだった。
己の中にある葛藤と戦っているような男の様に、宗次郎は息を呑んだ。
だが、何かしたくて、どうしたらいいのかわからないまま、そっと手をのばした。歳三の腕にふれようとする。
その瞬間だった。
「あっ」
突然、激しく突き放された。
先ほどまでの抱擁が嘘のように、偽りのように、突き放されたのだ。
宗次郎は思わず後ろへよろめいたが、なんとか踏みとどまった。驚きに目をみはり、歳三を見上げる。
「……」
だが、歳三は宗次郎の方を見ていなかった。顔を背け、雑木林の中、視線を宗次郎に向けぬまま立ち尽くしている。
呻くように言った。
「俺に……近寄るな」
「歳三さ……」
「これ以上、俺に近づくな。何もかも駄目になっちまう」
意味がわからなかった。
先ほどまであんなにも優しく抱きしめてくれたのに、二度とあんな思いはさせないと言ってくれたのに、どうして。
「どうして」
「理由なんざねぇよ。ただ、俺を憎んでも嫌っても構わねぇ、けど……もう俺には近寄るな」
「そんなの……できない……!」
宗次郎は思わず叫んでいた。
両手をのばし、歳三の身体にしがみつく。歳三は当然、引き離そうとしたが、それに泣きながら縋りついた。
「そんなこと、できるはずがないでしょう? 私は……あなたが好きなの。好きで仕方がないのです。なのに、そんな……離れるなんて出来ない」
「宗次郎……っ」
「自分でもどうすることも出来ない気持ちなのに……私も、どうすればいいのか、もうわからないのに」
宗次郎は歳三の胸もとに顔をうずめ、懇願した。
「お願い……私を拒まないで、嫌わないで……あなたに冷たくされると、私は息がとまりそうになるの……っ」
「宗次郎、俺がおまえを嫌うなんざ、ありえねぇよ。けど、俺はおまえに相応しい男じゃねぇんだ。俺はおまえの傍にいちゃいけないんだ」
「どうして? 誰がそんなこと決めたの? そんなの」
思わず叫んだ。
「あなたが私に相応しいか、ふさわしくないかなんて、そんなの私が決めることでしょう? 私は誰に何を言われても、あなたの傍にいたいの。歳三さん、あなたの……」
「おまえはまた地獄へ落ちたいのかッ!」
不意に、歳三が怒鳴りつけた。
切れ長の目の眦がつりあがり、眉根はきつく寄せられていた。端正な顔は青ざめてさえいるようだった。
驚いて見上げる宗次郎の肩を、歳三は激しく掴んだ。
そして、言葉をつづけた。
「追いかけられ追い詰められて、挙句、犬畜生のように嬲り殺される……っ、そんな末路を再び辿りたいのか」
「……」
「俺たちは……逢ってはいけなかった、逢わなければよかったんだ……っ」
悔恨と慟哭と苦しみ。
すべてが入り混じった激しい口調だった。
その男の声を聞いた瞬間、宗次郎の中で何かが弾けた。
躰中が燃えるように熱くなり、それから、指さきだけが冷たくなる。
押し寄せてくる記憶に、過去に、押し潰れそうだった。
だが、それに耐えようとした瞬間、最後の絶望が宗次郎を襲った。
息がとまる。
「──」
そして。
大きく目を見開いた……。
次で夢のことが明かされます。