そのまま、男の腕の中に飛び込んだ。
縋るように、その広い背中に手をまわして抱きついた。頭を彼の胸もとに擦りつける。
「土方さん……土方さん……!」
子供のように彼の名を呼ぶ総司に、土方は驚いたようだった。
だが、すぐに人に見られてはいけないと判断したのだろう。
素早く総司を抱え込むようにすると、框をあがり、玄関脇にある小部屋へ連れ込んだ。障子を閉めてから、あらためて総司の華奢な身体を抱きしめてくれる。
優しく髪を撫でられ、訊ねられた。
「どうした、何かあったのか……?」
「土方さん……っ」
「俺はここにいる、おまえの傍にいるよ。だから、大丈夫だ……安心していいんだ」
土方はいつもわかってくれていた。
こんなふうに総司が彼に縋りついてくる時は、いつも不安を覚えている時なのだと。
引き離されるのではないか、前世のようなことが起こるのではないかと、不安に震えていることをよくわかっていたのだ。
総司は潤んだ瞳で男を見上げた。
その愛らしい表情が男を煽っていることに気づかぬまま、小さな声で言う。
「聞いたのです……私、さっき……」
「聞いたって、何を」
「佐々木愛次郎が斬られたって、それも私たちみたいに……」
「……」
土方は無言のまま、僅かに目を細めた。
「……誰に聞いた」
低い声で問いかけられ、総司は目を伏せた。
「あの、斉藤さんに……」
「あいつか」
忌々しげに呟いてから、土方はかるく身をかがめた。総司の瞳を覗きこむようにする。
「いいか、佐々木のことは忘れろ。おまえが何を思って不安になったかわかるが、俺は二度と同じことを繰り返さない」
「だって……」
総司はゆるゆると首をふった。
「あの時、私たちもそうだった。あの男に言い寄られて、逃げて、それで……あ、あなたが斬られて」
「総司」
「あなたが私の目の前で殺されて、息をしなくなって! わ、私、あなたにしがみついて……だけど、引き離されて、苦しくて死にたくて、それで……っ」
「もういい、総司」
不意に、きつく息もとまるほど抱きしめられた。
男の腕の中にすっぽりとおさまってしまう小柄な身体。
その愛しい恋人を抱きしめながら、土方は囁いた。
「もういいんだ……何も言わなくていい。おまえが不安な事はわかるから、怖がっていること、全部わかっているから」
「……土方さん……」
「総司、苦しみを忘れるのは難しい。俺だって前世の記憶に振り回されているだろう。だが、そればかりに囚われていてはだめだ。俺たちは今、ここで生きている以上、前をむいていく必要があると思わないか」
「なら……どうして」
総司は顔をあげ、土方を見上げた。
「芹沢局長を殺す必要があるの? なぜ、今、復讐をしようとするの」
「その答えは、おまえが一番よくわかっているだろう」
静かな声だった。
はっとした総司を見下ろし、土方はゆっくりと言った。
「あの男は今も、おまえを狙っている。このまま放置しておけば、必ず同じ事が繰り返される。だからこそ、俺はあいつをこの手で殺すんだ」
「でも、そんな事をして……もっと酷い事になったら」
「もっと酷いこと?」
かるく小首をかしげてから、土方はくすっと笑った。
「あれ以上に酷いことなんざありえねぇだろう。それに、おまえもわかったはずだ。佐々木のことで、あの男がちっとも変わっちゃいねぇってことを思い知らされたはずだろ」
「それは……そうだけど、でも」
「総司」
まだ言い募ろうとする総司を、土方は遮った。見上げると、冷たく澄んだ黒い瞳が総司を見下ろしている。
はっと息を呑んだ。
「土方…さん?」
思わず呼びかけた総司に、土方は低い声で言った。
「これ以上、おまえは口出しをするな」
冷徹な感情のない声音、鋭いまなざし。
それは、京に来てから土方が見せるようになった顔だった。
だが、総司は昔から、遠い昔から知っていたのだ。厳しく冷たく、そして、燃える焔のようなものを抱えていた男の姿を。
土方は静かにつづけた。
「芹沢とのことは、俺自身が決着をつけるべきことだ。おまえが口出しをすることではない」
「……はい」
反対したいことは確かだった。
だが、土方は矜持の高い男だ。これ以上、言っても聞いてもらえるはずがないとわかっていた。
黙ったまま俯いてしまった総司に、土方はきつい言い方をしたと思ったらしく、表情を和らげた。そっと総司を引き寄せ、その小さな頭を己の肩のくぼみに押しつける。
耳もとで彼の声が囁いた。
「心配するな、すべて俺が上手く始末する……」
「はい……」
素直に頷いた総司に、土方は微笑んだ。
「いい子だ」
頬に口づけてから身を起こし、部屋を出てゆく。
それについてゆくことはせぬまま、総司はのろのろと部屋の中で座り込んだ。子供のように両膝を抱えこむと、その上に顔を伏せる。
どうすることも出来ない自分の弱さが、たまらなく歯がゆかった。
今はもう娘ではない。
あの頃のように男たちの意のままに流されてしまう女の身ではないのだ。
なのに、何故だろう。
総司には彼に逆らうことが出来なかった。むろん、彼が間違ったことなどしたことはない。総司に何か嫌なことを無理強いするようなこともない。
だが、それでも、どこか彼には逆らえないものがあった。
彼に強い口調で言われてしまうと、すぐに頷き、従ってしまうのだ。それも、些細な事ならば、やり過ごしても良かっただろう。
だが、ことは、彼の命や生き方、自分たちの将来にも関わってくることなのだ。
なのに、口出しをすることではないと言われただけで、すぐに頷いてしまうなんて。
「きっと……私は怖いんだ」
総司は小さく呟いた。
前世からの深い繋がり。
だが、それを知っても尚、土方は自分に手をさしのべようとはしなかった。半ば強引に縋りつくようにして、彼の愛を求めたのは自分なのだ。
そのため、いつもいつも不安でたまらなかった。
本当に今も愛してくれているのか、後悔していないのか、また前世のようなことになるのではと、不安に思っているのは彼の方ではないのか。
実際、彼は言っていたのだ。
『俺は恐ろしいんだ。また再び、同じ事を繰り返さないか……恐ろしくてたまらない』
そんな彼を無理やりこの恋に再び引きずり込んだのは、自分だった。
彼に逆らうことなんて出来るはずがない。
愛していると告げるだけでも、不安で不安でたまらないのに。
もう愛されていない、そんなことを実感する日がくるかもしれないのに。
今だって本当に愛されているのかどうかなんて、わからない。
前世では確かに愛されていたことはわかる。
だが、今は?
今は契りを結んでもくれないのに、愛されていると言えるのだろうか。
もちろん、総司だってわかっている。
彼が自分を大切にしてくれていることを。
彼は他の誰よりも総司に優しいし、今も大切にしてくれる。
だが、それは確かに愛なのだろうか。総司が彼を愛しているように、彼も同じだけ愛してくれているのだろうか。
前世と同じ愛を、気持ちを、彼に強いてしまっているのではないだろうか。
(私は今も昔も、あの人を不幸にしているんじゃないの?)
そう思うと、たまらなくなった。
本当なら解放してあげるべきだとわかっている。
自分になど繋がれることなく、彼は自由に恋愛をすればいいし、誰かと共に生きてゆけばいいのだ。それだけの力もあるし、また、魅力のある男なのだから。
なのに、彼は今、自分に軛のように繋がれてしまっている。
前世の時と同じように、恋愛をする必要なんてないのに。
そんなことを強いることなんて、誰にも出来ないはずなのに。
「ごめんなさい……土方さん」
総司は両手で顔をおおった。
彼がいないと生きてゆけない、愛されたい、愛したいと望んでしまう自分がたまらなく嫌いだった。
誰よりも、大嫌いだった。
一方、総司と別れた土方は考えずにはいられなかった。
煩わしげに前髪を片手でかきあげつつ、玄関の方をふり返る。総司を一人あの部屋に残してきたが、気にかかって仕方がなかった。
「……どうしたものかな」
前々から、総司が自分の復讐を恐れていることは、よくわかっていた。
あの男を始末したい、殺してやりたいと思っていることを、奇妙はほど怖がっているのだ。
おそらく、総司は波風をたてることで、大きな禍いを引き起こすことになるのではないかと、恐れているのだろう。
確かに危険があることはわかっている。
あの男が本当に前世の記憶を持っているのかどうかも定かではない。
ただ、土方にとって、あの男は憎むべき仇だった。
己を殺しただけではない、己の大切な恋人を追いつめ、死へ追いやった元凶の男なのだ。誰よりも愛しんでいた少女を、奪い取ろうとした男への憎しみは今なお、この胸奥に滾っている。
必ず、殺さなければならない相手だった。
この世で、総司をこれからも守り、愛していくためにも、殺す必要があるのだ。
(……総司)
まるでわかっていないようだが、いくらその身が彼と同性となったと言っても、総司はまだまだ守られるべき存在だった。
あの頃も気が強く、凛とした性格の持ち主だったが、それでも、幼く純真で、人を信じやすく脆いところがあったのだ。この手で丹精をこめて大切に大切に守り、育て、愛してきた存在だった。
それは今も変わらない。
大人になった今でも、総司は純真で愛らしく、誰よりも優しい。
その柔らかな心を守ってやりたいと、土方は何よりも強く願っていた。そのためには我が身を投げ出しても構わない。
あの頃と同じように、命がけで守り、愛したいと思っているのだ。
否、前世で守りきることができなかったからこそ、よりその想いは強くなっている。
誰よりも愛しい存在だった。
その清らかで愛らしい笑顔を、守ってやりたいと心から思う。
総司が悲しんだり泣いたりするのを見ることは、土方にとって、この世の何よりも辛いことだった。どんな事をしても、幸せにしてやりたいのだ。
今度こそ、その笑顔を守りたい。
そのためには闘わなければならなかった。前世からつづいている定めとも、あの男とも。
江戸で会った日から、土方はずっとあの男を──芹沢を殺すための策略を練り続けてきたのだ。
どのようにすれば、追い込むことが出来るのか。この世から消し去ることが出来るのか。
総司のきれいな瞳にあの男が映ることさえ、許せなかった。存在自体が、土方にとっては許しがたいことなのだ。
ただ殺すだけでは飽きたらなかった。少しずつ追い詰め、苦しめ、殺してやりたいと願っていた。自分たちがされたように、同じ苦しみを味あわせてやりたいのだ。
だが、そのことで総司が悲しむことは堪らなかった。不安にさせてしまっていることに、迷いが出てしまう。
宗次郎と名乗っていた頃に出会ってから、土方はあの若者を誰よりも大切にしてきた。
まさに掌中の珠だった。
あまりに可愛がるさまに、溺愛しすぎだと近藤から注意されたことがあるが、気にもとめなかった。
愛する者を愛して何がいけないのだろう。大切にして何が間違っているというのか。
だが、今はその想いも秘めなければならなかった。
壬生浪士組はまだ始まったばかりであり、これから変貌を遂げていくだろう。そのことは土方もまざまざと実感していた。凄まじい勢いで動いていく時代の流れに押し流されてしまわず、己の立ち位置を探らなければならなかった。
そのためには、確固たる自分をつくりあげなければならないのだ。男として戦っていく必要がある以上、総司との関係を表沙汰にすることは難しかった。
土方も総司も幹部である以上、隙を見せることは出来ないのだ。
総司を抱かないのは、そこに理由があった。
もともとは江戸にいた頃に抱かなかったのは、総司がまだ子供であるためだった。幼すぎる総司を怖がらせることが出来ず、土方も手をだしかねていたのだ。
だが、そうこうするうちに京へのぼることになってしまい、近藤に、しばらくは二人の関係を秘めた方がよいと助言されたのだ。
そうである以上、抱くことなど出来るはずがなかった。情事どころか、二人きりの逢瀬も数えるほどしかない。
本当は狂いそうなほど総司が欲しかった。己のものにしたかった。
土方も若い男だ。欲望は人並みにあるし、ましてや、総司はあんなにも愛らしいのだ。ふとした瞬間に見せる、幼いゆえの艶かしさに堪らなくなることもあった。
先日も、一緒に泊まってほしいと言われた時には、危うく己を抑えかねるところだった。
こみ上げる欲望を押し殺す彼に気づいているのか、いないのか、総司は甘えるように見上げ、彼の名を呼んだのだ。
あの時の潤んだ瞳、ふっくらとした桜色の唇、縋るようにした細い指さき、そのすべてを痛いほど覚えている。
(こっちの気も知らねぇで、あんな事を言うんだからな)
土方は苦笑したい気持ちになりながら、自室へと向かった。公務をとるために、副長として使っている部屋だ。
だが、その前まで来た時に、たてきった障子の前に佇む男の姿に、思わず眉を顰めた。
「……斉藤」
その名を呼んだ彼に、斉藤は顔をあげた。かるく目礼してから話しかけてくる。
「少し話があるのですが」
「……入れ」
土方はさっさと斉藤の前を横切り、部屋の中に入った。それに斉藤もついてくる。
文机の前に腰をおろしながら、問いかけた。
「で? 話とは何だ」
「総司のことです」
「……」
小さな驚きがあった。
まさか、斉藤が総司のことを言及してくるとは思っていなかったのだ。
二人が友人として近づいていることは知っていたが、それに土方が口出しをするつもりはなかった。
むろん、斉藤が会津藩から偵察のために送り込まれた者かもしれないという疑いはある。
ただ、総司も子供ではないのだ。友を選ぶことぐらい、自分で出来るだろうと思っていた。
総司をあの男から、前世の記憶から守ることは必要だが、それらの事と総司の行動の範囲を狭めたり束縛したりすることとは、まったく別のことだ。
「沖田君の事とは?」
あえて他人行儀な呼び方をした土方に、斉藤は一瞬、ためらったようだった。
だが、すぐに言葉をつづける。
「総司に近づかないで貰えませんか」
「言っている意味がわからん」
「今だけでよいのです。せめて、ことが片付くまでは足元を掬われないようにすることが必要だ」
「……」
土方は目を細めた。
斎藤さんは謎の存在なのです。