「土方さん……」
彼の名を思わず呼んでしまった。
だが、今は昔とは違うのだ。あの頃のように呼ぶことは許されない関係であるはずだった。
総司は我に返り、慌てて一礼をした。
その姿に視線をむけながら、土方は低い声で訊ねた。
「帰営するところか」
「はい」
「なら、少しつきあってくれねぇか」
「え」
思わず息を呑んだ。
考えてもいなかった土方からの誘いだった。
恋人同士であった頃なら、すぐさま応じることが出来ただろう。
だが、今は別れた身だった。
それも、土方から別れを切りだされているのだ、どうして急に誘いをかけられるのかわからなかった。
真意を探るように見つめた総司の前で、土方は苦笑した。
片手で煩わしげに髪をかきあげながら、答える。
「昼飯を食い逸れちまったんだよ。一人で食うのも物悲しいものだろ、つきあってくれねぇか」
「……」
まるで江戸の頃のような言葉使いだった。
こちらに向けられる笑顔も、江戸の頃のように屈託がなく、いつもの冷徹な副長の姿はどこにもない。
そのため、総司は思わず頷いていた。
「……私でよければ」
「すまんな」
謝られ、慌ててしまう。
相変わらず優しい人だと思った。冷たく見えるが、この人にはさり気ない優しさがあるのだ。
土方と並んで歩きながら、総司はちょっと身体の力が抜けるのを感じた。
あくまで江戸の頃のように接してくる彼に、何も心配することはないと安堵した。
だからこそ、気がつかなかったのだ。
土方の黒い瞳に湛えられた、昏い闇に……。
土方が連れていったのは、すぐ近くにある料亭だった。
こんな処で食事をするのかと、ちょっと躊躇ってしまったが、土方が慣れた様子で入っていくのでそのままついていった。
考えてみれば、土方も接待などで料亭をよく利用するようになっている。その上、このような料亭に、あの娘と一緒に入る姿も見たことがあるのだ。
慣れていて当然だった。
案内された部屋は離れだったが、堅苦しい雰囲気はなかった。冬の庭が縁側から見渡せる。
「春の方がここはいい」
ぼんやりと庭を見ていると、いつの間にか土方が傍に立っていた。庭に植えられた樹木を指さす。
「ほら、あれらは梅や桃の木なんだ。春が近くなると、梅の良い香りがこの部屋の中にまで入ってくる」
「土方さんは、ここへ来たことがあるんですね」
「まぁ、接待だがな」
肩をすくめた土方は、総司に席につくよう促した。座った頃を見計らうように、仲居がいろいろな料理を運んでくる。
後はこちらですると仲居を下げてから、土方は言った。
「おまえはもう昼飯、すませたのか?」
「少しだけ……」
本当は嘘だった。この頃、とみに食欲が落ちていた。伊東がいる時は一緒に食事をしたりもしたが、一人になってしまうと、味気なくて食べる気がなくなってしまったのだ。
病のため、食欲は落ちてきている。その上、気持ちのこともあって総司は食事をすることが、苦痛になりつつあった。
「なら、少しでもつきあえよ。一人で食っても仕方ねぇしな」
「はい……」
頷きながら視線を落とした総司は、少し戸惑った。
そこに並べられていたのは、総司好みのあっさりとした料理ばかりだったのだ。土方のように酒を嗜む男が好むものではない。初めから、総司のために用意されたとしか考えられなかった。
「土方さん、あの……」
「何だ」
柔らかく問い返され、何も言えなくなった。首をふり、箸をとる。
「いただきます」
小さな声で言ってから、食事を始めた。
正直な話、料理は驚くほど美味しかった。ここ最近、まともな食事をしていなかったためか、どれも美味しく感じる。否、もしかすると、彼と一緒だから美味しいのかもしれなかった。
大好きな彼なのだ。
別れを告げられても捨てられても、それでも好きで好きで仕方がない人。
その彼と一緒に食事が出来るなんて、こんな時がまた過ごせるなんて、考えてもいなかった。
総司は浮き立つ思いで、食事をつづけた。
時折、土方が話しかけてくる。隊や仕事のことには一切ふれず、京での店や流行りのものなどについての事ばかりだった。それだけ土方が気をつかってくれているのだということを感じた。
だが、一方で淋しくも感じた。
恋人同士だった時、二人で逢うと、土方は総司にいろいろな事を打ち明けてくれた。
己が抱えている仕事の難しさ、悩み、辛さなど、打ち明けてくれることが多かったのだ。
だが、それは気を許してくれていたからこそだと、今、総司は思い知らされていた……。
食事が終わると、土方は仲居を呼んで片付けさせた。
そのまま席をたつのかと思ったが、縁側に腰を下ろす。総司はこちらに向けられた広い背を見つめた。
仕事の帰りだったのか、土方は黒い隊服を身につけていた。他の隊士と同じものなのだが、彼が着ると、まるで違うものに見えた。黒い小袖に黒い袴が、土方の黒髪や黒い瞳によく似合っている。
不意に、土方が言った。
「……伊東とは上手くいっているのか」
「え」
突然の言葉に驚いた。
一瞬、何も言うことが出来なくて、彼の背を見つめてしまう。それに、土方が言葉をつづけた。
「今更確かめることもないか。先日の伊東を送るおまえの態度で、わからねぇはずがないからな」
「私の態度って……あれは……」
「別に責めているつもりはねぇよ。ただ、おまえは伊東と上手くやっているんだなと思っただけだ」
「それは、土方さんもでしょう?」
思わず問いかけていた。
責めていないと言いながら、どう見ても責められていた。恋人であった時ならともかく、捨てられた身なのに、こんな事を言われるのはおかしいと、気が強い総司は反発心が起こるのを覚えた。
そのため、口調がきつくなった。
「土方さんも、その好きになった娘さんと幸せなのでしょう? いつ所帯をもつつもりで……」
「あぁ、あの話か」
土方はくすっと笑った。
「破談になったよ」
「え」
「たいして好みじゃなかったからな。すぐに飽きちまった。まぁ、島原や祇園の女と遊んでいる方が気楽さ」
「そんな……」
あまりな言葉に、言葉が続かなかった。そんな軽い気持ちだったのに、自分は別れを言い渡されたのか。
なのに、自分は苦しんで苦しんで、辛くて泣いて、己を疵つけて。
それでも、この人を好きで仕方がない私って、何なの……?
悔しさで涙がこぼれそうになった。
それを堪えて俯いていると、土方がふり返った気配がした。彼が立ち上がり、歩み寄ってくる。
顎に手をかけられ、無理やり仰向かされた。いやと顔を背けようとしたが、強い力で掴まれ、許されない。
そのため、総司はせめてもと、大きな瞳で彼を睨みつけた。涙で瞳が潤んでいることはわかっている。だが、それでも、彼の意のままになるのが悔しかった。
土方が微かに息を呑んだ。
呆然と、見惚れてしまった。
(……総司……)
信じられないぐらい、総司は美しかった。なめらかな頬を紅潮させ、大きな瞳を潤ませている。
勝ち気な表情でこちらを見上げてくる総司は愛らしく可憐で、ぞくぞくするぐらい艶かしかった。
思わず両手でその頬をはさみこんだ。そのまま顔を近づけ、くちづける。
「……っ」
唇を重ねた瞬間、総司の身体がびくりと震えた。反射的に彼の胸を突き放そうとする。
だが、それを許さなかった。その華奢な身体に両腕をまわし、きつく抱きすくめてしまう。二度と逃がさないように。
深く唇を重ね、その甘い舌を貪った。まるで飢えた獣のように。その激しい口づけに腕の中で総司が怯えているのを感じたが、構わなかった。もともと気持ちは離れてしまっているのだ、今更だった。
くちづけの後、その愛らしい顔を覗きこむと、潤んだ瞳が彼を見上げた。長い睫毛が瞬き、桜色の唇が震える。
その瞳にあるのは非難か、嫌悪か……どちらでもよかった。
自ら手放したものを抱きしめる男は、身勝手極まりない。侮蔑されても当然だった。
だが、それでも、この細い躰を抱きしめたいという衝動は抑えられない。愛したい、見つめたい、ふれたいという気持ちは土方の中で限界を越えてしまっていた。
ここ数ヶ月、ずっと耐えてきたのだ。目の前で総司が伊東に寄りそう様を見ながら、どす黒い嫉妬と怒りを感じながらも、それでも堪えてきたのだ。
自ら手放したのだとわかっていた。それも、総司のために手放したのだ。
ならば、男らしく思い切るべきだった。あの時、思ったように愛さないでいればいいのだ。
だが、想いを変えることなど出来なかった。どうしても愛してしまうのだ。愛しくて愛しくてたまらないのだ。
総司の姿があれば目で追ってしまうし、その澄んだ声を聞きたいと願ってしまう。本当なら自分に向けられていたはずの笑顔が、他の男に向けられているのを見ると、気が狂いそうなほど嫉妬した。
ただ、その狂暴な情愛を表にあらわすことは一切しなかった。
彼自身の矜持がそれを許さなかったのだ。そのため、土方は冷徹な副長として、総司の前でも平然と振る舞った。伊東と総司の睦まじい様を見せられても、表情一つ変えなかった。そんな自分の愚かさに、自室で一人嗤った。
ここまで来ても、己の矜持が大切なのか。
それが情けなく惨めだった。
総司のために別れを突きつけながら、思い切ることも出来ない。挙句、他の男といる総司を見ては狂うほど嫉妬している。なのに、人前では平然と振舞っている自分を吐き気がするぐらい憎んだ。
だが、それでも堪えるつもりだったのだ。総司のためだと必死に己の情愛を押し殺した。仕事で総司と言葉を交わす時も、出来る限り冷静を装った。本当はその瞳が笑顔が見たくてたまらなくても、一切明らかにしなかった。
その箍が外れてしまったのは、先日の出来事だった。
出立する伊東に抱きしめられ、別れを惜しんでいる総司の姿を見てしまったのだ。冬空の下、寄りそう恋人たちの姿は美しく、とても似合いだった。誰が見ても、似合いの恋人たちだと言っただろう。
そんな姿は見るべきではない、早くこの場を離れてしまった方がいいと、頭の奥から誰かが警告していたが、足が動かなかった。身動きすることも出来ないまま、その様をすべて見てしまったのだ。
……欲しかった。
総司だけが、誰よりも。
この世の誰よりも愛しい総司が手に入るなら、すべてを失っても構わなかった。
本当はわかっていたのだ。手放すことなど出来るはずがない、思い切ることなど出来るはずがない。綺麗事を言って別れを突きつけておきながら、こんなにも愛して嫉妬している。
(俺は……最低な男だ)
呻くように思い、腕の中の総司を抱きしめた。
抗うかと思ったが、総司は何もしなかった。ただ大人しく男の腕に抱かれている。
小さな声が囁いた。
「最低……だなんて、言わないで」
「……」
声に出てしまっていたのだろう。
驚いて見下ろすと、総司は悲しげな表情で彼を見上げていた。細い指さきがそっと頬にふれる。
「あなたは私が愛した人だもの……私を守り、いつも愛してくれた」
「だが、俺は……」
「もう何も言わないで」
総司が囁き、つま先立ちになった。細い腕でかき抱かれる。
そのまま柔らかな唇を重ねられた瞬間、土方の理性が焼き切れた。総司の細い腰に腕をまわすと、その華奢な身体を抱き上げる。
褥が敷かれてある隣室への襖を開いても、総司は抵抗しなかった。ただ、男の胸に身を寄せている。
躊躇いはまだあったが、褥におろしたとたん、口づけを求めて抱きついてくる総司に、それもかき消された。深く唇を重ねながら、もどかしげに互いの着物を剥ぎとってゆく。
まさに、剥ぎとってゆくといった言葉が似合いの行為だった。傍から見れば、土方が総司を手込めにしているように見えたかもしれない。
二人は一糸まとわぬ裸身になると、互いを激しく深く求めあった。何度も口づけを交わし、肌をあわせる。
「……総司……っ」
その名を呼びながら、土方は白い肌に口づけようとした。だが、あるものを目にしたとたん、鋭く息を呑んだ。
総司は己を抱きしめていた男の身体が強張ったのを感じ、薄く目を開いた。土方は驚愕の表情で、総司の身体を見下ろしている。
それを見た瞬間、今まで忘れていたことを思い出した。
「見ないで……!」
恥ずかしさと情けなさに、思わず叫んでいた。着物を手繰り寄せ、己の身体を覆うとする。
だが、男の方が素早かった。敏捷な動きで総司の手を抑えこむと、華奢な身体を組み敷いた。ぱさりと黒髪が褥に広がる。
「……これは何だ」
押し殺された低い声が問いかけた。総司は唇を震わせ、顔を背けた。
それを土方は許さなかった。細い顎を掴んで、己の方に向かせる。そうして、近々と瞳を覗きこんだ。
「答えろ、総司」
鞭打つような声音だった。先ほどまでの甘さは全くない。だが、そこには紛れもない心配の色があった。
総司は固く瞼を閉ざした。小さな声で答えた。
「……見てのとおりです……疵です」
「そんな事を聞いているんじゃねぇ。おまえだってわかっているだろう?」
「……」
「誰につけられた疵だ。……まさか、伊東か」
土方の声が怒りゆえか凄味を帯びた。それを感じ、総司は慌てて首をふった。
「違います。そうじゃない」
「なら、誰だ。言えよ」
「……私、です」
「……」
総司の言葉を、土方は一瞬、理解できなかったようだった。訝しげに眉を顰める。
「何…だって……?」
「だから、私自身で疵をつけたのです。何度も何度も、身体中に」
「どうして」
「……っ」
嗚咽がこみあげた。
言えるはずがなかった、あなたに捨てられたからだなんて。
こんな惨めな自分を知られたくない。
こんな疵をつくるほど、あなたなしでは生きられない私を知られたくない。
総司はきつく唇を噛みしめた。黙ったまま、土方を見つめる。
それを見下ろす土方が不意に目を見開いた。訝しく思う間もなく、視界が霞んでいく。
いつの間にか、泣いていた。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた……。
次、お褥シーンがありますので、苦手な方はスルーしてやって下さいね。