歳三の姉であるお信の嫁ぎ先である佐藤家の屋敷は広く、傍に道場も建てられてある。
 試衛館の者はそこで稽古をつけることになっているのだ。宗次郎は年若でありながら、師範代の腕前だったため、何度かここで稽古をつけた事があった。
 だが、歳三と一緒に訪れるのは初めてだ。


(でも、本当ならここで会ってもいいはずなのに)


 宗次郎は笑顔で迎えてくれるお信に頭を下げながら、思った。
 何しろ、このお信は歳三の姉なのだ。その上、近藤の話では、歳三は佐藤彦五郎にも気に入られているため、よくこの屋敷に入り浸っているらしい。
 それなのに、宗次郎はここでも歳三に全く会ったことがなかった。試衛館にも何度も訪れて来ているという話だったが、今まで会ったことがなかったのだ。


(もしかして……わざと避けられていた?)


 疑念が胸にうかんだ。
 だが、そんな事を歳三がする理由が見当たらない。自分のような子供を避けて、いったい何になるというのか。
 しかし、あの時、偶然ぶつからなければ、歳三とは永遠に会うことがなかった気がした。歳三という男の存在が自分の人生の中に入ってくることは、まったく無かっただろう。
 どうしても、意図的なものを感じずにはいられないのだ。
 宗次郎にとって、歳三は謎だらけの男だった。
 冷たいかと思えば優しく、突き放された次の瞬間には引き寄せられる。酷く侮蔑するようなまなざしを向けるくせに、柔らかな笑顔でこちらを見てくれることもある。
 その上、わざと避けていたのだとしたら、宗次郎にはまったく理解できない事ばかりだった。


 そんなふうに悩んでしまう宗次郎に追い打ちをかけるように、お信が言った。
「歳、あんたにしては珍しいね」
「……」
 歳三が眉を顰めたのにも構わず、お信は言葉をつづけた。
「まさか、宗次郎さんと一緒に来るとは。いつも宗次郎さんが来ると、避け……」
「姉さん」
 低い声で遮り、歳三はちらりと視線を宗次郎の方へ向けた。だが、すぐに顔をそむけると、まるで何もなかったように言った。
「風呂に入ってくる」
 ぶっきらぼうな調子で言ってから、歳三は宗次郎を置いてさっさと家の中へ入っていった。
 その遠ざかる広い背を見送り、宗次郎は不安げに訊ねた。
「あの……私、歳三さんと一緒に来てはまずかったでしょうか」
「そうじゃないのよ」
 お信は苦笑した。
「ただ、珍しくてびっくりしたの。歳三はいつも宗次郎さんのことをあれこれ聞き出すくせに、宗次郎さんが来るとなると家から消えていたから」
「聞き出す……? 私のことをですか」
 目を見開いた宗次郎に、お信は頷いた。
「近藤さんやわたしに色々聞いてね、宗次郎さんは知らないだろうけど、何度か歳三は遠目に見ていたのよ。でも、どうしてか、会うことは拒んでいてね」
「会うことは拒んで……」
 小さく呟いた。


 やはり、そうだったのだ。
 彼は自分を避けていたのだ。会わないようにしていたのだ。
 だが、それはなぜなのだろう。
 どうして、自分のような子供を避けていたのか。
 それに、避けるぐらいなら、なぜ、自分のことを聞き出していたのか。


 宗次郎にすれば、ひとつしか思いあたることがなかった。
 それは、夢だった。
 あの夢の中で逢った男が、歳三自身なのだ。もしかすると、あれは前世の夢だったのかもしれなかった。前世の記憶など、むろん自分にはないが、彼にもしあったのならば。
 前世で、彼と愛しあっていたのが自分であったのなら。
「……っ」
 宗次郎は桜色の唇をぎゅっと噛みしめた。


 そんな事が本当にあるのだろうか。
 否、あったのだとしたら、尚の事わからなくなってしまう。
 前世に愛しあった者であるのなら、なぜ、今、避けるのだろう。どうして、あんなにも冷たく突き放してきたのだろう。
 確かに、日野への短い旅の間、歳三は信じられないぐらい優しく親切だった。
 だが、それでも、仲が良くなった訳ではないのだ。その証に、佐藤屋敷に着いたとたん、歳三は冷たく背を向けて去ってしまった。まるで、役目は終わったとばかりに。
 そんな人が、前世の記憶をもっているとは到底思えなかった。否、愛しあった人だとは。


(それに、前世でも夢でも……私には関係ない)


 自分にあてがわれた部屋へ歩いてゆきながら、宗次郎はため息をついた。
 何しろ、自分は彼と同性なのだ。娘ではないのだ。
 愛しあうことなど、出来るはずがなかった。むろん、今の時代、衆道は別に禁忌とされていないが、歳三自身、女に不自由しない身だという。そんな男が宗次郎に目をむけるなど、ありえぬ話だった。
 部屋に入った宗次郎は荷物を手早く片付けた。だが、ともすれば手が止まりがちになってしまう。
 何度めかのため息をついた時、突然、後ろから声をかけられた。
「……疲れたのか」
「!」
 驚いて振り返れば、歳三が微かに眉を顰めていた。まだ濡れている黒髪を片手でかきあげている様が、大人の男らしい艶を感じさせる。
 思わず見惚れそうになり、はっと我に返った。慌てて立ち上がり、答える。
「い、いいえ。大丈夫です」
「そうか」
 頷き、歳三はその場から行きかけた。それに、宗次郎は歩み寄った。
「あの……っ」
「……」
 何だと言いたげに、歳三は切れの長い目をむけた。その黒曜石のような瞳に頬を火照らせつつ、言葉をつづける。
「あの、お信さんから……聞きました」
「何を」
「私を避けていたというのは、本当ですか」
「……」
 歳三の形のよい眉が顰められた。宗次郎から視線をそらすと、短く舌打ちする。
 それに、宗次郎は思わずびくりと肩を震わせてしまったが、彼の苛立ちは他に向けられたもののようだった。しばらく唇を噛みしめていたが、やがて、低い声で答えた。
「別に……避けていた訳じゃねぇよ」
「でも」
「それとも、何か」
 歳三は切れの長い目で宗次郎を見据えた。嘲るように、形のよい唇の端をつりあげる。
「避けていたと言って欲しいのか」
「……っ」
「おまえは、俺に意識され避けられるような存在だと思いたいのか?」
 宗次郎は一瞬、言葉に詰まった。
 今までなら、黙って俯いていただけだろう。歳三に冷たくあしらわれるままだったに違いない。
 しかし、もともと宗次郎は可憐で愛らしい容姿と裏腹に、とても勝ち気な性格だった。
 頭をもたげ、大きな瞳でまっすぐ歳三を見返す。
 ちょっと驚いたように見返す歳三にむかって、宗次郎は強い口調で言った。
「そうです」
「……」
「私は、歳三さんにとってそんな存在なのだと思いたいのです」
「……おまえ」
 歳三の目が見開かれた。まさか、そんなふうに切り返されるとは思ってもいなかったのだろう。
 宗次郎は桜色の唇で言葉をつづけた。
「あなたには意識されていたい。無関心が一番いやです、私など……関係ないと思って欲しくないのです」
 きっぱりと言い切った宗次郎を、しばらくの間、歳三は無言のまま見つめていた。形のよい眉が微かに顰められている。
 だが、やがて、目を細めると、喉奥で低く嗤った。突然、手をのばしたかと思う間もなく、腕を強く掴まれ引き寄せられる。
「!」
 思わず息を呑んだ宗次郎の瞳を深々と覗き込み、押し殺した凄みのある声で囁いた。
「……ふざけるな」
「っ」
「何で、俺がおまえなんざ相手にしなくちゃならねぇんだ? えぇ?」
「……歳三、さ……」
「娘みたいに弱くて痩せっぽっちのおまえなんざ、興味ねぇよ。金輪際、関わりたくもないね」
 そう吐き捨てるなり、歳三は乱暴に宗次郎の身体を突き放した。そのまま関心を失ったように背を向け、さっさと歩み去ってしまう。
 宗次郎は大きな瞳でそれを見つめた。きつく両手を握りしめる。
 本当は泣き出したかったが、ますます彼に馬鹿にされるだけだとわかっていた。挟持も許さなかった。


 いつか、あの人をふり向かせたい


 心の底から、そう思った瞬間だった。














 その夜、夢を見た。
 いつもの逃げている夢とは違う。
 幸せな夢だった。二人、どこかに出かけている夢なのだ。
 まだ事が起こる前なのか、周囲は穏やかで優しかった。白い花がひらひらと降り舞ってくる。
 思わず花びらに手をのばした私を、彼は静かな瞳で見つめていた。
「まるで……花の精のようだな」
 小さく呟いた彼に、驚いてふり返った。
「花の……精?」
「あぁ。今にも消えてしまいそうだ」
「そんなの、いやです」
 私は思わず首をふった。
「消えたら、あなたと共に過ごすことが出来ません」
「そうだな」
 彼は苦笑し、手をのばした。そっと私の肩を抱き、胸もとに引き寄せてくれる。
 耳もとや首筋に、彼の吐息がふれた。それに、うっとりと目を閉じる。
 私を腕の中に抱きながら、彼が囁いた。
「消えてほしくなどない。ずっと俺の傍にいてくれ」
「はい……」
「愛してる。おまえだけを……誰よりも愛してる」
「私もです……」
 白い花びらが、ひらひらと舞い落ちてくる。


 幸せな幸せな恋人たちの一時だった。


 私たちは知らなかったのだ、何も気づいていなかった。
 その幸せがどんなに儚く、脆いものだったのかを。
 そして。
 暗く恐ろしい闇はすぐそこに迫っていたのだということを……。














「──宗次郎ッ! おい、宗次郎!」
 激しく名前を呼ばれていた。
 息苦しいほど、逞しい腕に抱きしめられている。それが苦しくて切なくて、両手をのばした。
 ぎゅっと、その広い背にすがりつくと、安堵の吐息がもれた。もう大丈夫なのだと思う。
 なぜかはわからないが、この人の腕の中にいることが正しいことなのだから。
「宗次郎っ!」
 鋭い声で呼ばれ、はっと我に返った。
 見上げると、青ざめた顔の歳三が宗次郎を覗きこんでいる。それに、目を見開いた。
「な……に……?」
「何じゃねぇよ! おまえ、大丈夫なのかッ」
「えっ」
 声が掠れていた。気が付くと、胸の鼓動が早く、息もあがっている。まるで激しい稽古をした後のようだった。
 呆然としている宗次郎を、歳三は優しく抱き起こした。気がつけば、傍には心配そうな表情のお信もいる。
「大丈夫かい」
「あの、私……?」
「魘されていたんだよ」
 押し黙っている歳三にかわり、お信が説明してくれた。
「すごい声で叫んで、転げまわって大変で……」
「な、なんて言っていたんですか」
「さぁ、意味は聞き取れなかったよ」
 そう言ったお信はちょっと笑った。
「けれど、まぁちゃんと起きることが出来てよかった。安心したよ」
「お騒がせしました……」
 慌てて頭を下げた宗次郎に頷き、お信は出ていった。歳三も出ていくかと思ったが、何故か、傍にまだいる。
 何よりも、宗次郎はまだ歳三の腕の中にいたのだ。あの夢の中のように。
 そう思った瞬間、自分がどうして魘されていたのかわかった。


 引き返したいと思ったのだ。
 あの先にある地獄を知っているからこそ、やり直せないのかと思って、でも、そんな事は出来なくて苦しかったのだ。
 過ぎた時は戻せないのだから……。


「あの、ご迷惑をおかけしました」
 そう言った宗次郎を、歳三は眉を顰めて見つめた。濡れたような黒い瞳に見つめられ、自然と頬に血がのぼってしまう。
 その上、歳三は寝間着姿だった。袷から褐色の逞しい胸もとがのぞき、どきりとする。
「……よく魘されているのか」
 突然、低い声で問いかけられ、宗次郎は「え?」と目を瞬いた。すると、もう一度問いかけられる。
「今夜のように魘されることが、よくあるのか」
「いえ……」
 うつむき、首をふった。
「たぶん……ないと思います」
「曖昧な答えだな」
「自分ではわかりませんし、それに……今日の夢は初めて見たものだったから」
 そう答えてから、はっと我に返った。


 確かに、歳三はあの夢の中の男と瓜二つだ。
 だが、だからと言って、夢のことなど相手にされるはずもなかった。
 いつものように冷笑されるに決まっているのだ。


 慌てて言葉をつづけた。
「あの、私が見た夢のことですから、別にその……魘された事とは関係な」
「関係ないはずがねぇだろう」
 冷笑するどころか、苦々しいほどの声音に、宗次郎は歳三を見上げた。
 案に反して、歳三は眉を顰め、どこか痛いような表情で宗次郎を見下ろしていた。
 しばらく黙った後、静かな低い声で言われる。
「魘されるということは、夢が原因になっているんだ。初めて見た夢とは……どんなものを見たんだ」
「それは……っ」
 宗次郎は言葉に詰まった。


 話していいのかさえ、わからない。
 相手は何しろ、歳三なのだ。
 ずっと冷たく接してきて、昼間には自分が宗次郎を相手にするなぞありえないと冷笑した男。
 そのくせ、道中では優しくしてくれた、夢の中の彼に瓜二つの……


「……幸せな夢です」
「幸せな夢?」
「えぇ。大好きな人と一緒にいて……幸せで……でも、その後に訪れる恐ろしい出来事がわかっていて、それで……」
「……」
「今なら間に合う、逃げなくちゃと思って、だけど……」
 口ごもり、きつく唇を噛みしめてしまった宗次郎を、歳三は痛ましげに見つめた。しばらく押し黙っていたが、やがて手をのばし、そっと細い肩を抱く。
 そのまま、びっくりして顔をあげる宗次郎を引き寄せ、胸もとに優しく抱きしめた。
「……辛い夢を見たな」
 耳もとで囁かれる低い声に、思わず泣きたくなった。なぜか、泣き出したくなったのだ。
 ぎゅっと目を閉じる宗次郎に、歳三は言葉をつづけた。
「辛くて怖い夢だっただろう。自分ではどうすることも出来ないからこそ、たまらねぇ夢だよな」
「歳三さ……」
「けど、もう忘れろ」
 きっぱりとした言葉に、宗次郎は目を見開いた。
 顔をあげると、真剣な表情で歳三が見下ろしていた。
 薄闇の中、黒い瞳が怜悧な光をうかべている。
「そんな夢のことなんざ、全部忘れちまえ。何もかも……終わったことなんだ」
「……歳三さん」
 宗次郎は目を見開いた。





















次、大きく展開します