夏だった。
 ねっとりとした闇がまとわりつくようで、それを振り払いたくて堪らなかった。
 つないだ手も熱くて、息があがった。逃げても逃げても追ってくる男たちに、悲鳴をあげそうになった瞬間、抱き寄せられた。
 一瞬だけ、きつく息もとまるほど抱きしめてから、彼は私を突き放した。
「逃げろ……!」
 よろめく私にむかって、彼が叫んだ。切れの長い目も眦がつりあがっている。
 その表情から、彼が決死の覚悟でいることが痛いほど伝わった。
「おまえだけでも逃げるんだ……っ」
「そんな……」
「逃げろ」
 その言葉だけを繰り返し、彼は私に背を向けた。腰に差していた刀を抜き放つと、そのまま追手の方へ駆け出していく。


 待ってと言いたかった。
 私も連れていってと縋りたかった。
 でも、そんなこと出来るはずがないこともわかっていた。
 こんな所まで逃げて逃げて逃げて。苦しくても辛くても、私を離さなかった彼。
 私のために、地位も名誉も、約束された将来さえも捨て去り、連れて逃げてくれた。
 なのに、これ以上、縋ることなんて出来なかった。もちろん、逃げることも出来なかった。
 どんなに彼が望んでも、命じられても、それだけは出来ない。
 愛する人を残して逃げるなんて、そんなこと出来るはずがなかった。


「……ッ!」
 呆然と立ち尽くす私の前で、彼は追手たちにむかって斬りこんでいった。
 鋭い叫び、怒号が響く。
 一縷の望みさえない闘いだった。
 そこに死しかないことを、彼はよくわかっているのだ。
 私は一緒に死にたいと望んだ。
 彼と共にいられないのなら死んだ方がいい。
「……私も参ります」
 呻くように言った私は、胸もとから懐刀を取り出した。刃を抜き放ち、戦い続ける彼へと走りだしていく。


 夏の闇が私たちを呑み込もうとしていた。


 どこまでも。
 いつまでも。


 闇の深さに、私は目を見開いた。




















「総司」
 呼びかけられた声に、びくりと肩が震えた。
 なめらかでよく透る低い声だ。ふり返ると、黒い着物を着流した男が歩み寄ってくる処だった。
 切れの長い目が総司をまっすぐ見つめる。ひどく喉が乾くのを覚えた。
「……土方さん」
 小さく呟いた総司に、土方は僅かに眉を顰めた。だが、すぐに優しく笑いかけてくれる。
 手をのばし、かるく総司の指さきにふれた。彼にふれられた指がじんと熱くなる。
「なんて顔しているんだ。それが恋人に逢った顔か」
「ごめんなさい」
「謝ってほしい訳じゃねぇけどな」
 肩をすくめた。総司の肩を柔らかく引き寄せながら、低い声で問いかける。
「また……あの夢を見たのか」
「……っ」
 総司はぎゅっと目を閉じてしまった。頷くことさえ出来なかったが、それだけですぐに彼に伝わったようだった。
 微かにため息をついた。
「あの夢を見た翌日は、必ず俺を避けるんだな。俺が怖いのか」
「! 怖くなんか……っ」
 顔をあげ、思わず言い募ろうとした。それに、土方が小さく苦笑する。
「気にするなと言っても、気になっちまうのはわかるよ。おまえは昔が繰り返されることを恐れているのだろう。再び、俺たちが引き離されるような事にならないかと」
「私は……」
「まぁ、あの男が目の前にいるんだ。気にしちまうのは当然のことだろう」
 びくりと総司の身体が震えた。俯いてしまった総司に、土方はいらぬことを言ってしまったかと思ったが、どうしようもない事であることも確かだった。


 事実、あの男は彼らの前に存在しているのだ。
 まるで、昔を蘇らせるかのように。
 前世の記憶を持っているかどうかは、今なお、わからなかった。
 だが、芹沢鴨はあの男であり、そして、今、京に共にいることも確かなのだ。


 春に京へのぼってきてから、色々なことがあった。
 全てのものがめまぐるしく変わったのだ。壬生浪士組を立ち上げることになり、芹沢と近藤、新見が共に局長となった。市中見廻りが主な役目だが、それ程、めざましい働きをあげているとは言いがたい。
 ただ、土方が何かを画策していることはわかっていた。鋼のように強靭な武力集団にするために、力を注いでいることも知っている。
 だが、それ以上に、総司が気になって仕方がなかったのが、土方が抱えている芹沢への感情だった。
 前世とはいえ、己を殺した相手なのだ。恋人を奪おうとした男なのだ。
 憎まないはずがなかった。
 復讐を考えていないと言えば、嘘になるだろう。
 いつか殺してやると、そんな目で芹沢を冷たく見据えている土方の横顔に、不安を覚えたこともあった。
 総司はもう……何もかも忘れてしまいたかったのだ。
 昔のことはすべて忘れて、今だけに生きたいと心から願っていた。土方を愛して愛される。それだけでいいと思ったのだ。
 だが、土方は違っていた。
 江戸で芹沢と逢った瞬間から、復讐を心に固く誓っているのだ。いつか、その手で殺めるつもりなのだ。
 昔の彼もそうだったが、今の土方もまた、矜持の高い男だった。
 そんな彼があのような死に様であったことを、忘れるはずもないのだ。屈辱も怒りも憎しみも。
 総司にとっても、むろん、あの男は憎むべき相手だった。
 だが、恐ろしいのだ。
 土方の行為が昔を呼び覚ましてしまいそうで、恐ろしくてたまらなくなってしまう。
 あの夏の闇のように、彼らを根こそぎ掴んで引きずり込んでしまいそうな気がした。
 底知れぬ闇の中に。
 それがとてもとても怖かった。


「心配するな」
 土方は総司の細い身体をかるく抱きよせながら、優しく囁いた。
 見上げると、彼の黒い瞳が総司を見つめている。視線が絡みあうと、柔らかく微笑みかけられた。
「おまえは何も考えなくていい、俺に全部任せていればいいんだ」
「土方さん、でも」
「大丈夫だ……総司、俺はおまえを愛している。おまえの事だけを考えているよ」
 そう囁いてから、土方はそっと手を離した。歩み去ってゆく。
「……」
 遠ざかる広い背を見つめながら、総司はそっと唇を噛みしめた。












 思い煩っている暇がない程、日々の動きはめまぐるしかった。
 まるで、総司の気持ちや想い、不安などは押し流してしまうほどに。
「土方さん……」
 そっと、愛しい男の名を口にして、総司は長い睫毛を伏せた。
 この新選組の中で、二人の関係は秘められていた。少女のように愛らしい総司が、土方の念弟であることは秘密だったのだ。
 もともと試衛館の中では認められている関係だったが、芹沢など、いろいろな人物と関わることで問題になることを恐れ、近藤がしばらく秘めておくようにと言ったのだ。
 それは確かに良かったのだと思う。
 土方とのことを知られれば、総司も微妙な立場にたたされたに違いないのだから。
 だが、こんな時はそれが堪らなくなった。
 試衛館にいた頃、あの夢を見ると、総司はいつも彼のもとへ飛び込んでいた。彼の腕の中へ飛び込み、そのぬくもりを感じることで、夢が現ではないことを実感していたのだ。
 だが、ここでは違った。
 彼とは先ほどのようにすれ違い、言葉を交わすことぐらいしか出来ないのだ。


(もともと、念弟と言っても気持ちだけだし……)


 彼らは契りを結んでいなかったのだ。
 なぜ、土方が総司を抱こうとしないのかは、まったくわからない。
 だが、総司は自分なりに解釈をしていた。
 あの頃、二人で逃避行をつづけていた時、心だけでなく身体も、自分は彼のものだった。彼だけの妻になった喜びを噛みしめていた。
 しかし、今はあの時と違うのだ。本来は男を受け入れることができない、土方と同性の身体に生まれついてしまったのだ。
 それが切ないほど哀しかった。
 土方がそれゆえに、自分を抱いてくれないのだと思うと、より切なさがつのった。
 むろん、わかってもいる。
 こうして男に生まれたからこそ、彼の傍に立っていられるのだ。今度こそ、己で己を守ることも出来るし、彼を支えていくことも出来る。
 ただ、あの頃と同じ愛がもらえないことが、切なくなるだけなのだ。


「私って……わがままだよね」
 そう呟いた総司は、次の瞬間、はっとして息を呑んだ。
 道場へ向かう途中だったのだが、庭先を芹沢がこちらに向かって歩いてくるのを見たのだ。いつもの取り巻き連中に囲まれ、豪快に笑っている。
 あの頃とまったく同じ姿形だった。
 体格はしっかりとしていて、押しも強い。だが、目は鋭く、どこか狂犬のような熱を帯びていた。
 身勝手で何か自分の中にある鬱屈したものを、乱暴に振る舞うことで発散しているような印象があった。それは今も変わらない。
 金遣いが荒い上に、押し込み強盗まがいに豪商を脅かして金を巻き上げていると聞いた。挙句、借金の取り立てに来た女を手篭めにし、己の妾にしてしまっている。
 清廉で己にも他人にも厳しい総司からすれば、顔を背けたくなるような男だった。ましてや、前世で、この男に愛しい彼を殺されているのだ。
「……」
 総司は固い表情で彼らとすれ違った。瞬間、芹沢の視線を感じたが、彼も何も言おうとはしなかった。
 芹沢は身勝手で乱暴な男だが、隊士たちに奇妙なほど好かれているようだった。誰彼なしに声をかけるためだろう。
 その芹沢がまったく声をかけようとしないのは、土方と総司のみだった。この二人とは、京へのぼってから随分時がたっているが、必要最小限のことしか話したことがないのだ。
 むろん、総司から話をするはずもなく、自然と、言葉をかわす機会はなかった。
 だが、それでもすれ違って、芹沢の気配が遠ざかると、ほっと息がもれた。無意識のうちに身体が緊張していたのだろう。
 忘れたい、昔のことにこだわりたくないと言いながら、一番こだわっているのは自分なのかもしれないと思った。
 総司はゆるく首をふると、道場に入った。
 稽古をするつもりではない。ある男を探すためだったのだが、その目的はすぐに達せられた。
「斉藤さん」
 呼びかけに、竹刀を手にしていた男が振り返った。総司と同じ年頃なのだが、どこか落ち着いた印象がある。
 斉藤は京にのぼってから行われた募集に応じてきた男だった。総司と変わらぬほど腕がたち、物腰も大人びている。
 総司は剣術に優れた斉藤と話をするのが、とても好きだった。他の様々なしがらみや軋轢などを、忘れることが出来る気がするからだ。


(土方さんのことを忘れたい訳じゃない。あの人との恋を忘れたい訳じゃない。ただ、時々は全部から逃げたくなる……)


 それは、総司の正直な気持ちだった。
 土方は京に上ってから、変わったような気がした。
 むろん、総司に対して変わった訳ではない。前と変わらず優しく愛してくれるし、誰よりも総司の心に寄り添ってもくれる。
 だが、一方で、土方はどこか変わってきていた。それは、男として大きく変わろうとしている時期だったのか。
 明るく気さくな性格で、誰にでも話しかけて悪戯っぽく笑う少年のような面影があった土方が、今はめったに笑うこともない。
 冷たい翳りをおびた瞳に、引き締められた口元。その鍛えられた身体を包み込む張り詰めた雰囲気。
 突然、変わった訳ではなかった。少しずつ少しずつ、彼は変わっていったのだ。
 壬生浪士組もたくさんの隊士が募集に応じて入ってきたため、大所帯になりつつある。彼らの中で、土方はどこか畏怖される存在のようだった。近寄りがたい存在なのだ。
 土方は自ら変わろうとしているようだった。あるいは、彼の目的を達成するためには、冷徹にならなければいけないと己に課したのか。
 だが、それが総司には堪らなかった。


 やめて欲しいとさえ思った。


 壬生浪士組を強くすることはいい。そのために、副長として己を変えていくこともいいだろう。
 だが、復讐は彼の心に大きな影を落としている気がするのだ。変わってしまう運命も恐ろしいが、このことで彼の愛が、彼自身が深く傷ついてしまいそうなことも、怖い。
 土方に言っても無理なことはわかっていた。江戸で芹沢に会った時、彼は決意したのだ。前世の敵をうつのだと。
 男が一度決めたことを、そう簡単に変えるはずがないこともわかっている。
 だが、それでも……。
「……」
 思わず目を伏せた総司は、一緒に傍を歩いていた斉藤にじっと見られていることに気づいた。慌てて顔をあげ、小首をかしげてみせる。
「何ですか?」
「いや」
 斉藤はちょっと困ったように笑った。
「おまえって見かけと中身が違うんだなぁと思って」
「え?」
「見かけは娘っ子みたいだし、可愛くて素直で人形みたいだと思ったんだ。けど、中身は……いろいろなものを抱えているんだな」
「い、いろいろなものって」
「何を抱えているかまではわからないよ。けど、時々、思い悩んでいることがあるだろ。副長のこととか、いろいろと」
「副長って……」
「なぁ、総司」
 斉藤が不意に訊ねた。それに、え?とふり返る。
 見上げると、斉藤の鳶色の瞳がまっすぐ総司を見つめていた。
「おまえ、副長の念弟なのか」
「え」
「あの人と恋仲になっているのか」
「……」
 総司の目が大きく見開かれた。一瞬、言葉につまってしまう。
 だが、ここは近藤の言葉どおり否定すべきだと思った。
 二人の関係を今はまだ公にすべきではないのだ。土方にも迷惑がかかってしまうことは明らかだった。
「ち、違いますよ」
 慌てて手をふった。
「そんな、私……副長の念弟なんて、そりゃ江戸の頃から仲は良かったですけど、でも」
「あの人はやめた方がいい」
「え?」
 驚いて顔をあげた。そんな総司に、斉藤は静かな声で言った。
「あの人……土方さんだけは好きにならない方がいい。おまえが不幸になる」
「……」
 突然の言葉に、総司は息を呑んだ。



















第二部スタートです。