「……何だって?」
歳三は鋭く息を呑んだ。
それに、近藤はこわばった表情で言葉を繰り返した。
「宗次郎が帰ってこない」
「……」
重い沈黙が落ちた。
花街の一室だった。
馴染みの女のところにいた歳三の元を、夜になってから近藤が訪ねてきたのだ。
そして、告げられた。宗次郎の行方が知れないのだと。
歳三は江戸に戻ってから、一度、近藤と会っていた。
その時に、正直に打ち明けたのだ。宗次郎が己の想い人であること、だが、宗次郎のために二度と姿をあらわす気がないこと、そして、自分の代わりに見守ってやって欲しいということを、頭を下げて頼み込んだ。
誰かに頭を下げるなど決してせぬ男だった。
この矜持の高い男が頭を下げるなど、余程のことなのだ。それだけ、宗次郎の事を大切に思っているのだろう。なのに何故、逢わぬようにするのかわからなかったが、とりあえず近藤は承知したのだが……
「どこへ行くのか、言っていたのか」
「それがな」
近藤は苦々しげな口調で言った。
「どうやら、おまえを探しに出たらしいのだ」
「ということは、まさか……」
歳三は眉を顰めた。
「この花街に来たというのか」
「かもしれん。おまえの姿を見たと、うちの道場に出入りしている者が話したらしいからな」
「……」
「しかし、宗次郎はここに来ていないのだろう。おまえは逢って……」
「逢っているはずがねぇだろう。というか、全く知らん。来ているとわかっていたら、上手くここから出したさ」
「とにかく、おれは今から探す。おまえは」
「探すに決まっている」
歳三は言いざま、立ち上がった。端正な顔には焦燥と、どこか物狂おしい激しさがある。それに危惧を覚え、近藤は彼の腕を掴んだ。
「歳」
「何だ」
「はやまった事はするなよ」
「……」
「もし、宗次郎の身に何かあったとしても、冷静に対応しろ。我を忘れるな」
「……」
歳三は無言のまま、鋭い視線をむけた。切れ長の目の眦がつりあがり、ぞっとするほど冷たく美しい。冴え冴えとした光を湛えた黒い瞳は澄みわたり、形のよい唇が微かな笑みをうかべた。
「……心配性だな、近藤さんは」
「歳」
「わかっている。あんたの言葉は頭に入れておくさ」
そう言うなり、歳三は近藤の手をもぎ離した。それきり背を向け、足早に部屋から出ていってしまう。
「……」
それを見送り、近藤はきつく拳を固めた。
人の声がした気がして、宗次郎は身じろいだ。
この部屋に連れ込まれてから、どれだけの時が流れたのか。
宗次郎を気絶させた男は、まったく見知らぬ男だった。だが、それでも、己の身に危険が迫っているのはわかっていた。
気は強いが、可愛らしい容姿をもっている宗次郎だ。男から声をかけられることは、今までも多々あったのだ。だが、いつもなら毅然と払いのけることが出来た。
それなのに。
(こんな無様なことになるなんて……)
宗次郎はきつく唇を噛みしめた。
前世とは違うのだ。男たちに好きなようにされる娘ではない。否、あの時も、自分はすべてを己自身で選びとったのだ。
家老の息子のものとなることを拒み、彼と逃げた。そして、彼が殺された後、辱められる前に自害した。
そうだ。
すべて、自分が選びとったことなのだ。
彼のせいなどではない。定めなどではない。
自分が選びとり、そして、決断したことなのだ。彼を愛したことも、何もかも。
だから、これからも。
(私は自分自身で選びとってゆく)
たとえ、それが愛する男であっても従わない。
私自身が決めたことを貫きとおすのだ。
あの人に逢うことも。
そして。
あの人だけを、生涯愛しつづけることも。
(そのためには、ここから逃げなければ)
宗次郎はきっとした表情で、周囲を見回した。
少年をさらった男は商家の放蕩息子か何かのようだった。ここは、その商家の寮なのだろう。
男は今、この部屋の中にいなかった。何か用があったのか、宗次郎を縛り上げてから出ていったのだ。部屋を出る時の舌なめずりするような表情にぞっとしたが、怯えはしなかった。あんな男に好きなようにされてたまるかと思う。
宗次郎は手首を何度も動かした。男はそれほど心得がないらしく解けそうだ。だが、男が戻ってくれば力では勝てない。竹刀代わりになるものを探した。
「これなら……」
縄をほどいた宗次郎は、花を活けてあった竹筒を手にした。竹刀ほどの長さはないが、何とかなるだろう。
掴んでかるく振ってみた時だった。不意に足音がしてふすまが開かれた。そこに立つ宗次郎の姿に驚いたのだろう、男が「うわっ」と声をあげる。
だが、すぐに掴みかかってきた。それに対して、宗次郎は素早く動いた。竹筒を男の胸にむかって突き出す。
「ッ!? ぐっ……」
宗次郎が得意とする突きを食らい、男は目を剥いた。そのまま蹲ってしまう。
だが、それに容赦はしなかった。もう一度、肩に竹筒を叩きつけてから、走りだす。
相当な商家なのか、寮と言っても広さのある屋敷だった。使用人たちが宗次郎の姿に気付き、慌てて取り押さえようとしてくる。それをふり払い、逃げた。
縁側から庭へ飛び降り、裏口から逃げようとした瞬間だった。
「宗次郎っ!」
不意に、鋭い声が柵の向こうから飛んだ。ふり返った宗次郎は、月明かりの中、歳三の姿をそこに認めた。
「歳三さん!」
思わず叫び、走りだす。歳三も柵を敏捷に飛び越え、駆け寄ってきた。そのまま逞しい両腕にすくいあげられる。
「宗次郎……宗次郎!」
「歳三さん……っ」
あまりにも多くの想いがあふれ、互いの名しか呼ぶことが出来なかった。
歳三はその存在を確かめるように、一瞬だけ宗次郎の身体を抱きしめた。だが、すぐに地上へ降ろすと、己の背の後ろへ押しやる。
そして、薄い笑みをうかべると、腰に差していた刀を抜き放った。闇にぎらりと光る刃に、飛びかかろうとしていた者たちが声を呑む。
「……かかってこいよ」
黒い瞳が獣のようにぎらついた。
「殺られてぇ奴はかかってこい、好きなだけ相手にしてやるぜ。こっちも気がたっているんだ、容赦はしねぇよ」
「……っ」
ゆらりと男の全身を黒い焔が包みこんだようだった。激しい怒りが男の纏う気配を殺気立ったものにしている。
誰も立ち向かえるはずがなかった。皆、たたらを踏んでしまう。
それを歳三が見てとるより先に、宗次郎が彼の腕を掴んだ。
「歳三さん」
ふり返ると、大きな瞳が彼だけを見つめている。
「もう……いいから」
「宗次郎」
「ここから私を連れていって」
「──」
その言葉に、歳三の目が見開かれた。まるで、あの時と同じだったのだ。
あの夜も、逃げようと囁いた彼の手をとり、言ったのだ。
ここから私を連れていって下さい、と。
それはすべての始まりだった……。
「……」
歳三は目を伏せると、刀を収めた。宗次郎の手を掴み、踵を返す。
もちろん、宗次郎に害を加えようとした者たちを、このままにしておくつもりはなかった。だが、今はここから一刻も早く、宗次郎を連れだしてやりたかったのだ。
夜の帳がおりた街を抜け、試衛館へと向かった。
しかし、途中で思い返し、宿に入った。試衛館に戻れば、宗次郎と別れることになる。だが、今、己の手を縋るように握りしめている少年を、突き離すことが出来なかった。否、出来るはずがなかったのだ。
「ここに泊まるの……?」
そう訊ねる宗次郎に、歳三は頷いた。
それほど大きくはない宿だったが、小奇麗に整えられていた。歳三たちの部屋は母屋から離れた場所にあった。面している庭に月明かりが落ちる。
案内してくれた仲居が下がり、二人だけになると、歳三は宗次郎の方に向き直った。跪き、顔を覗きこむ。
「一つ……聞いていいか」
「はい」
「おまえ、何も……その……」
彼らしくなく口ごもる様子に、何を聞きたいのか、すぐにわかった。
宗次郎はこくりと頷いた。
「大丈夫、何もされていません」
「そうか……」
「というより、私、叩きのめしてやったのです」
「え?」
驚いたように目を見開く歳三の前で、宗次郎は可愛らしく笑った。
「縄で縛られていたんですけど、意外と簡単に解けて。それで、部屋にあった竹筒で、あの男に思い切り突きをくらわして、叩きのめしたのです」
「それは……」
「こう見えても、何度かこんな経験しているんですよ。もちろん、攫われたのは初めてですけど、茶屋に連れ込まれそうになったりして、そのたびに私、やっつけてきたのです」
「意外に頼もしいんだな」
歳三は苦笑した。
だが、考えてみれば、宗次郎は師範代の腕前なのだ。素手では大人の男にかなわないだろうが、剣をもたせれば、その辺りの男になど負けるはずがない。
思わず呟いた。
「あの頃とは違うのか。男に好きなようにされるだけじゃねぇんだな」
「歳三さん」
先ほど、宗次郎が思ったことと同じことを呟いた彼を見上げた。そして、首をふった。
「違うのです」
「何が」
「あの頃も、私は男たちの好きなようにされていた訳ではありません」
「そんな事があるはずないだろう」
歳三は眉を顰めた。
「あの時、おまえはあの男のものにされそうになっていた。抗う術もなかった。挙句、俺に連れだされ、あんな……」
「違います。すべては私が選びとった事です」
きっぱりとした口調で、宗次郎は答えた。
「あの男のものになる事を拒んだのも、あなたと一緒に逃げたのも、あなたを愛したのも……すべて、私が選んだことです。私が決めたことです」
「……」
「今生でも、私は己で選び、決めます。私の人生なのです、誰の指図も受けない。それが、たとえ……歳三さん、あなたであっても」
きれいに澄んだ瞳が歳三をまっすぐ見つめた。
「私はあなたが好きです、愛しています。その気持はこれからも変わりません。あなたがどんなに私を拒んでも、私はあなたを愛しつづける」
「宗次郎……」
男の目が見開かれた。
そうして愛を告げる少年は、凄いように美しかった。
瞳は生き生きと輝き、なめらかな頬にはうっすらと朱がさしている。桜色の唇もきっと引き結ばれ、意思の強さを表していた。
細く華奢な身体つきなのに、誰よりも強い生命力で男の心を惹きつける。
あの頃と変わらぬ姿だった。あの頃も、たおやかで儚げでありながら、燃え上がる焔のような強さを秘めていたのだ。
「……愛してる」
低い声が囁いた。
そっと、ふれることを恐れるように手がのばされ、なめらかな頬にふれる。
歳三は宗次郎だけをその瞳に映しながら、繰り返した。
「おまえを愛してる……俺も、おまえだけが誰よりも愛しい」
「歳三さん……」
「宗次郎、俺と共に生きてくれ」
きっぱりと言い切った歳三を、宗次郎は大きな瞳で見つめた。こくりと頷く。
「私は……あなたと共に生きます」
それは約束だった。
永い年月を経て再び結ばれた約束。
その先に何があるのかなど、まったくわからなかった。前世と同じように修羅へ堕ちる事になるのか、今度こそ幸せになれるのかさえも。
だが、それでもよかった。
他には何もいらなかったのだ。
(この人を愛してゆけるのなら……)
宗次郎は、抱き寄せてくれる歳三の腕の中で心からそう思った。
そして、男の愛しいぬくもりを感じながら、静かに目を閉じたのだった。
「──総司」
なめらかな低い声が、後ろからかけられた。
俯きがちに歩いていた若者は、びくりと肩を震わせた。慌ててふり返る。
待ち望んでいた男の姿を認めたとたん、ぱっとその愛らしい顔が明るくなった。
思わず小走りに走り寄る。
「土方さん、よかった……大丈夫かなと思っていたのです」
「大丈夫って何が」
肩を並べて歩き出しながら問いかけた男に、総司は桜色の唇を尖らせた。
「京行きですよ。今朝になっても来ないから、行かないつもりなのかと……」
「そんな事あるはずねぇだろ?」
くすっと土方は笑った。手をのばし、総司の髪をくしゃりとかきあげる。
「俺がおまえを一人で京になんざ行かせると思うのか。だいたい、俺だって野心ぐらいあるさ」
「わかっていますけど、でも」
「あの時、約束しただろうが」
土方は総司の細い肩を抱き寄せ、耳もとに唇を寄せた。
声を低め、囁いてやる。
「おまえと共に生きると」
「土方さん……」
「俺はいつまでもおまえと共にいるさ。昔も今も、これからも」
そう言ってくれる男に、総司はこくりと頷いた。幸せそうに微笑む。
だが、その笑顔が不意に凍りついた。
もう彼らは集合場所である伝通院まで来ていた。大勢の浪士たちで賑わい、その喧騒はすさまじいほどだった。
だが、それらが総司を驚かせたのではなかった。
ある男の姿が、その視界を横切っていったのだ。
「!」
総司は、思わず土方の腕を掴んだ。足が地に縫い止められたように動かなくなる。
訝しげに土方は眉を顰めた。
「総司……?」
「……っ」
異様なまでの若者の様子に、土方はふり返った。総司が見たものを探そうと、目を細める。
だが、探すまでもなかった。
すぐに、その存在は彼の視界にも飛び込んできたのだ。
仲間たちに囲まれ、鉄扇で肩を叩きながら豪快に笑っている男。
体格のがっしりした剣客だった。目ばかりがぎらつき、常人とは違うことを感じさせる。
だが、それは。
その男は……
土方は息を呑んだ。
無意識のうちに、守るように総司の細い肩を己の胸もとに引き寄せる。
見下ろせば、青ざめた顔の若者と視線が絡みあった。あの時の苦痛、悲しみ、慟哭が蘇る。
そこにいたのは──まさに、あの男だった。
愛しあう恋人たちを引き離そうとし、逃亡した彼らを追い詰め、二人を死に追いやったあの……
「大丈夫だ」
土方は総司を抱きしめたまま、低く囁いた。
何があっても離さぬ。
今度こそ、この愛しい存在を守るのだという想いをこめて。
「俺がおまえを守る。それに、おまえも俺も……昔の俺たちとは違うんだ。今度こそ、負けやしない」
「……土方、さん……」
「負けるものか。いや、俺は必ず……」
(……仇を返してやる)
ひと目でわかったのだ。
あの男もまた、前世の記憶があるのだと。
何故なら、あの男は彼らをじっと見据えていた。凄まじい執着と狂気のまなざしを向けていたのだ。
あの表情には見覚えがあった。
ならば、容赦する謂れなどなかった。必ず、あの時の仇を返してやるのだ。
総司を今度こそ幸せにしてやるためにも、あの男だけはこの手で殺さなければならなかった。抹殺しなければ、二人に幸せは訪れぬのだ。
何というめぐり合わせなのか。
それとも、これが運命なのか。
京へと発とうとするその日に、あの男と再会するとは。
「総司」
腕の中の総司に、土方は呼びかけた。
きれいに澄んだ瞳で見上げてくる愛しい恋人を、静かに見つめる。
「俺と共にいこう」
「……」
「この先何があるかわからねぇが、それでも……俺はおまえと共にいく。そして、必ずおまえを……」
今度こそ、幸せに
その言葉は口には出されなかった。
だが、想いは通じたのだろう。
総司はこくりと頷き、男の胸もとに頬をよせた。
そして、あの遠い日のように、囁いたのだった。
「私を……連れていって下さい」
───すべてはここから始まるのだ。
第一部江戸編完結です。ラストまでお読み下さり、ありがとうございました。