「……どうして?」
 総司は大きな瞳を見開き、無邪気に訊ねた。
「どうして、駄目なの?」
 その表情は本当に不思議そうで、心底何もわかってないみたいで。
「……」
 天真爛漫な無垢そのものの可愛い弟を見下ろし、その兄であると同時に恋人である歳三は、深い深いため息をつきたくなった。









 事の起こりは、朝。
 総司の一言からだった。
「今日ね、小稲さんのお宿の料理場へ、働きにいきたいのです」
 つまりは、先日までいた穂波へ料理修行に行きたいという事だったのだが、それを聞いた歳三は即座に駄目だと云いきった。
 それだけは絶対に駄目だ──と。
 穂波へ行くということは、つまりは、あの八郎がいる宿へ行くという事なのだ。八郎には小稲という恋人がいるとわかっていたが、それでも、歳三にとってどうにも気にくわない相手だった。
 できる事なら、金輪際、総司とは逢わせたくないのだ。
 それなのに、その小稲の──八郎がいる宿へ、毎日、料理を習うというか働きにいきたいと云いだした可愛い弟を、にこやかに笑って送り出せるほど、歳三は心が広くなかった。
 いや、こと可愛い恋人の事になると、むしろ心がとんでもなく狭くなる。たちまち独占欲、嫉妬剥き出しになってしまう辺りが、まだまだ歳三も若い男である証なのだが。
 それはともかく。
「絶対、駄目だ」
 とりつく島もなく断言した歳三に、総司は目を見開いた。
 不思議そうに、訊ねてくる。
「だから……どうして? どうして駄目なのですか」
「……」
「私、あそこでとても沢山お料理を習って、楽しかったんです。もっともっとお料理上手になりたいし」
「だったら、他で習えばいい」
 歳三は黒髪を片手で煩わしげにかきあげながら、云った。
「俺だって、もう独り立ちするなとか反対しねぇよ。働きに出たいなら、出ても構わない。けど、あそこだけは駄目だ」
「だから、どうして?」
 総司は不思議そうに、訊ねた。
「どうして、小稲さんの宿じゃ駄目なの? あそこなら、小稲さんもいるし、八郎さんだっているから、心配ないでしょう? 全然知らないとこ行くより、兄さんも安心だと思うんだけど……」

(そんなの、安心できるはずがねぇだろうが!)

 歳三は思わず舌打ちしたくなった。
 男の胸奥に渦まく激しい嫉妬心も独占欲も知らぬまま、この可愛い弟はいったい何を云っているのか。
 あの宿だからこそ、心配なのだ。不安なのだ。
 というより、あそこ以外なら何処だって構わないぐらいなのだ。
 だいたい、どうして、総司自身もあそこにそんなに拘るのか。
 そんなにも、あの宿が気にいっているのか?
 つまり、それはとりもなおさず───

(まさか……とは思いてぇが。ほんと冗談じゃねぇよ)

 歳三は冷静でいなければならないという己の胸に云い聞かせつつ、きつく唇を噛みしめた。
 一呼吸おいてから、低い声で訊ねかける。
「……おまえこそ、何であの宿に拘るんだ」
「え?」
 総司は綺麗に澄んだ瞳を見開いた。桜色の唇をわずかに開いて、小首をかしげる。
「何でって……」
「他の料理屋だったらいいって俺も云ってるのに、何で、あの宿に拘りつづけるのか、さっぱりわからねぇよ」
「え、だって」
 総司はにっこりと可愛らしく微笑った。
「あそこには小稲さんも八郎さんもいるから、楽しいんだもの。お料理教えてくれる源さんも優しいし」
「……おまえ」
 歳三は嫌な予感を覚えた。まさかとは思うが、おそるおそる訊ねる。
「八郎って男……好きなのか?」
「はい」
「!」
 何の躊躇いもなく頷いた弟に、歳三は目を見開いた。だが、総司は、兄がとんでもない衝撃を受けている事などまったく気づかぬまま、言葉をつづける。
「やさしいし、とってもいい人です。兄さんとも気があうと思いますよ」
「……あう訳ねぇだろうが」
 苦々しげに呟いた歳三の様子に、総司は何もわかってないようだった。ちょっと小首をかしげてから、彼の腕に細い指さきをからめてくる。
「ね、お願いです。兄さん」
「……」
「穂波へ行ってもいいでしょう?」
「……」
 歳三は黒い瞳で、総司をじっと見下ろした。


 さらさらした絹糸のような髪。こちらを見つめている大きな瞳。
 ふっくらした桜んぼのような唇。
 白いなめらかな肌に、華奢な体つき。
 可愛い可愛い──それこそ、目の中にいれても痛くないほど可愛い、弟。
 この世で一番、いとおしい恋人。
 無邪気で素直で優しくて。
 無垢で、天真爛漫で。
 ……だが、しかし。


(少しは……男の気持ちを察してくれと思うのは、無理な相談なのか?)

 歳三はため息をつきたくなる気持ちをおさえつつ、ぐっと唇を引き結んだ。
 そして。
「駄目だ」
 きっぱり断言すると、くるりと背をむけたのだった。
 仕事場へと出かけてゆく彼を、総司が落胆しきった声で小さく「……いってらっしゃい」と見送った。
 それに、じくりと胸が痛んだが、どうにも仕方がない。
 どうにも抑えようのない己の独占欲と嫉妬心を持て余しながら、歳三は出かけていく他なかったのだった。










「あら、いらっしゃい」
 暖簾をくぐると、明るい声が呼びかけてくれた。
 すぐさまこちらを見つけた小稲がにこやかな笑顔で、歩みよってきてくれる。
 それに、おずおずと暖簾をくぐった総司は、ほっとしたように微笑んだ。
 むろん、ここは、小稲の宿──穂波だ。
 結局、昼も回って家の用事のあらかたを済ませた総司は、兄の云いつけにもかかわらず、ここへ来てしまったのだ。
 あれだけ反対されても、来たくてたまらなかった。だい好きな兄に逆らうことはとても辛いのだが、それでも、総司はここへ来ることがとても楽しみだったのだ。
 料理を教えてもらって腕を磨くことは勿論、さっぱりした小稲や、いつもあたたかく迎えてくれる八郎と逢って言葉をかわすことが、総司は楽しくて仕方がない。
 まだまだ世間知らずであり、また、歳三自身が囲いこむようにして育ててきた事もあって、総司には心の内まで吐露できるほど親しい相手はあまりいなかった。
 親しい相手といえば、兄の歳三と斉藤、お磯、姉のお光ぐらいという総司にとって、小稲と八郎は新しい世界を目の前に開かせてくれるのだ。
 二人がかわずぽんぽんとした会話も、口喧嘩も、傍で見ていると楽しいし、さすがに八郎は絵師だけあって様々な面白い事を知っている。小稲も宿の女将だけあってとても忙しいが、時々話してくれるお客の話はまた興味深い。
 料理場の寡黙な井上も、宿の手伝いたちも皆優しく、総司にはとても居心地のよい場所だった。
「源さんがお待ちかねよ」
 くすくす笑いながら、小稲が悪戯っぽく云った。
「総ちゃんが来てくれたら助かるのにとか、もっと張り合いでるのにとか、毎日ぶつぶつ云っちゃって」
「え、ほんとですか」
「早く行ってあげてちょうだいな」
「はい!
 総司は元気よく返事をすると、料理場へ駆けだした。
 行ってみると、井上はいつものように黙然と迎えたが、それでも、総司用の包丁やまな板がちゃんと用意されているあたり、井上なりの気遣いが伺える。
 それに嬉しさを覚えながら、総司はさっそく料理に取りかかった。二人でやると手早く、井上も機嫌よく手仕事をつづけてゆく。
 一段落したところへ、ひょいっと八郎が顔を覗かせた。
「何だ、来てたのかい」
「あ、はい」
 総司はにこっと可愛い笑顔をむけた。それに、八郎が苦笑しながら、白い額を指ではじく。
「そんな笑顔、あんまり見せるんじゃねぇよ」
「え?」
「あの男前の兄さんに、こっちが殺されちまうぜ」
「に、兄さんって……」
 もごもご口ごもってしまった総司を可笑しそうに眺め、八郎は訊ねた。
「で、今日はその兄さんの許しを得て、来たんだろうね」
「……」
「沈黙って事は、無断でか。また一悶着になるぜ?」
 押し黙ってしまった総司に、八郎は仕方ねぇなという顔で笑った。それに小稲が通りかかり、声をかけてくる。
「おいしいお饅頭が手に入ったのよ、皆で食べない?」
「そりゃいいな」
 八郎は頷き、総司の頭をぽんぽんと手のひらで軽く叩いた。
「ほら、総司も食べようぜ。もう野暮な事は聞きゃしねぇから」
「……はい」
 ほっとしたように頷いた総司を眺めながら、八郎は

(……そうは云っても、一悶着おこらねぇはずがないって)

 そんな事を思いながら、苦笑した。










 帰りは八郎に送ってもらった。
 久しぶりに楽しい一時をすごした総司は頬を上気させ、瞳もきらきら輝いている。
 その様はとても可愛らしく綺麗で、道ゆく人々のほとんどがふり返っていた。それらの事から、あの兄の気苦労が忍ばれ、八郎は思わず苦笑した。
「とても今日は楽しかったです」
 総司はうきうきした口調で云った。
「新しいお料理を源さんに教えてもらったし」
「らしいね」
「それに、たくさん小稲さんとも話せたし」
「じゃあ、オレとは?」
 悪戯っぽく笑いかけた八郎に、総司は頬を紅潮させた。長い睫毛が戸惑ったように瞬く。
「え…と、あの、八郎さんとお話しするのも楽しいですけど、でも」
「あの兄さんが怒るかな」
「たぶん……でも」
 総司はちょっと小首をかしげた。
「どうしてだかよくわからないんですよね」
「何が」
「どうして小稲さんの処へ行ったら駄目だって、云うのか。他のお料理屋ならいいけど、あそこだけは駄目って……」
「……」
 八郎はちょっと呆れたような顔で、総司を眺めた。
 だが、別にわからぬふりをしている訳でもないようで、本気で云っているらしい。
「あの兄さんも大変だね」
「? 何故ですか」
「んー、オレの口からは何とも云えねぇよ」
 そう云ってから、八郎は周囲を見回した。立ち止まり、ぽんっと総司の背を掌で叩く。
「ほら、お見送りはここまでだ」
「あ……すみません。こんな処まで」
「いや、ほんとは家の前まで送りたいけど、おっかねぇからね」
「え、でも。兄さん、まだ帰ってないから大丈夫だと思いますけど?」
 そう云った総司の可憐な顔を、八郎はまじまじと見つめた。

 彼と兄が会えば一悶着あると──そこまでわかっていながら、どうして、歳三の煩悶は理解できてないのだろう?

 まったく謎だと、八郎は思った。
「じゃあ、また」
「はい、今日はありがとうございました」
 そんな八郎の謎にもまったく気づかず、総司はぺこりと頭を下げた。そのままくるりと背をむけると、ぱたぱたと走り去ってゆく。
 夕暮れの中、遠ざかる総司の小さな背を見送り、八郎はちょっとため息をついた。










「……あ」
 家の前まで来たとたん、総司は小さく声をあげた。
 思わず息を呑んでしまう。
 淡い茜色の光景の中、家のすぐ前に、若い男が佇んでいたのだ。
 かるく胸の前で腕を組み、門代りの樹木に背を凭せかけている。すらりとした長身に纏った職人の黒い着物はよく似合い、だが、そのことで彼が帰宅して着替えもせず総司を待っていたという事がよくわかった。
 おずおずと歩みよってゆくと、歳三がふり返った。その黒い瞳がまっすぐ射抜くように、総司を見つめてくる。
「……」
 黙ったまま兄の前で佇んだ総司を、歳三は静かに見下ろした。切れの長い目が鋭く底光りし、形のよい唇もきっと引き結ばれている。
「……どこへ行っていた」
 押し殺された低い声に、まぎれもない兄の深い怒りを感じとり、総司はびくっと躯をすくませた。思わず着物の端を握りしめてしまう。
 それに、歳三が言葉を重ねた。
「どこへ行っていたと、聞いているんだ」
「……こ、小稲さんの…処へ」
 小さな小さな声で答えたとたん、歳三の黒い瞳がかっと燃えた。
「総司ッ!」
 一喝され、総司は身をより竦ませた。思わず後ずさりかけたが、それをは許されず、男の大きな手が少年の細い肩を掴んで乱暴に引き寄せる。
 びっくりして見上げると、歳三は怖いぐらい鋭い瞳で、総司を見据えていた。
「どうして、云いつけを守らなかったんだ!」
「……兄さん……」
「朝、俺は云ったな? 駄目だと。なのに、なぜ云いつけを破ってあそこへ行く。そんなにも、あの八郎って男に逢いたかったのか」
「そうじゃない……そうじゃないけど」
 総司は兄の怒りに怯えながら、必死に云い返した。
「私だって、色んな人とお話したり、お料理習ったりしたいもの。何で、兄さんがあそこへ行くのをとめるのか、全然わからないし」
「料理習いたいなら、他の場所へ行けばいいって云っただろう? 何もあんな遠い処へ行くこたねぇんだ」
「でも、私はあそこがいいの! あそこへ行きたいの!」
「総司!」
 男の手がより強く少年の華奢な躯を引き寄せた。
 大きな瞳で半泣きになりながら見上げると、歳三はどこか切ないような──苦しげな表情でこちらを見つめている。
 だが、その黒い瞳に、獣じみた昏い炎を感じたとたん、総司は(……怖い)と思った。
 兄の中にある雄の部分が酷く剥き出しになった気がして、不意に、たまらなく恐ろしくなったのだ。
「……い、いや。離して」
 総司は身を捩り、兄から逃れようとした。だが、それが彼の激昂を買ったのか。
 歳三は弟の華奢な躯を逞しい腕でさらうように抱きすくめると、そのまま細い顎に手をかけて仰向かせた。
「! い…ゃ…っ」
 抗おうと思った時には、もう唇を重ねられていた。
 深く唇を重ねられ、舌をさし入れられる。震えて逃げる舌を絡められ、いやってほど吸われた。口の中を舐め上げられ、貪られる。
 頭の芯が痺れてしまいそうな、濃厚な口づけだった。必死になって兄の胸もとにしがみつくが、それでも坐り込んでしまいそうだ。
「ぁ…っ、ん……っ」
 角度をかえられるたび、総司の桜色の唇から甘い喘ぎがもれた。いやいやと首をふるが、それでもまた深く唇を重ねられてしまう。
 頭の中がぼうっと霞み、歳三の大きな掌が何度も優しく背を撫でるのを感じた。
「……俺の…総司……」
 甘い囁きが耳をかすめ、首筋や頬にも熱い唇を押しあてられる。
 それに、うっとりと瞼を閉ざしかけた総司は、不意に、はっと目を見開いた。


 このままでは、駄目なのだ。
 いつものように、うやむやにされてしまう。
 兄の腕の中で甘やかされるだけの子どもでは、いたくないのだから。


「いや……っ!」
 大きな声で叫ぶと、それに驚いたのか、歳三の力が嘘のように弱くなった。先程まで男の逞しい腕に抱きしめられ、身動き一つとれなかった総司の躯が自由になる。
「ッ!」
 総司は兄の躯を突き飛ばすようにして、その場から逃げ出した。背をむけ、どこへ行くつもりなのか一目散に走り出してゆく。
「……総司!」
 その背に、歳三の声が飛んだが、それでも総司はふり返らなかった。ふり返ることができなかった。