沖田屋は今日も賑やかだった。
だが、その賑わいも奥の部屋にはあまり届いてこない。
昔ここにいた時、総司が使っていた部屋に褥がのべられてあった。そこに、総司は今ちょこんと座っている。
とは云っても、その片足は投げ出され、その細く白い足には晒しが巻き付けられてあった。なめらかな頬には擦り傷があり、肘にも軟膏が塗られてある。
「総司さん……大丈夫?」
医者を見送ってから部屋に戻ってきたお光は、心配そうに訊ねた。
それに、こくんと頷いた。
「はい。まだ少し痛いけど……たぶん大丈夫です」
「本当に、びっくりしたのよ」
お光は困ったように微笑んだ。彼女にとって唯一の肉親である弟を見つめる。
「だって、店の外で何か騒ぎが起ってるなと思っていたら、店のものが総司さんが怪我したと知らせにくるのだもの」
「ご、ごめんなさい……」
「そんな、総司さんが謝ることじゃないけれど……でも、本当なの? 大八車に轢かれそうになったって」
「たぶん……その、あまり覚えてなくて……」
総司は口ごもってしまった。
あまりに突然の出来事だったため、よく覚えてないのだ。
記憶にあるのは、大八車の大きな車輪。
怒号、悲鳴。
痛みだけ、だった。
そんな状況なので、むろんのこと大八車を引いていた男の顔など見ているはずも、覚えているはずもない。
「まぁ、でも、これぐらいで済んで良かったわ」
ほっとしたように安堵の息をつき、お光は微笑んだ。
「もうすぐ歳三さんも迎えに来るでしょうし、そうしたら皆でお昼を頂いて……あら?」
突然、店の方で起ったざわめきに、お光はふふっと笑った。
「噂をすれば影ね。思ったより早い到着だこと」
だが、早いとか云う程度のものではなかった。足早に廊下をゆく足音が聞こえたかと思うと、案内する小女を押しのけるようにして、歳三が部屋へ飛び込んできたのだ。
「……総司っ!!」
大声で彼の弟の名を叫び、素早く部屋の中を見回した。
歳三の鋭い目が、きょとんとした顔で彼を見あげている小さな姿をとらえる。
とたん、「……え?」と固まった。
「そ、総司……?」
「はい?」
「おまえ……怪我、したんじゃ……」
「うん、怪我しちゃいました」
総司は足に巻いた晒しを指さした。
「ちょっと捻挫?みたいな。二、三日は安静にってことだから、色々兄さんに迷惑かけるけど……」
「いや、そうじゃなくて……」
何故だか、歳三は頭痛がするような顔になった。片手で顔をおおい、まだ訊ねてくる。
「その、大八車に轢かれたと聞いたんだが……」
「違いますよ。轢かれたんじゃなくて、轢かれかけたんです」
「…………」
とたん、歳三は「はぁぁぁぁーっ」とため息つき、畳の上に坐り込んでしまった。それを、総司は「え?」と小首をかしげながら眺めた。
「兄さん?」
「……よかった。本当じゃなくて、よかった……」
「あのう」
「轢かれたら、大怪我してたらどうしようかと……」
そうぶつぶつ呟いていた歳三は、不意に顔をあげた。総司の傍まで来ると、今頃気づいたのか、大きく目を見開いた。
「おまっ…おまえ、顔に怪我してるじゃねぇか!」
「あ、ちょっと擦りむいちゃって……でも、これぐらい大丈夫……」
「大丈夫じゃねぇだろっ! おまえ、そんな怪我して……っ」
激情のあまり声をつまらせた歳三は、総司の細い躯を胸もとに引き寄せた。ぎゅうぎゅう痛いほど抱きしめてくる。
「に、兄さん」
男の逞しい腕で抱きしめられ、総司の顔が真っ赤になった。
頭に血がのぼった兄はぜーんぜん認識してないようだが、この部屋には第三者がいるのだ。それも、先程から至極楽しそうに見物している───
「まぁまぁ、仲が宜しいこと」
その揶揄するような声に、いくら何でも歳三は気がついたようだった。だが、総司のように赤面するようなそんな可愛いことを、この男がするはずもない。
可愛い総司を愛するためなら、どんな事でもへいっちゃらなのだ。
歳三は平然とした様子で、お光の方をふり返った。まだ総司の躯を腕に抱いたまま、にっこり綺麗な顔で笑いかけた。
「お光さん、この度は総司が大変世話になりました」
「自分の弟のことですもの、当然ですわ」
そう云ってから、お光はくすっと笑った。
ちょっと言葉につまってしまった歳三に、意趣返しした気分になったのだ。
何しろ、総司はお光にとっても可愛い可愛い弟だ。それを奪って日頃独り占めしまくってるのは、この男だった。
わかってはいるが、目の前でいちゃつかれれば、少しは意地悪もしたくなるではないか。
「……歳三さん、ちょっと宜しいかしら?」
お光はお昼の支度を云いつけるついでに、総司がいる部屋から歳三を連れ出した。廊下の隅まで行ってから、ふっと声を低めた。
「今度のこと、お磯ちゃんからよくよく話を聞いた方がいいと思いますわ」
「? どういう事ですか」
「単なる事故ではない……という事です」
お光の言葉に、歳三の切れ長の目がすうっと細められた。
「それは……故意に、総司を狙ったと……?」
「もしかすると、です。わたしがお磯ちゃんから状況を聞いて、思ったことですけれど」
「わかりました」
歳三の声が低くなった。
見れば、その黒い瞳は冷ややかに底光りしている。
総司が故意に傷つけられたとなれば、到底それを許せるはずもないのだ。
ましてや、この世の誰よりも総司を溺愛しているこの男にすれば───
(……火をつけてしまったかしら)
お光は、一瞬、この男の中で息を殺している獰猛な獣を見た気がしたが、それも詮無いことだと小さく苦笑した……。
家へ帰った歳三と総司のもとへ、お磯と話を聞きつけた斉藤がさっそくやって来た。
お光がもたせてくれた座布団の上にぽんっと足を置き、総司は坐っている。
あれこれさんざん世話をやいてから、ようやくその隣に腰を下ろした歳三は、切れの長い目をまっすぐお磯に向けた。
「……で? お光さんには何て話したんだ」
それに、お磯は小首をかしげた。
「お光さんから聞いてないの?」
「聞いたさ。あれが事故じゃなく、故意だろうという事をな」
「見てて、そうじゃないかなと思ったのよ」
お磯はため息をつき、ちらりと総司の方を見やった。
「あたしがふり返った時、その大八車は角を曲がろうとしてて……でも、急にこっちへ車を寄せてきたのよ。まるで、わざとみたいにね」
「角を曲がるためじゃないのか?」
「それにしても、店の角にあてんばかりだったわ。というより、総ちゃんを車輪にひっかけようとしたとしか……あたしには見えなかったのよ」
「けど、いったい誰がそんな事を……」
斉藤が不愉快そうに顔をしかめ、呟いた。それに、総司がおずおずと云った。
「あのね、逃げちゃったんだって。大八車放り出して……」
「そう、その大八車もね、盗品だったらしいわ」
「盗品?」
歳三の目がきらりと光った。
「じゃあ、何か、そいつはわざわざ総司を轢くために、大八車を盗み出したって訳なのか」
「としか思えませんね。であっても、もちろんその理由は全くわかりませんが」
肩をすくめた斉藤に、歳三は唇をきつく噛みしめた。その横顔を、総司は心配そうに見やっている。
きっと、ここまで心配をかけてしまった自分が、悲しく辛いのだろう。
兄の手をわずらわせた事で、総司は今、小さな胸をちくちく痛ませている。
(そんな、総ちゃんが気にすることじゃないのにね)
苦笑するように思いながら、お磯は立ち上がった。いつまでもここにいても仕方ないし、店の手伝いもしなければならないのだ。
「大事にするのよ」
そう云いおいて出ていったお磯を見送り、総司は小さくため息をついた。
不安と、怖さと、訳のわからなさと。
そんなものが頭の中で一緒になって、総司の心に重くのしかかってくる。
俯いてしまった総司を眺めやりながら、斉藤が云った。
「しかし……物騒な世の中ですね。ここのところ、この界隈は事件つづきだ」
「事件?」
訝しげに問いかけた歳三に、斉藤は頷いた。
「あぁ、土方さんの耳にはまだ入ってませんか。この先の……ほら、小さな漬け物屋があるでしょう?」
「漬け物屋……あぁ、木野屋さんか」
「えぇ、今朝、そこのご主人が殺されているのが見つかったんですよ。包丁か何かで刺し殺されていたらしくて」
「下手人は見つかったのか?」
「いえ、まだ。木野屋さん、一人暮らしでしたし、昨夜やられたみたいでしたしね。何しろ、あの雨です。物音なんか聞こえませんよ。けど……そんな事されるような人じゃなかったんですけどね」
そう答えた斉藤は、不意に、総司の様子がおかしいことに気がついた。
いつのまにか、その可愛らしい小さな顔は真っ青になり、膝に置かれた手も小さく震えているのだ。
「……総司?」
歳三もすぐさまそれに気がついたようだった。
総司の手をとると、優しくその瞳を覗き込んだ。
「どうした? 気分が悪くなってきたのか?」
「……っ……」
「? え?」
「……ど…うしよ、う……」
小さな小さな声が、桜色の唇からもれた。
首をかしげた歳三の前で、総司はぱっと顔をあげた。大きな瞳を見開き、なめらかな頬を青ざめさせている。
ただならぬ様子に、歳三は眉を顰めた。
「いったい、どうしたと云うんだ?」
「わ、私……見た、見たの」
「何を」
「木野屋さんを……殺した、人」
「!」
信じられぬ言葉に、歳三と斉藤は絶句した。唖然としたまま、総司を凝視している。
そんな二人の前で、総司は上ずった声で言葉をつづけた。
「き、昨日、兄さんを迎えに行った時……木野屋さんの前で、人とぶつかったの! 男の人で、その人、転んだ私に手をのばしてきて、何だか凄く怖くて……でも、兄さんがちょうど来たから逃げていって……」
「あの時か!」
「うん……。だけど、兄さんと一緒に帰る時……ずっと見られてる気がしてた。だから……」
「だから? だから、狙われたって云うのか!?」
そう叫んでから、歳三は「あぁ……畜生っ」と呻き、前髪をくしゃっと片手でかきあげた。
まさか、そんな事だとは思いもしなかったのだ。
昨夜も、ずぶ濡れになった総司を連れて帰る事しか頭になく、周囲の事に気を配る余裕など全くなかった。
その下手人の視線にも、普段の鋭敏な彼ならすぐさま気づいて対処できただろうに。
総司の事となると頭に血がのぼり周囲が見えなくなるのは、我ながら悪い癖だとつくづく思った。
「……しかし、歳三さん」
突然、考え込んでいた斉藤が呼びかけた。顔をあげた歳三と総司を鳶色の瞳でまっすぐ見据える。
「事はとんでもない方向に行ってるのではありませんか?」
「……」
「つまり、下手人は、大八車で総司を轢いて怪我させるつもりではなく、殺めるつもりだったという訳で」
「……」
「なら、目撃者たる総司を消すため、また手を下してくるかもしれませんよ。今度はどんな手でくるかわかりませんが……」
「冗談じゃねぇよっ!」
いきなり、バンッと歳三は掌で床を叩いた。もの凄い音が鳴り、傍らの総司がびくんっと身を竦み上がらせる。
いきり立った歳三はそれに気づく事なく、叫んだ。
「そんな事許すものか! 総司は絶対に俺が守ってみせる、下手人もこの手でとらえてやるっ」
「歳三さん、オレたちはもう侍じゃないし、ましてや与力でもないんですよ」
「だから、何だ! 俺が総司を守る事や、そいつをひっつかまえる事に、理由や建前なんざいらねぇよっ」
そう云い切ると、歳三は立ち上がった。きつく唇を引き結んだまま、足早に部屋を出ていってしまう。
やがて、土間の方で音が鳴り、戸が閉められる気配がした。おそらく、何らかの方策のため家を出ていってしまったのだろう。
それを感じとったとたん、総司の大きな瞳が不安そうに揺れた。
「……兄さん、大丈夫かな」
小さな声がそっと呟いた。
「怪我、しなきゃいいんだけど……」
「あの人がそんなへまをするものか」
「でも……」
細い指さきがきゅっと着物の端を握りしめた。なめらかな頬に長い睫毛が翳りを落とす。
まるで、一枚の絵のように美しく、可憐な姿だ。
だが、その大きな瞳は、兄への気遣いと不安でいっぱいで。
弟を怪我させた相手に逆上して家を飛び出した歳三も歳三なら、この怪我した自分自身のことより兄の心配ばかりしている総司も総司で。
どこまでいっても、何があっても。
互いのことしか全く目に入ってないも同然の恋人たちに、斉藤は思わず苦笑したのだった……。
茜色に染まりつつある空の下、神社の境内で子供たちが走り回って遊んでいた。
歓声をあげ、鬼ごっこに興じているらしい。
それに一瞥をむける事もなく、歳三は足早に横切った。今日は早めに仕事を切り上げ、総司のもとへ帰る最中なのだ。
神社の境内を抜け、小さな家屋の傍を通り過ぎた時だった。
「……?」
誰かに呼ばれた気がして、歳三はふり返った。訝しげに眇められた目が、ふと物陰に立つ男へ向けられる。
とたん、鋭く誰何するようだった瞳の色が和らげられた。
「……山崎か」
「ご無沙汰しております」
出てきたのは、どこから見ても与力姿の男だった。
実際、この山崎は南町奉行の与力なのだが、ある事件で歳三に助けられたのを切っ掛けに、彼に従うようになっていた。むろん、歳三の身分もしがらみもすべて知っている。
調べ物をさせたら右に出る者はいない──というこの男が、自分から探り出してしまったのだ。それを知った時、歳三はただ苦笑いするばかりだったのだが。
「先日の件、ご報告にあがりました」
丁寧な口調で、山崎は云った。
それに、歳三は頷いた。あれからすぐ、歳三は山崎に連絡を取り、木野屋殺しについてわかった事を教えて欲しいと頼んでおいたのだ。
山崎は淡々とした口調で云った。
「木野屋の遺体が見つけられた時、店の金どころか、木野屋が貯め込み床下に隠しておいた金もすべて消え失せていたそうです。おそらく、下手人が盗んでいったと思われます」
「なら、ゆきずりの強盗か」
「確かにそう見られるよう細工してありましたが、ただ、少し気になる点もありまして」
そう云ってから、山崎はちらりと歳三の顔を見た。
それに気づいた歳三が眉を顰める。
「何だ」
「いえ、その下手人の事について……総司さんは、何か云われてませんでしたか?」
「若い男で、体格は……大きかったそうだ。けど、何しろ転んで見あげてるんだ、大きくも見えるさ」
「顔は見ればわかるのですね」
「あぁ。けど、何しろ暗がりだからな、細かくは……」
きつく唇を噛みしめてしまった歳三に、山崎は云った。
「実は、一人……目星をつけてあるのが、いるのです」
「目星?」
「えぇ。ほとんど身よりもない木野屋ですが、彼には一人甥がありまして。これがまた放蕩もので、しょっちゅう木野屋に金をせびりにきていたとか」
「しかし……なら、逆におかしくねぇか?」
歳三は僅かに小首をかしげた。
「その甥にとって、木野屋は金づるだろう? それをやっちまったら、自分が困るだけじゃねぇのか」
「おそらく、もう金はやらんと追い返されたのではないかと。それで逆上して……」
「まぁ、ありえる話だな」
ため息をついてから、歳三は切れの長い目でまっすぐ山崎を見据えた。
「で? 山崎、おまえが云いたい事はもっと他にあるだろう」
「はい」
「つまりは、総司にそいつを面通しさせるつもりか」
「お願いしようと思っております」
そう云って、山崎が頭を下げた時だった。
不意に、傍らから声があがった。
「おれは反対です!」
二人がふり返ると、いつから聞いていたのか、斉藤がそこに立っていた。
鳶色の瞳に、決意を滾らせている。
「絶対に反対です。もし総司が逆に見られたらどうするのです」
「……斉藤」
眉を顰めた歳三に、斉藤は言いつのった。
「相手は下手人かもしれないのでしょう? なら、そんな危険なこと総司にさせられるはずがない。ただでさえ、足を怪我しているんですよ。もしもこれ以上何かあったら……」
「だが、このままでは、総司は狙われつづける」
低い声で、歳三は断言した。腕を組み、僅かに目を伏せる。
「俺だってそんな事させたくねぇが……けど、これ以上、総司が傷つくのは御免だ。いや、それどころかあいつは命を狙われいるんだぞ。このまま引っ込んで大人しく息ひそめていられる訳ねぇだろうが」
「そんな事は云いませんよ。でも、もし……その甥が違ったら? その男を確かめに行った事で、総司の身にまた危険がふりかかったら?」
「斉藤さん」
落ち着いた声で、山崎が傍らから口をはさんだ。
鋭い視線をむけた斉藤に一礼してから、静かに云った。
「ご心配はわかりますが、このままでは埒があかないのです。一度しくじった以上、あっちもかなり焦っているはず。近いうちに必ず二度目の襲撃が行われるでしょう」
「……」
「そうなってからは遅い。ですから、ここは先手を打たなければどうにもならないのです。総司さんの身は我々が責任をもって守ります」
斉藤はきつく唇を噛みしめ、歳三の方を見やった。
歳三もかなり迷いはあるらしく、その黒い瞳に躊躇いの色が濃い。だが、それでも山崎の言葉に偽りも誇張もなく、事は急を要していた。
総司が実際、その下手人の顔を見たのなら、危険であっても面通しさせることが一番なのだ。
「……」
歳三は固く瞼を閉ざすと、重いため息をもらした……。
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