「……い、いや!」
 思わず叫んでいた。
 腕を掴まれた瞬間、恐怖で身体中がすくんでしまったのだ。
 歳三の言葉どおり、まるで娘のようだと思ったが、どうしようもなかった。
 力も弱く身体つきも小柄で華奢な宗次郎にとって、大人の男である歳三の力は、恐ろしいほど強かった。ぐいっと強引に引き寄せられたとたん、身体が傾ぐ。
 青ざめた顔で見上げると、歳三は切れの長い目で見下ろしていた。まるで何かを探るように、鋭い視線をあててくる。
 宗次郎はかすれた声で問いかけた。
「な、何か御用ですか……?」
「……」
「あの、近藤先生なら道場に……」
 そう言った宗次郎に、歳三は何も答えなかった。だが、しばらくして、低い声で言う。
「ちゃんと飯を食っているのか」
「え」
「今朝、飯を抜いただろ」
「それは少し身体が怠くて……でも、どうして……」


 どうして知っているのだろうと思った。
 朝餉の場に、歳三はいなかったはずなのだ。
 歳三はいつも自分にあてがわれた部屋で食事をしているようだった。
 そのため、食事の場で会ったことがない。


 不審に思って問いかけた宗次郎に、歳三は黙って肩をすくめただけだった。
 宗次郎の腕を離しながら、言った。
「飯ぐらい、しっかり食え」
「……」
 黙りこんでいる宗次郎を一瞥してから、歳三は踵を返した。着流した着物の裾をひるがえし、歩み去ってしまう。
 遠ざかる男の広い背を見送り、宗次郎は混乱していた。


 いったい、何がしたかったのか。
 あれではまるで、宗次郎に朝餉のことを言うためだけに、ここへ来たかのようだった。
 だが、彼にとって宗次郎は侮蔑すべき存在であるはずなのだ。
 なのに、どうして、あんな……


 宗次郎はゆるく首をふった。
 考えても仕方がないことだと思ったのだ。
 人の気持ちを推し量ることなんて、出来るはずもない。
 自分の気持ちさえ、わからないのに。
「……」
 宗次郎は、先程まで歳三に掴まれていた腕を見た。
 彼の大きな手のひらの感触が残っている。
 そこだけ、熱い気がした。














「……え?」
 宗次郎は目を瞬いた。
 思わず呆然と、目の前にいる近藤を見上げてしまう。
 それに、近藤は申し訳なさそうな表情で言った。
「すまんな、宗次郎」
「え、あの……」
「おまえが歳を苦手に思っているのはわかっているのだが、今回ばかりは堪えてくれんか」
「……」
 返事のしようがなかった。


 日野にある佐藤家の屋敷へ稽古をつけにいくことはいつもの事なのだが、それに、今回、近藤が同行することが出来なくなったと言うのだ。
 代わりに永倉や原田に頼もうとしたが、彼らにもそれぞれ用事があり、仕方なく宗次郎は歳三と一緒に日野へ向かうことになったのだが。


「おまえの腕なら稽古はつけることが出来るし、大丈夫だ」
「それは心配していませんが、でも……」
「わかっている、歳のことだろう。歳にはおれからもよく言っておくので、頼まれてほしいのだ」
 ここまで師匠に言われて、弟子の立場で断れるはずがなかった。
 結局、宗次郎は歳三と日野へ向かうことになってしまったのだ。
 いつもは楽しい日野行きも、歳三と一緒では息つまるような思いだった。憂鬱になってしまう。
 朝、支度をしてのろのろと玄関口へ行くと、既に歳三はそこに佇んでいた。
 手甲、脚絆をつけ、小袖に袴、黒い編笠を手にした男の姿に、どきりと心の臓が跳ね上がった。


(まるで……夢の中の彼のようだ)


 あの雪の中、ふたり手を繋ぎあって逃げていく光景のように。
「……」
 出てきた宗次郎に気づいたのか、歳三がふり返った。切れの長い目が一瞬だけ、こちらを見据える。
 だが、すぐに視線はそらされた。
 不機嫌そうな表情で編み笠をかぶりながら、玄関口を出ていく。
 言葉一つさえかけることがなかった。本当に、姿形は同じであっても、その中身は違うのだと思い知らされるようで、涙がこぼれそうになる。
 だが、宗次郎はきつく唇を噛みしめると、その後を追った。無言のまま二人は日野へ向かった。


 江戸から日野へは一日で着くことが出来る距離だ。
 そのため、朝早く出れば、夕方には佐藤屋敷へつくことが出来るはずだった。もっとも、それは大人の男の場合の話であり、宗次郎のような少年や女子供であれば、なかなか難しいものだろう。
 宗次郎は歳三に遅れないよう、いつもより足を速めてついていくつもりだった。
 歳三が待ってくれるとは、到底思えなかったのだ。
 だが、江戸を出たあたりで、宗次郎はふと気がついたのだ。
「……」
 まさかと思いながら、前を歩く歳三の広い背を見上げる。


(この人……私にあわせてくれている……?)


 歳三は一見すれば、すらりとした細身であり、近藤のようにいかにも力がありそうな男ではない。
 だが、鍛えられた身体は大人の男のものであり、江戸から日野への道など彼にとっては苦でもないはずだった。
 ましてや通い慣れた道なのだ。足取りを緩めることなど、ありえないだろう。
 それなのに、今、歳三の歩みは明らかに他の男たちよりも緩やかだった。幾度か、他の旅姿の男たちに追いぬかれたが、それでも、知らぬ顔で歩いてゆく。まったく歩調をかえる様子はなかった。
 それどころか、時折り、僅かにふり返ってくるのだ。
 一瞬だけ視線を走らせるその様に、宗次郎も悟らざるをえなかった。
 歳三は、宗次郎にあわせてくれているのだ。その上、時折、宗次郎が遅れていないか、ちゃんとついてきているか、確かめてくれている。
 まさか、そんなことをしてくれるとは、思ってもみないことだった。
 歳三は宗次郎を侮蔑しているはずだったし、嫌われているとしか思えぬ態度だったのだ。なのに、今、歳三は宗次郎を気遣ってくれている。
 それがたまらなく嬉しかった。ふわりと胸奥があたたかくなる。
 思わず走りより、ありがとうございますと言いたくなったが、それを宗次郎は我慢した。
 そんな事をすれば、たちまち歳三は冷たい瞳で見下ろし、小馬鹿にした口調で否定してくる気がしたのだ。ならば、黙ってついていった方がよかった。せっかく優しくしてくれているのだから、その状況を自分で壊したくなかったのだ。
 日野への道のりがそれほど憂鬱ではなくなった気がした。少し気持ちが楽になったのだ。


(思ったほど、悪い人じゃないのかな)


 そんな事を思いながら、宗次郎は歳三の後を追った。
 途中、昼飯をとることになり、道端で休んだ。
 その時も、歳三はわざわざ木陰になっている苔むした岩を探し、そこに宗次郎を座らせたのだ。
 春であっても日差しの強い日だった。暑さで少し頭がぼうっとしていたのだ。それを見て取っていたのだろう、歳三は木陰に宗次郎を座らせてくれた。ひやりとした風が心地よい。
 ほうっと吐息をもらした宗次郎を、歳三は注意深い目で見つめた。
「ちょっと待っていろ」
 突然、そう言うと、歳三は身軽に近くの渓流へ降りていった。宗次郎が見ていると、岩場から湧き出す清水で手ぬぐいを濡らし、竹筒に水をくんでいる。
 戻ってきた歳三は、濡れた手ぬぐいを宗次郎の首筋にあててくれた。その後、さし出された竹筒の水は冷たく、とても美味しかった。
「おいしい……」
 思わず笑顔になった宗次郎は、歳三を大きな瞳で見上げた。
「ありがとうございます、とても気分が良くなりました」
「……そうか」
 一瞬だけ、歳三は安堵した表情をうかべた。
 だが、すぐにぶっきらぼうな態度に戻ると、傍らの岩に腰を下ろす。包みを広げ、昼飯をとり始めた。
 宗次郎はあまり食欲がなかったが、それでは力がつかないと思い、少しでも口に運んだ。
 それに、歳三が低い声で言った。
「食った方がいい。でないと、身体がもたねぇぞ」
「はい……」
「おまえ、何か食い物で好きなものはあるのか」
「え」
 突然の問いかけに、宗次郎は目を見開いた。だが、こちらをじっと見つめている歳三の黒い瞳に、躊躇いがちに答える。
「蜜柑、とか……」
「蜜柑か。この時期はねぇな」
「果物はどれもだいたい好きです。お菓子も……」
 言いかけ、宗次郎は慌てて口をつぐんだ。また、娘みたいだと嘲られると思ったのだ。
 だが、宗次郎の予想に反して、歳三は別に表情を変えなかった。ただ、そうかと頷き、昼飯を口にはこんでいるだけだ。
 それに、ほっと肩の力を抜きながら、宗次郎は思った。


(どうして、そんなことを聞くの?)


 歳三にとって、宗次郎は侮蔑すべき少年であるはずだった。
 だからこそ、何度も冷笑を向けられたのだ。
 なのに、こうして日野への旅に出てから、歳三は不思議なほど優しかった。先程もわざわざ手ぬぐいを濡らしきてくれたし、水も汲んできてくれたのだ。そればかりか、宗次郎の歩調にあわせ、ゆっくりと歩きつづけてくれる。
 その事が不思議でならなかった。
 だが、なぜなのかと聞く訳にもいかない。
 そんな事をすれば、たちまち元の冷たい態度に戻ってしまいそうで、怖かったのだ。


 昼飯を終えると、二人は再び歩き出した。
 むろん、歳三は相変わらず先に行くが、宗次郎の歩調にあわせてくれている。
 道中、無言で歩きながら、それでも、宗次郎は出発する前に思っていたほど憂鬱ではなかった。それどころか、どこか甘酸っぱい幸せな気持ちだったのだ。
 大きな瞳で、前を歩く男の広い背を見上げた。
 すらりと引き締まった長身で、均整のとれた身体つきだった。あの夢の中の彼そのままに。


(この人は……本当に誰なのだろう)


 夢が現になるなど、ありえない話だった。
 だが、実際、宗次郎は夢の中で愛した男と出逢ってしまったのだ。もちろん、姿形が同じだからと言って、同じ男だとは限らない。
 それでも、もしかしたら……と思ってしまう自分がいるのを、宗次郎は知っていた。
 何度も見た夢なのだ。同性である彼を好きになるなんて、おかしいとわかっていても、憧れと恋慕はとめられなかった。抱きしめられた時の幸福感が何度も胸によみがえるのだ。
 この人さえ傍にいてくれればいいと、心から願った自分の想いも……。
「──」
 宗次郎は小さく唇を噛みしめた。


 ……わかっているのだ。
 歳三がもしもあの夢の中の男だとしても、自分を愛してくれるなどありえぬことを。
 宗次郎のような少年の目から見ても、歳三は端正で華がある容姿をもち、頭も切れるいい男だ。
 女にもかなりもてるという話だった。
 そんな男が宗次郎のような少年など、相手にしてくれるはずがないのだ。



 宗次郎はちらりと自分の手足に視線をやった。
 華奢で細い手足だ。痩せっぽっちで目ばかり大きくて、きれいでも何でもなかった。もっとも、きれいな少年相手であっても、女にもてる歳三が相手にするとは思えないが。
 あれこれ考えているうちに、宗次郎はどんどん気持ちが沈んでいくのを感じた。
 歳三のことばかりを考えてしまう自分も嫌だし、つい今朝まで苦手だと思っていたのに、少し優しくされただけであれこれ考えてしまう自分が酷く浮ついている気がした。
 ぎゅっと両手を握りしめる。
 そのとたん、だった。
「宗次郎」
 突然、声をかけられ、はっとして顔をあげた。見ると、いつの間にか歳三がすぐ前に立ち、身をかがめるようにして顔を覗きこんでいる。
 その黒い瞳にまっすぐ見つめられ、頬に血がのぼった。
「あ……ご、ごめんなさい」
「謝ることじゃねぇだろう。おまえ、気分が悪いのか」
「え」
「顔色が悪いし……元気がねぇぞ。もう少しで日野なんだが、休んでいくか」
 歳三がさし示したのは、小さな水茶屋だった。それに、慌てて首をふる。
「だ、大丈夫です。遅れてごめんなさい、ちゃんと歩きますから」
「無理するな」
 そう言うと、歳三は宗次郎の細い肩にふれた。一瞬だけ躊躇ったが、そのまま水茶屋の中へと連れていってくれる。
 たてかけた葦簀の後ろにある席に坐らせ、茶と団子を注文した。
 もちろん、団子は宗次郎の前に置かれた。びっくりして顔をあげると、歳三が湯のみを口元に運びながら言う。
「菓子が好きだと言っただろう」
「あ、はい」
「おまえの分だ」
 皿をより宗次郎の前に押しやり、歳三は茶を飲んだ。彼は茶だけで済ますつもりらしい。
 宗次郎は小さな声で礼を言うと、団子を口にはこんだ。柔らかくて甘く、おいしい。
 ふと、奇妙な既視感にとらわれた。
 いつかも、こうして彼と一緒に茶店の台の上に並んで腰掛け、菓子を食べたことがある気がしたのだ。傍らで、彼は今のように茶を飲んでいた。
 おいしいと言った自分に、彼は優しく微笑みかけてくれたのだ。
 それはよかったと髪にふれながら。
「……」
 宗次郎は思い切って、顔をあげた。歳三の方を大きな瞳で見つめる。
 視線を感じたらしい歳三がこちらを見た時に、言った。
「とても……おいしいです」
 そう言って笑いかけた宗次郎に、歳三はかるく目を見開いた。
 だが、すぐに優しい笑みをうかべた。
 まるで……あの時のように。
 そして。
「……それはよかった」
 歳三は既視感のままの言葉を口にすると、手をのばしたのだ。一瞬、しなやかな指先が宗次郎の髪にふれそうになる。
 だが、ふれそうになっただけだった。
 寸前で歳三は我に返ったようだった。はっとしたように目を見張ると、きつく唇を噛みしめた。手を引っ込め、不機嫌そうな表情になってしまう。
 だが、宗次郎はそんな彼を呆然と見つめていた。
 まさか、歳三がそんな言動をとるとは思ってもいなかったのだ。自分の既視感のままの言動を。

(今、私の髪にふれようとしたよね。あの人と同じ言葉を言って、同じ事を……)


 偶然かもしれないと思った。
 でも、望むように考えてしまうのも仕方がないことだろう。
 考えこんでしまっている宗次郎の傍らで、歳三は押し黙ったままだった。無言で道を通りすぎていく人々を眺めている。
 そっと見上げてみた横顔は冷たく、宗次郎を拒絶しているようだった。


 その日の夜、二人は日野の佐藤屋敷に到着した……。