土方は細い身体に手をのばした。
 総司を引き寄せると、きつく抱きすくめる。とたん、腕の中で、その躰がびくりと震えるのがわかった。


 怯えているのか、怖がっているのか。
 俺に殺されるとでも思っているのか。


 腕の中を見下ろすと、総司は大きな瞳で彼を見上げていた。
 不安げな表情がいとけなく、愛らしい。


 ……喰らってしまいたかった。
 この場で、おまえを喰らいつくしてしまうことが出来たら、どんなにいいだろう。
 それは極上の快楽と至福と、そして、地獄を俺にあたえるに違いない。


「土方さん……?」
 総司の声が彼を現に連れ戻した。まだ不安そうな、気遣うような表情をしている。
 それを見るうちに、土方は再び笑いがこみあげた。今度こそ、本当に喉を鳴らして笑ってしまう。
 彼がどんな事を考えているのか、総司を失ってからどんなふうに過ごしてきたか、どれほど嫉妬と怒りに我が身を焦がしていたか、そんなこと、総司が知るはずがないのだ。
 もう……愛されていない。
 それを嫌という程わかっているくせに、それでも手をのばしてしまった愚かな男を、どんな瞳で見下すのか。


 軽蔑すればいい、憎めばいい。
 俺はもう二度と、おまえを手放せないから。


 土方は総司の細い躰をきつく息もとまるほど抱きしめた。縋るように、しがみつくように。
 そして、囁いた。
 低い声で、ゆっくりと。


「おまえは……俺のものだ」


 その言葉を聞いた瞬間、総司の目が見開かれた。
 身を起こして彼の顔を見上げると、小さな声で訊ねた。
「私は……あなたのもの……?」
「あぁ」
「だって、私を手放したのはあなたなのに、そんな今更……」
「確かに、今更だな」
 形のよい唇の端をつりあげた。
 くっくっと喉奥で笑いながら、総司の顔を覗きこんだ。
「だが、俺はおまえが欲しい、おまえしか欲しくない。だから抱いたし、こうなった以上、おまえは俺のものだ」
「躰だけの関係でも…?」
 鋭い切り返しに、一瞬、土方は顔を歪めた。だが、その表情を隠すように総司の細い躰を抱きしめると、答えた。
「そうだ。躰だけの関係でも、だ」
「……」
 総司はもう何も言わなかった。ただ、黙ったまま男の腕に抱かれている。
 それを見下ろし、土方はゆっくりと口づけたのだった。


 ───新たな関係の始まりを、思い知らせるように。









 幾度か逢瀬を重ねるようになった。
 茶屋や料亭などで、二人は逢瀬を重ね、抱きあった。だが、そこに愛があるのかないのか、総司にはもうわからなかった。
 己を傷つけることだけはなくなっていた。彼に抱かれる躰を傷つけることなど、出来るはずがなかったのだ。
 広島から戻ってきた伊東は、そんな総司の変化にすぐ気がついた。むろん、総司が土方のものとして抱かれていることにも。
「……呆れていますか」
 そう問いかけた総司に、伊東は苦笑した。首をふってから、手をのばす。なめらかな頬にふれた。
「わかっていたことです。いつか、彼はきみを奪い返しにくると」
「伊東先生……」
「私はきみを愛している、己のものにしたいと思っていた。だが、一方でわかってもいたのです。きみは永遠に彼のものだ、彼もきみのものだ。きみたち二人は互いなしでは生きてゆけぬのですよ」
「そんなこと、ありません」
 総司は首をふった。
「私は彼を愛していますが……土方さんは私がいなくても、生きてゆけます。あの人は私を愛しているんじゃない。ただ、手放したものを取り戻したくなったから、気まぐれで私を抱いているのです」
「総司」
 伊東は静かな声で言った。
「本気で、彼がそんな男だと思っているのですか。地位も名誉も捨ててきみを選び、連れて逃げた挙句、きみを庇い命まで失った彼のことを」
「……」
 思わず押し黙ってしまった。


 伊東の言葉どおりだった。
 彼は決して不誠実な男ではないのだ。いつも眩しいぐらい真っ直ぐで誠実だった。
 真摯で、凛とした誇り高い男。
 それは今も変わらない。
 現世でも、土方は常に真摯で誠実だった。
 だが、ならば、彼の意図がわからなかった。別れを告げたのに、どうして、総司を抱くのか。
 そこに愛があるとは……到底思えなかった。


「彼も若い男だということですね」
 少し楽しげに、伊東が呟いた。くすっと笑う。
「揺れているのですよ、己の情愛ときみを守りたいという気持ちの間で」
「どういう事ですか……?」
 訝しげな総司に、伊東は逆に聞き返した。
「きみは土方君がどうして別れを告げたのか、わかっていますか」
「え、それは他に好きな人が出来たから……」
「縁談など、きみと別れてすぐに断っていますよ。あれは口実に過ぎない。彼は知っていたのです。きみが私と彼のどちらの手をとるかで悩んでいたことに、そして、きみが私と逢って心地よさを感じていることに」
「……」
 総司の目が見開かれた。それに、伊東は言葉をつづけた。
「だから、きみを切り捨てた。自らが悪者になって、きみに別れを告げた。でなければ、きみが壊れてしまうとわかっていたから。きみに幸せになってもらいたいと思うからこそ、別れを告げたのです」
「……伊東先生、私は……」
「信じられませんか? でも、私にはわかるのですよ。ずっときみを愛してきた私だからこそ、わかります。私も同じことをしたはずだから……そして、今、私はきみにそうしようと思っている」
「え?」
 意味がわからず、総司は伊東を見上げた。それを、澄んだ鳶色の瞳が見返した。
 限りない愛しさと慈しみをこめたまなざしで、伊東は告げた。
「別れましょう、総司」
「伊東先生……っ」
「まだ始まってもいない私たちの関係でしたが……もういいでしょう。私はきみを切り捨てます。きみも私を切り捨てなさい、そして……彼のもとへ戻るのです」
 何も言うことができず、ただ見上げているだけの総司の前に、伊東は跪いた。
 そして、手をのばすと肩を引きよせ、一瞬だけ抱きしめた。
 頬に落とされる口づけ。
「……さよなら、私の栞」
 最後の最後で。
 栞の名を告げた伊東に、息を呑んだ。思わず手をのばしかける。
 だが、一瞬早く、伊東は立ち上がっていた。そのまま、二人が逢瀬に使っていた料亭の部屋を出てゆく。
 一度もこちらをふり返ることはなかった。
 閉じられた襖を前に、総司は呆然と座り込んでいた。遠ざかってゆく足音を聞きながら、涙があふれるのを感じた。
「……兄…上……っ」
 涙まじりの声は、冬の空気にとけ消えた。












 甘えていたのかもしれなかった。
 土方との関係を戻しても、伊東との手も繋いでいられると思っていた。だが、そんなことあるはずがなかったのだ。
 別れを告げてから、伊東は屯所ですれ違っても一切、声をかけることがなくなった。むろん、公の仕事で話をすることはあるが、それはあくまで参謀と一番隊組長の関係を超えることはなかった。言葉どおり、伊東は総司をきっぱりと切り捨てたのだ。
 ならば、総司もそれに応えなければなかった。今まで優しく穏やかに受け入れてくれた伊東のためにも。
 新選組の中での動きも加速していった。土方と伊東の対立は明らかなものになり、いずれ隊を割る他ないと噂されていた。
 この事もあって、伊東は総司を切り捨てたのだろう。総司が二人の間で悩み苦しむことがないように。それがわかるからこそ、伊東の想いが胸にしみた。
 むろん、わかっている。いずれ二人が争った時、どちらかが斃されるだろう。その時、自分は平気でいられない。地獄が待っていることは確かだった。
 だが、それも己が選んだことなのだ。引き返すことは出来なかった。


(これも定め……なのだろうか)


 それでも考えずにはいられなかった。
 常に、選択を迫られてきた。あの時も、彼を選んで逃げたのだ。挙句、あんな地獄が待っていた。
 彼の命まで奪ってしまった……。
「……」
 吐息をもらした総司に、土方が目をあげた。


 久しぶりの逢瀬だった。
 この頃、土方は総司を誘うことを一切隠そうとしなかった。その関係も秘めようとしなかったため、念兄弟だという噂が立ち始めている。
 それに総司は戸惑った。伊東と対立している今は、土方にとって最も危険な時期なのだ。なのに、弱みを見せてしまっていいのだろうか。
 だが、考えてみれば、伊東は二人の関係を知っている。今更だと土方は考えたのかもしれなかった。
 激しく熱い情事の後、総司は身繕いをすませ、窓際に坐っていた。開いた障子の間から、冬の美しい星空が見える。
 それをぼんやり見上げていると、土方が傍に腰を下ろした。見れば、彼も着物をさらりと着流している。先ほどの獣じみた熱はどこにもなかった。
「星も夜空も……同じなんだな」
「え?」
 男の言葉に、小首をかしげた。それに、土方も同じように夜空を見上げながら言った。
「あの頃とだよ。年月が流れているのに、星や夜空は何も変わりゃしねぇ。あの頃も……おまえとこうして夜空を見上げたものだった。宿まで辿りつけなくて、野宿したこともあったな」
「えぇ……」


 そうだった。
 夜空の下、ふたり手を繋ぎあって逃げた。
 駆けて駆けて駆けて、追手から逃れるために。
 だが、そんな切迫した時だったのに、夜空が美しかったことは覚えている。


 駆ける二人の頭上に広がっていた、満天の星空──


 そういえば、あの夜は……星も月もなかった。
 濁ったように暗かった夜。深い闇。
 自分を残し、追手たちに斬りこんでいった彼。
 闇に響いた悲鳴は、自分のものだった。
 目の前で殺された彼、そして、全身に浴びた彼の生温かい血……


「……っ」
 思わず、きつく目を閉じた総司に、土方は眉を顰めた。
 何を思ったのかわかったのだろう。すぐさま強く抱きしめてくれた。
「……悪かった」
「土方さ……」
「すまない、あの頃のことを口に出した俺が……愚かだった」
「ち、違うのです。土方さんが謝ることじゃない。私がいつまでも囚われているから、だから……」
 結局の処、そうなのだ。
 彼も自分も前世のことに囚われすぎているのだ。今の互いを見つめようとしても、どうしても、二人の間に横たわる過去の記憶は消せやしない。
 逃れようとすればする程、深みに嵌っていくような恐ろしさがあった。


(どうすればいいの……)


 彼を愛してる。
 それは紛れもない真実だ。だが、一方で彼の傍にいれば、どうしても前世に囚われてしまう。逃れることのできない定めだった。
 前世があるからこそ、不安で不安でたまらなくて、罪の意識のあまり激しく狂おしく愛しすぎてしまう。
 愛することと、愛しすぎることは違うのだ。
 愛しすぎることは相手にとっても己にとっても毒になってしまうだろう。
 そのことを、土方に別れを告げられてからの数ヶ月で、総司は心底思い知らされていた。きっと、二人は一緒にいるべきではないのだ。
 昔、再会して間もない頃、土方が言ったように、今生でも地獄への道連れになってしまうかもしれない。
 それが分かっているのなら、総司がすべきことは一つだけだった。
「? 総司……?」
 不意に顔をあげ、見つめてきた総司に、土方はかるく小首をかしげた。それを、ただ見つめた。


 私が傷つくことは構わない。
 命を奪われてもいい。
 でも、この人が傷つくことだけは、再び、この人が目の前で命を奪われることだけは見たくないから。
 今度こそ、彼の人生を全うしてほしいから。


 総司はそっと手をのばした。細い指さきで彼の頬にふれる。
 そして、言った。
「土方さん……私、江戸へ帰ろうと思います」
「……」
 土方は沈黙した。押し黙ったまま、総司の真意を探るように見つめている。
 それに、言葉をつづけた。
「江戸へ帰りたいのです。そして、二度と京には戻りません」
「総司、おまえ……いったい何を言っているんだ」
 突然の言葉に、土方は戸惑っているようだった。怪訝そうに眉を顰めている。
 総司は畳の上に端座した。そうして着物の乱れを直すと、手をついて頭を下げた。
「お願いします、副長。新選組からの脱退を許して下さい」
「……」
 土方は何も答えなかった。無言のまま、総司を見下ろしている。
 やがて、低い声がゆっくりと答えた。
「……局を脱するを許さず、だ」
 こんな場所で副長と呼ばれたこと、突然の総司からの申し出に、怒りを覚えたのだろう。
 土方は手をのばすと、総司の細い肩を掴んだ。無理やり顔を上げさせ、正面から鋭い瞳で見据える。
「おまえが江戸へ帰ることは許さない」
「許さないのは、隊規ですか、それとも……あなた?」
「どちらもだ」
「そうですか」
 頷き、総司は視線をそらした。
 彼の言葉は予想していたものだった。初めから、すんなり承諾してもらえるとは、総司も思っていなかったのだ。
 黙り込んでいると、その様子に只ならぬものを感じたのか、土方が腕を掴んで引き寄せた。力が強すぎたらしく、男の膝上へ倒れこんでくるのを抱きとめる。
 その愛らしい顔を覗きこんだ。
「おまえ、何を考えている」
「何も。ただ、江戸へ帰ることだけを思っています」
「許さないと言っただろう。隊を脱すれば、死があるのみだ」
「わかっています」
 そう答えてから、総司は吐息をもらした。そっと男の胸に手をつき、澄んだ瞳で見上げる。
「土方さんの了承が得られないことはわかっていました。でも、私の意思は固いのです」
「……」
「屯所へ戻ってから、近藤先生も同席して頂いた上で、もう一度お話したいと思います。それで、もしも近藤先生から許可を頂ければ、あなたも許さざるを得ないでしょう?」
 総司の言葉に、土方は眉を顰めた。
 近藤が許可するとは到底思えなかったのだ。だが、それでも一度屯所へ戻って話をするという総司に、安堵したことも確かだった。
 その愛らしい顔を覗き込んだ。
「本当だな? 必ず俺と共に一度屯所へ戻るな?」
「えぇ。戻ります」
 こくりと頷いた総司に、土方はきつく唇を噛みしめた。不安はあるが、それでもここは引き下がる他ない。
 総司は褥が敷かれた部屋へ行くと坐り、眠る支度を始めた。寝着に着替えている。
 それを眺めながら、土方も部屋へ入った。無言のまま床につく。
 土方は何も言わなかったが、それでも総司の身体を引き寄せた。腕の中に、とらえるように抱き込む。
 それに、一瞬、総司は抗いかけたが、結局は従った。
「……」
 小さな吐息をもらし、男の胸もとに凭れかかってくる。柔らかく抱きすくめた。
 腕の中にある細い身体を感じながら、土方は瞼を閉じた。


(眠れぬ夜になりそうだ……)


 冬の夜はゆっくりと更けていった。




















このまま終章につづきます。