土方に縁談があると聞いたのは、その翌日だった。
直接、彼から聞いたのではない。ただ、周囲で噂がたっているのを、総司は耳にしてしまったのだ。
良縁が土方に持ち込まれ、よく二人で逢うようになったのだと、順調に進んでいてこの分では年内にも婚礼だろうと聞かされた。
(……そうだったんだ……)
ぼんやりと総司は考えた。
土方と伊東、そのどちらかの手を選ばなければいけないと悩んでいた。だが、悩む必要もなかったのだ。土方の方から手を離してきたのだから。
とうの昔に、彼は自分を見限ってしまっていたのか。
(ばかみたいだな、私って……)
どこまで思い上がっていたのか。
自分が選ぶことが出来るのだと、自分しか選べないのだと、いつの間にか思い上がっていた。
だが、そうではなかったのだ。
土方から切り捨てられることも当然、ありえるのだ。
むしろ、当然のことだった。あの矜持の高い彼が待っていてくれただけ、有り難いと思わなければならないのだ。怒りを総司にぶつける事もなく、ずっと待ち続けてくれていた。なのに、自分はいつまでも決断することが出来ず、迷い続けてしまったのだ。
これ以上、振り回されるのは御免だと思われても当然のことだった。
「解放してあげなきゃ……」
小さく呟いた。
いつまでも前世の事に拘っていたくない、そう願ったはずだった。
ならば、いっそ土方との縁も断ち切ってしまうべきなのだ。前世に囚われ続けている限り、いつまでも互いの足枷となってしまうことは分かりきっていた。泥沼に呑まれていくように、深みに嵌っていってしまう。
ならば、ここで手を離せばいい。
彼が手を離す決意をしたのなら、それを静かに受け入れるべきだった。現世でまで彼を縛り付けることなど、許されるはずがない。
彼の幸せを願うべきなのだ。
そう思う傍から、胸が張り裂けそうなほど痛むのを感じた。
思わず目を閉じ、胸もとをぎゅっと握りしめた。
あの人が自分のものではなくなってしまう。
遠い、手が届かないぐらい遠いどこかへ、行ってしまう気がした。
本当は、他の誰かと微笑いあう彼など見たくない。
ずっとずっと、自分だけの傍で笑っていて欲しい。
自分だけのためにだけ生きていて欲しい。
そんなのいけないのに、そんなこと思ったら駄目なのに。
本当は彼の幸せを願うべきだし、私がすべき事なんて一つしかないのに。
それなのに。
「……あの人の幸せなんて、願えないよ」
ぽろりと涙がこぼれた。
こんなにも……私は身勝手だから。
公での関係までも途切れた訳ではなかった。
一番隊組長としての務めを果たす以上、副長としての土方と言葉を交わさない訳にはいかないのだ。たとえ、それがどれ程辛いことであっても。
「……沖田です」
副長室の前で膝をつき、名乗ると、中から返事があった。それに応じて障子を開ける。
巡察の後だった。報告のために副長室を訪れたのだ。あの噂を聞いてから初めて土方と顔をあわせた。否、あの娘と一緒にいる彼を見てから、初めてかもしれない。
そんな事を考えながら、総司は目の前に坐る男を見つめた。
報告を聞いているのかいないのか、文机の前で胡座をかき、手にしている書類に目を落としている男。
その端正な横顔も、切れの長い目、形のよい唇、頬から顎にかけての鋭い線、何もかもが変わっていないのに。優しく総司に笑いかけてくれていた恋人のままなのに、どこか彼がまとう雰囲気は違う気がした。
静かに柔らかく、総司を拒んでいる。そんな気がしたのだ。
まるで、目に見えない壁が二人の間につくられてしまったようだった。
「……以上です」
手短に要領よく報告を述べた総司は、土方の答えを待った。そっけなく「ご苦労だった」と言われ、引き下がることになるはずだった。
そんな総司に、低い声がかけられた。
「総司」
不意に、恋人同士のままの口調で呼びかけられ、どきりとした。慌てて顔をあげると、黒い瞳がこちらをじっと見つめている。
頬が火照るのを感じながら、返事をした。
「はい、何でしょうか」
「いや……少し話がある」
「……」
息がとまるかと思った。
男の声音、態度、まなざしに直感したのだ。
別れ話なのだ、と。
彼は本当に自分を切り捨てようとしているのだ。あんなにも愛していると言ってくれたのに、なのに。
否、すべては自分が悪いのだろう。彼という人がありながら、彼と敵対している男の手をとってしまった。それが間違いだったのだ。
引き際は心得ているつもりだった。いつでも身を引く覚悟は出来ていたのだ。
ぎゅっと両手を握りしめた。まっすぐ彼の瞳を見つめ返す。
それに、土方は静かなまなざしを向けた。
そして、言ったのだった。
総司がずっと予感していた言葉を。
この事が起こる前から、恋が始まった頃から、否──もっともっと昔、二人がまだ生まれ変わる前から。
いつか彼から告げられることを、予感していた言葉。
それは。
「もう……すべてを終わりにしたいんだ」
身を引く覚悟なら出来ていた。
彼のためなら、愛する彼が望むなら、身を引くべきなのだとわかっていたのだ。
己が彼と同じ性に生まれてしまった時から、否、彼の運命を狂わせた逃亡の日々が始まった瞬間から。
あの時、あなたの手をとったのは間違いだったのですか……?
しばらくの間、総司は何も言わなかった。
土方の言葉に黙ったまま、じっと俯いている。だが、やがて、小さな声で言った。
「それは」
「……」
「私と別れたい……ということですか」
確かめるように問いかけた総司に、土方は一瞬、押し黙った。苦痛を覚えたように眉を顰める。
だが、すぐに視線をそらせた。
「……あぁ」
「……」
「俺はおまえと別れたい。……別れてくれねぇか、総司」
「……」
聞き間違いないぐらい、はっきりと言われた別れの言葉に、微かに総司の肩が震えた。
すぐに諾と答えた方がよいことはわかっている。
だが、喉が詰まるようで、言うことが出来なかった。時がたってから、代わりに絞り出されたのは、違う言葉だった。
「どうして……?」
わかりきった事を、訊ねた。まるで、己に刻まれる傷の深さを確かめるように。自虐的だとさえ思った。
「どうして、土方さんは私と別れたいのですか?」
「そりゃ、決まっているだろ」
土方はくすっと笑った。片頬が歪み、どこか暗い笑みが形のよい唇にうかべられる。
黒い瞳が冷たく澄んだ。
「他に好きな女が出来ちまったからな。もうじき、女房を娶るのさ」
「……」
「おまえには悪いと思うが、結局の処、おまえとは所帯もつことも出来ねぇし、子を産んでもらうことも出来ねぇからな。今のおまえじゃどうしようもねぇだろ?」
男の言葉はあまりにも残酷だった。
総司にはどうしようもない、どうすることもない事実を鋭く突き刺してきたのだ。いっそ耳を塞いでしまいたいと思った。
だが、何もすることが出来なかった。ただ、ばかみたいに目を見開いて、驚いた顔で彼の言葉を聞いているだけだ。
こんな私を見て、土方さんはどう思っているのだろう……?
やはり子供だと思ったか、どうしようもない奴だと呆れたか。
どちらにせよ、切り捨てられた事は確かだった。彼は今、自分を切り捨てようとしているのだ。否、とうの昔に切り捨てられていたのに、それに気づかぬ自分を憐れみ、説明をしてくれたのか。
気がつけば、土方は口を閉ざしていた。黙ったまま、総司だけを見つめている。
奇妙な表情だった。まるで痛みを与えられたのが、別れを告げられたのが彼であるかのような表情で、総司を見つめている。
だが、それは一瞬のことだった。
土方はすぐに視線をそらし、低い声で言った。
「話はそれだけだ」
沈黙が落ちた。
それがたまらなく辛かった。早く答えろと急かされているようだった。
総司は白くなるぐらい握りしめた己の指を見た。それから、掠れた声で答えた。
「……わかりました」
「……」
「あなたと別れます。今まで……ありがとうございました」
頭を下げてから、総司は立ち上がった。そのまま一度もふり返ることなく、副長室を出てゆく。
震える手で障子を閉めてから、出来るだけいつもどおりに歩いた。急ぐでもなく、遅らせるでもなく。
我慢して、もう少し。もう少しだから。
ようやく辿り着いた自室で、総司は障子を固く閉めきった。そのまま、ずるずるとその場に座り込んでしまう。
「……っ」
息がもれた。嗚咽が、涙がもれた。
まるで壊れてしまったように、ぽろぽろと涙がこぼれた。声は出ない。本当は、たくさん叫びたいのに、泣いて叫びたいのに、声はまったく出なかった。
土方さん、私を捨てないで。
いやだ。
お願い、私を捨てないで。
本当はそう叫びたかった。だが、そんなこと出来るはずがない。
だから、総司は両手で唇を抑えた。奥歯を噛み締め、必死に堪える。
声もなく叫びも何もかも己の中に押し殺して、ただ、涙だけをぽろぽろとこぼした。
それだけは自分に許してあげたかった。
あんなにも愛している人から、別れを告げられたのだ。
涙をこぼすぐらいは、自分に許してやりたかった……。
総司が頭を下げた瞬間、思わず手をのばしそうになった。
手をのばして腕をつかみ、引き寄せて、その華奢な躰を思い切り抱きしめたくなったのだ。だが、そんなこと出来るはずもなかった。
一度決めた事だった。この可愛いくてたまらない、甘くて可憐で優しくて、己の命よりも大切な宝物を手放すことを決めたのは、彼自身だ。ならば、最後までやり遂げる必要があった。
誰よりも愛しい存在のために。
「……」
土方は視線をそらしたまま、手をぐっと握りしめた。爪が食い込んでいるのがわかる。だが、そんな痛みなど、総司を失う辛さに比べればどれ程のものか。
総司が立ち上がり、部屋を出ていく気配がした。障子が静かに閉じられ、足音が遠ざかってゆく。
その気配を、足音を、追いかけてしまう自分に、きつく唇を噛みしめた。
そんなにも愛しいのなら、追いかければいい。今ならまだ間に合うから。
追いかけて抱きしめて。
全部嘘だ、おまえと別れることなどありえない、愛してる。
そう告げることが出来たなら、どんなに良かっただろう。
痛いぐらいそれをわかっていながら、俺は何度も繰り返している。
これで良かったのだ、お互いのためによかったのだ……。
総司が悩んでいるのはわかっていた。
俺の手をとるべきか、伊東の手をとるべきなのか、迷い悩んでいたことはわかっていたのだ。
だが、あの日、俺は思い知らされていた。あいつが悩む必要などないことを。
総司は、伊東といることで幸せになれるのだ。
俺との繋がりも、俺自身の存在さえも、何の幸せももたらさない。いや、それどころか、地獄への道連れにするかもしれないのだ。
前世と同じ過ちを繰り返すかもしれない。
ならば、今、手を離してやるべきだった。
こちらから手を離してやれば、総司は自由に駆けていくだろう。俺などに縛られず、自由になって、思うように生きていくことが出来る。
芹沢の一件から総司が俺との間に一線を引くようになっていたことは、わかっていた。無理をしつづけていることも、よくわかっていたのだ。
愛なんて、永遠でなくていい。
約束も繋がりも、定めも何もかも、永遠など誰が決めたのか。
土方は祈るように目を閉じた。
俺はもうおまえを愛さない。
二度と、おまえのことは想わない。
だから、総司。
おまえも俺を愛さなくていいんだ。
無理に愛そうとする必要なんて、どこにもないんだよ。
世界中のすべての輝きが、自分の指さきから零れ落ちていった気がした……。
土方と決別した後、総司はしばらくの間、何もする気になれなかった。
むろん、仕事はこなしている。だが、それはただ習慣的に行われ、まるで違う誰かが自分を動かしているようだった。
だが、隊務をしたり稽古をしている時はいい。他の何かをしている限り、物思いから逃れることが出来るためだ。辛いのは、一人になった時だった。
何もすることがなくて、ただ一人、ぽつりと残されている自分に気がついた時、たまらない孤独感が押し寄せた。淋しくて淋しくて叫びだしそうになった。
土方さん、土方さん、土方さん
ただ、ただ、彼の名だけを呼んで、彼だけを求める自分を必死に堪えた。今にも彼だけを求めて駆け出しそうになる自分を押さえつけるため、総司は己に幾つもの疵をつくった。
それは痣や引っかき傷程度のものだったが、着物の下でたちまち総司の躰は疵だらけになった。いつも優しく彼に愛されていた白い肌は、今、醜いほどの痣や疵が刻まれていた。
だが、それを見るたびに安堵する自分はおかしいのだろうかと、総司は考えた。
その疵がある限り、まだ自分が彼に繋がっている気がしたのだ。
彼を忘れていない、彼に忘れられていない。
ついこの間、私は彼に別れを告げられたばかりなのだ。
だって、こんなにも疵はまだ新しいのだから。
ほんのすこし前、彼は急に私に別れを告げた。でも、もしかしたら、気持ちが変わるかもしれない。
ほんのすこし前のことだから、彼は考えを変えて、やっぱりあれは嘘だよと、笑いかけてくれるかもしれない。
そんな気がして、だから、総司は何度も何度も己を傷つけた。
初めは自分を押さえるためだったのが、いつしか、彼が戻ってきてくれるかもしれないという希望のために、己を傷つけるようになったのだ。
誰も知らぬ間に、総司は躰も心も傷だらけになっていた。
そして、総司のそんな異常に気づいたのは、すぐ傍にいる斉藤でも、身も心も傷だらけになるぐらい求めている土方でもなかった……。
「……この傷はどうしたのです」
伊東は眉を顰めた。
不意に、強い力で総司の手首を掴み、その袖をめくり上げる。とたん、はっと伊東が息を呑む気配がした。
「は、離して下さい……!」
反射的に身を捩り、彼から離れようとする。だが、伊東の方が素早かった。
「総司!」
鋭い声でその名を呼び、押さえつけた。袖がめくり上げられ、その白い肌があらわになる。
赤紫の傷や、腫れている引っかき傷。酷い有り様に、伊東は目を見開いた。
「……これは何です」
絞りだすような声で訊ねた。それに総司は顔を背けたまま、何も答えない。
伊東の鳶色の瞳が底光りした。肩を強い力で掴んだ。
「答えなさい……!」
「いやです」
「なら、私自身が彼に聞きます。土方君に聞けば、その訳もわかるでしょう」
そう言って部屋を出ていこうとする伊東に、総司は息を呑んだ。慌てて彼の袂を掴んで縋りつく。
見下ろした伊東に、必死の様子で懇願した。
「あの人には何も言わないで下さい。お願いだから……っ」
「総司」
「お願いします。あの人には……土方さんにだけは、知られたくない」
こんな惨めな自分を。
それは、最後の最後で残された総司の矜持だった。
自分でもわかっているのだ。
別れを告げられても尚、縋りつくように、歪んだ行為をつづける自分はどんなに愚かで惨めなのか。
だが、自分でもどうすることも出来ない衝動だった。
傷をつけることで、癒やされるなんて。
(……本当に狂っている……)
総司は、きつく目を閉じた。