……何故、あんな事になったのだろう。
 二人は幼い頃から定められた許婚だった。城下町の武家屋敷。隣同士だったこともあり、家族ぐるみのつきあいだったのだ。
 ひそかに慕っていた彼が自分の将来の夫だと知らされた時、頬が火照ったが、とても嬉しかった。端正な容姿をもち、頭も切れる彼は殿の覚えもめでたく、出世頭だと誰もが羨んだが、そんなことは関係なかった。
 ただ、好きだったのだ。
 誰よりも彼だけを愛していたのだ、ずっとずっと昔から。
 そして、いつまでもそうなのだと信じていた。
 いつか年頃になれば、彼の妻となり、幸せな日々がつづいていくのだと思っていた。
 なのに。


(不幸は突然、訪れた……)


 筆頭家老の息子が彼女を見初めたのだ。
 有名な乱暴者で酒乱だったが、断ることが出来る立場ではなかった。身分が違いすぎたのだ。
 結局、強引に話が進められた。
 彼女も諦める他なく、毎日、泣き暮らしていた。
 ところが、式がもう直にせまったある日、彼がひそかに訪れてきたのだ。





「……逃げよう」
 低い声で言った彼に、息を呑んだ。
 大きく目を見はる。声が震えた。
「私をつれて逃げるなんて……あなたは全てを失います……」
「もとより承知の上だ」
 迷いなど全くないようだった。深く澄んだ黒い瞳が見つめた。
「俺はおまえがいればいい。他には何も望まん」
「……っ」


 何もかも捨てて逃げようとしてくれる、愛しい男だった。
 自分のために、出世も地位も……そして、命さえも、捨ててくれると言ってくれるのだ。
 そんなにも愛されているとは思っていなかった。
 だが、泣きたいぐらい嬉しかった。
 死んでもよかったのだ。彼と一緒になれないぐらいなら、死んだ方がよかった。
 だからこそ、一緒に逃げた。
 彼の手をとり、その夜、ひそかに城下から逃げ出したのだ。
 数年に及ぶ逃亡生活だった。苦しくて辛い旅だった。
 だが、彼が傍にいてくれればよかった。それだけで幸せだった。
 当然、追手はかけられた。討たれぬはずがなかった。
 とうとう追い詰められた二人に、逃げ場はなかった。
 いくら剣の腕がすぐれた彼であっても、多勢に無勢だ。しかも、彼女を庇いながらの闘いでは勝てるはずもなかった。
 今も覚えている。
 目の前で、彼が傷つき、力つきていった様を。
 命、絶たれていったさまを。
 そして。
 彼の熱い血潮を全身にあびた瞬間を───













「……宗次郎」
 低い声で呼びかけられた。
 ゆっくりと頭をめぐらせば、黙ったまま胸もとに身体を引き寄せられる。
 あの頃と同じ、あたたかなぬくもりだった。幼い頃から慣れ親しんだ、彼の匂いと愛しいぬくもり。
 宗次郎はふっくらとした桜色の唇を噛みしめた。
 先ほどの雑木林から少し離れた丘の上だった。小高い丘となったそこは草むらが柔らかく敷きつめられ、可愛らしい花も咲いている。
 その丘の上にある樹木に、二人は凭れて坐りこんでいた。身を寄せあい、長い間、黙りこんでいたのだ。
「宗次郎……すまねぇ」
 小さな頭を胸もとに引き寄せ、額に口づけながら歳三が囁いた。
「結局、俺はおまえの記憶を呼び戻しちまった。あんなこと……思い出させたくなかったのに」
「歳三さんは……ずっと覚えていたのでしょう? 何があったのかも、全部」
「あぁ」
 ほろ苦い声音で答えた歳三に、宗次郎は長い睫毛を伏せた。
「だから……私を避けていたの?」
「……」
 突然の問いかけに、歳三は驚くことがなかった。静かに身をおこし、宗次郎の顔を深く澄んだ瞳で見つめる。
 あの、ふたり手をとりあって、共に逃げた運命の夜のように。
「そうだ」
 短い沈黙の後、歳三は答えた。
「俺はおまえに前世の記憶など取り戻させたくなかった……いや、逢わずに済むのならその方がいいと思っていた。あんな酷い定めをおまえに与えた俺だ、おまえを地獄に引きずり込んだのも俺だ……もう二度と、おまえと逢う訳にはいかなかった」
「あなたのせいなんかじゃ……っ」
「いや、俺のせいだ」
 歳三はきっぱりと言いきった。
「俺があの夜、おまえを連れださなければ、あの時、俺がおまえを諦めていれば……あんな事にはならなかった。おまえを追いつめたのは、この俺だ」
 苦渋にみちた声音だった。
 この男が長い年月、抱えてきた苦しみと慟哭を感じとることが出来るような。
「俺がおまえを地獄に引きずりこんだ……」
「それは違います」
 宗次郎は激しく首をふった。
「私があなたと一緒に行きたいと望んだから、あなたと一緒になれないのなら死んだ方がよいと思っていたからこそ……」
「それでもだ。結局、俺はおまえを幸せにしてやることが出来なかった。いや、幸せにしてやるどころか、守ってやることさえ出来なかったんだ」
「……」
「俺はずっと思っていた。おまえに逢いたいと、逢って詫びたいと。だが、まさか本当におまえに逢えるとは思わなかった……」
「歳三さん」
 宗次郎は手をのばし、そっと彼の腕にふれた。
「ひとつだけ教えて。あなたは……いったいいつから、記憶があったの? あれは前世なのでしょう? その前世の記憶をいつから……」
「……十になった頃だ」
 しばらく黙った後、歳三は低い声で答えた。それに、大きく目を見開く。


(そんな昔から……)


 ならば、もう十年以上も彼は苦しんできたのだ。
 愛するものを守れなかった、助けることができなかった苦しみ、慟哭、悔いに、己を責めて責めて。
 そんな地獄を味わってきた彼に、涙がこみあげた。
 愛しい彼がずっと傷つき苦しんできたのに、なのに、何も知らなかった自分が許せない気がした。
 何も知らず、彼につきまとい、傷口をかきむしるような事をした自分が。
「ごめん……なさい……」
 気がつけば、涙がぽろぽろとこぼれていた。
「ごめんなさい……あなたが苦しんでいたのに、なのに、何も知らなくて……勝手な事ばかりを言って困らせて……」
「宗次郎」
 歳三は眉を顰めると、宗次郎の両頬を手のひらでつつみこんだ。涙を指でぬぐってくれながら、言い聞かせる。
「おまえが謝る事じゃねぇんだ。だいたい、おまえにはどうしようもねぇ事だろうが」
「だって……」
「俺はおまえには知らせたくなかった。おまえには逢わずにいたかったんだ。二度ともう……おまえを地獄へ落としたくなかった」
「……」
 宗次郎は涙に濡れた瞳で、歳三を見上げた。
「地獄……へ?」
「そうだ。俺はおまえを地獄への道連れにした。なのに、また出逢ってしまったんだ……同じことがくり返されないとは誰にも言い切れないだろう」
「そんなの……あるはずないです」
「何故、そう言い切れる」
「だって」
「俺は恐ろしいんだ」
 歳三は宗次郎の頬を手のひらで包み込んだまま、ゆっくりと言った。
「また再び、同じ事を繰り返さないか……恐ろしくてたまらない。定めというものがあるのなら、俺たちは再び引き離されるのかもしれない」
「歳三さん……」
「二度と、おまえを地獄に落としたくないんだ」
 そう言ってから、歳三は深く吐息をついた。
 何かを堪えるように眉根を寄せると、一瞬だけ、宗次郎の身体をその腕に抱きしめた。
 きつく息もとまるほどの抱擁。
 だが、一瞬のことだった。
 突き放すように離すと、歳三は素早く立ち上がった。そのまま背を向け、歩み去っていこうとする。
 それに、宗次郎は跳ねるように立ち上がった。追いかけ、叫ぶ。
「待って……歳三さん!」
「……」
「私をおいていかないで……もう一人にされるのはいやだ!」
 宗次郎の叫び声に、歳三の歩みがとまった。
 だが、振り返らず、黙ったまま視線を落としている。
 その背を揺れる瞳で見つめながら、宗次郎は言葉をつづけた。
「あの時、あなたが死んで……目の前で殺されて、その後、私がどうなったか、あなたは知っているの?」
「……」
「知る訳ありませんよね。あの時、あなたは死んでしまったのだから……」
 眉を顰め、彼がふり返った。切れの長い目がまっすぐ宗次郎を見つめる。
 それを見返した。
「自害することも許されず、私は囚われの身として国元へ連れ戻されました。そして、あの男とあらためて対面させられたのです」
「まさか」
 歳三の顔がすっと青ざめた。
「おまえ、あの男に……」
「何も」
 ゆっくりと首をふった。
「何もありませんでした……私は死ぬまで、あなただけのものでした」
「しかし、あの男と会ったのだろう。それで何もないなど」
「あるはずがないのです」
 宗次郎は歳三を澄んだ瞳で見つめた。
 そして、微かに笑った。
「私はあの男と会ってすぐ……胸を突いて死んだのだから」













 青空がきれいに広がっていた。
 それを見上げ、宗次郎は吐息をもらした。
「……」
 日野から戻った宗次郎は、試衛館での穏やかな日々に戻っていた。
 歳三とは江戸の入り口にさしかかった所で別れていた。背をむけ、去ってゆく彼を、引き止めることは出来なかったのだ。
 あの後、何度も話をした。
 だが、二人の想いはすれ違うばかりだった。


 彼はもう二度と、あんな思いをさせたくないのだ。
 己が関われば、再び不幸になると思っている。
 だからこそ、何度も宗次郎を突き放そうとした。
 それに、何も言えなかった。
 自分の方こそ、彼を巻き込んでしまったと思っていた。自分さえいなければ、彼はあんな惨い最期を迎えることはなかったのだ。
 主君の覚えもめでたかった彼だ、出世し、自分などよりもずっと良い娘を娶って幸せに暮らしただろう。
 なのに、そのすべてを奪ったのは、自分だった。
 彼がもう不幸になりたくないと言うのなら、それに従う他なかった。


 最後に、歳三が言った言葉が胸に突き刺さっていた。
「おまえが娘として生まれ変わらなかったのが、何よりの証だ」
「え……」
 目を見はった宗次郎に、歳三は痛みを感じるように顔を歪めた。
「俺と二度と結ばれたくなかったから、結ばれるべきでないからこそ、おまえは俺と同じ性として生まれた」
「歳三……さん」
「だとしたら、これは定めだ。俺は……おまえと逢ってはいけなかったんだ」
 切なくなるぐらい、苦しく哀しい声音だった。
 呆然としている宗次郎を、歳三は深く澄んだ瞳で見つめた。手をのばし、そっと、なめらかな頬にふれる。
 低い声が囁いた。
「幸せになれ」
「……」
 歳三は静かに身をおこし、踵を返した。編笠を深くかぶり直しながら、歩み去ってゆく。
 それを、宗次郎は見送る他なかったのだ。


 あんな事を言われて、追えるはずがなかった。
 彼と同じ性に生まれたことが、結ばれてはいけないという定めだったなんて。
 そんなこと、言われたくなかった。信じたくなかった。
 どうして、逢えたことこそが定めなのだと思わないのだろうか。
 むろん、わかっている。
 歳三は悔いているのだ。
 前世でのことも、この現で再び逢ってしまったことさえも。
 確かに、前世のことは宗次郎も悔いていた。
 あの時、彼の手をとるべきではなかったのだと、わかっているのだ。
 彼を守るためにも、冷たく拒絶すべきだった。
 なのに。


(私はあの時、あの人の手をとった。あの人に縋った……それが間違いだったのなら、今も、歳三さんを追うのは過ちなのだろうか)


 歳三の言うとおり、二度と逢わない方がよいのか。
 宗次郎はぎゅっと目を閉じた。
 そんなこと、我慢できるはずがなかった。好きなのだ、歳三だけが好きなのだ。
 歳三が前世の恋人だったからではない、今の彼が好きだった。いつの間にか、息苦しいぐらい惹かれてしまっていたのだ。
 これが恋なのかどうかさえ、わからない。
 ただ、歳三のことを想うだけで胸があたたかくなり、切なくなった。いつもいつも気がつけば、歳三のことばかり考えている自分がいるのだ。
 時折、見せてくれたきれいな笑顔、悪戯っぽい表情、拗ねたような顔などが次々と思い出され、たまらなくなる。
 深く澄んだ黒い瞳、あのなめらかで低い声、抱きしめてくれたたくましい腕、そのすべてが何よりも愛しかった。
 宗次郎にとって、歳三は初恋の男だったのだ。
 初恋だからこそ、激しく刹那的だ。
 燃え上がる焔のように我が身も、相手までも燃え尽くしてしまいそうになる。


「歳三さん……」
 愛しい男の名を口にし、宗次郎は唇を噛んだ。
 こうして名を呼ぶだけで身体が震え、指さきまで熱くなる。
 こんな想いを抱いて逢わぬままでいられるはずがなかった。
 彼に逢えなければ、息がとまり死んでしまいそうな気がする。
 だが、一方で、歳三に拒絶されることが怖かった。おそらく逢いに行っても拒絶されてしまうに違いないのだ。逢ってさえくれないかもしれない。
 愛しい男からの拒絶は、泣きたくなるぐらい辛かった。他の誰かにされるよりも、彼からの仕打ちは胸を鋭く切り裂くのだ。
「……」
 宗次郎は吐息をもらし、歩き出した。
 そこは、花街に近いあたりだった。
 遊び好きの歳三がこのあたりにいるらしいと噂を聞いてきたのだ。迷った末の行動だった。
 憂い顔で歩いてゆく宗次郎に、通り過ぎる人々が視線をむけていく。
 ほっそりとした小柄な身体に、質素だが清潔な着物をつけた宗次郎は、まるで少女のように愛らしかった。
 艶やかな黒髪を後ろで結わえ、長い睫毛が白い頬に翳りをおとしている。ふっくらとした唇は珊瑚色で、紅をさしたようだった。
 一見すれば、少女のように見える可憐な姿だ。
 愛らしい少女のような宗次郎が、夕暮れ時に花街近くで一人歩きしているのだ。目立たぬはずがなかった。
 そして、危険極まりない事も確かだったのだ。
「……」
 角を曲がった宗次郎は、え?と目を見開いた。
 突然、誰かが自分の前に立ちふさがったのだ。顔をあげようとした瞬間、みぞおちに鋭い痛みを感じる。
 普段の宗次郎であれば、十分さけられたはずだった。
 だが、考え事をしていたため、まったく無防備だったのだ。
「……っ」
 小さく呻き、崩れ落ちる宗次郎を、夕闇が静かに包み込んでいった。





















次で第一部最終話です。痛い展開にはなりません。