ある秋晴れの朝だった。
 歳三が仕事へ行ってしばらくすると、また君菊が訪ねてきた。
 彼が留守だと聞いた君菊は残念そうに目を伏せたが、すぐ小さな包みを渡してくれた。
「これ……お菓子なの。総司さん、お菓子が好きだと聞いたから」
「え、でも……いいのですか?」
「勿論。食べてくれた方が嬉しいわ」
 君菊は風呂敷をたたみながら、静かに微笑んだ。
 見るからにとてもしとやかな女性だ。それに、どう見ても何処かのいい家のお嬢さん風だった。それがいったいどうして、大工職人の歳三と知り合ったのだろう。歳三とはやはり恋人なのだろうか。
「あの……」
 帰ろうとする君菊に、総司はおずおずと口を開いた。
 大きな瞳で見上げた。
「不躾だとは思うのですが、その……兄とはどういったご関係なのですか?」
「え?」
「いえ、よくいらっしゃるのに、兄はいつも冷たい態度だし……」
「筒井筒という言葉をご存じ?」
 そう聞かれ、総司は目を瞬かせた。
「えぇ、伊勢物語ですよね。確か……筒井つの井筒にかけしまろがたけすぎにけらしな妹見ざるまに」
「よくご存知ね。寺子屋で教えてもらったの?」
「いえ、私は寺子屋へ行ってません。字も何もかも兄に教えて貰いましたので」
「そう……歳三さんと私はね、その筒井筒の仲なの。伊勢物語そのままにね」
 静かに答えた君菊に、総司は鋭く息を呑んだ。
 伊勢物語では、筒井筒──幼なじみだった二人が、大人になり結ばれるのだ。結婚するのだ。
 なら、この美しい女性が、兄の許婚……!
 しかも、幼い頃から約束された、筒井筒の仲だなんて。
「……っ」
 とたん、総司は胸がまるで刺し貫かれたように痛むのを感じた。それは初め細く僅かなものだったのが、じわじわと重く痛みを増してくる。しまいには呼吸さえ出来なくなってしまい、思わず両手で胸をおさえた。
 その様子に、君菊も気がついた。目を見開く。
「どうしたの? 顔色が真っ青よ……!」
「な、何か急に……っ」
 総司はよろめくようにして土間へ倒れ込んでしまった。とたん、後ろで悲鳴があがった。
 ふり向くと、お磯が抱えていた芋の篭を放り出し、駆け寄ってくるところだった。
「総ちゃん! 総ちゃん……どこが痛いの!?」
 君菊を押しのけ、総司に飛びついてくる。
 慌てふためいて背中をさすり、総司の顔を覗き込んだ。そうしてから、不意にきっとした様子で君菊をふり返った。
「貴女、総ちゃんに何をしたの!?」
「そんな、わたしは何も……」
 驚く君菊の前で、総司は慌ててお磯の手を握りしめた。
「違う、違うよ。君菊さんには何の関係もないんだ」
「じゃあ、いったい……」
「何か急に気分が悪くなっただけだから。でも、もう大丈夫。全然平気になったよ」
 まだ心配そうなお磯に笑いかけてから、総司は君菊の方へ向き直った。ぺこりと頭を下げた。
「すみません、ご迷惑をかけました。兄には来て下さったこと、ちゃんと伝えておきます」
「本当にもう大丈夫……?」
「はい。すみませんでした」
 もう一度頭をさげた総司にそっと微笑みかけてから、君菊は踵を返した。優雅な挙措で戸を閉め、去ってゆく。
 それを見送った総司に、お磯が心配そうに問いかけた。
「本当に大丈夫?」
「うん。元気になったよ」
 総司はふうっと息をついてから、土間を出た。お磯と一緒に芋を拾い始める。
 お磯が訊ねた。
「あの人、よく来てるでしょ? 歳三さんと何か関係あるの?」
「うん……許婚なんだって」
「えっ!」
 お磯は驚いたように目を見開いた。が、すぐにきっと唇を引き結ぶと、地面に転がった芋を拾い上げた。
「そう……なの」
「筒井筒の仲だと聞いて、それでちょっとびっくりして……」
 そう答えたとたん、また胸奥がきゅうっと苦しくなった。だが、それをお磯に気づかれぬよう、総司は篭を抱え上げた。土間へ入りながら、つとめて明るい声で云った。
「兄さんにはもったいないくらい綺麗な人だよね。あんな綺麗な人がいるなら、兄さんも遊ばずさっさと所帯をもてばいいのに」
「……」
「それとも、私に遠慮してるのかな。なら、そんな心配ないのにね。私は兄さんの足手まといになる気なんて、これっぽっちも……」
「総ちゃん」
 不意に、お磯が総司の腕を掴んだ。
 ふり返って見ると、お磯がどこか痛いような表情でじっと総司を見つめていた。
「何?」
「……総ちゃん、泣いてる」
「え……?」
 総司は目を見開いた。
 まるで自分では気づいていなかったのだ。だが、お磯の言葉は本当だった。
 ぽろりと涙がこぼれ、たちまち視界がぼやけてゆく。
 桜色の唇が震えた。
「ど…して……? あれ、変だよね……」
 総司は涙を目にいっぱいためたまま、懸命に笑ってみせた。ごしごしと腕で涙を拭った。
「悲しくなんかないのに、むしろ兄さんのために喜ばなきゃいけないのに……何で涙が出るんだろ……」
「総ちゃん……あたしね」
 お磯は静かな声で云った。
「あたし、子供の頃からずっと総ちゃんと一緒にいたでしょ? まるで姉弟みたいに」
「姉って……私の方が年上だよ」
「うーん、でも、総ちゃんて可愛いから弟としか思えないんだもの。だから、どれだけ親が煩く云っても一緒になる気になれなかったんだけど」
 お磯はくすっと笑ってから、総司の手をそっと握りしめた。
「あたし、もしかすると、総ちゃん自身よりもずっと総ちゃんの事、よくわかってるかもしれない。総ちゃんが気づいてない、本当の気持ちも」
「本当の気持ち……?」
「総ちゃん、素直だけど鈍感だから。歳三さんも遊んでる割には総ちゃんの事になると鈍いしね」
 また悪戯っぽく笑ってから、お磯はどんっと総司の背中を叩いた。痛いよと顔をしかめる総司に構わず、大きな声で云った。
「総ちゃん、頑張れ! 絶対負けてないよ!」
「??? 何のこと?」
「総ちゃんが一番可愛いって、歳三さんにとったら一番だってことよ」
「えぇっ!? そ、そそのこと、どうして知ってるの!?」
 真っ赤な顔で思わず叫んでしまった総司に、え?とお磯は固まった。
 びっくりした顔で覗き込んだ。
「もしかして、歳三さんにそう云われたの?」
「うん、この間。おまえが一番可愛いって」
「なぁんだ〜、歳三さんもやるじゃない。知らん顔でしっかり云う事は云ってるあたり、さっすが天性のたらしよねぇ」
 ふむふむと頷いてから、お磯はにっこり笑った。
「あたしが心配する事なかったか。後は総ちゃん次第、しっかり頑張るのよ」
「だから、頑張るって何を……」
「あ、おっかさんが呼んでる。じゃ、あたし、帰るね」
「え? ちょっと待って……」
 訳がわからない総司を残し、お磯はさっさと去っていった。 
 それを呆然と見送っていた総司は、やがてはぁっとため息をつくと、お磯から貰った里芋を土間の一角に下ろした。
 まだ、先ほどの君菊との会話が棘のように胸奥に刺さっているのは確かだったが、明るいお磯のおかげでかなり気分が晴れた事も確かだった。
「でも、頑張るって何をだろ?」
 不思議そうに小首をかしげながら、部屋へあがってゆく総司はまだ十四才。
 自分が抱いている恋心も、自分自身にむけられる兄の愛の意味も、全く理解できていない幼さだった……。







 事が起こったのはその三日後だった。
 いつものように夕暮れ時、総司は夕飯の支度に忙しく立ち回っていた。
 もうすぐ歳三が帰ってくるはずなのだ。
「えーと、煮物はちょうどいい味だし……うん、これでいいかな」
 総司は満足そうに頷き、菜箸を置いた。
 その時だった。
 家の外で起こった気配に、総司は歳三が帰ってきたのだと思った。大急ぎで手を拭きながら、土間を飛び出した。
「兄さん! お帰りなさ……」
 云いかけた声が途切れた。
 そこにいたのは、全く見知らぬ男たちだったのだ。しかも、侍だ。
 だが、客ではないようだった。
 殺気だった雰囲気を纏い、皆、血走った目で総司を見ていた。きんと空気が張り詰めた気がした。
「……あ……」
 思わず後ずさりかけた総司の腕が、不意にぐいっと掴まれた。そのまま悲鳴をあげかけた処を猿轡され、担ぎあげられる。
「んーッ!」
 総司は暴れたが、とたん、両頬を引っぱたかれた。唇の端が切れ、頭がぼうっと霞んでしまう。
(……いったい、何? 私……どうなるの……?)
 家の前に駕籠が用意されてあるのが見えた。それへ乗せ、どこかへ連れ去るつもりなのだろう。
 総司は恐怖に喘いだ。
(助けて! 兄さん、お願い……助けてっ!)
 心の中で叫ぶが、むろん誰にも聞こえるはずがない。総司は駕籠へ乱暴に押し込まれかけた。
 まさに、その瞬間だった。
「──総司ッ!」
 物凄い怒号が聞こえたかと思うと、突然、総司の傍にいた男が倒れた。大きな石を顔面に投げつけられたのだ。
 あっと思った時にはもう乱闘になっていた。
 歳三が三人の男たちを相手に戦っている。だが、それでも相手は全くの余裕だった。何しろ多勢に無勢であるし、しかも刀を持っているのだ。
(このままじゃ、兄さんがやられちゃう……!)
 そう思った時、上から声がかけられた。
 見上げると、塀の上に斉藤が立ち、何かを歳三に投げ与えるところだった。
「歳三さん……!」
 それに気づいた歳三がふり向きざま、その投げられた刀をしっかり受け止めた。次の瞬間にはもう刀を抜き放ち、男たちめがけ一気に跳躍している。
 そのまま斬り下げた。
 とたん、目の前で真っ赤な鮮血がザァッと飛び散った。だが、それに一瞥もあたえず、歳三は身軽に地へ飛び降りた。
 次の獲物を求め、歳三は血濡れた刀をざっとふるうと、向き直った。
(……兄さん……)
 それは、まるで一匹の美しくも獰猛な獣のようだった。
 黒い瞳がぎらりと残酷に光り、その形のよい唇には紛れもなく愉悦の笑みがうかべられていた。初めて見る兄の姿に、総司はぞっと背筋が寒くなるのを覚えた。
 心底、兄が怖いと思った。
 だが、そうした恐怖を覚えたのは、総司だけではなかった。男たちもだったのだ。
 たちまち、浮き足だった。
「引け……!」
 総司を放り出し、逃げ出そうとした。
 それに、歳三が低い声をかけた。
「待ちな」
 ふり返った男たちに顎をしゃくった。
「そっちの男、連れ帰ってやれ。まだ間にあうだろう」
「……」
 男たちは慌てて怪我人を担ぎあげた。そのまま、走り去ってゆく。
 それを見送る事もせず歳三は刀を納めると、総司の傍にすぐさま駆け寄った。抱きおこし猿轡を外すのももどかしく、その細い躯をぎゅっと胸もとに抱きしめた。
「……総司……っ!」
 呻くような声で呼び、その髪を撫でた。まるで存在を確かめるように、頬を擦り寄せ、細い背がしなるほど強く抱きしめた。
「兄さん……」
 総司はその腕の中、ほっと安堵の吐息をもらした。何が何だかわからなかったが、それでも、もう大丈夫なのだ。こうして兄さんが助けてくれたのだから。
 清潔な木綿の着物ごしに感じる男の体温に、総司はうっとりと目を閉じた。おずおずとその広い背中に両手をまわしかける。
 が、そのとたん、不意に引き離された。
 え?と顔をあげると、歳三が大きく目を見開いて総司の顔を覗き込んでいた。
「兄さん……?」
「おまえ、殴られたのか!?」
「え……あ、はい」
 総司はこくりと頷いた。だが、すぐに後悔した。
 歳三の黒い瞳がぎらりと底光りしたのを見たからだ。先ほどと同じ、獰猛な獣のような表情だった。
「あいつら……全員殺してやればよかった」
「兄さん……」
「ひどく腫れちまってる」
 歳三は眉を顰め、そっと両掌で総司の頬を包みこんだ。ひんやりした兄の手が心地よい。
「痛いか……? 痛いよな。こんな綺麗な可愛い顔に、なんて酷い事を……」
「……兄さんの方が痛そうな顔をしてるよ」
 小さな声で云った総司に、歳三は辛そうに笑った。
「そうかもしれねぇ。俺は自分が傷を負うより、おまえが傷を負うほうが我慢できねぇからな。……いや、とにかく冷やそう」
 歳三は総司の躯を両腕に抱きあげた。斉藤が刀を受け取り、ついてくる。
 井戸端で水をくみ、絞った手ぬぐいで冷やしてくれた。
 その傍から、斉藤が訊ねた。
「大丈夫か? 総司」
「はい……斉藤さんも来てくれてありがとう。おかげで助かりました」
「助けたのは、俺だぜ」
 むすっとした表情で子供のように云った歳三に、総司は小さく笑った。
 それに歳三もほっとしたように笑い、また抱き寄せてくれた。
 あたたかい兄の腕の中で、総司はずっとこうしていられる事だけを、心から願った……。






「事は切迫してると警告したはずです」
 数日後、近くの神社で落ち合ったとたん、斉藤はいきなり鋭い声で云った。
 その鳶色の瞳がまっすぐ歳三を見据えている。
「あなたは甘すぎる。総司をあんな危ない目に晒しても、まだ懲りないのですか」
「……」
「おれは云ったはずです。総司はあなたの弱みになると。あの者たちはおそらく……佐伯の手のものでしょう。総司を人質にとれば、あなたをどうとても出来ると思ったのか」
「何故、そう思う?」
 訊ねた歳三に、斉藤は肩をすくめた。
「芹沢さんはこんな生ぬるいやり方しませんよ。芹沢さんの右腕……新見なら、総司を浚うような回りくどい事をせず、あなたの暗殺を命じるはずです」
「俺の暗殺…ね。この首にそれ程の価値があるとは思わねぇが」
「そう思っているのは、あなただけでしょう」
 鋭い口調で云った斉藤に、土方は形のよい唇の端をつりあげた。
 境内にある杉の幹に背をあずけ、胸の前で腕を組んでいる。そうやって話を聞く男を前に、斉藤は辛辣な口調で言葉をつづけた。
「もっとも、結局は、芹沢さんもあなたを暗殺したりしないでしょうがね。あなたの暗殺は、導火線そのものだ。一気にお家騒動に火がつき、終いにはご公儀に知られてしまう。それだけは芹沢さんも避けたいはずだ。お家騒動の挙げ句、お取りつぶしじゃたまったものではありませんからね。だいたい、佐伯にしてもあなたを殺すつもりだったのか、それとも味方に引き入れるつもりだったのか。だが、このままでは必ず、総司は巻き込まれてしまう。総司が傷ついてから後悔しても遅いのではありませんか」
「……」
「あの家に引っ越して三年です。おれが近藤さんの命令であなたの近くにいるようになったのも、同じ頃だ。あの時から、おれも総司を見てきました。初めは何とも思っていませんでしたが、今じゃ可愛いと思います。あの笑顔を守ってやりたいと。けど、そう一番強く思っているのは、土方さん、あなたじゃないのですか?」
 斉藤の言葉に、しばらくの間、歳三は押し黙っていた。
 その端正な顔だちは冷ややかで、何の感情もうかべていない。黒い瞳には凄味さえ感じさせた。
 やがて、低い声が呟いた。
「つまりは……総司を手放せと云うことか」
「そうです」
 即座に斉藤は頷いた。
 土方はゆっくりと言葉をつづけた。
「あいつをあの沖田屋に返し……俺には帰参しろと云いたいのか」
「その通りです」
 歳三はため息をもらし、片手で僅かに乱れた前髪をかきあげた。
 しなやかな動作で身をおこすと、ゆっくりと境内を歩き出した。しばらく何事かの思考に沈みながら、足をはこんでいる。おそらく、その瞳には周囲の景色など映らず、別のものが映っていたのだろう。
 やがて、立ち止まると、静かな声で呟いた。
「そうだな……それがいいかもしれねぇな」
「……」
 黙って見つめる斉藤の前で、歳三はほろ苦い笑みをうかべた。
「そうすりゃ、総司も大店に引き取られ贅沢させて貰えるし、幸せになれる」
「……」
「そして、この俺も……」
 そう云いかけ、歳三は不意に言葉途切れさせた。きつく唇を噛みしめる。
 俺は──そうだ。
 総司を失った後、俺は……どうするのだろう──?
 愛しい総司をこの手の内から奪われ、いったいどうやって生きてゆけばいいのか。
 何もわからなかった。
 ずっと二人身をよせあい生きてきたのだ。
 貧しくゆとりのない日々だったが、それでも可愛い総司の笑顔があれば幸せだった。
 あの悪夢のような日。両親を暗殺された闇夜。
 斬りかかってくる追っ手をふり払い、総司を背負って必死に逃げた日から、ずっと二人で生きてきたのだ。
 総司のいない生活など考えられなかった。
 だが、今、自分は総司の傍にいてはいけないのだ。
 総司の幸せのために、今の彼ができる唯一のこと。
 それは、ずっと大切に懐に抱きこむようにして育ててきた総司を、外の世界へ逃がしてやる事だけだった……。
「……」
 歳三は一瞬固く目を閉じた。だが、すぐに強い決意をうかべた目で宙を見据えると、踵を返した。
 ゆっくりと歩き出してゆく彼の背で、風が冷たく鳴った。






 買い物から帰ってきた総司は、大きく目を見開いた。
「!」
 家の前に駕籠がとまっていたのだ。
 それは、先日の人さらいを思い起こさせ、無意識のうちに足がすくんだ。が、いつまでもそこに立っている訳にはいかなかった。
 躊躇いがちにだが、おずおずと歩み寄ってゆく。
 すると、駕籠から一人の女性が降り立った。総司に気づくと、小さく微笑んでみせた。
「……総司さん」
「あなたは……」
 総司は戸惑った。
 先日の女性だったのだ。
 あの往来で総司を見つめ、涙をうかべていた女性。あの時もふと思ったのだが、どこか懐かしさを感じさせる女性だった。
 だが、あの時、歳三は彼女が総司に近づく事を酷く怒っていたのだ。
 それを思い出した総司は、知らぬ顔で家に入ろうと思った。歳三の気持ちにできるだけ従いたかったのだ。
「……」
 黙ったままぺこりと頭を下げると、総司はその女性──お光の傍をすり抜けた。とたん、そっと腕にふれられた。
 驚いてふり返った総司に、お光はまた微笑んだ。
「今日は迎えに来たのよ……総司さん」
「え……?」
「あなたのお兄さん……歳三さんから許しを頂いて、すぐに来てしまったわ。だって、待ちきれなかったんですもの」
「ちょっ、ちょっと待って下さい……!」
 総司は慌てて身を捩り、一歩下がった。
 警戒心と怯えにみちた瞳で、じっとお光を見つめた。
「あなた、いったい誰なのです? それに、迎えにっていったい何の事?」
「え? 総司さん、何も聞いて……」
「悪いが、こいつにはまだ話してねぇよ」
 突然、歳三の声が響いた。
 とたん、総司はぱっと顔を輝かせ、歳三に駆け寄った。
「兄さん! 今日は早かったんですね……!」
「総司」
 だが、歳三は抱きつこうとした総司をかるく身をひくことで避けた。それに、総司が両手をのばしたまま、目を見開く。
「兄さん……?」
「悪いが、俺はおまえの兄じゃねぇんだ」
「? いったい何を云ってるの?」
 訊ねる総司に、歳三は冷ややかな表情で顎をしゃくってみせた。
「おまえの肉親は、そこにいる……お光って人だ。おまえの実の姉だ。沖田屋という立派な油問屋のご内儀らしい、おまえはそこの跡取り息子なのさ」
「──」
 総司は歳三の言葉がまったく理解できなかった。
 いったい、何を云っているのか。
 それとも、これはいつもの冗談や軽口なのだろうか。
 だが、見上げた歳三の黒い瞳は見た事もないほど冷たく澄み、その形のよい唇は固く引き結ばれていた。
「兄さん……?」
 総司はゆるゆると首をふった。
「私、何の事かわからない……いったい、何を云っているの?」
「だから」
 歳三は視線をそらし、ため息をついてみせた。さもうんざりした、物わかりの悪い奴だと呆れ果ててしまう──そう、云いたげなため息だった。
「おまえと俺は何の血の繋がりもねぇのさ。おまえはな、俺が家の前で拾った赤子なんだ。捨て子だった。おまえは妾腹の子で、女中だった母親が捨てたんだとよ。だが、その母親も父親も死んだ今、たった一人の肉親を求めて、このお光さんはおまえを連れに来たのさ」
「捨て子って……私のこと? じゃあ、兄さんと私は何の血の繋がりもないの?」
「何度もそう云ってるだろ、物わかりの悪い奴だな」
 吐き捨てるような口調で云うと、歳三は形のよい唇を歪めてみせた。
 そんな笑みをうかべると、端正な顔だちがひどく酷薄な印象を与え、ぞっとするほど冷ややかだった。
「兄さん……」
「わかったら、さっさと行きな。おまえの居場所はここじゃねぇんだよ」
「だって……そんな、兄さん……!」
 総司は思わず両手をのばし、歳三の腕にしがみついた。ぎゅっと抱きつき、一生懸命、大きな瞳で彼を見上げながら叫んだ。
「兄さん、ずっと傍にいてくれるって。一緒にいようって。なのに……っ」
「……」
「私のこと、嫌いになったの? 私のことが邪魔になったの?」
「あぁ、そうさ!」
 不意に叫ぶと、歳三は邪険に総司の手をふり払った。
 刺すような冷たい瞳で、総司をまっすぐ見つめた。その端正な顔には何の表情もうかんでいなかった。
「俺はおまえが邪魔になったのさ、足手まといなんだよ。おまえがいなけりゃ、俺も少しは楽ができるし、好きな女と所帯をもつ事ができるしな」
「好きな……人……」
「子供のお守りなんざ、もう真っ平御免だ」
 どんと突き飛ばし、家の方へ足早に歩き出してゆく。総司はそれを追いかけたが、目の前でぴしゃりと戸を閉められてしまった。
「……兄さん……っ」
 総司は戸に縋りつき、ぽろぽろと涙をこぼした。
 嘘だと思いたかった。
 歳三が云った事は全部、嘘なのだと信じたかった。
 だが、ずっと抱えてきた謎が、そうではない事を告げていた。
 何よりも、自分を冷ややかに見つめた兄の瞳が忘れられなかった。あんな風に見られる日がくるなど、思ってもいなかったのに……。
「……私が…邪魔なんだ。足手まといだったんだ……」
 総司はその場にぺたりと坐りこみ、小さな子供のように泣きじゃくった。
 両手で何度こすっても、涙があふれた。
 そのなめらかな頬を、真珠のような涙がぽろぽろ零れおちた。
「ごめん…ね、ごめんなさい……兄さん、今まで気づかなくて、何も知らないで甘えてばかりで……ごめんなさい……っ」
 嗚咽をあげながら、何度も謝った。
 心からすまないと思った。
 何の血の繋がりもない捨て子だった自分を、今まで育ててくれたのだ。
 もっと早く気づいてここを出るべきだったのに、自分が兄の足手まといになってる事など、わかってもいいはずだったのに。
 兄の優しさに甘えてばかりだった事が申し訳なく、辛かった。
 だが、本当は願ってもいたのだ。
 今この瞬間も、目の前の閉ざされた戸が開き、兄が現れて、いつものように抱きしめてくれることを。抱きしめ、「全部嘘だ。俺はおまえを大事に思っているよ」と、あの優しい声で囁いてくれることを。
 だが、戸は冷たく閉ざされたままだった。恐らく、兄はもうそこにいないのだろう。いつまでも未練がましい総司にあきれ果て、家の奥へ去ってしまったに違いない。
 そう思うと、また涙があふれた。
「……」
 総司の肩に、そっと手が置かれた。
 泣き顔のままふり返ると、お光が身をかがめ覗き込んでいた。優しい瞳で見つめている。
 それに、総司は黙ったまま小さく頷いた。
 他に行く場所などないのだ。これ以上、歳三に迷惑をかける訳にはいかなかった。
 総司はのろのろと立ち上がると、また戸の方へ向き直った。そして、頭を下げ、小さな小さな声で云った。
「兄さん……今まで育ててくれてありがとう。幸せでね……」
 別れの言葉はどうしても云えなかった。
 喉奥が詰まったようになり、口にすることが出来なかったのだ。
 総司はそっと一度だけ家の戸を掌で撫でると、静かに踵を返した。お光とともに歩み去ってゆく。用意された駕籠に乗り込んだ総司は、もう家の方をふり返らなかった。
 そして、すべてを忘れるように、固く目を閉じたのだった……。






 歳三はすべてを聞いていた。
 家の奥へ去ったりなどしていなかった。
 ずっと戸を背にしたまま、総司の泣き声を聞いていたのだ。
 ……たまらなかった。
 苦しくて辛くて、叫びだしそうだった。
 躯中が激しく震え、喉奥から何か熱いものがこみあげた。
 気が狂いそうだった。
 今すぐ飛び出し、思い切り総司を抱きしめてやりたかった。あの小さな細い躯を抱きすくめ、優しく囁いてやりたかった。
 俺はおまえを愛してる、おまえしか望まないんだ──と。
 だが、そうする事はできなかった。してはならない事だった。
 総司の幸せを本当に望むなら───
「兄さん……今まで育ててくれてありがとう。幸せでね……」
 小さな声で、総司がそう告げた時、歳三は思わずふり返っていた。
(……総司……!)
 その瞬間、数々の思い出が走馬燈のようごとく頭をよぎった。
 屋敷の近くに捨てられていた赤子。それを見つけたのは、歳三だった。抱きあげた瞬間、ぱっちりと目を開き、花のように笑った総司が可愛くて可愛くて、思わず抱いたまま屋敷の中へ駆け込んだ。
 両親と総司と共に暮らした、幸せな五年間。
 だが、お家の跡目争いの騒動にまきこまれ、暗殺された両親。
 生き延びるため、幼い総司を背負い逃亡せざるを得なかった十年前。
 追っ手に怯えつつも、必死に生きてきた日々。
 貧しくて、明日の飯に困る日も何度もあって。空腹で泣く総司に、少ない飯を自分の分まで全てやったため倒れてしまった事もあった。
 決して楽な生活ではなかった。次の棟梁とまで目され、この小さな家を構えるまで、文字通り辛酸をなめ尽くしてきたのだ。
 だが、それでも頑張ってこれたのは、すべて総司のためだった。
 可愛い総司がいてくれたから、赤子の時と変わらぬ花のような笑顔がそこにあったから、どんな辛い事も歯を食いしばり堪えてこられたのだ。
 なのに───
「……っ」
 歳三は戸に手をかけ、開きかけた。が、寸前で踏みとどまり、息をつめた。
(……総司)
 去ってゆく気配がした。
 永遠に、歳三の手が届かないところへ。
 幸せになるために。
「……おまえこそ」
 低い声で、歳三はそっと囁いた。
 総司にはもう聞こえないとわかっていながら、云わずにはいられなかった。
「おまえこそ……幸せになれ、総司」
 俺はただ、おまえの幸せだけを願っているから。
 どんなに遠く離れても、いつもおまえの事を───
「……っ……」
 歳三は戸に額を押しつけると、きつく唇を噛みしめた。固く握りしめた拳が震える。
 やがて、微かな低い嗚咽が土間に響いた……。













  

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