震える手で、柄を握りしめた。
 脇差しは重く、そして、氷のように冷たかった。
 だが、それでいいのだ。
 あの夜、私の腕の中、息絶えた彼を思い起こさせる冷たさだった。
 投げ出された血まみれの手、しなやかな指さきまで、すべて覚えているのに。
 どんなに泣いても縋っても、二度と開かれることのなかった瞼。言葉を返してくれることのなかった唇。
 その身体を染めていった血さえも。


「……これで……」
 小さく呟いた私に、男は静かに頷いた。薄闇の中、鳶色の瞳が光る。
 だが、すぐに僅かに目を伏せた。
「本来なら……私はこのような事を望んではいない。私は栞に生きて欲しいと望んでいます」
「わたくしは……もう生きたいとは思いません」
「わかっています。私は栞を愛している……だからこそ、この脇差しを渡すのです」
「ですが」
 私は目の前に座っている男を見上げた。
「それでは……累が及ぶのではありませんか。この脇差しがあれば、露呈してしまいます」
「もとより承知の上」
 男は微かに笑った。それから、不意に泣きそうな表情になった。
 のばされた指さきが頬にふれた。
「栞には……幸せになって欲しかった。誰よりも幸せになって欲しかったのです」
「申し訳ありません……」
「栞が謝ることではない。今更……悔いても仕方がないことでしょう」
 そう言った男はゆっくりと立ち上がった。襖を開ける前に、一度だけふり返った。
「……」
 私は受け取った脇差しを抱きしめたまま、深く頭を下げた。


 感謝と想いと、別れの気持ちをこめて。
 二度と逢うことのない人に。


 男は黙ったまま、しばらくの間、私を見つめているようだった。
 だが、思いを断ち切るように背を向けると、部屋を出ていった。遠ざかってゆく足音だけが響く。
 それを聞きながら、私は脇差しを抜き放った。鞘を静かに畳の上へ置く。
 はしたなく乱れる事がないように細帯で膝を固く縛った。
 そして。
 私は一切の迷いもなく、刃を胸に突き立てた。


(……さま……)


 最後に思ったのは、彼の優しい笑顔だった……。















「総司」
 呼びかけられ、ふり返った。
 見れば、廊下を土方が歩み寄ってくるところだった。
 総司は他の隊士たちの目もあることから、副長に対しての礼儀にならった。
「はい」
 返事をし、かるく目礼をする。
 それを土方は切れの長い目で眺めやってから、静かな声で言った。
「今夜、何か用はあるか」
「いえ……ありません」
「なら、俺につきあえ。場所は後で知らせる」
 ぶっきらぼうな調子で言ってから、土方は踵を返した。忙しい彼なのだ。それを告げる間にも、監察の山崎などが向こうで控えている。
 山崎と話しながら歩み去ってゆく土方を、総司はぼんやり見送った。
 だが、すぐに、はっと我に返り、自分もその場から立ち去った。





 新選組が発足してから、二度目の秋を迎え、冬へ移ろうとしていた。
 今、局長である近藤は隊を空けていた。江戸へ隊士の募集のため赴いているのだ。
 ここ数日のうちに京へ戻ってくるはずだった。
 局長の近藤がいないからと言って、隊の風紀が緩んだ訳ではなかった。むしろ、より厳しく引き締まったと言ってもよい。
 それはひとえに、副長の土方のためだった。
 土方は容赦なく隊士たちを罰し、規律を引き締めた。血も涙もないと噂され、鬼だ、蛇蝎だと、長州の浪士のような敵どころか隊内でも憎まれている彼だが、本当は、まるで違う姿を持っていることを、総司はよくわかっていた。
 彼は誰よりも優しく、脆い人なのだ。情に流されやすいところもある。
 だが、それをわかっているからこそ、人の弱さを知っているからこそ、規律で隊を引き締めるのだ。
 それを、総司はよくわかっていた。周囲がどれほど彼を非難しても、総司だけは支え、寄り添っていくつもりだった。


 この世の誰よりも愛しているのだ。
 生まれる前から結ばれていた、運命の恋人。


 それが彼だった。
 だが、むろん、それだけではない。今の彼が愛しいと思ったからこそ、恋人になったのだ。
 同じように生まれかわっていた芹沢鴨を斬ってから、二人の絆はより深くなったと総司は思っていた。


 今も、芹沢のことを思うと、複雑な気持ちになる。


 闇討ちであっても、二人は正面から戦ったのだ。
 芹沢は総司が踏み込んだ瞬間、目を覚ました。それからの動きは、さすがに剣客だった。
 寝床から素早く身体を一転させ、刀を掴み、鞘を払った。そして、斬りこんだ総司の刃を受け止めたのだ。キンと金属音が鳴り、火花が散った。
 土方は、総司が芹沢と闘うことを許してくれた。黙ったまま、二人の闘いを見ていたのだ。
 むろん、わかっている。土方こそが、芹沢を倒したかったはずだ。
 だが、これは自分の闘いだった。己故に、彼らの運命は狂っていったのだ。
 結局、あの男も二人が死んだ後、斉藤の手によって討たれたのだと聞いた。殿の命令だった。ひそかに始末せよと命が下ったのだ。
 自分さえいなければ、あんな運命を彼らが辿ることはなかった。


 もしくは、自分が逃げさえしなければ。


 すべて、己ゆえなのだ。
 それゆえ、己自身の手で決着をつけなければならなかった。
 あの男を殺すのならば、己の手で。
 それが総司が土方に出した条件だった。その申し出を聞いた時、土方は何ともいえぬ表情で総司を見た。切れの長い目が底光りし、冷たく唇が引き結ばれた。
 深く澄んだ黒い瞳が総司の心の奥まで見透かすように、見つめた。何を考えていたのかはわからない。
 だが、結局は許してくれたのだ。
「……っ」
 芹沢の返り血を浴びて、足元に倒れた屍を見下ろしていると、不意に後ろから引き寄せられた。
 きつく抱きしめられる。
「……ぁ……」
 雨音が激しく鳴っていた。耳奥に響くようだった、己の息遣いも。
 はぁはぁという息遣いが、闘いの激しさを物語っていた。
 未だかつて会ったことのない剣の腕だった。そして、今も芹沢以上の腕を持つ剣客に会ったことはない。
 剣を極めるために、どれほどの努力を重ねたのだろうか。あの頃と違い、懸命に鍛錬をしたに違いない。
 それは、ある意味、総司に切なさをあたえる想いだった。
 芹沢は恐らく知っていたのだ。いつか、二人と出会うことを。
 そして、仇を討たれ、殺されることもわかっていた。
 そのため、己の剣術の腕を磨いた。それは己を守るためではなかった、堂々と二人に対峙するためだったのだ。
 この夜のためだった……。


 気がつけば、頬を涙がつたっていた。
 それは、芹沢を悼むための涙だった。己が殺した相手のために泣くなど、欺瞞かもしれない。
 だが、それでも涙がこぼれた。
 抱きしめてくれる土方の腕の中で、総司は静かに泣いたのだ。





 それは、前世への決別とも言える出来事だった。
 総司は生まれ変わろうと思った。前世のことを引きずらず、今は、彼を彼として愛し、己も沖田総司として生きてゆこうと誓ったのだ。
 土方は言葉どおり、事が終わった後、総司を抱いた。二人は心だけでなく、身体も繋がった念兄弟になったのだ。だが、それは公にされてはいない。
 隊内が落ち着けばいずれと思っていたが、状況はまったく許さなかったのだ。
 時代が音をたてて流れていった。それに抗う事は出来なくても、せめて押し流されてしまわないように、土方は懸命に戦っていた。副長となってから斬り合いに自ら出ることは減っていたが、それでも、日々、彼は命がけの闘いに挑んでいたのだ。
 それは凄まじい重圧と緊張を強いられる日々だった。
 孤独な闘いでもあった。それゆえ、二人の中を公然とすることなど、到底出来なかったのだ。
 念弟の存在など暴かれれば、今の土方は最大の弱みを抱え込むことになってしまう。醜聞沙汰にならぬとも限らなかった。
 そのため、二人の関係は秘められることになった。
 総司はそれに対して、一切異を唱えようとはしなかった。
 以前は土方に対して不安を抱いていたので、彼を困らせた事もあったが、今は違った。このような状況であれば致し方無いと理解したし、また、別に公にして欲しいとも思っていなかった。
 時折にしか逢うことは出来なかったが、それでも、土方は総司を愛してくれたし、屯所でもすれ違う時、他に隊士がいなければ優しい言葉をかけてくれることもあった。
 それだけで十分だった。
 こんなにも幸せなのに、これ以上望んだら罰が当たってしまうだろう。
 総司はそう思っていた。





 自室へ向かって歩いていると、斉藤と行き会った。
 総司を見たとたん、ほっとしたような顔になる。
「ちょうどよかった」
「え? 何かお仕事ですか?」
「そうじゃなくて、ほら」
 斉藤は懐から出した包みを見せた。それに、総司の顔がぱっと輝く。
「三津屋のお菓子、ですね」
「あぁ、おまえが前に食べたいって言っていただろ? ちょうど前を通りかかったから」
「ありがとう」
 総司は包みを受け取り、斉藤を大きな瞳で見上げた。
「一緒に食べませんか? いいでしょう、斉藤さん」
「あぁ」
 斉藤は頷いた。
 二人して自室へ戻り、総司がいそいそと運んできたお茶と一緒に、菓子を食べた。
 土方は甘いものが苦手だが、斉藤は少しは食べることができるので、こうしてつきあってくれるのだ。それが総司には嬉しかった。
 斉藤も前世からの繋がりがある。彼の親友であり、自分の幼なじみだった。いつも見守り、助言してくれた男だったのだ。挙句、二人が逝ったことを嘆き、仇を討ってくれた。
 それゆえではないが、総司は斉藤をかけがえのない友人だと思っていた。対等な立場で話が出来る相手なのだ。
 土方とは違った意味で、総司にとって大切な存在だった。
「……身体の方の調子はどうだ」
 不意に訊ねられ、総司は「え」と目を瞬いた。
 それに、斉藤が湯のみを口に運びながら、何気ない調子でつづけた。
「医者へは行っているのか、ちゃんと薬を飲まないと、また前みたいな事になるぞ」
「あ……」
 総司は思わず目を伏せた。
「ごめんなさい、この間は……迷惑をかけました」
「別に迷惑だなんて思っていないさ。けど、土方さんには知られたくないのだろう?」
「えぇ……」
「何で」
「迷惑をかけたくないし、心配させたくない」
 そう答えた総司に、斉藤は黙ったまま肩をすくめた。それきり何も言わぬまま、菓子を食べている。
 総司はきゅっと唇を噛みしめた。


 池田屋の事件の時に、吐血をしていた。
 前々から身体が熱っぽく気怠いことがあったのだ。
 ただの風邪だと思って放っていたのだが、池田屋で突然、血を吐いた。
 この事を土方は知らない。
 たまたま近くにいた斉藤が知っているのみだった。
 あの時も必死に縋りつき、懇願したのだ。
『あの人には言わないで……!』 
 と。


 決して知られたくなかった。
 吐血の原因が労咳だと知れば、尚のことだった。
 土方が病を理由に総司を遠ざけたり、拒んだりする男だからではない。
 むしろ、逆だった。本来の彼は心優しく脆いものがある。総司が病をえたと知れば、己のすべてで守ろうとするだろうし、支えようとするだろう。そして、捨てることなど一切できなくなってしまうに違いなかった。
 それがわかっているからこそ、総司は病を彼に告げたくなかった。
 いつか、土方は自分を切り捨てなければならない時がくる。
 それを予感のように知っていた。
 男が何か事を為すのならば、いつか必ず、他のすべてを捨てなければならない時がくるのだ。
 そして、総司は、その時が来た時、彼には何の躊躇もなく、自分を切り捨てて欲しかった。夢にむかって、己の野望にむかって、思い切り駆けて欲しかったのだ。
 前世で自分は彼を己に縛り付け、挙句、その命までも奪ってしまった。
 もう二度と、彼の足枷にはなりたくない。
 それが総司の中にある強い願いだった。


 総司の気持ちをわかっているからこそ、斉藤も黙ってくれているのだろう。
 土方に告げるべきだと言うこともなかったし、口外することもなかった。斉藤はいつも黙って傍にいてくれるのだ。すべてをわかった上で。それが、今の総司にとっては何よりも有難かった。
「ありがとう、斉藤さん」
 想いをこめて告げた総司に、斉藤は一瞬、視線をむけた。
 だが、黙ったまま目を伏せると、微かに頷いたのだった。













 その日は、近藤が江戸で集めた隊士たちを連れて帰営する日だった。
 屯所内はきれいに清められ、隊士たちの大半が迎えに出た。むろん、土方も総司もだ。
 門をくぐり、近藤が入ってきた。少し日焼けした顔で笑う。
「歳、今帰ったぞ」
「お帰り、近藤さん」
 隊士たちの前でも昔通りに呼びかけてくる近藤に、土方は小さく笑った。
 近藤や総司など、親しいものにだけ見せる笑顔だ。
「留守中、世話をかけたな」
「たいした事じゃねぇさ。あんたも江戸で大変だっただろう」
「いや、藤堂が骨を折ってくれたのでな、さほど手間はかからなかった」
 そう言った近藤は、後ろをふり返った。
「文でも知らせたが、伊東道場の伊東甲子太郎君だ。弟子たちを連れて入隊してくれた」
「……」
「伊東君」
 呼びかけに応じて、後ろの一団から一人の男が歩み出た。
 明らかに他の男とは違う。これはと思わせる、何かがあった。
 いかにも頭が切れそうな、秀麗な容貌だ。深く澄んだ鳶色の瞳、形のよい唇。長身の土方と遜色ない体格であり、同じぐらいの年頃だっただろう。
 だが、そのような容姿に驚いたのではない。
「……!」
 伊東が歩み出た瞬間、土方も総司も息を呑んでいた。愕然とした表情で、その姿を凝視してしまう。
 一瞬早く、土方の方が我に返り、総司へと鋭いまなざしをやった。
 だが、総司はそれを感じることさえ出来なかった。
 呆然と目を見開き、伊東だけを見つめている。
 自分にあてられる土方の視線、こちらに向けられる伊東の微笑みも何もかも、感じられぬまま思ったのは、ただひとつの言葉だけだった。


(……兄…上……!)


 そこにいたのは、紛れも無く前世で兄として慕い、愛した人の姿だった。
 そして。
 あの夜、己に脇差しを密かに手渡し、願いを手助けしてくれた、あの……
「……っ」
 総司は固く瞼を閉ざした。めまいがした。
 果てもない夢の中に、迷い込んでしまった気がした──……