伊東と総司の接近は隊の中でも噂になった。
 今まで、伊東は他の組長には声をかけたり親しくなったりしていたが、一番隊組長であり筆頭師範代という大幹部である総司に対しては、まったく知らぬ顔をしていたのだ。それを隊士たちは、総司が土方の懐刀であるためと解していた。
 だが、その伊東が総司に話しかけるようになり、総司もそれを何の抵抗もなく受け入れるようになったのだ。人目をひかぬはずがなかった。
 むろん、そのことに土方が気づかぬはずはない。
 総司は彼に対して事情を話すべきだと思いながら、どうしても躊躇ってしまった。なかなか言い出すことが出来なかったのだ。
 これ以上近づくなと警告までされていたのに、近づいてしまった。心を許してしまった。
 それは総司にすれば、どうすることも出来ない流れだった。想いが気持ちが先走っていってしまうのだ。行動がそれに戸惑いながらついていっているような状況だった。


(こんなにも、私は堪えていたの……)


 自分でも意外な程だった。
 知らず知らずのうちに、己に対して堪えること、我慢することばかりを強いてしまっていた。気持ちを正直に吐き出すことが出来ることは、こんなにも心地よいことなのだ。
 それを、総司は今、はっきりと思い知らされていた。
 あの日、茶屋で逢ってから二人は場所を料理屋に移し、様々なことを話した。どれも新選組では話すことが出来ないような事ばかりだった。
 むろん、病のことも話した。その病を抱えている辛さも、彼に言えない葛藤も。
 伊東はそれを聞くと、酷く痛ましげな表情で総司を抱きしめてくれた。


 思えば、総司は誰かにこうして気持ちや考えを、すべて打ち明けるということがなかったのだ。
 土方は無口な方で決して饒舌とは言えないが、二人で話をする時は、どちらかと言えば土方の方が話をすることが多かった。土方自身、己の中にあるものを総司に対して打ち明けることで、癒やされていたのだろう。
 それを受けとめるため、総司は聞き手になることが主だったのだ。
 むろん、それを厭うていた訳ではなかった。ただ、中には反論したくなることも、総司自身、別の意見を持っていることもあったのだ。
 だが、それを口にする訳にはいかなかった。
 土方に嫌われたくなかったし、拒まれたくなかった。また、愛する彼を困らせたくなかったのだ。ただでさえ多忙の合間をぬって、こうして二人の逢瀬の時をつくってくれている。
 いつも仕事に忙殺されている土方が、自分といることで少しでも寛いで欲しいと願っていた。決して気持ちを害するような事をしたくなかったのだ。


 総司は心から土方を愛していた。
 彼に嫌われたり、拒絶されたりすることが何よりも恐ろしかった。彼のためだけに在りたいと、いつも願っていたのだ。
 むろん、わかっている。
 こうして伊東に近づくこと自体、土方は良くは思わないだろう。だが、それでも。
 限界を超えてしまっていたのかもしれない。ずっと堪えつづけていくことも、自分は幸せなのだと、己に言い聞かせていくことにも、疲れ果ててしまっていたのかもしれなかった……。












「……あ」
 思わず声を呑んだ。
 外出先から帰ってきた総司は、玄関口に佇む男の姿を見たのだ。腕を組んで玄関脇の壁に凭れかかっている。
 黒い瞳が総司をとらえたとたん、微かに細められた。
「……」
 駆け寄りたい衝動をおさえ、総司は彼に歩みよった。丁寧に頭を下げる。
「ただいま帰りました……副長」
「随分と遅い帰りだな」
 門限は過ぎていないはずだった。だが、確かに辺りはもう闇が降りている。
 土方はちらりと総司の後ろへ視線をやった。
「……一人か」
「え、あの……」
 口ごもってしまった総司に、土方は身を起こした。そのまま何も言わず背を向け、屯所の中へ入っていく。
 どうすればいいのかわからず突っ立っていると、土方がふり返った。眉を顰めている。
「何をしている、早く来い」
「は、はい」
 慌てて框をあがった。土方の背を追っていくと、そこは彼の私室だった。こんな夜に彼の部屋へ入るところを見られたら、邪推されないかと不安に思ったが、周囲に人気はなかった。
 促してくれるのに従い、中へ入る。
「……」
 土方は明かりを灯してから、腰をおろした。顎をしゃくり、「おまえも座れ」と言ってくる。
 それに素直に従った総司に、切れの長い目をむけた。
「……言えよ」
 不意に、土方が口火を切った。それに、「え?」と顔をあげると、唇の片端をあげて苦笑される。
「生憎、俺はそれ程気が長い方じゃねぇからな」 
 江戸の頃のような口調で言ってから、胡座をかいた膝に片肘をついた。斜めから覗きこむようにして、訊ねられる。
「伊東はおまえの何だ」
「……っ」
 言葉は確かに普段の彼のものだった。
 だが、その黒い瞳が完全に裏切っていた。
 熱を帯びたその瞳は凄みを感じさせるほど、底光りしていた。すっと切れの長い目の眦がつりあがった様が、ぞっとするぐらい美しい。
「何って……」
「答えろ」
 ぴしゃりとした口調で言われ、身が竦んだ。


 本気で怒っているのだと思った。
 当然のことだ、伊東があの兄かもしれないという話は前に彼にもしていたし、その時、近づくなと言われたことも確かだった。
 なのに、近づいた挙句、その理由も言わず彼を避け続けていたのだ。
 飼い犬に手を噛まれたようなものだろう。
 矜持の高い彼にすれば、我慢ならない事であるはずだった。


 総司は俯きがちに、答えた。
「……伊東先生は、やっぱり……兄上でした」
「……」
 土方は何も言わなかった。無言のまま、総司を見つめている。やがて、視線をそらすと、ふっと息を吐いた。
「そうか」
「ごめん…なさい」
 思わず謝った総司に、土方は冷ややかな視線をむけた。
「何を謝る。あいつが兄だということを黙っていたことか、俺に止められたのに近づいたことか」
「全部、です。でも……言い訳になるかもしれないけど、私、とめることが出来ませんでした。兄上だからとか、そういうのじゃなくて、伊東先生の傍にいると、とても気持ちが楽なのです。だから」
「だから、俺よりあいつを選んだのか」
 どこか気だるげな口調で呟いた土方に、思わず叫んだ。
「そんな……違う!」
「違わねぇよ。おまえはここの処ずっと俺を避けていた、俺よりも伊東の傍にいる時の方が多かった」
 淡々とした口調だった。そこに怒りも何もなかった。感情さえ感じられぬ声音に不安を覚えた。
 見上げると、冷たく澄んだ黒い瞳で見返された。
 視線が絡み合ったとたん、土方はふっと唇の端を微かにあげた。端正な顔だちの彼がそんな表情をすると、たまらなく意地悪なのに魅力的になる。いつもなら見惚れてしまう表情だったが、今の総司は不安になるばかりだった。
「別に責めている訳じゃねぇのさ」
 何も言っていないのに、宥めるように言われた。そっと細い肩に手がおかれる。
「俺はおまえの傍にいてやることが出来ねぇからな。淋しい思いばかりさせちまっている。他の男をおまえが頼っても仕方がないことは、よくわかっているさ」
「そんな……そんなの」


 違うと言いたかった。
 彼よりも伊東を選んだ訳ではなかった。
 ただ、伊東と一緒にいることが穏やかで心地よかっただけだ。
 そこに恋愛感情はなく、兄への思慕と共にあるのは年長の友人への尊敬と慕わしさだった。
 だが、それを何と彼に伝えればいいのか、わからなくなってしまう。
 決して、伊東と土方を置き換えた訳ではないのに。


 きつく唇を噛んだまま俯いてしまった総司を、しばらくの間、土方は見つめているようだった。
 やがて、微かに嘆息すると、立ち上がった。
 はっとして見上げた総司に、静かなまなざしが向けられる。
「悪かったな、時をとらせた」
「土方さん、私……」
 言いかけたが、何も言葉をつづけることが出来なかった。言葉を重ねれば重ねるほど、彼の誤解を招き、泥沼に嵌ってしまいそうな気がしたのだ。
 黙りこんでいる総司に、土方も何も言わなかった。無言で部屋を出ていってしまう。
 慌てて立ち上がり部屋を出てみたが、もう土方は玄関を出ていくところだった。馴染みの女の処にでも行くつもりなのか、こちらを一切振り返らぬ背中を酷く遠く感じた。


(……土方さん……)


 総司は胸もとを掴み、きつく目を閉じた。 













 総司が俺から離れようとしている。
 その事を、俺は当初、まったくわかっていなかった、気づいていなかったのだ。
 俺の中にも驕りがあったのだろう。


 総司が俺から離れるはずがない、俺から離れられるはずがない。
 あいつは俺なしでは生きてゆけぬのだから。


 だが、少しずつ、総司は俺から離れていった。
 気持ちが離れていっているのが、手にとるようにわかったのだ。
 もともと一線を引かれていることはわかっていた。芹沢の事があってから、総司は変わったのだ。だが、それでも、総司の心は俺の傍にあった。俺を必要としてくれていた。
 なのに、あの男が現れた。当初、あの男は総司に近づこうとしなかった。総司自身、恐れているようだったし、何事も起こらなかったのだ。
 そのため、俺は油断していたのかもしれない。一応、警告はしたが、総司が俺から離れることなど、あるはずがないと思い込んでいた。
 だが、それは間違いだった。ある時を境にして、総司は急速にあの男へ近づいていったのだ。
 そして、俺から離れた。
 あの男に近づくのと時を同じくして、総司は俺を避けるようになった。屯所内でも顔をあわせることが極端に減り、たまにすれ違うことがあっても俯いてばかりだった。
 それでも、俺は信じようとしなかった。
 総司が俺から離れるなど、ありえることではなかった。……いや、信じたくなかったのだ。
 それが間違いなのだと思い知らされたのは、あの日だった。


 隊士たちの話から、総司が伊東と出かけたのを知った。
 二人で外出をしたのだ。
 俺は密かに苛立ちながら、いつ帰ってくるか気にしつづけた。
 夕闇が辺りに落ちてきても帰ってこない総司に、腹の底が焦げるような怒りを覚えた。
 我慢できず、玄関口に向かった。
 まるで、こちらを見向きもしてくれない女に溺れ込み、それでも振り向いてくれるのをひたすら待ち続ける男のようで、情けなかったが、どうしようもなかった。
 闇を見透かすようにして待ち続ける俺の前に、総司は現れた。何も知らず、軽い足取りで入ってくる。
 その総司の表情を見た瞬間、胸奥を刺し貫かれた気がした。深い絶望感が足元から這い上がり、俺を躰の芯から凍えさせてゆく。


 あいつは……幸せそうだった。
 今まで見たことがないほどに。


 その時、思ったのだ。
 あぁ、もうこいつには俺は必要じゃねぇのか、と。
 俺がいなくても、総司は幸せなのだ。
 いや、俺などいない方が、幸せになれるのかもしれない。


 そう思い知らされた瞬間だった……。














 土方と仲違いした訳ではなかった。
 それでも、総司の中でどこか土方への遠慮や緊張感が生まれてしまったことは、確かだった。もう何の気兼ねもなく笑いあうことが出来た頃に、戻ることは出来なかった。
 むろん、今でも愛している。
 彼以上に愛することが出来る存在など、あるはずがないのだ。
 だが、伊東との関係を断ち切ることは出来なかった。そうでない以上、土方と前のように過ごせるはずがない。
 どちらかの手をとるしかないのだと、言われた気がした。選べと言われたようなものだった。
 土方は愛する恋人であり、伊東は年長の友人。そんなふうに関係を続けていけるのだと思っていた。
 あの頃も、そのようにして過ごしていたのだ。だが、今はまるで状況が違いすぎた。
 新選組の中で、副長である土方と参謀である伊東は対立していた。まだ表沙汰にはなっていないが、それぞれ勢力を率いている身であり、いずれは凄惨な内部闘争に繋がってゆくことは明らかだった。
 同じ年齡であり、それぞれ容姿も頭脳も優れ、度量もある。似たような彼らだったが、その内面はまるで違っていた。土方が燃え上がる焔であれば、伊東は流れる水だ。相容れることなど出来るはずもなかった。
 どちらかを選べば、どちらかの手を離さない訳にはいかないのだ。
 この手はどちらかの手としか、繋がれることはない。





「おまえ、わかっているよな」
 巡察の帰り道。
 一番隊を解散した後、それを見計らったように斉藤が歩み寄ってきた。おそらく話をするために待っていたのだろう。顔を見れば、屯所では出来ない話だとわかった。
 二人きりになったとたん、言われた。
「どちらかしか選ぶことが出来ないんだぞ。土方さんと伊東先生、両方とも上手くやっていくなんて出来るはずがない」
「そんなこと、わかっています」
 総司は固い声で言った。無意識のうちに胸もとを掴んでしまう。
「わかっているから……悩んでしまうのです。どうすればいいのかわからなくて、不安でたまらなくて」
「悩むって、おまえ」
 斉藤は眉を顰めた。
「まさか、伊東先生を選ぶっていうのか?」
「違います。私は土方さんを愛していますし、土方さんを失うなら死んだ方がいいです。でも、私の気持ちが……それを許してくれないのです。伊東先生の傍にいることは、今の私にとって必要なことなのです……だから、あの人の手を離すことを考えるだけで、辛くなって……」
「結局、どちらも選べないという訳か」
「だって……っ」
 総司は苦痛を堪えるような瞳で、斉藤を見上げた。声が掠れる。
「土方さんへの気持ちと、伊東先生への気持ちは、まったく違うのです。土方さんは私にとってかけがえのない人です。愛しているし、失うことなんて絶対に出来ない。でも、伊東先生は……前世では兄上で、幼い頃から見守ってきてくれた人で……」
「家族ってことだろう……まぁ、それはわかるよ」
 嘆息した。
「家族と恋人、どちらかを選ぶことなんて出来るはずがない。ただ、今は状況が違うんだ。そんな甘い事を言ってはいられないと、おまえもわかっているはずだ」
「……わかっています」
「なら、おまえは選ぶべきだ」
 不意に肩を掴まれた。見上げると、斉藤は真剣な表情で総司を見つめていた。
「土方さんの手をとるべきだと、おまえ自身、わかっているはずだ。さっき、おまえも言っただろう? あの人を失うなら死んだ方がいいと。それぐらい愛している人の手を放すなんて、絶対にしてはいけない」
「斉藤、さん……」
「おまえが揺れていることはわかる。新選組のこと、土方さんとの関係、おまえの考え方、すべてが揺れ始めていることはよくわかるんだ。だが、今、土方さんの手を放すことは、おまえにとって命を失うも同然のことだ」
「命を失うも同然……」
 小さく呟いた。


 斉藤の言葉どおりだった。
 確かに、彼は自分にとって、命そのものなのだ。
 あの人がいるから、自分は生きていける。
 彼がすべて、だった。その手を放すことは、決して犯してはならない禁忌なのだろう。
 だが、それならば……自分のこの想いは何処へいくのか。
 苦しさも、辛さも、何もかも。
 この息つまるような想いは。


 総司は吐息をもらし、もう一度、胸もとをぎゅっと握りしめた。
「……」
 その様子を斉藤は不安げに眺めやった。


 総司が伊東を選ぶことはもちろん、こうして二人の間で揺れていることさえ、とても危険な行為に思えてしまうのだ。
 だからこそ、余計な差し出口かと思いつつも言ってしまった。
 ここのままで済むはずがない。
 土方がどう思っているのか、全くわからないが、決して快くは思っていないだろう。


 思わずため息をついた時だった。
 突然、信じられないものが視界に飛び込んできた。鋭く息を呑んでしまう。
「? 斉藤さん……?」
 彼の様子に気づいた総司が、不思議そうに小首をかしげた。振り向き、斉藤が見ているものに視線を向けようとする。
「そ、総司」
 慌てて、その場から離れさせようとした。
 だが、既に遅かった。
 総司はそれを見てしまっていたのだ。その目が大きく見開かれる。
「……土方、さん……?」
 確かに、そこには土方がいた。料亭へ入ろうとしている処だったのだ。
 だが、彼は一人ではなかった。傍には、娘が寄り添っていたのだ。
 むろん、土方も若い男だし、京に上ってから少々の遊びはしているようだった。その事を総司もきつく咎める気はなかった。やはり、前世の記憶があるためか、彼の女遊びに対して悋気するなど、はしたないという意識があったのだ。
 しかし、今、彼に寄り添っている娘は色街の女ではなかった。どこか大店の娘らしく、清楚に身なりを整えたさまは美しい。
 土方はその娘に優しく微笑みかけた。何か話しかけ、それに娘は頬を染めながら頷いている。
 当然だろう、彼に微笑みかけられて、舞い上がらぬ娘などいるはずがないのだ。
「……」
 そして。
 呆然と総司が見ている前で、二人は料亭に入っていったのだった。
 まるで恋人同士のように寄り添いながら……。