だい好きだから
何があっても
どんなあなたでも

だい好きだから

それは
天に輝くお星さまのように











「……どうしよう」
 総司は困ったように呟いた。
 縁側の外に見える空は、もう真っ暗だ。だが、兄である歳三はまだ帰ってこない。
 しかも、困った事に、つい先程から雨がざぁざぁ降り出してしまったのだ。朝方はとてもよいお天気だったので、むろんの事、歳三は傘など持って出ていないだろう。
 迎えに行きたい。
 でも、迎えに行ったら叱られる。
 総司の頭の中を、その二つの言葉がぐるぐる回った。
 この可愛い可愛い弟を溺愛している兄は、とくによく云い聞かせていたのだ。


 何があっても、どんな事があっても。
 おてんとさまが沈んじまったら、絶対絶対外へ出るな。
 ──と。


 江戸ご城下であるからこそなのか、昼間は賑わいを見せる町も、夜になれば一気に物騒になる。
 いつ何が起るかわからないのだ。
 そんな中の総司の夜歩きなど、歳三にすれば、想像するだけでさーっと血の気がひく思いだった。
 だからこそ、何度もしつこいほど云い聞かせたのだ。
 どんな事があっても、夜に出歩くなと。

(……でも)

 総司はぷるんとした桜色の唇を、きゅっと噛みしめた。
 大きな瞳がじんわり涙をうかべ、雨空を見あげる。

(でも、兄さんが心配なんだもの……雨に濡れたら、兄さんが風邪ひいちゃう)

 あの兄の事だから、きっとそんな柔な俺かと笑い飛ばすだろうが、総司はもう心配で心配でたまらなかった。
 先程から、土間の中をうろうろし続けているのだ。
「!」
 物音にはっとしてふり返ると、雨脚がより強くなっていた。
 それに、総司は両手をぐっと握りしめた。
「やっぱり、迎えに行かなくちゃ! 待ってて、兄さん」
 歳三が聞けば、「来るな、冗談じゃねぇっ」と血相をかえて怒鳴りそうだが、そんな事とはつゆ知らず総司はいそいそと用意を調えた。
 とは云っても、明かりを消してから、傘を取り出しただけなのだが。
 歳三の傘を小脇にかかえて提灯を下げると、総司は夜の雨の中へ勇ましく歩き出していった。








 雨はなかなか止まなかった。
 夜の江戸の町に、雨はしとしと降りつづける。
 その中を、総司は無謀にも一人で歩いていた。すれ違う者はない。
 道半分まで来たかな?と思った。
 その時だった。
「!?」
 突然、角から一人の男が飛び出してきたのだ。
 あっと声をあげた瞬間、思いっきり突き飛ばされる。
 総司はよろめき、地面に尻餅をついてしまった。握りしめていた提灯が落ちてしまい、ぼっと炎が地面に燃え上がる。
 とたん、辺りが明るく照らされた。
 思わず見あげた総司と、その男の目があう。
「……っ」
 ぎらぎらと殺気だった男の目に、総司は息を呑んだ。
 雨の中、男がこちらに手をのばすのを感じ、尚更体中が竦みあがる。

(やだ! に、兄さん……っ!)

 悲鳴のような声をあげたと思ったが、恐怖のあまり声さえ出ていなかったようだ。
 不意に、男が手を引いた。人がくる気配に気づき、背を向けたのだ。泥を跳ね上げ、もの凄い勢いで走り去ってゆく。
「……ぁ」
 それを、総司は呆然と見送っていた。
 いったい何が起ったのか、わからない。降りしきる雨が総司の髪も着物も濡らし、視界が霞む程だった。慌てて、ごしごしと両手で目をこする。
 とたん、傍から声をかけられた。
「おいッ!」
 突然、ぐいっと腕を掴まれ、「ひっ」と悲鳴をあげる。
 さっきの男の仲間かと思った総司は、慌てて逃げようとした。だが、その小さな細い躯が男の逞しい腕に、すくうように抱きすくめられる。
「おまえ、何やってんだ……っ」
「!」
 その声に、大きく目を見開いた。
 慌てて見あげれば、傍らに跪いているのは紛れもない──歳三だったのだ。
 切れの長い目の眦をきっとつりあげ、怒りをその黒い瞳にうかべていたが、それでも。
 だい好きなだい好きな、兄だ。
「に、兄さん……っ!」
 総司は思わず両手をのばすと、彼の胸もとに飛び込んだ。広い背に手をまわして抱きつき、その胸もとに頭を擦りつける。
「兄さん、兄さん……っ」
「総司?」
 歳三は訝しげに、総司の顔を覗き込んだ。
 冷たい濡れた手のひらが、頬を優しく包み込む。
「おまえ、どうしたんだ! いったい何があった」
「……こ、転んじゃって……っ」
「そりゃ見ればわかるが、けど……おまえ、びしょ濡れだ」
「兄さんも……」
 そう答えた総司に、歳三は苦笑した。濡れて額にはりついた前髪を、煩わしげに片手でかきあげる。
「仕方ねぇだろ。雨ん中、走ってきたんだから……そしたら、おまえがこんな処で転んでいるし」
「だって……」
「俺を迎えに来てくれたんだろ。そのおまえの優しさは、とても嬉しいよ」
 そう云ってから、歳三はちょっと真面目な顔になった。瞳を覗き込まれる。
「むろん、夜に出歩いた事は後でしっかり叱るけどな」
「ご、ごめんなさい……」
「とにかく今は帰って風呂に入ろう。このままじゃ風邪をひいちまう」
 そう云った歳三は転がっていた傘を拾い上げると、それを小脇に抱え、一方の腕で総司の小柄な躯をひょいっと担ぎあげた。
「きゃあ!」
 慌てて両手で彼の逞しい肩にしがみついた弟に、歳三は声をたてて笑った。
「ほら、しっかり捕まってろよ。一気に家まで走るからな」
「は、はいっ」
 ばしゃばしゃと音をたてて、歳三は総司を抱えたまま走った。
 兄の腕はあたたかく、そして誰よりも力強い。
 その事に安堵の息をもらしながら、僅かにふり返った総司はかるく息をつめた。
 雨の中、先程の場所からどんどん遠ざかってゆく。
 だが。
 その闇の向こうで。
 誰かが、自分を睨めつけている気がしたのだ。
 むろん気のせいだったのかもしれないが、でも……。

(……何だか、怖い……)

 総司はぶるっと身震いすると、兄の肩により強くしがみついた。








「総ちゃん、お買い物に行きましょ♪」
 翌日、晴れ渡った青空だった。
 せっせと洗濯物を干していた総司のもとへ、朝からお磯がやってきた。
 前々から約束していた、お買い物の約束だった。というより、色んな可愛い小物を見て、おいしい甘いものを食べるのだ。
 それに、総司は最後の洗濯物をぱんぱんっと広げてから、「はぁい」と返事した。
 ちゃっちゃっと家の中を片付け着替えたら、さっそくお出かけだ。もちろん、歳三はお仕事のため留守なのだが、その兄のために総司はちゃんとお土産も買って帰ろうと思っていた。
 実を云うと、前々から歳三に使って欲しいものがあるのだ。
「扇子なんかいいなぁ……と思うんだけど」
 総司の言葉に、お磯はかるく小首をかしげた。
「扇子?」
「うん」
 こっくり頷き、総司はなめらかな頬を薔薇色に染めた。
「あのね、きれいな黒の扇子とか。兄さん、恰好いいからすごく似合うと思うんだ」
 想像してるのか、何なのか。
 恋する男の子はこれだから怖い。というか、危ない。
 往来の真ん中で突っ立ったまま、総司はたちまち遠い目になってしまった。ぼうっと頬を染めながら、うっとり微笑んでいる。
 それに、お磯はますます首をかしげた。
「そうかなぁ」
「……え?」
「別に反対しないけどね」
 お磯はあちこちの店を覗きながら、云った。
「そりゃ似合うだろうとは思うわよ。でも、歳三さんにお上品な扇子って……なんか想像つかなくて」
「……お磯ちゃん……」
「あ、ごめーん。でもね、歳三さんだったら団扇とかじゃない? だいたい、扇子なんかだと「あぁしゃらくせぇっ」って放り出しちゃって、暑かったらその辺りの板とかで、ばったばった扇ぎそうだけど」
「い、板……」
「だって、大工の棟梁だし……あ」
 そう云ったお磯は総司の様子に、はっと気が付いた。慌てて笑ってみせる。
「えーと、違う違う。そ、総ちゃんが買ってきたものなら、扇子でも団扇でも板でも、歳三さんは喜んでくれるわよ!」
 力強く云うお磯に、総司は釈然としないながらも、こくりと頷いた。
 だが、やっぱり納得がいかなくて、あちこちの店を見てまわりつつ、きゅっと唇を噛みしめた。

(……お磯ちゃんが見てる兄さんと、私が見てる兄さんは違うのかなぁ……)

 もしかしたら、自分は兄に理想を求めすぎているのかもしれない……とも思ったのだ。
 もともと武士の出であるからか、歳三の挙措はとても美しくしなやかだ。時には優雅と云ってもよいほどの仕草をする事もあり、そういう時、「あぁ、兄さんって本当にお侍さんなんだなぁ……」としみじみ思うのだ。
 だが、一方で、やはり長い町家暮らしのためか、けっこう乱暴な言葉使いや荒っぽい行動をする事もあって。その落差がまた彼の魅力となっているのだが、総司の小さな胸もどきどきさせているのだが。

 だが、しかし。

 総司にとって、何があっても──たとえ、おてんとさまが西から東へのぼろうが、それでも兄は絶対的なのだ。
 この世の誰よりも恰好よくて、優しくて大人で、きれいな人なのだ。

 様々な苦労をしてきたからか、いつでも冷静沈着に行動できる男。
 幼い総司がびっくりしたり、おろおろしたりしてる時でも、その背を抱いて落ち着かせ、ちゃんと道筋を教えてくれる人。
 それが、総司にとっての兄だった。

 いつのまにか、総司の中で、兄は完璧な男となってしまっていたのだ。そして、それが、恋人となったのだから──尚のことだった。
 尊敬と愛情、恋慕、それらすべてが混じり合い、総司の小さな胸をいっぱいに満たしていた。

 もちろん、時々それが重荷になる瞬間もある。
 容姿端麗は云うまでもなく、頭は切れ行動力もあり性格も明るく優しく、その上武士出身である兄が自分を選んでくれたこと。
 それが不思議で、夢のような気がして、ほんの少し総司の心をきゅっと押すのだ。

 もっと頑張らなくちゃ!
 立派な兄のために、もっとしっかりしなきゃ、と。

 もっとも、第三者であるお磯の目や斉藤あたりから見れば、当然ながら歳三は完璧ではない。
 容姿や頭の切れはともかく、性格的には、実は冷たく容赦ない部分も持っているし、けっこう我侭だし、優しいのは総司にだけだしで、色々問題もあるのだ。
 だが、しかし。

(ほんと、恋は盲目よねぇ……)

 そんな事を思いながら、お磯は後ろで突っ立ったまま何やら考え事に夢中の総司を、ふり返った。
 声をかけようとする。
 だが、次の瞬間、大きく目を見開いた。


「総ちゃんッ!!」
「……え?」


 切り裂くような声が辺りに響いた瞬間、総司は躯に衝撃を覚えた。視界に角を曲がろうとしていた大八車の車輪が映る。
 ふわっと躯が浮いたような感触がしたとたん、もの凄い勢いでドンッと地面に叩きつけられた。
「総ちゃん──ッ!」
 お磯が大声で叫びながら、走り寄ってきた。慌てて抱きおこされる。
 大八車を置き去りし、そのまま逃げ去る男へ飛ぶ怒号。悲鳴。
 頭上に広がる、青い青い空。

(……兄…さん……) 

 意識がどこか遠くで霞んだ。
 だい好きな、ついさっきまで考えていたその人とのことを呼びながら。
 総司は全身を襲う痛みに、ぎゅっと目を閉じた……。








「平和だねぇ」
 青空に響く、とんかちの音。
 もうほとんど組み上がった柱や梁を眺め、原田は呑気そうに欠伸をした。
 歳三が棟梁となってからもう幾つもの案件を手がけてきたが、そのどれも評判はすこぶるいい。何しろ、歳三は自分自身も腕のいい大工だが、それと同時に周囲の人間にも努力と熱心さを要求してくるので、せっせっと働かざるを得ないのだ。
 こんなふうに欠伸などしていたら金槌でも飛んできそうだが、今、歳三は下で図面片手に睨めっこしているし、こちらに背を向けている。少しは休憩してもいいだろうと、原田は晴れ渡った青空を眺めた。
 その時だった。

「歳三さんッ!!」

 とんでもなく上ずった甲高い声が聞こえたかと思うと、転がるように一人の娘が走り込んできた。血相をかえて、歳三に飛びつく。
「お磯じゃねぇか」
 それに歳三は落ち着いた様子でふり返った。
 何があっても、現場で滅多にないが万一事故があっても、歳三はいつも冷静沈着だ。形のよい眉一つ動かさず、的確な指示を出す。
 彼が動かされるのは、可愛い可愛い弟総司のことだけなのだと、周囲の皆はよくわかっていた。
 もっとも、その度合いはあまり理解されていなかったのだが……
「いったい、どうした。何を慌てているんだ」
 そう訊ねた歳三に、お磯は大声で叫んだ。
「総ちゃんが大変なのっ!」
「……え」
「総ちゃんが大八車に轢かれて大怪我して、それで今、お光さんの処に担ぎこまれてて……と、歳三さんッ!?」
 お磯の声が、最後は張り上げられた。
 歳三の顔色がさぁっと変わったかと思うと、物も云わず図面を放り出したのだ。お磯を押しのけるようにして、走り出してゆく。路地へと飛び出した男の端正な横顔は、真っ青だった。
 慌ててふり返った時には、男の姿はもう遙か遠くだ。
 もの凄い勢いで走り去る広い背を呆然と見送ったお磯は、やがて「あちゃ〜」と片手で顔をおおった。
 それに、するすると降りてきた原田が訊ねる。
「総ちゃんが怪我したって?」
「あ……うん。そうなんですけど……」
「えらく歯切れが悪いね」
「歳三さんを早く呼んだ方がいいと思って、あたし、事をものすっごく大げさに云っちゃったの。総ちゃん、大八車に轢かれかけただけだし、怪我もそんなに……」
「あらら、そりゃまずいねぇ」
 くくっと笑った原田は、困った顔をしているお磯を眺めた。が、すぐ、ぽんぽんっと頭をかるく叩いてやる。
「ま、終わりよければ全て良し。逆のことを云うよりはいいさ、あんまり気にしないしない」
 それよりも。
 血相変えて取り乱しまくった歳三の姿を見れたことが、楽しかったし。
 仕事の方がどうなるのか?という、あまり考えたくない状況は、まぁ置いておいて。
「それぐらいの怪我なら、すぐ戻ってくるだろうし。大丈夫大丈夫〜」
 原田はそう云うと、ふわぁとまた欠伸をしたのだった。





 ──もちろん。
 そうは問屋が卸さなかったのである……。














 

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