……逃げていた。
 雪の中を、ふたり何処までも。
 なぜ、逃げているのかさえわからなかった。
 目に入る光景は、一面の雪。
 ひらひらと雪が鈍色の空から降り舞ってくる中、私たちは逃げているのだ。
 固く手をつなぎあって。
「……」
 見上げると、そんな私に気づいたのか、彼がこちらを一瞬だけ見下ろした。
 額に少し乱れている黒髪。切れの長い目に黒曜石のような瞳。
 形のよい唇に、引き締まった頬から顎にかけての線。
 息を呑むほど、きれいな顔だちだった。だが、その表情は切なく、どこか狂おしい。
 彼が私を見たのは一瞬のことだった。すぐさま真剣な表情で前へ視線を戻し、駆けていく。
 私は追手が気になってたまらず、何度もふり返った。目に映る光景に追手の姿はない。
 それでも不安で、不安でたまらなくて……
「……大丈夫だ」
 低い声が力強く囁いた。ぐっと繋いだ手ごと引き寄せられ、彼のぬくもりを感じる。
 彼は私を抱きすくめるようにして、約束してくれた。
「俺はおまえを絶対に離さない」
「……」
「永遠に、俺たちは一緒だ」
 身体が震えた。
 怖くて不安でたまらなくて……でも、今まで生きてきたどんな時よりも幸せで。


 どれぐらい、私はこの人を愛しているのだろう。
 あまりにも愛しすぎたからか、何もわからない。
 私にとって、彼は私の命そのものだったから。


 彼に抱きついた私を、逞しい両腕が抱きしめてくれた。
 そして、何度もくり返された約束。


 二度と離さないと。
 私たちは永遠に一緒なのだ。
 それは、死しても尚……


 再び走り出した私たちに、雪がひらひらと降り舞った。
 花のように。
 静かに、やさしく。
 どこまでも逃げる私たちの先に、どんな悲劇が待ち受けているのか。
 その時の私たちには、わかるはずもなかった……。














「……宗次郎……宗次郎?」
 優しい声に、ゆっくりと意識がうかびあがった。
 ぼんやりと目を開けば、微笑んでいる姉お光の顔が視界に入る。
 宗次郎は「え?」という表情で、目を瞬いた。
「あ、あれ?」
 慌てて身を起こした宗次郎は、周囲を見回した。
 春らしい光景が広がっている庭先に面した縁側だ。
 宗次郎はここでぼんやりしているうちに、いつのまにか眠ってしまったようだった。
 姉の後ろにいた近藤が豪快に笑った。
「ねぼけているな、宗次郎。ま、無理もない。昼寝にはちょうどいい天気日和だ」
「す、すみませんっ」
 慌てて宗次郎は立ちあがり、頭を下げた。


 宗次郎は、この近藤が道場主をつとめる試衛館の内弟子だった。
 まだ十四才だが、その剣の才を見込まれている。将来が楽しみだと言われていた。
 もっとも、一見すれば、そのようにはとても見えない。
 絹糸のように柔らかな黒髪に、黒目がちの瞳。
 長いまつ毛がふっくらとした白い頬に翳りを落とし、桜色の唇とあいまって可憐な少女のように見えた。
 身体つきも、この年の少年にしては小柄で華奢だ。
 今、着ているような地味な色あいの着物ではなく、華やかな色あいの、それも娘ものの着物を纏えば、玲瓏とした美しい少女に見えるに違いなかった。


「お話は終わったのですか?」
 そう訊ねた宗次郎に、お光は微笑みながら頷いた。
「えぇ。若先生に色々と聞かせて頂いたわ。随分と剣術に励んでいるようですけれど、身体だけは大切にするのですよ」
「はい」
 こくりと頷き、宗次郎はお光を送るために歩き出した。門前で江戸に来たついでに訪ねてきてくれたお光を見送ってから、ふと吐息をもらす。


(……どうしてだろう)


 幾度も見た夢だった。
 小さな頃から見ていた訳ではない。何故か、この試衛館に来てから見るようになった夢だ。
 だが、それでも、幾度も見たことは確かだった。
 いつの時代なのかさえ、わからない。
 自分が誰なのか、彼が誰なのかさえも。
 ただ確かなのは、逃げている事と、そして……


(私が、彼を誰よりも愛しているということ……)


 そう心の中で呟いてから、宗次郎は己の頬が火照っていることに気づいた。思わず頬に手をあててしまう。
 いつもそうなのだ。
 夢のことを思い出すたび、夢の中に出てくる彼を思い出すたびに、胸の鼓動が高鳴り頬が火照ってしまう。
 これでは、まるで恋しているようだと思ったが、自分ではどうすることも出来ない感情の発露だった。
 幾度も見たからなのか、夢とは思えないほど、鮮明に覚えている。
 艶やかに結い上げられた黒髪に、切れの長い目。
 その黒曜石のような瞳がとてもきれいだった。
 形のよい唇も、顎から頬にかけての線も、何もかもが整っていて精悍で、瑞々しいほどの男ぶりは見惚れてしまう程だ。
 引き締まった身体に、黒い着物を着ていたことを覚えている。黒い編笠をかぶっていたことも。
 両刀をさしていた事からすると、武家なのだろう。
 だが、彼に対してわかることはそれだけだった。
 それでも、彼のことを思うと、頬が熱くなってしまうのだ。


(こんなのおかしいよね。夢の中でしか会えない人なのに……)


 それに、相手は男だった。
 この時代、衆道は別に忌むべきものではない。
 だが、それでも、宗次郎はそういった事が自分に起こるなどと、思ってもいなかったのだ。
 もっとも、夢である以上、これより先に進むことはない。
 それ故の恋かもしれなかった。
 憧れなのかもしれない。
 小柄な自分からすれば羨ましいぐらい、長身で引き締まった身体つきをした大人の男に対する憧憬もあるのだ。


 はぁっとため息をつき、宗次郎は顔をあげた。
 気分転換に少し散歩に行こうと思い、入りかけていた門から出る。
 そのとたん、だった。
「……あっ」
 門を出たとたん、誰かとぶつかってしまったのだ。相手が自分より背の高い男だったため、その胸もとに飛び込むような格好になってしまう。
 宗次郎は慌てて身をひき、頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
「……」
「ごめんなさい、あの、前を見ていなくて……」
「……」
 無言のままでいる相手に身体が竦んだ。
 質の悪い相手であれば、いきなり斬りつけられるかもしれないのだ。竹刀や木刀があれば戦えるが、生憎、丸腰だ。
 おそるおそる顔をあげた宗次郎は、だが、次の瞬間、大きく目を見開いた。


(……え)


 夢のつづき、なのかと思った。
 そこに立っていたのは、あの男だったのだ。
 身なりは全く違う。
 夢の中のような武家姿ではなかった。濃紺の着物をさらりと粋に着流し、角帯を締めている。
 だが、その端正な顔も、黒い瞳も何もかも一緒だった。
 まったく同じ姿形の男が佇み、切れの長い目で宗次郎を見下ろしているのだ。
 夢の中と同じ黒曜石のような瞳と視線があった瞬間、宗次郎は息がとまる想いがした。
 躰中が熱くなり、なのに指さきだけがきんと冷たくなる。


(あの人だ、夢でいつも見ている私の……)


 愛した人。
 否、今も尚、狂おしいぐらい愛している男。
 最愛の……


 次の瞬間、宗次郎の視界がすうっと暗くなった。意識が遠ざかり、躰中から力が抜けてしまう。
 地に倒れこみかけた瞬間、逞しい腕が素早くそれを抱きとめた。
 そして、抱きしめられる。
 あの夢の中のように、やさしく狂おしく。


(……さ…ま……)


 夢の中で呼んでいた男の名がよみがえる。
 目を閉じた宗次郎は、そのまま深い闇の中に落ちていった……。












 目を覚ますと、見慣れた天井が視界に入った。
 一瞬、何がなんだかわからず、ぼうっと天井を見上げてしまう。
 すると、傍らから声をかけられた。
「気がついたか、宗次郎」
 はっとしてそちらを見ると、近藤が心配そうに覗きこんでいた。それに、慌てて身を起こす。
「す、すみません、私……」
「無理をするな。おまえは突然、倒れたのだ」
「あ」
 宗次郎は思わず周囲を見回してしまった。それに、近藤が訝しげに首をかしげる。
「どうした」
「あの……っ」
 ぎゅっと両手を握りしめた。
「わ、私を、あの……ここに運んでくれたのは……」
「あぁ、歳のことか」
 何でもない事のように、近藤は答えた。
「おまえとはなかなか掛け違って逢わせることが出来なかったが、あれが以前から話していたおれの親友だ」
「若先生の親友……」
「土方歳三と云ってな、佐藤家のおのぶさんはおまえも知っているだろう。その弟にあたるのさ」
「……」
 宗次郎は黙り込んだまま、近藤の言葉を聞いていた。


 以前から、聞いたことはあったのだ。
 この近藤の親友である、土方歳三という男の名は。
 だが、あまり良い印象はなかった。
 何しろ、風来坊のようにいつもあちこち遊び歩いているという話だったのだ。それも、女遊びが激しいという話に、潔癖で初な宗次郎が良い印象をもつはずがなかった。
 しかし、その歳三が、あの男なのだ。夢の中で狂おしいぐらい愛した、あの……


 宗次郎は顔をあげ、近藤を見た。
「それで、あの……歳三さんはどこに?」
「出かけてしまったようだ。まぁ、夕飯時には戻ってくるかもしれんが」
「そうですか」
 鷹揚に笑う近藤の前で、宗次郎はこくりと頷いた。
 そして、その歳三だという男と言葉を交わしてみたいと思っていたのだった。












 宗次郎が望んだ機会は思ったより早く訪れた。
 近藤はわからないと言ったが、歳三は夕飯が終わった頃に試衛館へ戻ってきたのだ。
 宗次郎が片付けをしていると、不意にすっと襖が開いた。何気なくふり返ったとたん、鋭く息を呑む。
 そこに佇んでいたのは、歳三だった。
 あの黒曜石のような瞳が、まっすぐ宗次郎を見下ろしている。
 宗次郎は盆を手にしたまま、慌てて立ち上がった。
「あの……っ」
 声が震えるのを必死におさえ、つづけた。
「きょ、今日は……ありがとうございました。助けて頂いて、あの……」
「……礼を言われるような事じゃねぇよ」
 低い声で、歳三は答えた。
 それに息を呑む。
 夢の中と同じ声音だった。なめらかで低い、よく透る声。
 何度も、愛していると囁いてくれた、あの……
「しかし、おまえ、女みたいだな」
「……え」
 だが、夢の中とは別人のような冷たい響きをおびた声音に、目を見開いた。
 そんな宗次郎の前で、歳三は明らかに嘲りの笑みをうかべた。片頬を歪める。
「あんな所で倒れるなんざ、娘同然だろう。本当に、ここの弟子なのか」
「わ、私は……っ」
「まぁ、俺にはどうでもいい事だけどな」
 侮蔑にみちた口調で言い捨てると、歳三は煩わしげに黒髪をかきあげた。そのまま宗次郎を一瞥することもなく、すっと背をむけて去ってしまう。
 それに、宗次郎は呆然と立ち尽くした。


(……な、に……? 今の……)


 信じられない言葉ばかりだった。
 冷たい嘲りにみちた笑み、侮蔑をあらわにした口調。
 宗次郎を容赦なく傷つけ苛んだ、言葉の数々。
 あのきれいな顔で、形のよい唇から吐かれた言葉とは到底思えなかった。夢の中の男とは別人だった。
 否、実際そうなのだろう。
 似ているのは、その容姿と声だけなのだ。
 むしろ、それが当然だった。夢と同じ容姿だからと言って、同じ男である理由など何処にもないのだから。
「……っ」
 宗次郎は唇を噛みしめ、俯いた。零れ落ちそうになる涙をこらえる。
 その可憐な少年の姿を、立ち去ったはずの男が遠くから見つめていることなど、知らぬまま……。












 その日から、歳三の姿を試衛館でよく見るようになった。
 だが、実際は、宗次郎が弟子として道場に入った時から、よく顔を出していたらしい。今まで会わなかったのが不思議なくらいだった。


(ずっと会わなかった方が、よかったけれど)


 そう思わずにはいられなかった。
 宗次郎にとって、歳三は今やもっとも苦手な男となっていたのだ。
 もっとも、歳三と会っても、冷たい視線をむけられるだけであり、声ひとつかけてこない。
 だが、それでも、嘲るような笑みがその形のよい唇にうかんでいるのを見ると、身の内が怒りにかっと熱くなった。
 自然と、宗次郎は歳三を避けるようになった。姿を遠く見かけたとたん、背を向け、避けるようにしたのだ。
 だが、不思議なことに、そうなると、歳三の姿は宗次郎の世界からまったく消え去った。
 宗次郎が避けるようになったとたん、姿を見かけることさえなくなってしまったのだ。近藤に聞くと、どうやらまだ試衛館にはいるらしい。
 だが、顔をあわさずに済んでいることは、宗次郎にとって、とても助かることだった。
 そんな宗次郎に、近藤はため息をついた。
「宗次郎は、歳が苦手なようだな」
「え……」
 口ごもってしまった宗次郎の前で、近藤は苦笑した。
「隠さんでもいい。まぁ、あいつはお世辞にも子供好きとは言えんからな。どうせまた、宗次郎にもそっけない態度をとったのだろう」
「……」
 そっけないどころか、侮蔑されたのだ。冷たく突き刺すような言葉を向けられた。
 だが、それをこの優しい恩師に告げることなど、出来なかった。何しろ、彼は近藤の親友なのだ。
 宗次郎は黙ったまま目を伏せた。
 それに、近藤は手を伸ばし、ぽんっと軽く肩を叩いてくれた。
「まぁ、歳のことは気にするな。宗次郎は今のままでよいのだ」
「先生……」
 まるで何もかもわかっているような近藤の言葉に、宗次郎は目を見開いた。
 それに近藤は笑いかけると、道場へと歩み去っていった。
 宗次郎は小さく吐息をもらした。


 近藤の言葉に救われた気がしたのだ。
 歳三に娘のようだと言われてから、こんな弱い身体でよいのかと心のどこかで悩んでいた。
 そんな宗次郎にとって、近藤の言葉は本当に嬉しかった。


「今のままで……いいんだよね」
 そう自分に言い聞かせるようにしてから、宗次郎は踵を返した。とたん、どきりと心の臓が跳ね上がった。
 ちょうど建物の角を曲がってきたところだったのか。
 すらりとした長身の男がこちらへ歩いてくるのを見てしまったのだ。鋭い瞳がこちらを一瞥した。
「……っ」
 宗次郎は思わず後ずさった。そのまま背を向け、走りだそうとする。
 次の瞬間、その細い腕が乱暴に掴まれた。