山南が新選組から脱走したのは、その数日後の事だった。
 早朝、山南の姿がない事に気づいた隊士からの知らせで、土方はそれを知った。口止めし、すぐに隊士を走らせて総司を呼ばせた。
 部屋に入ってきた総司は身支度を整えていた。訝しげな表情で彼を見る。
「……山南が脱走した」
 口早に告げた土方に、目を見開いた。何も考えられないのか、驚いた表情で彼を見ている。
 手を伸ばし、その細い肩を掴んだ。
「江戸へ帰ると文が残されていたが、これは脱走だ。総司、おまえが行って連れ戻して来い」
「連れ戻して……それで……?」
「後は隊規が処断する」
「……」
 冷徹な言葉に、総司はすべてを理解した。だが、反論しようとはしなかった。
 山南も理解した上で脱走したはずだ。もしもわかっていなかったのなら、彼の甘さだと言えるだろう。
 ただ、こうも考えてしまうのだ。
 この犠牲は新選組にとって必要なのか、と。
 出ていこうとして、総司はふと足をとめた。不審の目をむけた土方をふり返る。
 そして、言った。
「……あの時」
「何だ」
「芹沢局長が……言っていました」
「……」
 突然の言葉に、土方が眉を顰めた。
 今は一刻を争う時だ、思い出話などをしている場合ではない。だが、総司の言葉を遮る気にはなれなかった。
 黙ったまま見つめていると、総司は言葉をつづけた。
「自分たちは討たれるだろう。だが、それは新選組のためには必要な事だ、躊躇うことはない……と」
「……そうか」
「あの時と、今は同じですか。山南さんが処断されることは新選組にとって必要ですか」
「必要だ」
 断言した。
 冷たく澄んだ黒い瞳をむけ、土方はきっぱりと言い切った。
「山南を処断することは、新選組にとって必要なことだ」
「……」
 土方はそれ以上を言わなかった。だが、彼が言いたいことはわかっていた。


 ここで山南だけを許すなど出来るはずがないのだ。
 彼だけを許せば、他の隊士への示しがつかなくなってしまう。それは正しい判断だろう。
 ただ、ここに至るまでの経緯はどうなのか。
 山南が脱走したのは、おそらく屯所移転がきっかけにはなったが、新選組のあり方自体への問いかけが強くなった故だろう。これでよいのか、これが正しいあり方なのかと。
 土方が隊士たちに思想を許さず、新選組のあり方は近藤や土方だけで決めていくやり方は、新選組を最強の武力集団にするためには致し方のない手段だ。この動乱の時代の中で、各々が別個の意見を述べていれば、やがては分裂してしまうに違いない。
 だが、そこに隊士も人なのだという意識がなかった。
 山南にとって、それは耐えられない事だったのだろう。何も考えず、ただ人を斬れと命じられる行為自体が堪らなかったに違いない。
 ましてや、山南は平隊士ではない。大幹部たる総長なのだ。意見が食い違ったとしても、話し合いを重ねていくことが大切だったのだ。
 言葉が足らなかった。相手にしようともしなかった。
 それは、総司にとって禁忌になっていた。
 前世で、あの男をそうやって相手にもせず、話もしようとしなかったがために、あんな悲劇を招いてしまったのだ。今生でも逃げるなと言われた。これ以上、逃げるなと。
 芹沢は確かに新選組にとって邪魔な存在となり、処断されることも必要だった。
 だが、山南は違う。
 山南が新選組から消える必要など、本当はどこにもなかったのだ。


 黙りこんでしまった総司に、土方は鋭い視線をむけた。
 しばらく様子を探るように見ていたが、やがて、低い声で問いかけた。
「不満なのか」
「……」
「俺の判断は誤りだと思うのか」
「いいえ」
 総司は答えた。大きな瞳で土方を見返した。
「誤りだとは思いません。……わかりました、今すぐ追います。馬をお借りしてもよろしいですか」
「あぁ」
「山南さんが帰営を拒んだ場合は……」
「斬れ」
 容赦なく言い切った土方を、総司は見つめた。
 だが、すぐに視線をそらすと、言葉を出さぬまま頷いた。
 部屋を出ると、鈍色の空から雪が降り始めていた。しんと冷えきった空気が肌を刺す。
 それを感じながら、総司は厩へと向かった。
 気がつけば、無意識のうちにきつく両手を握りしめていた。爪が肌に食い込んでいる。
 それが不思議なほど痛かった……。













 山南は処罰されることも覚悟していたようだった。
 まるで、それを望んでいたかのような笑顔で、総司を迎えたのだ。あまつさえ、逢ってすぐ、「介錯は君に頼むよ」と言ってきた。それに、総司は子供のように、こくりと頷く他なかった。
 屯所へ戻ってすぐ、山南には切腹が言い渡された。それを受けてからの出来事は、あまりよく覚えていない。どんな時であっても、人の死は重いものだった。親しかった人であるのなら、尚の事だ。
 そんな事を考えてから、総司は、ふと微かに笑った。


 毎日のように、人を斬っているのに。死を与えているのに。
 なのに、こんなふうに重く思うということは、あの浪士たちを自分は人として思っていないのだろうか。
 あの者たちにも家族がいるだろうし、それぞれ人生があるはずなのに。


 何かが確実に、総司の中で変わり始めていた。
 狂い始めていたと言ってもよいかもしれない。
 土方に従い、行ってきたことを悔いるつもりはなかった。新選組のため、京の街を守るために行ってきたのだと自負している。
 むろん、聡明な総司は、そんな単純に片付けられる事ではないと理解していた。ただ、愛する土方を支えていくためには、割りきって行動せざるを得なかったのだ。
 考えてはいけなかった。
 何のために人を斬っているのか、何のために新選組はあるのか、考えることを己に禁じていた。
 彼の前では、あどけなく従順な存在でいたかったのだ。
 それを彼も望んでいるのだと、わかっていたから。
 だが、山南の死以降、息苦しさを覚えるようになっていた。
 今の状況に対して辛く、きついものを感じることが多くなったのだ。


(私は……何のためにここにいるのだろう?)


 そんな事さえ考えてしまった。
 土方と逢った頃は、この人に再び出会い、愛しあうためにいるのだと思っていた。
 今でも、その想いは変わらない。
 ただ、彼の邪魔になるのなら、彼の妨げになるのなら、いつでも身を引く覚悟はできていた。傍にいたいという気持ちは強いが、一方で、自分の存在が再び彼の人生を狂わせてしまうのではないかと、つい考えてしまうのだ。
 そんな負い目があるため、秘められた関係であっても構わなかったし、彼を一途に支えていくつもりだった。だが、当然のことだが、総司も一人の若者だ。ましてや、人一倍、感受性が強く、非常に聡明だった。
 己を抑制し、逢いたいという気持ちも堪え、愛されたい愛したいという想いを秘め、仕事に関しても考えることさえ自分を禁じていくことは、総司にとって決して良いことではなかった。
 それは総司の人一倍強い感受性を、気持ちを、縛り付ける行為だった。その行為は、柔らかな心を少しずつ疵つけていったのだ。
 総司自身さえも、気づかないうちに。












「……あ」
 思わず声をあげた。
 総司がよく一人で行く水茶屋だった。
 静かで美しい寺の門前茶屋であり、とても落ち着く雰囲気が気にいっていたのだ。人が少ないことも総司には心地よいことだった。
 その茶屋に入ったとたん、総司はそこに見知った顔を見つけ、小さく息を呑んだ。一瞬、踵を返そうかとも思うが、視線があってしまっている以上、失礼だとも思う。
 戸惑いつつ俯いた総司に、穏やかな声がかけられた。
「沖田君」
 顔をあげれば、鳶色の瞳がこちらを見つめていた。微かに促される。
「よければ、こちらに」
「……はい」
 緊張しつつも、総司は伊東の傍に歩み寄った。彼がいる席の隣にそっと腰を下ろす。
 奥まった席なので周囲に人はいなかった。伊東も静かに茶を飲んでいる。
 それを感じながら、総司は微かに唇を噛んだ。





 山南の切腹から時が過ぎていた。
 そろそろ春が訪れてくるのか、この茶屋から見える樹木も新芽を芽吹かせている。
 何事もなかったような日々だった。
 だが、総司にとっては息苦しい月日だったのだ。
 その間、土方との逢瀬はまったくなかった。彼も多忙であるし、また、総司の態度から何かを察しているのか、しばらく距離を置く事にしたようだった。
 ただ遠くから見守られているし、屯所の中で逢えば、体を労れよとか、無理はしてねぇかと、優しい言葉もかけてもらっている。時々、他の隊士がいない時には抱きしめられたりもしていた。
 だが、何かが違ってしまっていたのだ。
 それは土方ではなく、総司自身に起因しているのだとよくわかっていた。


 こんな状態で伊東と言葉をかわすことは、とても危険なことだった。
 己の気持ちが揺らいでいる時に、もしかすると、前世で兄だったかもしれない存在と話すなど、やめた方がよいのだ。
 それでも、総司はこの場を去ろうとは思わなかった。
 伊東が兄なのかどうかは別として、言葉を交わしてみたかったのだ。以前、話しかけた時もそっけない態度をとられたが、腹は立たなかった。
 ただ、もっと話してみたい、本当の伊東と向き合ってみたいと思ったのだ。
 それが何を意味しているのか、総司自身、わからなかったのだが。





「……春が」
 ぽつりと、伊東が言葉を発した。
 それに、総司がえ?と顔をあげる。微かに笑った。
「いや、春が近づいてきていますね」
「あ、はい……」
「きみはこの辺りによく来るのですか」
「えぇ」
 こくりと頷きつつ、総司は微かな驚きを覚えていた。まさか、伊東から話しかけられるとは思っていなかったのだ。
 そんな総司の前で、伊東は手の中の湯のみに視線を落とした。
 やがて、低い声で呟くように言った。
「私は……ずっと迷っていた」
「え……?」
「己の気持ちと闘いながら、それでも迷っていたのです。しかし、今日、ここで逢ったことは……何かの定めなのかもしれない」
「伊東…先生……?」
 今までとは違う何かを感じた。
 見つめていると、伊東が顔をあげた。深く澄んだ鳶色の瞳がまっすぐ見つめる。
 既視感があるのを覚えた。鼓動が早くなる。
 思わず息をつめた総司に、伊東は手をのばした。男の冷たい指さきが頬にふれる。
 びくりと身をすくませた次の瞬間、静かな声が囁いた。
「あの頃と同じ瞳だ……」
「……」
「今度こそ私がおまえを守りたいと言えば、栞はどうしますか……?」
「!」
 総司の目が見開かれた。桜色の唇がわななき、指さきが震える。
「……兄…上……っ」
 声が掠れた。
 栞という名で呼ばれたこと自体、彼が前世での兄だったことを明確にしていた。
 だが、思わず、反射的に伊東の手を払いのけてしまう。
 それに伊東は微かに眉を顰めたが、やがて、笑った。
「脅かしてしまいましたね……すまない。ここで逢ったことが定めだと思ったのだが」
「兄上、……本当にあの兄上なのですか?」
 問いかける総司に、伊東は肩をすくめてみせた。淡々とした表情で答える。
「そうです。私は前世で栞の兄だった。今は栞の念兄の敵ですが……いや」
 くすっと笑った。
「今も昔も、彼は私の敵ですね。いつも、私から栞を奪い去ってしまう」
「あなたが兄上なら、どうして」
 総司は伊東の秀麗な顔を見上げた。あの頃と同じように、熱を帯びた瞳で見返してくる兄を。
「何故、私を避けていたのです。私にまったく話しかけようとしなかった、なのに……」
「私は栞を守ることが出来なかった不甲斐ない兄だ」
 低い声で、伊東は言い切った。
「縁談があった時、あれが栞を幸せにしないとわかっていました。だが、若輩者の私には主席家老から申し込まれた縁談を断るだけの力がなかったし、先に策を講じておくことも出来なかった」
「あれは兄上が悪かった訳ではありません。仕方のない事だったのです。それに、巻き込んでしまったのは私の方です」
 手をのばし、伊東の袂を掴んだ。指さきが震える。
「兄上は私に脇差を渡して下さった……あの後、兄上は……」
「……自害しました。私は、栞のいない世になど何の未練もなかった」
「兄上……ごめんなさい」
 総司は掠れた声で言っていた。嗚咽がこみあげる。
「兄上に迷惑がかかることはわかっていたのに、なのに……私は己のことばかりを考えて……」
「謝ることではありません。私がしたくてした事です。だが、私は栞を守ってやることが出来なかったし、恨まれていると思っていた」
「恨む……? 私が兄上を?」
 驚いたように目を見開いた総司に、伊東は微かに苦笑してみせた。
「私と再会した時です。私を見たとたん、真っ青になっていた。あんな怯えた顔で見られて……兄だと名乗れるはずもない。気持ちを波立たせたくなかったゆえに、私は避けたのです」
「兄上……」
 悔いがこみあげた。


 自分はこの兄を前世で恐れていた。
 その兄妹の域を超えた愛情を恐れていたのだ。
 確かに、兄は自分を兄以上の気持ちで見ていたのだろう。
 だが、確かに、兄は自分を愛してくれていたのだ。
 誰よりも大切に、自分の幸せだけを願ってくれていたのだ。
 なのに、そんな事さえわからず、自分はこの兄と再会した時、あんな態度をとってしまったのだ。
 どんなに彼を傷つけただろう。
 それを思うと、堪らなくなった。


「ごめんなさい……」
 謝る総司の髪に伊東の手がふれた。昔のように優しく撫でられる。
「そんなに何度も謝らなくてもいいのです。私を見て怯えたのは当然のことだ。前世のことがあるゆえ、恐ろしくなったのでしょう。ましてや、今、あの彼が傍にいる」
「……」
「ただ、この頃……栞の気持ちは酷く揺れていますね」
 その言葉に、総司はきつく唇を噛みしめた。伊東は微かに嘆息した。
「総司」
 現世での名を呼ばれ、はっとした。見上げると、伊東は鳶色の瞳でまっすぐこちらを見ていた。
 静かに言った。
「あえて、そう呼びます。今ここにいるきみは栞ではない」
 その言葉に、総司はこわばっていた肩の力が抜けるのを感じた。
 やはり、兄として接されるのは辛いのだ。あの頃のことを強く思い出してしまう故かもしれない。
「はい」と小さく答えた総司に、伊東は言葉をつづけた。
「なら、私も今の立場として話をしましょう。今の私は栞の兄ではない、栞の兄だった私は……とうの昔に死んだのです」
「兄上……」
「きみも私のことを今の立場として捉えて欲しい。その上で話をしましょう。私がきみを避けていた理由は既に告げました。私には深い悔恨がありますし、栞への自責の念もある。ですが、私は今も……きみを愛しているのです」
「……っ」
 はっきりと言い切った伊東に、目を見開いた。それに、微かに苦笑した。
「確かに、あの時とは違う。兄妹という血の繋がりはありませんが、今度は同じ性をもつ者同士だ。ただ、それでも、私はきみを求めずにはいられない」
「……」
「むろん、そこには栞への気持ちもあるかもしれない。だが、私はきみと再び逢ってから、惹かれてゆく己に戸惑った。同じ事は繰り返したくないと思っていましたし、今の私には妻もいる。なのに、きみを愛してしまう己を抑えきれなかったのです」
 伊東の言葉に、偽りも翳りもなかった。


 昔、兄妹の関係であった時、彼は禁忌であるが故にその想いを口に出すことはなかった。
 だからこそ、その愛は深く狂おしくなり、栞を遠ざけることになってしまったのだ。
 だが、今は違った。
 伊東は真正面から総司に対しようとしているのだ。
 それを痛いほど感じた。


 黙ったまま俯いてしまった総司に、伊東は静かな声で言った。
「私はこの気持をきみに押しつけるつもりはありません。おそらく、きみは土方君の念弟になっているのでしょう。奪いたいという気持ちはむろんありますが、そこにきみの気持ちがなければ意味はないことだ」
「……」
「今の私に出来ることは、きみの傍にいることだけです。きみが辛いと思った時、私の存在を思い出してくれればそれでいい」


(……兄上……)


 思わず瞼を固く閉じていた。


 この人は今も、自分をその深い愛で包みこんでくれるのだ。
 奪うことも強いることもなく、ただ静かに見守ってくれたあの頃のように。


 それが今の総司には、何よりも嬉しかった。
「兄上……いえ、伊東先生」
 小さな声で呼んだ。
 優しく促してくれる伊東を感じながら、言った。
「私の気持ちを……話を、聞いてくれますか……?」