「あれ? 総ちゃんは?」
その日は、十がつく日だった。
いつもなら総司が弁当を作って、歳三と一緒に仕事場へやってくる日だ。
だが、歳三は仕事場に一人で現れると、挨拶もそこそこに黙々と仕事を始めた。身軽に上へあがり、釘を打ち込み始める。
それに、原田は小首をかしげた。
「どうした訳? 総ちゃんと喧嘩かい?」
「……あいつは出て行った」
「へ?」
きょとんとする原田に視線を向ける事なく、歳三は淡々とした口調でつづけた。
「あいつは俺の実の弟じゃねぇんだ。総司は沖田屋という油問屋の跡取り息子で……昨日、そこへ帰ったという訳さ」
「という訳って、歳三さん、あんた……」
原田が何か云いかけた時、下から島田が声をかけた。
「歳三さん、棟梁が呼んでますよ!」
「……わかった」
歳三は頷くと、後の仕事を原田にまかせた。敏捷な身ごなしで下へ降り立ち、隣の家へ向かった。実は今度の普請は、棟梁の小島の隣家なのだ。
さすがに江戸でも有名な棟梁の家らしく、なかなか立派な家だ。原田や島田はこの家の一角に部屋を貰い、住まわせてもらっていた。本来なら歳三もそうする処だが、総司がいるため別に家をもったのだ。
「お待たせしました」
歳三が部屋に入ってゆくと、小島は静かに頷いた。
一見すると、大工の棟梁などには見えない。どこかの商家のご隠居のように穏やかな雰囲気をもつ男だった。だが、これでも腕利きで、仕事には妥協を許さぬ頑固者で通っているのだ。
「何のご用でしょうか」
「いや、話とは他でもない」
小島は丁寧な口調で話した。もともと江戸の出ではないので、伝法な喋り方を一切しない。
「そろそろ、おまえに跡をついで貰いたいと思ってな」
「……それは……」
「私も年だ。この年で柱の天辺に上るのは、幾ら何でも辛い。そろそろ、安穏と暮らしたいのだよ」
「ですが、俺でなくても」
歳三は目を伏せた。
「他に幾らでも……」
「私には子がないし、身内も全くない。それはよく知っているだろう。だからこそ、まだ十五だったおまえを見込み、棟梁を継がせたいと様々な事を仕込んできたのだ。おまえなら十分にやれる。その腕は確かなものだ、それは誰もが認める事だろう」
「……棟梁」
しばらく考え込んでいた歳三が、顔をあげた。
その切れ長い目でまっすぐ小島を見つめ、云った。
「一つだけ聞いて頂きたい事があります」
「何だ」
「俺の身の上の事です。おそらく、これを聞かれたら、俺を次の棟梁になどというお考えは変えられるでしょう」
「そんな事はありえないと思うが、まぁ……話してみなさい」
苦笑する小島を前に、歳三は居住まいを正した。
そして、静かな声で云った。
「実は……俺は武家の出です」
「……」
「日野藩主佐藤彦五郎様に仕える者です。いや……仕えていました。俺の姉は彦五郎様の正室ですが、十年前跡目争いがおきました。その時、両親を殺され、俺と総司は逃げてきたのです。だが、今もそのしがらみから逃れる事はできていません」
「……」
小島はゆっくりとため息をついた。
しばらく黙って腕組みしていたが、やがて、僅かな苦笑を口元にうかべた。
「歳三、おまえはまだ若いな」
「……え?」
「私がその事を知らないと思っていたのか。いや、日野藩のお家騒動などは知らん。だが、おまえがお武家の出である事は、ここへ来た時から知っていたよ」
「どう…して……」
目を見開いた歳三を眺め、小島はまた笑った。
「これでも人を見る目だけはあるんだ。おまえの身ごなし、言葉使い、知識、何もかもが町の出でも農村の出でもなかった。どこかいい処のお武家さんの息子だろうと思っていたが、まさか、そんな事情があったとは」
小島はため息をついてから、ちらりと視線をあげた。
「だが、それでも、私はおまえに棟梁を継いでもらいたい。しがらみから逃れられないと云うなら、断ち切ってこればいい。そうした上で、棟梁を継いでくれないか。これは、私からの頼みだ」
「棟梁……」
歳三は胸が熱くなるのを覚えた。
ここまで望まれているとは、思っていなかったのだ。十五の時、駄目もとで働かせてくれと頼み込んだ歳三に、様々な事を教えてくれた。路頭でのたれ死に寸前だった歳三と総司に飯をあたえ、そのかわり将来役にたつようにとしっかり仕事を仕込んでくれたのだ。歳三にとって、小島は恩人だった。
それに、小島の言葉は歳三の胸を打った。
しがらみを断ち切ってこればいい──と。
逃げるばかりでなく、避けるばかりでなく、この手で断ち切ってしまうべきなのだ。
何かを守るためには。
何かをえるためには。
自分の甘さを目の前に晒された気がした。
「……棟梁」
歳三は切れの長い目で小島をまっすぐ見つめた。
「申し訳ありませんが、あと少しだけ待って頂いてもいいですか……?」
「……」
何かを決意したような歳三の瞳に、小島は頷いた。
庭先で、ひらひらと枯れ葉が風に舞っていた……。
沖田屋は、かなり繁盛している大きな油問屋だった。
そこに総司は突然入った事になるのだが、姉夫婦はもちろん店の者たちも皆、あたたかく迎えてくれた。
店の奥にある綺麗な部屋をあたえられ、今まで来ていた粗末な木綿の着物でなく、美しい小袖を纏わされた。だが、総司はその木綿の着物を大切にしまっておいた。捨てる気になど到底なれなかったのだ。
「……ごめんなさいね」
お光は申し訳なさそうに云った。
用意した菓子をすすめながら、総司とよく似た瞳で、じっと弟を見つめた。
「何だか強引に連れてきてしまって……でも、歳三さんから知らせを受けて、もう一日だって待っていられなかったのよ。だって、あなたはわたしのたった一人の肉親ですもの。家族なんですもの」
「家族……」
小さく、総司は呟いた。
家族とは、今まで、総司にとって歳三だった。兄の歳三が総司の世界のすべてであり、あたたかい家族だったのだ。
どんな事があっても守り、優しい笑顔で甘えさせてくれ、あふれるほどの愛情をあたえてくれた兄。
だが、それはもう総司が失ったものだった。
歳三に冷たい瞳を向けられた瞬間、すべては砕け散ってしまったのだ。
「……っ」
また、ぽろりと涙がこぼれた。
貰った菓子を手にしたまま、声もなく泣いた。
恥ずかしいと思うのだが、あの兄の瞳を思い出すたび、胸の奥が鋭く痛んで涙があふれてしまうのだ。
そんな総司を、お光は優しく見守ってくれた。
店の者も、総司に優しくしてくれた。
そのおかげだろうか。
ゆっくりと過ぎてゆく日々の中、総司は少しずつ明るさを取り戻していった。時折、笑顔もうかべられるようになった。むろん、その心の奥には歳三の事が大切に大切にしまわれてあったのだが。
それが兄への思慕なのか、それとも幼い恋心なのか、総司自身にもわからなかったのだが。
そんなある日の事だった。
総司はお光と一緒に芝居見物へ出た帰り、突然、あっと声をあげて立ち止まった。
それに、お光が不思議そうにふり返った。
「総司さん? どうかしたの?」
「あ、えっと……」
総司は頬を紅潮させ、視線をさまよわせた。
「その、さっきの芝居小屋に忘れ物をしてきちゃったんです」
「え? じゃあ、取りに……」
「いえ! 姉さんは先に帰ってて下さい」
慌てて、総司は両手をふってみせた。
「お客さまが来られるのでしょう? 早く帰らないと、お待たせする事になりますよ」
「そう? じゃあ……気をつけてね」
お光はにっこり微笑むと、店の方へ歩み去っていった。それを見送った総司はくるりと向きをかえ、勢いよく駆け出した。但し、行き先は芝居小屋ではなかった。
先ほど、雑踏の中に──兄の姿を見つけたのだ。
やもたてもたまらなかった。
忘れようと思っても、忘れる事など出来るはずもない人だった。
お光に嘘をついたことは罪悪感で胸が痛かったが、それでも、一瞬でもいいから兄と逢いたかった。歳三と逢って、もう一度だけ話したかったのだ。
いったい、何を話せばいいのかは、総司にもわからなかったが……。
「!」
角を曲がった総司は、とたん慌てて立ち止まった。
路地裏の小さな神社。
その境内に、歳三は佇んでいたのだ。だが、彼は一人ではなかった。
傍にいるの───
(……君菊さん……!)
総司の胸をずきりと鋭い棘が突き刺した。だが、それを必死に堪え、物陰から様子をうかがった。
歳三は藍色の小袖を着流し、それはすらりとした長身に見惚れるほど粋で似合っていた。腕を組み、じっと瞑目している。
その前で、君菊は俯きがちに話していた。
「どうしてもいけないのでしょうか……?」
「……」
「私はあなた様の事を諦めるなど、到底できません」
「……駄目だ。いい加減、諦めてくれ」
黒い瞳をあげると、静かな声で歳三は答えた。
「俺は帰参する気など全くない。おまえも俺のことなどさっさと忘れ、どこかいい処へでも嫁いでくれ」
「そんな……っ」
君菊は目に涙をうかべた。美しい顔を傾け、唇を噛みしめる。
それに、歳三も片手をのばした。 優しく君菊の白い手を握りしめてやると、言い聞かせるように話した。
「すまない。俺はおまえに辛い思いばかりさせてきた。だが、あの時の……約束はもう忘れてくれないか。俺の気持ちはおまえにないし、それに、もう武士でもない。死ぬまで町人として生きてゆく男だ。君菊、おまえもまさか、大工職人の女房になどなりたくないだろう」
「わたしは! 歳三さまさえ宜しければ……」
君菊は男の胸に縋りついた。
「どこにでも一緒に参ります。どんな苦労でも、わたしは……」
「無理だ、出来るはずがねぇよ」
不意に伝法な口調になり、歳三は冷たく君菊を引き離した。
「それに、云っただろ? 俺の気持ちはおまえにはねぇと。結局、俺はおまえを幼なじみとしか見れなかった」
「歳三さま……」
「もう二度と俺に会いに来るな。どこかいい処へでも嫁いで、幸せになるんだ」
そう云い捨てると、歳三は踵を返した。ふり向きもせず、さっさと歩き出してゆく。
君菊はその男の背を見送っていたが、やがてその場に蹲ってしまった。両手で顔をおおい、低く啜り泣いている。
それを見て、総司はまるで先日の自分の姿のようだと思った。
歳三に冷たく捨てられた事では、自分もこの君菊も同じなのだ。ただ一つ違うのは───
(きっと……私の時と違って、兄さんは君菊さんを好きだから突き放したんだ。本当に大切に思ってるから、君菊さんに苦労をさせたくなくて……)
そう思うと、君菊が妬ましかった。悔しくて辛くてたまらなかった。
今まで感じたい事もない、どろどろと黒い感情が胸奥を占めるのを感じ、総司は大きく目を見開いた。云い知れぬ不安と怖さに、ぶるっと身を震わせる。
その細い肩に、そっと手が置かれた。
「ッ!」
思わず飛び上がってしまった。きゃっと悲鳴も上げたかもしれない。だが、それはすぐに男の手で塞がれた。
「……っ」
慌ててふり返ると、鳶色の瞳が覗きこんでいた。ほっとして、全身から力が抜け落ちた。
「……斉藤さん」
斉藤は唇に指をあててから、そっと総司をそこから連れ出した。往来まで抜け出てから、訊ねた。
「あんな処で立ち聞きか?」
「え……うん」
「よくないな。ま、それだけ土方さんに会いたいって事だろうけど」
「斉藤さん」
総司は手をのばすと、きゅっと斉藤の袖を掴んだ。斉藤が困ったように目を細めた。
「あのね……聞きたい事があるんだけど」
「そう来ると思ったよ」
「え?」
「今まで、おれに何も聞かなかった方が不思議だ。で、何が聞きたい? と云うまえに、立ち話も何だからな、そこの甘味屋にでも入ろうか」
「えっ、斉藤さん、甘いもの食べれるの?」
「おまえの兄さんよりは食べれるよ。正直、蜜豆なんか結構好きだな」
「うわぁ、意外」
二人は甘味屋に入ると、奥まった場所に席を落ち着けた。さっそく注文した蜜豆を食べながら、話し始める。
「さっき、兄さんは云ってたんだ。もう武士でもないって……兄さんは昔、侍だったの?」
「あぁ、そうだ」
斉藤は淡々とした口調で答えた。匙で餡をすくい、口に運んだ。
その斉藤を、総司はじっと見つめた。
「……それだけ?」
「って、何が」
「だから、他には何か教えてくれないの?」
「聞きたい事があれば聞けばいい。おれは聞かれてない事まで、ぺらぺら喋るような男じゃないよ」
「じゃ、じゃあね」
総司は身を乗り出し、斉藤を大きな瞳で見つめた。
「斉藤さんって、何者? 本当にただの飾り職人なの?」
「飾り職人さ。けど、一方で侍でもある。日野藩に勤める侍だ」
「日野藩……それが兄さんもいたところなの? 兄さんはどうしてそこを出たの?」
「十年前の事だ」
斉藤は声を落とし、ゆっくりと話した。
「日野藩主佐藤彦五郎さまのご正室お信さまが生まれた若君と、側室の方が生まれた若君をめぐって跡目争いが起きたんだ。何しろ、お信さまのご実家はさほど力がなく、側室の方は筆頭家老芹沢鴨の妹君だった。その騒ぎに、当時まだ十四才で、殿の小姓だった土方さんも巻き込まれた」
「どうして……」
「お信さまは、土方さんの実の姉なんだ。そのために、結局、土方さんの両親は暗殺され、挙げ句、土方さんはおまえを背負って逃げる事になった」
「……」
「おまえはまだ五才だったからな、覚えてなくて当然だ。で、土方さんは以後、町人として身を隠しおまえを育ててきたが、一方で日野藩の騒ぎがおさまった訳ではなかった。跡目争いはまだ続いているんだ。そのせいで、芹沢一派の一人である佐伯などは、この間、おまえを人質にとろうとしたしな」
「あれは……そういう事だったの?」
「おまえを人質にとれば、土方さんを何とでも出来ると思ったのだろう。いくら藩を出たとはいえ、ご正室の弟君だ。殿のご信任も厚い。帰参すれば、次席家老近藤さんと並んでかなりの地位に取り立てられるのは目に見えているからな」
「……」
何もかもが思いもかけない話だった。
兄はいつも優しかった。総司にただ一つの不安も与えず、貧しいながらも大切に幸せに育ててくれたのだ。
今更ながら、つくづく思い知らされた。兄はたくさんのしがらみや重い責任、辛い過去を背負っていた。だが、それを幼い弟に全く知らせず、すべて己一人で背負い込み、その力強い腕で総司を包みこむように抱きすくめて、幸せと愛だけをあたえてくれた……。
「兄さん……」
総司はぎゅっと両手を握りしめた。
「私は……どうすればいいの? 兄さん一人に、そんな背負わせてしまっていいの?」
「おまえが巻き込まれる事じゃない」
斉藤は鳶色の瞳で総司を見つめた。ちょっと心配そうに眉を顰めると、手をのばし、ぽんぽんっと総司の手をかるく叩いた。
「おまえがいても、あの人の足手まといになるだけだ。それよりも、今の場所で幸せになれ。それを土方さんも望んでるはずだ」
「……」
総司は長い睫毛を伏せた。
そして、何も云えぬまま、きつく唇を噛みしめたのだった……。
店に戻ると、お光がすぐに出てきた。
「お帰りなさい」
優しい声で云いながらも、心配げだった。それはそうだろう。何しろ、ちょっと忘れ物を取りにいっただけのはずなのに、もう半刻もたってしまっているのだ。
「ごめんなさい……」
奥の部屋へ入ってから、総司は思わず謝っていた。
疲れたでしょう?と気遣い、お茶を出してくれるお光の優しさに、黙っていられなかったのだ。
「ごめんなさい、私、嘘をつきました」
「……」
「忘れ物なんて嘘で……本当は、兄さんに逢いに行ったんです」
お光は静かなまなざしで総司を見つめた。
しばらく端座したまま、じっと押し黙っている。やがて、僅かにため息をつくと、訊ねた。
「それで……歳三さんに逢えた?」
総司はふるふるっと首をふった。
「姿は見れたけど、声をかける事は出来ませんでした。だって……兄さん、君菊さんと一緒だったから……」
「君菊さん?」
「兄さんの好きな人です。一番……大切に思ってる人です」
「あら、だって……」
お光は驚いたように目を見開いた。
「歳三さんの一番は、総司さんでしょう?」
「え?」
「わたし、初めて歳三さんにあなたを返して欲しいと頼みに行った時、もの凄い勢いで怒鳴られたのよ。絶対に渡さない、総司は自分のものだ、一番大切な宝物だと」
「!」
総司は深く息を呑んだ。
お光の言葉を理解した瞬間、かぁぁっと耳柔まで真っ赤になってしまう。
一番大切な宝物だなんて。
本当にそう云ってくれたの?
本当に?
「……で、でも……っ」
総司は俯き、ぎゅっと両手を握り合わせた。
「あの時、兄さんは私が邪魔だって……足手まといだって突き放したのに……」
「総司さんは、あれを歳三さんの本心だと思っているの?」
お光は小首をかしげ、弟によく似た瞳でじっと総司を見つめた。ちょっと困ったように笑った。
「こんな事を云うべきじゃないと思うけど、でもね、あなたが本当に可愛いから、悲しそうなあなたを見てられないから云うわね。歳三さんはとてもあなたを大切にしていたのよ、あなたの事を誰よりも愛していた。だからこそ、あなたを手放したの。あんな嘘をついてまでしてね」
「嘘……」
「これを見てごらんなさい」
お光は隣室の自分の部屋からある物をとってくると、それを総司にさし出した。
一通の文だった。 広げると、とても綺麗に整った字で書かれてある。確かに兄の字だった。いつも手をとり教える時、手本として書いてくれた兄の字だ。
「あなたを迎えに来て欲しいと知らせて来た時、この文を一緒に渡されたの。わたしはそれを見て、とても胸を打たれたわ。どれだけ、歳三さんがあなたを大事に育ててきたか、どれだけ大切に思っているかよくわかったもの」
「……」
総司は視線を落とし、その文を読み始めた。
そこには、今更だが、総司を引き取って欲しいという事。ただ、大事に育て幸せにしてやって欲しい。自分はある騒動の渦中にある身であり、このままでは総司まで巻き添えにしてしまうので、総司の身の安全と幸せのために決断したという事などが、切々と綴られてあった。
兄らしい余計な事ははぶいた、要領を得た文だった。だが、その行間にあふれるのは、総司への深い愛情だった。自分の身よりも命よりも、総司を大切に思っているのだという事が痛いほど伝わってくる文だった。
「兄…さん……っ」
いつのまにか、総司は泣きだしていた。ぽたぽたと涙がこぼれ落ち、文の墨が滲んでゆく。
それを見つめ、お光は静かな声で云った。
「よく考えなさい……総司さん。わたしはたった一人の肉親として引き取ったけれど、でも、何よりもあなたの幸せを願っているのよ。あなたが歳三さんを同じぐらい強く思っているなら、その想いのまま行動しなさい」
「姉さん……」
そう小さく呟いた総司に、お光は微笑んだ。手をのばし、そっと弟の躯を抱きよせた。
「初めて姉さんと呼んでくれたわね。それでいいのよ……わたしはあなたの姉なの。そして、歳三さんはあなたの本当の兄じゃない。あなたは、歳三さんを兄としてただ慕っているだけじゃないのよ。その事にそろそろ気づくべきだわ。歳三さんがどれだけあなたを愛しているのか、よくわかった上でね」
「私が……兄さんを、兄として慕っているだけじゃない……?」
総司は泣き濡れた瞳を見開いた。
「じゃあ、私は兄さんの事を……」
いったい、どう思っているのだろう。
兄でないとしたら、どんな風に?
だが、総司の中でもう答えは出ていた。もしかすると、ずっと前から自分でもわかっていたのかもしれない。
君菊に筒井筒の仲だと聞かされた時の、あの胸の痛み。今日、感じたどす黒い感情。
そして、それ以上に、兄に逢いたい、兄だけしか望まないというこの気持ち。
そう……兄への思慕などではなかった。
歳三を、一人の男として。
この世でただ一人の男として、求め、愛し、恋いこがれているのだ。
「私……兄さんのことが好きだったんだ……」
呆然と、総司は呟いた。
とたん、かぁっと頬が火照り、胸がどきどきした。
歳三の濡れたような黒い瞳。
時々、額や頬に口づけてくれた形のよい唇。
優しく髪を梳いてくれた指さき、ぎゅっと息もとまるほど抱きしめた力強い腕。
そして、誰よりも綺麗で優しいその笑顔───
それらすべてをまざまざと思い出したとたん、かぁっと頬が火照ってしまったのだ。
一人の男として意識したからか、たまらなく恥ずかしかった。
総司は目を閉じると、そっと両手で頬をおさえた。
「……兄さん……」
胸がどきどきして、躯中が熱くて叫び出しそうなほど、歳三に逢いたかった。
恋しくて恋しくてたまらなかった……。
その翌日、総司は家への道を辿っていた。
家と云っても沖田屋ではない。歳三と暮らした家だった。
きちんと自分の気持ちを伝えようと思ったのだ。
確かに足手まといだし、邪魔になると思うが、それでも兄さんの傍にいたいのだと、はっきり告げるつもりだった。
「……?」
だが、その足が不意にとまった。
家の方でただならぬ気配がしたのだ。それが何であるか知った瞬間、総司はぱっと駆けだしていた。
門から飛び込むと、思ったとおりだった。
そこは乱闘になっていた。歳三が血濡れた刀を引っさげ、五人もの男たち相手に戦っている。いくら何でも相手が多すぎた。生憎、斉藤はいないのか、何処にも姿はない。
総司は思わず叫んだ。
「兄さん……!」
それに、はっとしたように歳三がこちらをふり返った。駆け寄ってくる総司に、大きく目を見開いた。
「来るな……っ」
「兄さん!」
だが、総司は彼の言葉を聞かなかった。兄に向かって刀をふりあげた男の前に回り込み、大きく両手を広げたのだ。
もう無我夢中だった。何を考えることもない、本能のままの躯の動きだった。
「総司……ッ!」
次の瞬間、焼けるような熱い感触が胸を襲った。飛び散った鮮血が視界いっぱいに広がる。
獣じみたもの凄い悲鳴が辺りに響いた。
「……総司──ッ!」
斬られ倒れこんだ総司に、歳三が絶叫したのだ。
まるで気が狂ったようだった。血にまみれ倒れ伏した総司を、その両腕に抱えおこす。抱きしめ、何よりも愛しい少年の躯を必死になって撫でさすった。
その時、ちょうど斉藤が走り込んできた。その場の惨状を見ると、あっと声をあげたが、すぐさま刀を抜きはなった。
「……総司! 総司、しっかりしろ……ッ」
背後で激しく斬り合う音が響いていたが、歳三はもう何も聞こえていなかった。その黒い瞳には血にまみれた総司しか映っていない。
男の腕の中で、総司は薄く目を開いた。
次第に暗くなってゆく視界に、歳三の顔が見えた。
この世の誰よりも愛しい男が──……
「……兄さん……す…き……」
「総司!」
「だい…好き、愛して…る……」
「──」
歳三の目が大きく見開かれた。
それに、総司は小さく微笑んでみせた。だが、うまく笑えたのかどうかさえ、わからない。
躯中が重く、何もかもが遠かった。
総司は瞼を閉ざすと、そっと吐息をもらした。
そして、深い深い闇の底へと引きずりこまれていったのだった……。
総司の傷は熱をもち、三日三晩うなされ続けた。
だが、歳三の寝食を忘れた懸命な看護と、お光が差し向けた医者と高価な薬のおかげで、命はとりとめた。
胸に傷が残ってしまったが、歳三にすれば生きていてくれただけで良かった。それだけで涙が出るほど嬉しかった。
もちろん、目が覚めた後も、総司はまだ当分床についてなければならなかった。
そして、その間に事はきちんと片付けられていった。
あの時の乱闘で、先日来の首謀者だった佐伯が斉藤に斬られ死んだこと。むろん、それは表沙汰にされず、公には病死とされた事。黒幕である芹沢と近藤の対立はまだ続いているが、芹沢は歳三を暗殺するほど愚かではないという事。お信の子である若君は無事元服を終えられたという事。
それらはすべて、後日訪ねてきた近藤から聞かされた事だった。
「もう傷の具合はよいのか?」
近藤は部屋に入ってくると、穏やかな瞳で総司を見た。
それに、総司は上半身を起こし、「はい」と頷いた。先日逢ったばかりだが、総司はこの近藤に親しみを覚えていた。いかつい顔をしているが、とても優しく穏やかな目をしているのだ。父性愛とも云うべき包容力をもった男だった。
見舞いだと手渡された土産を開けていると、歳三が部屋に入ってきた。
ちょっと眉を顰めた。
「近藤さん、あまり甘いものばかり持ってこないでくれ。菓子ばかり食ってたら、滋養がつくものが食えなくなっちまう」
「それは済まなかったな」
笑いながら云った近藤に肩をすくめ、歳三は総司の傍に跪いた。折った座布団を背にあてがってやり、額に手をあてて熱がないか確かめている。
「兄さん、仕事は?」
「今日、普請が終わったよ。恐らく、次の仕事の時は俺が棟梁として皆を指図する事になる」
「ほんと!?」
総司は目を輝かせた。喜びに声が弾んだ。
「じゃ、棟梁に決まったんだ。おめでとう、兄さん」
「ありがとう」
優しく微笑んでから、歳三は近藤の方へ向き直った。切れの長い瞳でまっすぐ友である男を見つめた。
「……そういう事だ、近藤さん」
「……」
「俺はもう絶対に帰らない。それだけはわかってくれねぇか」
「……仕方ないな」
近藤は嘆息し、僅かに苦笑した。
「ここで初めておまえの生活を見て、ようやくわかったよ。おまえにはもう今の生活があるのだと。友人や仲間に囲まれ、幸せにやっているのだな」
「悪いが、腹の探り合いや謀略やら何やらは、俺にあってねぇよ。貧しくても、今の生活の方がずっと性にあっている」
「そうか……そうだな。あの頃のおまえはもういないんだな」
どこか淋しげに呟くと、近藤は立ち上がった。部屋を出ていく際、障子に手をかけたままふり返った。
「もし何かあったら知らせてくれ。身分がどうなろうと、おれはおまえの友だ」
「ありがとう、近藤さん」
微笑んだ歳三に頷き、近藤は静かに出て行った。
障子が閉められ、その気配が遠ざかると、総司は小さな声で云った。
「兄さん……」
「何だ」
「本当に良かったの? 兄さんのお姉さんがいるんでしょう……? それに君菊さんの事も……」
「姉上はけっこう強いし、それに殿もおられるさ、君菊はもともと縁が切れていたし、俺は幼なじみとしか思えなかった。先日その事はきっちり云っておいたさ」
総司はそっとため息をついてから、両手で褥を握りしめた。
長い睫毛を伏せる。
「その……兄さん、話があるんだけど」
「あぁ」
「怪我も治ってきたし、そろそろ……店へ帰ろうと思うんだ。姉さんが心配しているだろうし……このままじゃいけないし」
「……」
「明日にでも使いを出して、迎えに来てもらうね。その方が兄さんも……」
そう云いかけた瞬間だった。
不意に総司の肩が掴まれたかと思うと、あっという間に視界が逆転した。気がつくと天井を見上げてしまっている。
褥に押し倒されたのだ。
「え……っ?」
呆気にとられている総司に、歳三がのしかかってきた。そのまま、総司の細い手首を掴んで褥に押さえつける。
怒気にみちた低い声が、ゆっくりと訊ねた。
「……帰る、だと?」
「兄さん……?」
見たこともない、獣じみた男の瞳が総司を見つめていた。まるで、黒い焔が瞳の奥で燃えているようだった。
「いったい、どこへ帰ると云うんだ。おまえの家はここじゃねぇのか。俺の傍じゃねぇのか……!」
「だ、だって……っ」
総司は目を見開き、ふるふるっと首をふった。
「兄さんの、足手まといになるし……私、邪魔だから……っ」
「あれは、おまえを遠ざける為だろう! おまえを巻き添えにしたくなかったから。なのに、こんな傷まで負わせちまって、どれだけ俺が悔やんでいるかわかっているのか。あの時、おまえの泣き声を聞きながら、おまえを手放したくなくて愛しくて愛しくてたまらなくて、身を引き裂かれるような思いだったことを、おまえは……!」
歳三はこみあげる激情に、一瞬絶句した。
だが、すぐに吐息をもらすと、総司の華奢な躯におおいかぶさり、そっと両腕に抱きすくめた。むろん、己の体重を絶対にかけぬよう、気をつけてくれている。
「もう二度と離すものか! おまえは俺のものだ……俺だけのものだ。子供の頃から、ずっと誰よりも愛してきたんだ……っ」
「兄…さん……!」
総司の目が大きく見開かれた。
信じられぬ言葉に、躯中が細かく震え始める。感じる男の体温に、熱い囁きに、吐息に、かぁっと頬が火照った。
天まで舞い上がってしまいそうな歓喜に、総司は両手をのばした。おずおずと男の広い背に手をまわし、抱きついた。その仕草に喜んだ歳三が瞼や頬に何度も甘い口づけを降らせてくれる。
それを夢心地に感じながら、総司は訊ねた。
「本当…に? 本当に、私のこと愛してくれているの……?」
「あぁ、愛してる。むろん、弟としてじゃない。俺はおまえをこの世の誰よりも愛しているんだ」
「兄さん……」
「それとも、おまえはそうじゃねぇのか。あの時、俺を愛してると云ったのは、嘘だったのか?」
「ぇ……えぇっ!?」
総司は思わず大声で叫んでしまった。
慌てて歳三の胸に手をついて、その顔を見上げた。
「あ、あれ……夢じゃなかったの? 私、本当に兄さんに云ったのっ?」
「何だ、夢だと思っていたのか。ったく、冗談じゃねぇよな。俺はおまえを抱きしめて、告白された嬉しさとおまえを失うかもしれねぇって絶望で、極楽と地獄を両方味わっちまったんだぞ」
歳三はくっくっと喉を鳴らし笑った。
くしゃっと前髪を片手でかきあげ、悪戯っぽい瞳で覗き込んでくる。それから、小さく音をたててまた頬に口づけを落とした、。
その笑顔に、総司は思わずぼうっと見惚れてしまった。
なんて格好いいのだろう。
なんて綺麗な笑顔なのだろう。
この人が本当に自分を愛してくれているのだ。兄弟としてでなく、これからは──……
「恋人だな」
まるで総司の心の内を読み取ったように、歳三が云った。
くすくす笑いながら、総司の頬をそっと撫でた。
「これからは、おまえは俺の恋人だ。可愛い大切な恋人だ」
「兄さん……」
「絶対に離さねぇよ。おまえがどんなに嫌がっても、俺はおまえだけを愛してゆくし、おまえを二度と手放さない。死ぬまで、俺はおまえの恋人で、おまえは俺の恋人だ……」
「兄さん……嬉しい」
総司は身の内が震えるような歓喜に、男の躯へぎゅっとしがみついた。その胸もとに躯をすり寄せ、甘える。
だが、歳三はちょっとため息をついた。
小首をかしげた総司に、苦笑いをうかべた。
「いろいろと教えていかねぇとな」
「え……?」
「俺はおまえの恋人だろ? なら、それなりの事はするはずじゃねぇのか」
「それなりって?」
「まぁ、まずは口づけかな」
そう云うなり、歳三は総司の頬を両手ですくいあげた。そのまま、びっくりしている総司の唇に口づけてくる。
「!」
深く──唇を重ねられた。
何か云おうとしたとたん、するりと男の舌が入り込んでくる。口の中を舐めあげられ、舌をからめられた。そのまま何度も角度をかえながら、濃厚な口づけをあたえられる。頭の芯までぼうっと霞んでしまうほど甘ったるい、濃厚な大人の口づけだった。
「っ…は…ぁ……っ」
口づけの後、総司は激しく喘いだ。
あんまりびっくりしたのと、初めてなので息つぎが上手くできなかったため、はぁはぁと喘いでしまう。
それを歳三は満足そうに笑いながら、見下ろした。
「やっぱり、初めてか。可愛いな」
「あ、あたり前でしょっ? それに、いきなりなんだもの……兄さんったら……」
「それも禁止だ」
「え?」
歳三は不意に身を起こすと、褥の上に胡座をかいた。そうして総司を抱えおこし、膝上に抱きあげてしまう。
思わず身を捩った総司をあやすように背を撫でて、己の胸もとへ凭れさせた。
「兄さん……?」
「だから、それが禁止だって」
「何を云ってるの?」
きょとんとする総司を、歳三は見つめた。
「俺はおまえの恋人だろ。兄じゃねぇんだ、もっと恋人らしい呼び方はできねぇのかよ」
「え……え、えぇっ!? だって、兄さんは兄さんだし、いったいどう呼んだら……」
「名で呼んでくれ。歳三って、ほら」
「……」
「早く」
「……と、としぞ……だめ! できないっ」
総司は羞恥にかぁっと頬を紅潮させ、男の胸もとに顔をうずめてしまった。いやいやと首をふっている。
恐らく彼を男として恋人として実感するようで、尚更恥ずかしいのだろう。だが、歳三もひく気はなかった。
歳三は桜色に染まった耳朶に唇を寄せると、とびきり甘ったるい声で囁きかけた。
「ほら、呼んでごらん? いい子だから……」
「兄さん……」
「総司、頼むから……な?」
「……」
総司はぎゅっと歳三の胸もとにしがみついた。そして、真っ赤な顔のまま、小さな小さな声で云った。
「……歳三…さん……」
だが、とたん、慌てたようにまた歳三の胸もとに顔をうずめてしまった。
「……総司」
歳三は、名を呼ぶだけで羞じらう幼く可愛い恋人に、喉を鳴らして笑った。
もうめちゃくちゃ可愛くて可愛くてたまらない。
食べてしまいたいほど可愛いというのは、この事だろうと思った。だが、実際に食べるのは、もう少し後にすべきだ。総司はまだ十四才だった。あと一、二年は待つべきだろう。だいたい、もう十年近くも我慢し待ち続けてきたのだ。一、二年待つぐらい構わなかった。
「早く大人になれ……総司」
そう囁いた歳三に、総司はびっくりしたように顔をあげた。
しばらく小首をかしげていたが、何の疑いもなく素直にこくりと頷いた。
「はい。早く大人になりますね」
「そうだな、俺も待ってるよ」
くすくす笑いながら答えた歳三に、総司は幸せそうに微笑んだ。
それは、花がこぼれるような可愛い笑顔で。
愛しくて愛しくてたまらなくて。
「……総司……!」
歳三はやっと手にいれた幼く可愛い恋人を、思いっきり抱きしめたのだった……。
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[あとがき]
初めての時代劇パロ、いかがだったでしょうか。とにかく総司を可愛く初々しく書いたつもりです(笑)。いや、そこに土方さんも惚れちゃうかなと。
「恋待蕾」とは、誕生色の2月のことです。色的にはフキノトウらしいのですが、なんとなく初恋のイメージがあったので、題名に選びました。幼くて可愛くて初々しい総司っぽいかなぁと思ったのですが、いかがでしょうか。
さて、このお話はまだ完全に世界が終わってません。つまり、シリーズ化の可能性ありという事です。だって、まだ色々あるし〜(笑)。いちゃいちゃ激甘兄弟シリーズになりそうです。相変わらず、総司は「兄さん」と呼びつづけるかと。そのたびに、歳三さんは手出せなくなっちゃうんですよねぇ(笑)。
ただ、これ以上シリーズを抱えるのは正直な話、無理かなぁと思います。完結させないシリーズという形なら(「Honey Love」のように)、できると思いますが。もし、それでも、おっけ〜♪ 読みたいよ♪という方がいらしたら、またメッセージでGoGo!してやって下さいませ。もちろん、優美さまのご承諾を頂いてからになりますが。優美さま、いかがですか?
尚、このお話は上から下までフィクションです。贈り物のページでも注意書きした通り、時代考証も史実も完全無視です。もちろん、日野藩なんてありません(のはず)。あったり前ですが、この事に関する苦情・批判は一切お断りさせて頂きます。
優美さま、めちゃくちゃ私自身の萌えポイントはまりまくりのリクエスト(笑)、本当にありがとうございました♪ 皆様もラストまでお読み頂き、ありがとうございました♪
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