何も考えられなかった。
 正直な話、そこに再会の喜びはなかったのだ。
 まるで、夢の中に閉じ込められてしまったような気持ちだった。
 芹沢の一件で、前世のこととは決別することが出来たと思っていた。だが、ならば、この再会は何なのか。何を示唆しているのか。
 定めは変えられぬのだと、思い知らせるためなのか。





「……総司」
 傍らからかけられる声に、我に返った。
 はっと我にかえれば、人々は皆、屯所の中へ引き上げていくところだった。斉藤が腕に手をかけ、促そうとしている。
 周囲を見渡すと、少し離れた所から、土方がこちらをふり返っているのが見えた。視線があったとたん、微かに目を細めた。だが、そのまま声をかけることなく背を向け、歩み去ってしまう。
 一瞬、追いかけたいという気持ちが込み上げたが、総司は胸もとで手をぎゅっと握りしめることで、それを堪えた。斉藤が傍らから覗き込みつつ、そっと促した。
 自室へ戻ってから、息をついた。
 それまで、ずっと身体を強ばらせていたのだ。
 斉藤がぽつりと言った。
「……驚いたな」
「え」
「あれは、おまえの兄君だろう。むろん、姿形だけということもあるが……」
「そ、そうですよね」
 総司は慌てて言葉をついだ。
「姿形が似ているだけってこと、ありますよね。伊東先生が兄上であるはずが……」
「おまえ、嬉しくないのか」
 不思議そうに、斉藤は眉を顰めた。訝しげに総司の様子を眺めやる。
「仲の良い兄妹だと思っていたが、実際は違ったのか?」
「……仲の良い兄妹でしたよ……でも……」
 思わず目を伏せた。


 確かに、兄は自分を愛してくれた。大切にしてくれたし、いつも慈しんでくれたのだ。
 だが、その愛は兄妹の域を超えていた。別に何をされた訳ではない、何を告げられた訳ではない。なのに、こんな事を思うなど、兄への冒涜だと思っていたが、それでも振り返らずにはいられなかったのだ。
 自分だけを見つめる、兄の激しい焔を湛えた瞳を知った日から。
 兄妹の域を超えた愛を向けられていることは、明らかだった。それ故、彼に対しても良い感情を持っていないことはわかっていた。挙句、あの縁談、逃亡、彼の死、己の自害だ。
 兄がどれだけ慟哭したのかを思うと、胸奥が切なくなった。


「斉藤さん……教えて下さい」
 総司は大きな瞳で、まっすぐ斉藤を見つめた。
「兄上はどうなったのですか? 私は兄上の脇差しで自害しました。脇差しを兄上が渡したことは明らかだったはずです、あの後、兄上は……」
「亡くなられたよ」
「えっ」
 思わず息がとまった。
 呆然とする総司の前で、斉藤は言いづらそうな表情で告げた。
「おまえが自害してすぐ……責任はすべて己にあると告げ、切腹して果てられた。両親を早くに亡くしたおまえは兄君に育てられたも同然だったから……一連の事に責任を感じておられるようだった。おまえたちが逃げている間も、己が悪かったのだと、守ってやれなかったと、何度も悔いておられた」
「そんな……」
 目の前が真っ暗になった。


 自分たちの恋は、どれ程の人たちを巻き添えにし、運命を狂わせたのか。
 確かに兄から向けられる愛に不安を感じてはいた。
 だが、自分を大切に育ててくれた優しい兄なのだ。
 大好きな兄だった。
 なのに、自分はその兄までも巻き添えにし、運命を狂わせてしまったのか。
 あの脇差しを渡した夜、兄は既に覚悟を決めていたのだろう。
 だから、承知の上だと言い切ったのか。


「……っ」
 視界が歪んだ。嗚咽がこみあげ、涙があふれる。
 痛ましげに斉藤が見ていたが、それでも、堪えることなど出来なかった。
 畳に爪をたて、俯いた。涙がぽたぽたと畳に落ちる。
「ごめん…なさい……兄…上……っ」
 届くはずのない言葉が、唇からもれた。
 何度も、何度も。
 こぼれ落ちる涙のように。












 新入隊士たちへの鍛錬が行われ、それぞれ所属も定められた。
 伊東は参謀という地位についたようだった。やはり、道場の弟子たちを引き連れての参加である以上、それなりの扱いをしなければならないことは確かだった。
 近藤が決めた処置のようだったが、土方はそれに異議を唱えようとはしなかった。ただ黙っているだけだったが、それだけに、不気味さを周囲に与えた。
 彼にとって、伊東という存在が快いものではないことは明らかなのだ。このままでは済まされないと、隊士たちの誰もが息を呑むようにしている。一見すれば、穏やかに隊内はおさまっているように見えるが、少しずつ何かが底で蠢き始めていた。
 そんな中、総司は彼らの動きに全く関わろうとしないまま、隊務に励んでいた。
 伊東とも何度か打ち合わせなどで顔をあわせたし、言葉も交わした。声までも全く同じであることに驚いたが、伊東が兄である確証は得られなかった。
 または、前世の記憶が全くないのか。総司と話をしても、伊東は何の反応も見せなかったのだ。興味も関心もないようだった。私的なことで、彼から話しかけてくることもなかった。
 それに、総司は拍子抜けする思いだった。だが、一方で安堵もする。


(やっぱり、兄上ではなかったんだ……)


 前世の事とは決別したいのだ。
 むろん、恋人である土方を愛しつづける限り、そんな事が出来るはずがない事もわかっている。だが、それでも、前を向いていきたいと思っていた。これからの人生を生きていきたかったのだ。そのためには、前世と決別するべきだった。
 それは土方も同じようで、最近、まったく前世の事にはふれない。芹沢を斬ったあの夜から、土方はまるで前世のことなどなかったように、振舞っていた。それに違和感を覚えたが、総司もそれでよかったので、彼に従うことにしたのだ。
 恋人として傍にいてくれればよかった。
 愛することが許され、そして、愛してくれるのなら、他に何も望まなかったのだ。





「何を考えている」
 不意に、低い声をかけられ、総司は我に返った。
 慌てて視線を戻すと、ふっと苦笑される。
 そこは宿屋の一室だった。
 今の二人ならば、もっと格上の店も使うことが出来るのだが、二人が初めて結ばれた場所であるため、逢引で使うのはここと暗黙の了解で決められてあった。
 それに、総司もこの部屋が気にいっているのだ。奥まった離れであるため静かであり、小さな庭が一望できることも良かった。とても優しい感じの部屋なので、落ち着ける。
 今夜も土方に呼び出され、この部屋を訪れていた。二人、食事をしていたところだったのだ。
「あ……ごめんなさい」
 謝る総司に、土方は肩をすくめた。
「別に謝ることじゃねぇけどな」
「でも、すみません。せっかく誘ってくれたのに」
 池田屋事件以降、土方の多忙さは凄まじいものがあった。屯所にいる時は書類を裁いているか、幹部たち、監察たちとの打ち合わせに追われている。ほとんど食事もとれていないようで、少し痩せたように感じた。
「土方さん……痩せた?」
 そう訊ねた総司に、土方が苦笑した。
「痩せたのはおまえの方だろう。まともに食っているのか」
「え」
 慌ててしまった。
 病にかかっていることに気づかれないとするあまり、口早につづける。
「わ、私は大丈夫ですよ。この間も、甘いものいっぱい食べにいきましたし」
「相変わらず甘いものが好きか」
「娘みたいだと……笑いますか?」
「いや」
 土方は首をふり、片手をのばした。彼のしなやかな指さきが頬にふれる。
「笑うものか。そういう処も可愛いさ」
「土方さん……」
 久しぶりに甘い言葉を聞かされ、頬が上気した。そのまま、そっと口づけられれば、尚のことだ。
 だが、ふとその表情が曇る。自分は労咳なのだ。このような事をして、彼にうつしてしまったらどうしようと思った。しかし、病だと言うことを告げるのは出来なかった。
 長い睫毛を伏せた総司を、土方は見つめた。食事を片付けさせると、縁側に誘う。二人寄りそって座りながら、庭を眺めた。灯籠の明かりが闇の中、ゆらゆらと揺れているさまが美しい。
 それをぼんやり眺めていると、土方が言った。
「伊東とは……話をしたか」
「え」
 突然の言葉に、どきりとした。
 伊東が兄ではないと思っていても、それでも、意識はしてしまうのだ。
 そっと土方を見上げたが、彼はこちらに視線を向けていなかった。端正な横顔をみせて、何を思うのか微かに眉を顰めている。
 ゆっくりと言葉をつづけた。
「伊東の姿形は、おまえの兄と同じだ……いや、そのものだ。声も人柄もな」
「そうでしょうか」
 小首をかしげた。
「姿形や声はともかく、人柄はどうなのか、少しわかりません。私、公でしか言葉を交わしたことがありませんし」
「そうなのか」
 土方は意外そうに総司を見た。黒い瞳がきらりと光る。
「伊東は他の組長には声をかけているぞ。色々と話をしているようだ。山南や藤堂は同じ北辰一刀流だからということもあるが、斉藤や原田、永倉にも声をかけているらしい。おまえなどは、真っ先に話があると思っていたが」
「いいえ、まったくです。打ち合わせ以外で話をしたことはありません」
「……」
 眉を顰め、土方は考えこんでしまった。それに、総司は言葉をつづけた。
「あの人は兄上ではないのです。兄上ならば、何か言葉をかけてくるでしょうし、何らかの反応があるはずです。でも、伊東先生は私に対して、まったく知らぬ顔をされています。兄上であるのなら、あんな無反応であるはずが……」
「それは、あいつがおまえの兄であるからこそじゃねぇのか」
「え」
 遮られ、驚いた。
 土方を見上げると、鋭い視線を返された。その底光りする黒い瞳に息を呑む。
「……土方…さん……?」
「おまえの兄は、おまえを溺愛していた。囲い込むようにして慈しみ、愛していた。あの頃もおまえはそれを感じ取り、俺に告げていたな。兄として愛しているし、尊敬もしているが、時々、怖くなると」
「えぇ」
 こくりと頷いた。
「だからこそです。兄上は私を怖いぐらい愛してくれていた。私と再会すれば、必ず話しかけてくるはず……」
「おまえは伊東と初めて会った時、真っ青になっていた。今にも倒れそうだったし、伊東はそれを確かに見ていたはずだ」
「はい……」
「なのに、伊東が無反応だったこと自体、おかしいと思わねぇのか」
「……」
「訝しげな表情さえしなかった。むしろ、どこか……やるせない表情でおまえを見ていた。俺はあの時、おまえだけでなく伊東を見ていたが、あいつは不意に苦しげな表情で眉を顰め、顔を背けたんだ。固く唇を噛みしめていた。それきり、あいつはおまえを見ようともしなかった、まるで見ることを恐れるかのように視線をそらし、屯所の中へ入っていったんだ」
「……そんな……」
 声が震えた。
 目を瞠り、きつく片手で胸もとを握りしめる。まるで、それしか縋るものがないように。
「じゃあ……伊東先生は、やはり、兄上だということですか? 全てをわかっていながら、それでも、知らぬ顔をしているのだと」
「恐らくな」
 土方は微かに目を細めた。
「あいつは前世で、おまえの兄だった男だ。俺はあいつとは反りが合わなかったからな。それ故なのか、わかるのさ」
「でも、どうして? 兄上なのに……なぜ、知らぬ顔をしているのです」
「おまえのためだろう」
「私のため?」
 不思議そうに聞き返した総司を、土方は見下ろした。一瞬、きつく口もとを引き結ぶと、その細い身体を引き寄せ、抱きしめる。背中が撓るほどの激しい抱擁。
 いきなり息もとまるほど抱きしめられ、総司は目を見開いた。おずおずと手を男の広い背にまわしながら、問いかける。
「土方…さん……?」
「……あいつは前世ではおまえの兄だった。だからこそ、おまえと結ばれることはなかった」
「何を言って……」
「だが、現世では違う。あいつと俺の立場は対等だ。あいつはおまえを愛することが出来るし、俺から奪うことも出来る。おまえも……あいつを選ぶことも出来るんだ」
「土方さん」
 思わず声をあげていた。
 身を起こし、彼の胸に両手を突っぱねる。大きな瞳で彼だけを見上げた。
「いったい何を言っているの。私が兄上を……伊東先生を選ぶことなんて、ありえないのに」
「……」
「私はあなたを愛している。前世からの繋がりだけじゃない、私は今のあなたを愛しているの」
「総司……」
 土方は不意に、総司の身体に凭れかかってきた。とんと額を総司の細い肩に押しあてる。
 両腕で抱きすくめられた。まるで、縋るように。
「俺は……駄目だな」
「土方さん……」
「どうしても考えてしまう。俺なんかといるより、おまえは他の奴といた方が幸せになれるのではないかと」
「そんなこと」
「わかっている、馬鹿な考えだと。だが、前世で俺はおまえを地獄への道連れにした。悲惨な結末だった。それ故か、考えてしまう。同じ過ちを繰り返さないか、おまえをまた不幸にしてしまわないかと……」
「……」
 何も言うことが出来なかった。


 幾度も繰り返したことだった。
 あれは彼が自分を道連れにしたのではなく、逆なのだと。
 自分が彼の運命を狂わせてしまったのだと。


 だが、言っても詮のないことだった。
 愛している限り、不幸に対して責を感じてしまうことは致し方がない。互いを愛しているからこそ、深く深く想い合っているからこそ、守ってやれなかった、支えてやれなかったという悔いが己を責めたててしまうのだ。
 ましてや、自分たちは前世の記憶がある上に、あのような悲惨な結末を迎えている。矜持も高く己が男だという意識が強い土方ならば、尚のこと、悔いてしまうのだろう。
 逃げようとしても忘れようとしても、どこまでも追ってくる。前世が、悔いが、記憶が、二人を雁字搦めに縛りつけていた。


(決別することなんて、出来はしない……)


 土方の腕に抱きしめられながら、総司は固く瞼を閉ざした。
 切なさと不安を痛いほど感じて。

















 二人で夜を過ごした翌朝、土方はそのまま黒谷屋敷へ向かった。
 総司は今日が非番であるため、そのまま部屋で休ませておくことにした。昨夜少し無理をさせてしまったのだ。


(俺も情けねぇな……)


 褥に埋もれるようにして眠る総司を見ながら、土方は嘆息した。手早く着物を着け、帯を締めてゆく。
 黒谷へ行く予定だったため、着替えは用意してきていたのだ。黒羽二重の羽織を着ながら、唇を噛みしめた。


 己自身でも、どうにもならぬ感情だった。
 仕事のことならば、どのような事があっても感情に流されることなく処断することが出来る。女遊びもそれなりにしたし、恋愛の駆け引きも簡単に出来た。
 だが、総司のことになると、からきし駄目になってしまうのだ。


 幼い頃から夢見てきた相手だった。
 まさに、運命で定められた恋人だったのだ。
 しかし、土方は前世の娘としてではなく、今、目の前にいてくれる総司を心から愛していた。
 あの頃よりも明るく可愛く笑う声、気が強くて生意気で、拗ねたり怒ったり笑ったり、ころころと変わるその鮮やかな表情。
 それらすべてが、土方を強く惹きつけた。
 この手の中に閉じ込めて、大切に愛してやりたいぐらいだった。


 ただ、その総司は芹沢の一件以来、変わっていた。
 大人びた表情を見せるようになり、どこか憂いのある瞳をするようにもなったのだ。
 池田屋事件の後は尚のことだった。一時期、彼を避けるようにした事から心変わりを疑ってしまったが、土方が追うと、すぐに笑顔を見せてくれた。それに安堵したが、何か総司が変わってしまったという印象はそのままだ。
 掴みどころがなかった。
 土方と逢っている時、昔のように可愛らしく笑ってくれるし、素直にいろいろと話もしてくれる。
 だが、どこか一線が引かれているのだ。それが土方にすれば、歯がゆくてならなかった。
 抱いたからかとも思った。その身も己のものにしたくてたまらず、芹沢を闇討ちしてから数日後、総司を抱いた。むろん、その事で大人びたことは確かだし、艶かしくもなった。
 だが、それとはまた違うのだ。
 総司は何らかの理由から、己へ一線を引いている。
 心の底まで打ち明けてくれていないのだ。


 それがよくわかるのは、昔は打ち明けてくれることが多かった辛さや、苦しさへの言葉が、まったくなくなってしまったことだ。
 今、総司は新選組一番隊組長として戦っている。つらい日々であることは確かなのだ。江戸の頃のように笑うことが出来ないことは当然のことだ。それなのに、総司はそれらの辛さを一切土方に打ち明けようとしなかった。
 一度聞いたことがある。


 幸せなのか、と。


 それに対する答えは、肯だった。
 とても幸せだと笑顔で答えてみせたのだ。
 だが、土方の目には、まるで、自分自身にそう言い聞かせているように見えた……。