きつく目を閉じた総司を、しばらくの間、伊東は無言のまま見つめていた。
だが、やがて膝を折ると、総司の傍に跪き、そのなめらかな頬にふれた。
「……わかりました」
伊東は低い声で言った。
「土方君には何も言いません。その代わり……誰がその疵をつけたのか、教えてくれませんか」
「私です……」
「え?」
「私自身で、疵をつけました」
「……」
一瞬、伊東は意味がつかめぬようだった。驚いた表情で、総司を見つめている。
やがて、ゆっくりと問いかけた。
「きみ自身が、きみの身体を疵つけたと……? いったい、何のために」
「それは……」
「土方君と別れたためですか。それが理由になっているのですね」
的確に的を射る伊東の言葉に、何も言うことが出来なかった。
黙ったまま俯いてしまった総司に、伊東は嘆息した。そっと細い肩に手をかけ、己の胸もとに抱き寄せる。
耳もとに声がふれた。
「きみは……己を追いつめすぎる」
「伊東先生……」
「何もかも我慢して、堪えて……挙句、己を傷つけるなんて、痛ましくて見ていられません。今すぐ、彼のもとへ帰りなさい。土方君のもとへ戻り、何もかも打ち明けてしまえばいい」
「そんなこと出来るはずがありません」
「なぜ」
「だって……」
総司は泣き笑いをうかべた。
「私、あの人に捨てられたんですよ。他に好きな人が出来たから、その娘さんと所帯を持つからって、捨てられたのです。なのに、今更、彼の元へ戻って何になるのです。土方さんはもう……私のことなど、何の関心も興味もないのに」
「総司、きみは……」
何もわかっていない、そう言いかけた。
男の気持ちも、衝動も、情愛も何もかもわかっていないから、土方の言動の意味を理解することが出来ないのだ。
だが、固く己の中の殻に閉じこもろうとしている総司に、伊東は口を閉ざした。
今は何を言っても、その心に届くことはない。
自分にしてやれるのは、ただ、傍にいてやることだと思った。その傷だらけになってしまった心を癒やし、寄り添ってやることだけだろう。
ただ、そんな事しか出来ない己が歯がゆかった。
こんな事になるのならば、己が兄なのだと明かさなければよかったのだ。
伊東は土方が何故、総司と別れようとしたのか、わかっていた。
総司のためを思って別れたに違いないのだ。そうでなければ、あれ程、総司を狂うように愛している男がこの若者を手放すはずがない。
互いが互いを想い合い、愛しあい、なのに、その愛こそが互いを何よりも傷つけてしまう恋人たち。
だが、一方で、思いもした。
やはり、あの男は総司を不幸にしかしないのだ。
前世と同じように、地獄への道連れにしてしまうかもしれない。
ならば、いっそ引き離してしまった方がよいのかもしれなかった。
こんなにも互いを傷つけあう愛など、壊れてしまった方がよいのだ……。
「総司」
あらためて、伊東はその名を呼んだ。
従順に見上げてくる総司に痛いほどの愛しさを覚えながら、その細い体を腕の中に抱き込んだ。つややかな黒髪にくちづける。
「私が傍にいます……あの時、約束したように私がいつまでもきみの傍にいましょう」
「伊東先生……」
「だから、もう自分を疵つけないで。どうしても傷つけたいのなら、私を傷つければいい」
「……」
総司の目が見開かれた。驚いたように彼を見上げてから、ふるふると首をふる。
「そんなこと……出来ません」
「いいのです。きみに傷つけられるなら、私は構わない。私はきみを守るために、愛するために、こうして生まれ変わったのだと思っています。今度こそ、きみには幸せになってもらいたいのです」
「兄上……」
思わず、そう呼んでいた。ぽろぽろと涙がこぼれる。
抱きしめてくれる伊東の腕の中で、総司は思いきり泣いた。それは、土方と別れてから、久方ぶりに流した涙だった。
土方と総司の間は少しずつ遠ざかっていった。
公では、何も変わらない状態が続いている。相変わらず、総司は一番隊組長としての任務を果たしていたし、土方の懐刀でもあった。だが、私的な会話はまったくなかった。それどころか、公の場以外で顔をあわすことさえなかったのだ。
隊士たちには知られていなかったが、恋人同士であった頃は、幾度も二人きりで逢瀬を重ねていた。
それは料亭であったり、茶屋であったり、神社の境内であったりしたし、時には屯所の一角の部屋でひっそりと抱きあうこともあった。秘められた恋であり、隠し通さなければいけない二人の関係だったが、ささやかな幸せの時だったのだ。
だが、そんな事はもうなかった。
二人で逢うどころか、ほとんど視線もあわせない日々が続いていったのだ。
総司はすぐに伊東の懐へ飛び込むような真似はしなかった。
あれ程どちらの手をとるのか悩んだのに、不思議なほどだったが、伊東に甘える自分が許せなかったのだ。あくまで年長の友人として尊敬し、言葉を交わすことは幾度もあったし、時折、二人で出かけることもあった。
だが、その関係が友人から念兄弟へと変わることはなかった。伊東も前世と違い、押し殺された情念がないためか、穏やかに柔らかく受けとめてくれていた。
ただ、確かなこともあった。総司の疵は減っていた。まだ時折、彼恋しさに己を傷つけてしまうことはあったが、それでも、その回数は明らかに減っていたのだ。
そして、伊東との時を大切にするようになっていた。決して寄りかかりすぎたり、甘えたりはしないが、それでも、二人で過ごす時を大切にするようになったのだ。
自然と息ができる気がした。
それは、恋をしていないからかもしれなかった。
土方といる時、総司はいつも緊張していた。
こんな事をしたら嫌われないか、疎まれないか、つい考えてしまったのだ。むろん、それは杞憂だった。土方が総司を疎んじたり嫌ったりすることなど、ありえなかったのだ。
だが、そんなこと、総司にわかるはずもなかった。総司は土方に片思いしつづけているようなものだった。
それゆえ、何もかも我慢してしまうし、彼に相応しい大人になろうと無理をしてしまう。
彼に嫌われたくないと思うあまり、反論があっても己の中に押し殺し、いつも従順になるよう己自身を押さえつけているところがあったのだ。それに土方が気づき、密かに苛立っていることも知らないままに。
いや、苛立ちを感じたことはあった。彼の黒い瞳に時折、湛えられる苛立ちを知ってはいたのだ。二人きりで逢う時、土方は総司にとても優しかった。優しくて甘くて、とろけそうなほど愛してくれた。
だが、そのくせ、いつからか苛立ちの色を浮かべるようになった黒い瞳に、総司はより怯えるようになっていったのだ。
何か間違ったことをしてしまったのか。
嫌になったのではないか、子供じみたことをして呆れられたのではないか。
色々と考えては、必死に取り繕うように振る舞った。
どんなに辛い事があっても、彼の前では笑顔でいるようにした。どんなに嫌だと思ったことでも、副長として命じられたことには従った。自分の中に抱えている辛さも、病ゆえの不安も、涙も何もかも、彼には見せないように気をつけた。
だが、それでも、土方の瞳からは苛立ちの色が消えなくて、逢うたびに怖くなっていった。
やっぱり、駄目なのだろうか。
頑張っても一生懸命やっても、こんな私では彼に相応しくないから。
いつかは捨てられてしまうの……?
考えるだけで、胸が張り裂けそうだった。
そんなにも辛いのに怖いのに哀しいのに、彼が自分との別れを決意したのなら、素直に身をひくべきだと冷静な自分が囁いた。だから、不安が事実になってしまった時、それに従ったのだ。
全部、これで良かったはずなのだ。
自分に刻まれた疵は消えないけれど、それでも、前を向いて歩いていこうと思った。それに、もう彼の前で自分を堪える必要もない。逢うこともないのだから、彼に我儘を言ってしまう自分を抑えることもないのだ。
伊東には恋心はない。ただ、兄として、年長の兄として、慕わしさと尊敬があるだけだ。だからこそ、楽に息をすることが出来た。土方と別れて数ヶ月が経った頃、笑うことが出来ている自分に気がついた。
笑えるんだ……。
何だか、不思議な気がした。
あんなにも愛した人に捨てられたのに、別れを告げられたのに、笑うことが出来るなんて。
自分の笑顔に気づいた時、奇妙な罪悪感が胸を刺し貫いた。笑みがひっこんでしまう。
笑ってはいけない気がした。彼への愛を想いを、汚すような気がしたのだ。今でも彼を愛しているのに、なのに、別れを告げられても笑うことが出来るなんて。自分の想いを否定するような気がしたのだ。
そんな心の動きを読み取ったのだろう、伊東が静かな声で言った。
「素直になっていいのです」
見上げた総司に、伊東は手をのばした。そっと頬にふれられる。
「笑いたい時は笑えばいいし、哀しい時は泣けばいい。それがきみの心を癒してくれるはずですし、力にもなる」
「だって……」
総司は思わず目を伏せた。
「そんなの……自分が許せないのです。あの人と別れたのに、平気で笑っている自分なんて……」
「愛することと、己の感情に素直になることは違うでしょう。彼を愛している気持ちと、日々の中の想いを一緒にしてはいけない。きみは沖田総司という一人の若者なのです。彼を愛していることは、その中の一部なのです」
「いいえ」
きっと顔をあげた。
「私にとっては、すべてです。あの人は私のすべてなのです」
「違いますね」
伊東は苦笑した。子供を宥めるように言葉をつづけた。
「もしも、彼がきみのすべてであるのなら、私と土方君の間で悩むこともなかった。こうして私の傍にいることもない」
「伊東先生は」
気持ちが昂ぶり、声が震えた。
「私の気持ちが、その程度のものだと言われたいのですか」
「総司」
気持ちを落ち着かせるように、伊東は総司の肩をかるく叩いた。そのまま優しく引き寄せ、その腕の中にすっぽりとおさめてくれる。
男の広い胸もとに身を凭せかけ、総司は目を閉じた。甘えてはいけないと思っていても、昔のように、兄妹として過ごしていた時のように抱きしめられると、身体がそのぬくもりを求めてしまうのだ。
素直に身を預けてくる総司を感じながら、伊東は言葉をつづけた。
「私はきみの想いを否定するつもりはありませんよ。むしろ、その逆だ。きみは身も心も捧げるようにして、土方君を愛している。私から見れば、妬ましい程にね。ただ、それは……すべてではないのです。土方君への気持ちはきみの一部であり、むしろ、それが正しいことなのだと思いますよ」
「正しいこと……?」
「きみには仕事がある、友人もいる、江戸に残してきた家族もいる、色々な生活や思いがあるでしょう。それで良いのです。彼への愛だけに溺れれば、見えるものも見えなくなってしまう。間違った方向に突き進んでしまう恐れがある。げんに……」
伊東は総司の腕をとり、そこに残る傷跡にふれた。
「こうして、きみは己を傷つけた。それは決して正しいこととは言えないでしょう。だから、今、笑うことが出来るようになったことは、とても良いことなのです。これからも彼を愛していくことは良いでしょう。ただ、己のすべてにしてはいけません。沖田総司という、きみ自身をどこかに失くしてしまいますよ」
「……」
総司は伊東の言葉に、思わず目を伏せた。
伊東の言葉どおりだった。
盲目的な愛は、自分も彼をも壊してしまう。
それに、もはや何もかも手遅れなのだ。彼とは別れてしまったのだから。
この愛をどれほど捧げても、彼はもう受けとめてくれない。
総司は伊東の腕に抱かれたまま、大きな瞳で彼を見上げた。
「……伊東先生」
微かに笑った。
「ありがとうございます、私の傍にいて下さって……」
「私自身が望んだことです。きみが気にすることではありません」
そう言って抱きしめてくれる伊東の腕の中、総司は安堵の息をもらした。そして、男の背中に両手をまわすと、静かに目を閉じたのだった。
伊東が近藤たちと一緒に広島へ出張することになった。
初め、それを聞いた時、総司は思わず細い眉を顰めた。無謀だと思ったのだ。
危険がありすぎるし、この時期に広島へ向かうことは意味があるのか、よくわからなかった。
土方は反対しているようだった。幾度か、近藤と口論している処を見かけたことがあった。だが、総司は表立って伊東に反対をしようとは思わなかった。表情には出ていたかもしれないが、自分が口出しをする事ではないと思ったのだ。
数日後、彼らは出立していった。総司は門前まで出て、彼らを見送った。
近藤たちに気付かれぬように、こっそりと伊東の手の中にあるものを滑りこませた。驚いたように見る伊東に、笑いかけた。
「お守りです。無事に帰ってこられるように」
「大丈夫ですよ。なるべく早く戻ってきます」
そう言った伊東に、総司は身を寄せた。傍から見れば、愛しあう念兄弟が別れを惜しんでいるように見えただろう。
だが、そんな事、総司は思いもしていなかった。ただ、伊東のことが心配だったのだ。
男の肩にそっと手をかけ、静かな声で言った。
「……ご無事をお祈りしております、兄上」
「栞……」
思わず前世の名を呼んでから、伊東は小さく微笑んだ。一瞬だけ総司を抱きよせてから、すぐに離した。
そのまま踵を返し、歩み去ってゆく。
近藤たちと一緒に遠ざかってゆくその背を、総司はいつまでも見送っていた。
やがて、その姿が見えなくなると、微かに吐息をもらし、屯所の中へ戻ろうと身体の向きを変えた。
とたん、どきりと心の臓が跳ね上がった。
「!?」
門の柱に寄りかかるようにして、土方が佇んでいたのだ。軽く背を凭せかけ、両腕を組んでいる。
黒い瞳に、あの頃と同じ苛立ちを見たような気がして、総司は身を竦ませた。
否、侮蔑だろうか。土方と別れたとたん、手のひらを返したように伊東と一緒にいる自分を、軽蔑しているのか。
「……」
思わず目を伏せてしまった総司に、土方は鋭い視線を向けているようだった。
だが、すぐに視線をそらすと、身を起こした。そのまま総司に声をかけることもなく、踵を返し、その場から立ち去ってゆく。
すらりと伸びた背を、総司は息づまるような思いで見つめた。
引き締まった長身に黒い着物を着流している。斜めがけに差された刀、風にかき乱されていく黒髪、それをかき上げるしなやかな指さきまで、息を呑むほどきれいだった。
時が過ぎたのに。
少しは疵も癒やされたはずなのに。
今も尚、この人は私の心をこんなにも惹きつける……。
それが哀しいぐらい切なかった。
京に初雪が降った日、総司は伊東からの文を受け取った。
総司の身体のことなどを気遣った、穏やかな優しい文だった。それに安堵の吐息をもらし、胸に抱いた。
屯所で読むことが躊躇われ、神社の一角で読んでいた。
冬にしては珍しくあたたかい日だった。青空が広がり、柔らかな日差しが降り注ぐ。
石段に腰かけて文を読んでいた総司は、伊東のことを考えた。
今頃、どの辺りにいるのか。
土方に切り捨てられ、苦しんでいた自分を静かに受けとめてくれた人。
昔からそうだった。兄妹を超えた愛情ゆえに怖さを感じたことは確かだったが、それでも、自分が窮地に陥った時や困った時、すぐに手をさしのべてくれたのだ。己の身も顧みず。それは今も変わらなかった。
むろん、総司もわかっている。そのぬくもりに甘える訳にはいかないことを。
あの頃とは違うのだ。新選組一番隊組長としての立場もあるし、何よりも今の自分は武士だった。だからこそ、彼と別れた今でも、土方を支えつづけている。
だが、一方でわかってもいたのだ。
人はそんなに強くはないということを。辛さも苦しさも何もかも己の中にだけ押し殺して、愛する人も愛してくれる人も傍にいないまま、生きていくことなど出来ないのだ。少なくとも、自分には出来ない。
総司は本質的に、誰かを愛することで強くなる若者だった。
愛されることよりも、愛することが総司の力となるのだ。
だが、今、その愛は拒絶されていた。この世の誰よりも愛する男によって。ならば、己を疵つける他なかった。
そんな総司を、伊東は静かに受けとめてくれたのだ。
「……」
総司は吐息をもらし、文を丁寧に懐へ仕舞った。屯所へ戻ろうと、神社の境内を出た。
ゆっくりと歩き出そうとして、ぎくりと躰が強張った。
鳥居をくぐってすぐの道を、ちょうど一人の侍が横切るところだった。
総司の存在に今まで気づいていなかったのだろう。こちらを見た瞬間、目を見開く。
だが、すぐに皮肉げな笑みをうかべた。
「……奇遇だな」
屯所からは随分と離れたところだった。近くに黒谷屋敷などがある訳でもない。
こんな処で逢うとは思ってみない相手だった。
「土方さん……」
小さくその名を呼んだ。