反射的に、身体が竦んだ。
無意識のうちに後ずさってしまう。
そこは屯所ではなかった。近くにある神社の一角だ。
不幸にして他に人影はなく、総司は今、芹沢とふたりきりの状況だった。
「……っ」
思わず背を向け、屯所へ向かおうとする。
とたん、後ろから声が飛んだ。
「また逃げるのか」
「……」
ふり返ると、芹沢は目を細めていた。総司だけを見据え、嘲るように嗤う。
「おまえは逃げてばかりだな。そんなにおれと向き合うことが恐ろしいか」
「何を言っているのですか。私は今まで逃げてなど……」
「あの時も逃げただろう、あの男と一緒に」
「……」
総司の目が見開かれた。
今までも揶揄されたことはあった。
だが、こんなにもはっきりと言われたことはなかったのだ。
やはり、この男は前世のことをすべて覚えているのだ。
記憶した上で、自分たちの前にいるのだ。
指先が冷たくなり、身体が震えた。どうすればいいのかわからず、混乱してしまう。
強張った表情の総司を、芹沢は眺めた。
しばらく黙ってから、ゆっくりと言葉をつづけた。
「あの男と逃げた挙句、連れ戻されたとたん、胸を突いて死んだ」
「……」
「最後の最後まで、おまえは逃げ続けた訳だ」
「そんなこと……あなたに言われる謂れはありません……!」
声が掠れた。
「愛しあっていた私たちを引き裂いたのも、あの人を殺したのも、あなたではありませんか。あなたがすべてを招いたのです。あなたが私たちを追い詰めなければ、あんな事にはならなかった」
「確かに、そうだな」
芹沢は自嘲するように嗤った。
「おまえたちを引き裂き、あの男を殺し、おまえを追い詰めたのはおれだ」
「どうして」
総司はゆるく首をふった。
「どうして……あんなに私に執着したのです。なぜ、あそこまで追手をかけなければ……全部、主席家老の息子としての体面のためだったのですか」
「そんなものどうでもよかったさ」
苦々しく吐き捨てた。
「体面なぞ、おれはとうの昔に捨てていた。おれが欲しかったのは、おまえだけだ」
「え……?」
「おまえが欲しかったからこそ、奪い返すために追手をかけた。それのどこがおかしいのだ。己が妻にと望んだ娘を他の男に奪われたのだ。それを追うのは当然のことだろうが」
「だって……私はあなたと何のつながりも……」
「覚えていないのも当然か」
芹沢は一瞬、唇を噛んだ。
「おまえにとっては些細な出来事だ。あんなことなど、すぐさま忘れてしまったに違いない。だが、おれにとっては全てが変わった出来事だった」
「全てが変わった出来事……?」
「あの事が起こる二年ほど前のことだ。おまえが落とした簪を、おれが拾ってやったことがあったのだ。それに対して、おまえは笑顔で礼を言ってくれた」
「……」
「あんなにも美しい清らかな笑顔を見たのは、初めてだった。それから、ずっと陰ながらおまえを見ていた。知れば知るほど、おまえを好いていった。この娘が傍にいてくれれば、おれも変われるかもしれぬと思った。それゆえ、おまえを妻にしたいと望んだのだ」
「そん…な……」
総司は、それ以上、何も言うことが出来なかった。
ただ呆然と、芹沢を見つめるばかりだった。
ならば、あの男は自分を愛していたというのか。
想いがあったゆえに、妻にと望んだのだと。
むろん、それを知っても尚、この男を拒絶しただろうことは確かだった。
自分には、愛する彼がいたのだから。
だが、それでも、話していてくれたら、少しでもわかることが出来ていれば、何かが違っていたかもしれないという気がした……。
「何故、話してくれなかったのです。そんなこと、私は何も知らなかった……」
「話しても、おまえはあの男を選んだだろう。それに、おまえはおれと顔をあわしても、口さえ開こうとしなかった」
確かにそうだった。
婚礼の前にと、一度だけ顔をあわせたことがあったが、頑なに心を閉ざした自分は顔さえ見ようともしなかったのだ。
むろん、言葉を交わすことなどなく、何も知らぬまま、あの婚礼前夜を迎えた。
今だから思うのか。
どこかで一つ歯車が違っていれば、何もかも変わっていたのかもしれないと。
押し黙ってしまった総司を、芹沢は無言で眺めた。
やがて、嘆息すると、遠くを眺めやった。
不意に、その口調を変えた。
「土方は、おれたちを始末しようとしているか」
「……」
はっとして顔をあげた。それに、芹沢が笑う。
「おまえは嘘がつけないな。顔に全部出てしまっているぞ」
「芹沢局長……」
「別に構わん。土方は新選組を最強の武力集団に育てていくだろう。そのためには、おれたちが邪魔であることもよくわかっている。おれは……あの男に負けたのだ。昔も今もな」
「今はともかく昔は違うのではありませんか。あの人を殺したのはあなたです」
「いや、おまえに愛されたのはあの男だ。今も昔もな」
そう言ってから、芹沢は踵を返した。懐手しながら去っていこうとする。
遠ざかる広い背中を見つめていると、不意に、芹沢がふり返った。
あたりはもう夕暮れだった。夕陽を背にした芹沢の表情はよく見えなかった。
だが、不思議なぐらい、総司には彼がどんな目で自分を見ているのか、分かる気がした。
「総司」
親しい友人に呼びかけるように、芹沢は総司の名を呼んだ。
そして、言った。
「おれたちを始末するなら、おまえがおれを殺せ」
「……」
「今度こそ、逃げずに、おまえ自身がおれと対峙しろ」
そう言ってから、芹沢は微かに笑った。
だが、すぐに背を向けた。もうふり返ることなく歩み去っていく。
誰もいなくなった境内で、しばらくの間、総司は呆然と立ち尽くしていた。何も考えることが出来なかった。
あの男が抱いていた気持ちも想いも何もかも、自分は知ろうともしなかったのだ。
自分たちにとって、あの男は敵だった。
それ以下でも以上でもない存在だった。
だからこそ、感情や想いがあるなんて、考えることもしなかったのだ。
恋は、愛は、とても傲慢なものだ。
この世の中で、自分と相手しか見えなくしてしまう。
他の何もかもを、消し去ってしまう恐ろしさがあるのだ。
それを今、総司は痛いほど思い知らされていた……。
屯所に戻った総司は、誰とも会いたくなかった。
そのため、すれ違う隊士たちに目礼を返すだけで、足早に自室へ向かった。
斉藤と同部屋なのだが、今は斉藤は巡察に出ているはずだった。
だが、部屋へ向かってみると、障子越しに明かりが灯されているのがわかる。
「……」
戸惑いながら、そっと障子を開いてみた。とたん、目を見開く。
「土方さん……」
部屋の中で胡座をかき、こちらを見上げていたのは土方だった。目があうと、少し困ったような表情になる。
だが、そんなことを見ている余裕などなかった。
総司は部屋の中に入ると障子を閉めて、すぐさま土方の腕の中に飛び込んだ。慌てて抱きとめてくれる男の胸もとに縋りつく。
広い背中に両手をまわし、ぎゅっとしがみついた。
「総司……?」
土方は驚いたようだった。だが、子供のように抱きついてくる総司を拒むことなく、抱きすくめてくれる。
しばらく髪をやさしく撫でていたが、やがて、その華奢な身体を抱き上げると、己の膝上に坐らせた。それに、総司の方が慌ててしまう。
「こんな処、誰かに見られたら」
「誰かって……この部屋にくるのは斉藤ぐらいだろう」
「だから、斉藤さんに見られたら」
「見せてやればいいさ」
悪戯っぽく笑ってから、土方は総司のなめらかな頬に口づけた。その大きな瞳を覗き込み、静かな声で訊ねる。
「俺を許してくれたのか……?」
「え」
総司は驚いて、彼を見上げた。慌てて首をふる。
「許してって……それは、私の台詞です。私があなたに酷いことをしたのです、あんなことをするなんて」
「だが、発端は俺の暴言だ。酷い事を言っちまったと思っている」
微かに苦笑した。
「嫉妬しちまったんだな、あの男を庇うおまえに」
「嫉妬……?」
「俺はおまえの行動に一喜一憂してしまうのさ。他の奴なら、どんな別嬪の女でも、何を言われても何をされても平気で放っておけるが、おまえだけはどうにもならねぇ。からきしだらしなくなっちまうのさ」
「だらしなくって……土方さんが?」
信じられない思いで、総司は彼の端正な顔を見つめた。それに、濡れたような黒い瞳が見つめ返す。
こうして見つめられるだけで、頬が上気してしまうのだ。
きれいな黒い瞳に、すっと通った鼻筋、引き締まった頬から顎の線、形のよい唇。
引き締まった長身も何もかも、うっとり見惚れてしまう程の男ぶりだった。
誰もがこの人に夢中になってしまうのだ。
なのに、自分が彼をどうこう出来るなんて信じられる話ではなかった。
「そんなの……信じられません。あなたが嫉妬したりするなんて、そんなの」
「信じられなくても、実際、そうなっちまっているんだから仕方ねぇだろう」
くっくっと喉を鳴らし、土方は笑った。
だが、ふと笑いをおさめ、ちょっと安堵したように総司の身体を抱きしめる。
「まぁ……それでも、おまえは俺に怒っていねぇんだな。許してくれるって訳だ」
「怒っていません。私は土方さんの方が怒っていると思っていました」
「なら、よかった」
少年のようなきれいな笑顔をみせられ、総司はどぎまぎしてしまった。間近で見るきれいな笑顔は、総司の胸の鼓動をいつも早くしてしまうのだ。
仲直りできたことに安堵して、土方の腕の中におさまっていると、不意にかるく抱え直された。
え?と見上げると、土方がかるく小首をかしげるようにして、覗きこんでいる。
「それで?」
「え?」
「おまえ、どこに行っていたんだ。いったい何があった」
「……」
思わず口ごもってしまった。
何をどう言えばいいのかわからなくて、戸惑ってしまう。
男の腕の中で、総司は俯いた。細い指さきが縋るように彼の着物の襟元を掴む。
「あの…ね」
「あぁ」
「近くの神社に行っていたのです。そこで、その……芹沢局長と会いました」
「……」
彼が鋭く息を呑んだのがわかった。それに、慌てて言葉をつづける。
「ほんの少しだけ話をしたのです。芹沢局長はやっぱりあの男で、全部覚えていて……それで、私のことを妻にしようとしたのは、私を愛していたからで……それで……」
「それのどこがほんの少しだけだ」
ため息まじりに、土方は呟いた。怒ったのかと見れば、微かに眉を顰めている。
「いろいろと聞いているだろうが。それに、何だ。あいつがおまえを愛していただと。そんな事、どうでもいいだろうが」
「どうでもよくなんかない」
思わず強い口調になった。
「私にとってはどうでもよいことじゃないの。それはわかっている。あの時、本当のことを聞いていても、それでも私はあなたしか愛せなかった。だけど、もしかしたら、何かが変わっていたかもしれないって思ったの。知らないでいることは、知ろうともしないことは、それこそが罪なんじゃないかって」
「罪……?」
「そう、知るべきなのに、知ろうとしないことは罪だと思うのです」
総司は静かにつづけた。
「手を掴めば、簡単に掴むことが出来たはずの真実を、私は見ようともしなかった。目も耳も心も塞いで、あの男のすべてを拒絶していた。それは間違ったことだったと思うのです。誰にだって、気持ちや想いや考えがあるのだから、それを聞かないで勝手に決め付けることは、いけないことだから」
「……総司、おまえは」
土方は眉を顰め、総司を見下ろした。切れの長い目の眦がつりあがり、声が自然と低くなる。
「あの男を庇っているのか。俺たちが間違っていたと言うのか」
「そうじゃないのです。あなたは何も間違っていない、ただ……私が間違っていたのです。するべきことをしなかった私は間違っていた、だから、あなたを死に追いやってしまった」
「総司」
「芹沢局長にも言われました。逃げてばかりだと。今度こそ、逃げるなと。ただ、それは……自分を斬れという事でしたが」
総司はぎゅっと目を閉じ、俯いた。
声が震えた。
それが土方への恐れゆえなのか、何かを手放すことへの恐れゆえなのか、わからなかったけれど。
「ごめんなさい……やっぱり、私は芹沢局長を斬ることが出来ません。どうしても出来ないのです」
「……」
「ごめんなさい」
謝罪の言葉だけを繰り返す総司を、しばらくの間、土方は見つめていた。
だが、やがて、ゆっくりと総司の腰と背中に手をまわすと、己の膝上から抱きおろした。乱暴な動きではなかった。優しく、そっと畳の上へ抱き降ろされる。
しかし、それはまったく無意識の動きのようだった。
見上げると、土方の端正な顔は無表情だった。息をつめて彼の答えをまっていると、感情のない瞳が向けられる。
低い声が言った。
「……勝手にしろ」
それだけだった。
土方は立ち上がると、背を向け、部屋を出ていった。後ろ手に閉められた障子の音が鳴る。
遠ざかる足音を聞きながら、総司はきつく唇を噛みしめた。