翌朝早く、二人は料亭を出た。
 そこに会話はまったくない。仲違いした訳ではないが、口を開けば、口論になりそうな気がしたのだ。


 総司は隊から出ることを諦めていないし、土方もそれを認めていない。
 あくまで、二人の想いは平行線のままだった。


 料亭を出た土方は総司を連れて、歩いた。
 冬も半ばになっているが、それでも春はまだ遠い。
 夜半、雪が降り始めたらしく、今も柔らかな雪が降っていた。それを見るうちに、ある事を思い出した。
「? 土方さん……?」
 屯所とは逆方向に向かう土方に、総司は足をとめた。ふり返った彼に訊ねる。
「どこへ行くのですか? 屯所へ帰るんじゃ……」
「屯所へは帰らねぇよ。その前に、おまえに見せたいものがある」
「……」
「心配するな。おまえが嫌がるような事はしねぇ」
 男の言葉に、総司はゆるく首をふった。


 彼が自分が嫌がることをするとは、思っていなかった。優しい彼にそんな事が出来るはずもないのだ。
 昨夜も、土方はほとんど一睡もしていないようだった。
 腕の中の自分が少しでも身じろぐたびに、抱きしめてきたのだ。それも柔らかく抱きしめ、髪に、頬に、口づけてくれた。
 そのぬくもりが今もこの身に残っている……。


 総司は無言のまま歩み、土方に追いついた。二人ともにゆっくりと歩いていく。
 どれほど歩いただろうか。
 幾つかの寺社の塀の角を曲がった途端だった。不意に、視界が開けた。
「……あ」
 総司は思わず声をあげていた。
 そこに広がっていたのは、雪野原だった。真っ白な美しい雪野原だ。
 それはまるで、あの時の光景のようだった……。


 婚礼の日、二人一緒に手をつなぎあい、逃げた。
 雪がひらひらと降り舞う中を、駈けて駈けて駈けぬけて。
 何度も見た夢だった。
 生まれ変わってからも、この人と逃げる夢を見たのだ。
 だからこそ、彼とめぐり逢えた。逢った瞬間に、わかった。
 彼、なのだと。
 自分は、この人と出逢うために、再び生まれてきたのだと。


 気がつけば、涙があふれていた。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
 それを痛ましげに、土方が背中から抱きすくめた。優しく、髪に口づけられる。
「総司……」
「……」
「ここを見た時、俺もあの時のことを思い出したんだ。おまえと一緒に逃げた日のことを、思い出した」
 きつく抱きしめられた。
「俺たちはどこまでも一緒だ。総司、おまえだけは手放さない……」
 息を呑んだ。


 男の声は静かでありながら、強い意思を感じさせた。それに抗うことは辛かった。
 こんなにも求めてくれるのだ。そこに愛がなくとも、それでも。
 だが、彼を再び地獄への道連れにしたくなかった。
 死を選んだ時、再び来世で逢いたいと願った。愛したいと思った。
 でも、今、心から思うのだ。
 同じ過ちを繰り返したくない、と。


「……ごめんなさい」
 総司は小さな声で言った。それに、男の手がびくりと震える。
 胸が痛むのを感じながら、言葉をつづけた。
「私……それでも、江戸へ帰りたいのです。この地を離れたい」
「何故だ」
 すぐさま、土方は問いかけてきた。総司の身体を反転させ、その顔を覗きこむ。
「俺はおまえを手放さない。絶対に離さねぇよ」
「土方さん、わかって」
「だから、理由を言えよ」
「理由なんてありません。ただ帰りたい、それだけなのです」
 静かな口調だった。
 投げやりともとれるような態度に、土方は眉を顰めた。怒りが腹の底で燻る。


 総司が考えていることが、まったく掴めなかった。
 むろん、総司もわかっているはずだ。鉄の隊規がある限り、脱退は許されない。
 あるのは死のみなのだ。
 だが、それでもいいと総司は平気な顔で言ってみせた。自分の腕なら斬り抜けられると思っているのか。
 確かに、総司を倒せる相手はそうそういないだろうが……。


「俺が追手になるぞ」
 低い声で告げられた言葉に、一瞬、総司は目を見開いた。だが、すぐに、小さく笑ってみせる。
「お好きに、どうぞ」
 総司はくすくすと笑った。
「でも、光栄ですね。副長自らが追手になるなんて……それ程、私には価値があるのですか。それとも、見せしめのためかな」
「総司」
「いいですよ、あなたの手で殺されるなら……」


 すべてが許される気がするから。
 前世のことも、あなたを殺してしまったことも。
 あなたを愛したことが、私の一番の罪だった……。


 ゆっくりと身体を起こした。
 そのまま男の腕から抜け出し、立ち去ろうとする。だが、それは男の手によって阻まれた。
 あっと思った時には、雪の上へ押し倒されていた。乱暴に手首を掴んで押さえ込まれる。
 驚いて見上げる総司を、土方は底光りする瞳で見下ろした。
「……帰さねぇ」
 男の言葉に、呆気にとられた。
「帰さないって……」
「俺から離れたら、おまえはすぐさま新選組を脱退するつもりだろう」
「……」
「なら、帰さない。おまえは俺が何処かに閉じ込めて、二度と逃がさない」
「殺したくないから?」
 あどけないと言ってよい程の声で、総司は訊ねた。それに、土方は虚を突かれたようだった。一瞬、きつく唇を噛みしめる。
 だが、すぐに、その端正な顔にどこか昏い歪んだ笑みをうかべた。
「あぁ……そうだ。俺はおまえを殺したくねぇ、失う訳にはいかない」
「一番隊組長として使える駒だから? でも、これを聞いてもその気持は変わりませんか」
「何だ」
「私、労咳なんですよ」
「……」
 土方の目が見開かれた。
 愕然とした表情で、総司を見下ろしている。それに、総司はくすっと笑った。
「やっぱり、知らなかった? だって、私、ずっと隠していましたものね。あなたにだけは知られたくなかった、そんなの知られたら疎まれると思っていたし、嫌われるはずだし……あぁ、でも、そうじゃなくても飽きられ捨てられたんだから、今更同じことですよね」
「……総司」
「だから、ね。もうすぐ死んでしまう、しかも人に移る病まで持っている隊士なんて何の値打ちもないんですよ。むしろ、隊から出した方が新選組のためにはいいのです」
「……」
 黙りこんでしまった土方から、総司は視線をそらした。自分を組み敷いている男の躰を押しのけた。髪や着物を整えてから、立ち上がる。
 土方は何も言わなかった。無言のまま視線をおとし、何かを考えこんでいる。
 その様子に気づいてはいたが、総司はもうこれ以上、彼の傍にいる必要がないことをわかっていた。


 この人もわかったはずなのだ。
 彼にとって、いつもいつも私は悪運ばかりを持ってくる。まさに、地獄の道連れだ。
 そんな存在など、切り捨ててしまった方がいいに決まっていた。
 別れを告げた彼の決断は正しいのだ。
 むしろ、いつまでも彼に縋った挙句、抱かれてしまったこと自体が過ちだった。
 ならば、彼の前から自分を消してしまえばいい。どこかへ消えるか、自ら命を絶つか、まだわからないけれど。


 総司は背を向けた。
 そのまま、雪を踏みしめ、一人歩き出していこうとする。だが、それは出来なかった。
 不意に、後ろから男の腕がまわされたかと思うと、きつく息もとまるほど抱きしめられたのだ。
 掠れた低い声が耳もとにふれた。
「……行くな」
「……」
 総司の目が見開かれた。
 二度と与えられることがないはずの抱擁だった。愛しい彼のぬくもりだった。
 思わず目を閉じた総司を抱きしめ、土方は言葉をつづけた。
「どこにも行くな。俺の傍を離れるな」
「……土方さん……」
「あの時も言っただろう。俺はおまえを二度と離さない」
「だって……っ」
 総司の声が震えた。
「私、病なんですよ。それも人にうつす不治の病……! こんな私を傍においていたら、あなたにも病をうつしてしまうかもしれない。私なんか、もうすぐ死んでしまうから何の役にもたたない」
「俺にはうつらねぇよ。それに……おまえを死なせたりするものか」
「そんなの無理ですよ。いくら、土方さんでも出来ません」
「そうか、俺でも無理か」
 くすっと土方が笑った。それを訝しく思っていると、ぎゅっと抱きしめられ、髪に耳もとに口づけられた。
 そして、優しく囁かれた。
「なら……俺が殺してやるよ」
 びくりと躰が震えた。
 まるで睦言のように囁かれた言葉に、総司は目を見開いた。その細い躰を、男の両腕が戒めるように抱きすくめた。
「たとえ病でも、おまえを他の何かが奪うことは許さない。だが、俺の手で殺せば……それでいいだろう? おまえが俺と一緒に生きることに飽きたら、この手で殺してやる」
「飽きるなんて……ありえないのに?」
「なら、ずっと一緒にいればいい。永遠に、俺たちは一緒だ」
「……土方…さん……」
 その言葉に目を見開いた。
 遥かな遠い記憶が蘇った……。




  「……大丈夫だ」
   低い声が力強く囁いた。ぐっと繋いだ手ごと引き寄せられ、彼のぬくもりを感じる。
   彼は私を抱きすくめるようにして、約束してくれた。
  「俺はおまえを絶対に離さない」
  「……」
  「永遠に、俺たちは一緒だ」





 ひらひらと雪が降り舞った。
 二人ともに逃げた場所を思い出させる雪野原。
 あの時から、すべてが始まったのだ。
 地獄も、悲しみも、そして、愛も。
 共にいることが幸せだった。そこに地獄しかなくとも、それでも。
 この世の誰よりも、幸せだったから……。





 総司の頬を涙がつたいおちた。
 その涙をぬぐうように、土方が頬に口づけてくれる。
 抱きしめてくれる、愛しい男のぬくもりを感じた。


 ……この先に、幸せなどないかもしれない。
 でも、土方さん。
 私を連れていって。
 

 この出会いが地獄への始まりかもしれないと、いつか、あなたは言った。
 それならそれでいい、その地獄を私に見せて。
 ただ、あなたと一緒にいられる。
 それしか、もう望まないから──


「愛してる……」


 低い声が耳もとにふれた。
 躰が無理やり反転させられ、そのままきつく抱きしめられた。唇を重ねられ、深く激しく求められる。
 もう二度と離さない、離れないと、その想いを伝えるように。
 その想いのすべてに応えるように、総司は土方の背に手をまわした。自らも激しく狂おしく求めていく。
 ひらひらと、いつまでも降り舞う雪の中で。
 悲しみも喜びも幸せも何もかも、繰り返し還ってゆく永遠の中で。
 ただ、ひとつだけ。





 ……この愛を信じて。



























「この愛を信じて」これにて完結です。これがハッピーエンドなのかどうかは、皆様のご想像におまかせします。でも、私にとっては幸せな結末です。二人一緒にいられることが幸せだと思うからです。
久しぶりの長編、完結することが出来たのも、読んで下さった方々のおかげです。ラストまでおつきあい下さり、本当にありがとうございました♪