「……うーん」
先ほどから、総司は考え込んでいた。
その大きな瞳でじっと何かを見据え、きゅっと桜色の唇を噛みしめている。
真剣そのものの表情だが、何しろまだ十四才だ。可愛らしいその姿は、道行く人々の目をひいていた。
が、何を悩んでいるのかと云えば───
「胡瓜かなぁ……でも、お茄子かなぁ」
だった。
別に晩ご飯の献立で悩んでるのではない。ただ単にお金が少ないため、どちらを一つだけ買うか悩み抜いているのだ。
それに、八百屋の親父がはぁっとため息をついた。
「……総ちゃん、どっちも持っていきな。二つで一つの値にしといてやるよ」
「えっ、いいのっ?」
たちまち、ぱっと顔を輝かせた総司に、八百屋は苦笑しながら茄子と胡瓜を渡した。代金を受け取りながら、毎度〜と云う。それに嬉しそうに可愛い笑顔で手をふり、総司は歩き出した。
「これで、おいしい晩ご飯ができるや。兄さんも喜んでくれるかなぁ」
そう云いながら歩いてゆくと、あちこちから声をかけられる。それにも、にこにこと笑顔をふりまいた。
総司はこの界隈でも有名な人気者だった。
花のようだと噂され、その少年と一緒に暮らしている九つ年上の兄ともども、掃きだめに舞い降りた鶴のようだとさえ囁かれていた。
何しろ、その髪はまるで絹糸のようにさらさらで、大きな瞳は綺麗に深く澄んでいる。まっ白な雪のような肌に、桜色の小さな唇。その華奢な体に飾り気のない木綿の着物を纏っていても、それでも、少年は誰もがふり返るほど可愛らしかった。
ぱっちりとした大きな瞳で相手を見つめ、桜色の唇に笑みをうかべた様は、本当に美しい人形のようで、近所に住むお磯にもよくお雛さんのようだと云われた。どうして、娘っ子のあたしより、総ちゃんの方が可愛いの?と拗ねられたものだ。
もちろん、お磯もなかなかの器量良しだったのだが、総司の可愛らしさはまた違ったものがあった。
「ただいまぁ」
総司は家へ入った。家といっても猫の額ほどの庭しかない小さな小さな家だ。それでも総司も、その兄も綺麗好きだったので、障子はきちんと貼られ、家の中はおろかその前も綺麗に掃き清められていた。
だが、家の中には誰もいなかった。それに、総司も思いだした。
腕のいい大工である兄は、今日、夕方まで仕事だった。江戸でも有数の大工であり、手堅い仕事ゆえに大名屋敷の建築も請け負う棟梁に見込まれ、その跡取りにと望まれている程の腕なのだ。そのため、最近の急がしさは目もまわる程だった。
総司は兄が帰ってくるまでに夕飯の支度をしておこうと、せっせと動き始めた。
家のすぐ前の井戸端で茄子を洗っていると、目の前に影が落ちた。
「兄さん……!」
すらりとした長身の若い男が優しい笑顔をうかべ、総司を見下ろしていた。
慌てて立ち上がった総司の小柄な躯を、ひょいっと片腕に抱きあげた。きゃっと声をあげて慌てて男の首をかき抱く少年にかまわず、額と額をくっつけて笑う。
「よし、熱ねぇな。いい子にしてたか?」
「はい」
こくりと頷いた総司に、男はまた笑った。
一見すれば冷たい程の端正な顔だちだが、こうやって笑うとまるで悪戯っぽい少年のようになる。
じっと見上げると、濡れたように黒い瞳が見つめ返した。まるで黒曜石のような美しい瞳だ。
だが、彼の美しさはそれだけではなかった。職人らしい黒っぽい木綿の着物を纏っていても、しなやかに引き締まった躯は美しい獣のようだ。
何よりも、その身に纏う男の艶がまるで魔力のように誰の心をも惹きつけた。もちろん、その力は女達には絶大で、彼の恋人と呼ぶべき相手はほとんど月替わりなほど、ころころ変わっている。
だが、総司は、この腕のいい大工であり、綺麗な顔と躯をもつ、そして、呆れるほど女遊びの激しい兄が大好きだった。少々いけない事をしても、「な? 勘弁してくれよ、総司」などと悪戯っぽく笑いかけられれば、もうその魅力的な笑顔に抗えないのだ。
そんな事を考えながら、ぼうっと見惚れていると、男は苦笑した。
かるく頬に口づけてやってから、そっと華奢な躯を抱きおろしてやる。その時、後ろから声をかけられた。
「……土方さん」
ふり返った二人の目に、歩み寄ってくる若い男が映った。
鳶色の瞳が印象的な、すらりとした細身の躯をもつ若者だ。
すぐ近くの長屋に住む飾り職人だった。彼もまた腕の良い職人であることで、有名だ。大店のお嬢さんなどからわざわざ彼を指名して注文が入る程なのだ。
「どうした、斉藤」
戸を開けながら云った歳三に、斉藤はちょっと躊躇った。
ちらりと総司の方へ視線をやる。それに、歳三も気がついた。一瞬だけその黒い瞳が昏く翳ったが、すぐに総司の背をぽんっとかるく叩いた。
「おまえ、これで菓子でも買ってこいよ」
「え? でも、そんないいの……?」
握らされた金に、総司は目を丸くした。
「今日はご祝儀をたんと貰ったんだ。たまにはおまえの好きなものを買ってきな」
「はい!」
元気よく答えると、総司は駆け出していった。
それを見送り、歳三は片手で前髪を煩そうにかきあげた。家の中へ入るよう顎をしゃくりながら、切れの長い目を細めた。
「……また何かあったのかよ」
「仕方ありません」
「ったく、冗談じゃねぇよな」
ため息をついた歳三は家の中へ入ると、戸を固く閉め切ったのだった……。
その翌朝の事だった。
仕事へ出ようとしていた歳三を訪ねてきた者があった。
美しい女性だ。どこかいい家のお嬢さんのようで、いつも綺麗な着物を纏っていた。
歳三の恋人とも何ともつかぬ関係であり、時折こうして訪れてくる。
だが、その訪れを、歳三は決して喜んでいなかった。いつも素っ気ない調子で追い返してしまうのだ。総司にはそれが謎だった。
今もお弁当を抱えて傍に立つ総司に気遣いつつ、歳三はその女性に視線さえ向けない。
「……君菊」
歳三は草履に履きながら、すげない口調で云った。
「もうここへは来るな。いい加減、迷惑だ」
「そんな」
君菊は目に涙をうかべ、切なげな表情で男を見上げた。
「わたしはただ、あなたのためにと……」
「それが迷惑だと云ってるのがわからねぇのか!」
苛立った表情で一喝し、歳三は背を向けた。さっさと家の門をくぐって出ていってしまう。
総司は一瞬躊躇ったが、それでもぺこりと頭を下げてから歳三の後を追った。
「……兄さん」
道を二人ならんで歩きながら、云った。
「兄さんは冷たい」
「何で」
「君菊さん、兄さんの事が好きなのに」
「俺は迷惑だ」
「でも、兄さんだって、あんなに綺麗な女性に恋慕されたら嬉しいでしょう……?」
そう訊ねながら、総司は胸の奥がちくちくするのを感じていた。
肯定されたら、どうしようと考えていたのだ。何故、そんなふうに思うのか、総司自身にもわからなかったが。
その総司の髪が不意にくしゃっとかき上げられた。
悪戯っぽい笑みをふくんだ瞳が、総司を覗き込んでいる。驚き見上げた総司を、歳三はくすくす笑いながら抱きすくめた。
「おまえ、めちゃくちゃ可愛いなぁ」
「ちょっ……兄さん」
「恋慕なんて言葉、どこで覚えたんだ?」
「そういう事を云ってるんじゃなくて、兄さんってば」
ばたばた暴れる総司に構わず、歳三はその逞しい両腕で少年の躯を抱きあげた。
うっとりするほど綺麗な顔に優しい笑みをうかべ、総司を見つめた。
「心配しなくても、おまえほど可愛いくて綺麗な奴はいねぇよ。どんな女や娘より、おまえが一番だ」
「兄さん、目が悪いんじゃない? 私なんて……」
「俺は目いい方さ。おかげで、おまえのこの綺麗に澄んだ瞳も、可愛い桜色の唇も、すべすべの頬っぺたも、ぜんぶよーく見えてるぜ」
「……兄さん、私のことからかってるんだ」
ぷうっとふくれてしまった総司に、歳三は声をあげて笑った。
もう可愛くて可愛くてたまらないと云いたげに、ぎゅっと抱きしめてから、また地面へ下ろしてやった。
とたん、総司は凄い勢いで歩き出してゆく。弁当の包みを抱え、たったか歩く総司にすぐさま歳三は追いついた。可愛い弟の顔を覗き込んだ。
「怒ったのか?」
「もう……知りませんっ」
「な、機嫌を直せよ。それにさ……全部、本当の事なんだぜ」
「……」
ぴたっと総司は立ち止まった。そのまま俯いてしまう。
歳三は身をかがめると、その桜色の耳柔に唇を寄せた。そっと囁きかけてやる。
「おまえが誰よりも可愛いし、綺麗だよ。俺には、おまえが一番だ」
「本当…に?」
「あぁ、本当だ」
「兄さん……」
思わず手をのばした総司を、歳三は柔らかく抱きすくめた。その艶やかな髪を撫でてやる。
往来の真ん中で抱きあう兄弟はまるで絵のようだったが、もちろん、とんでもなく目立ってもいた。さっそく上から声をかけられた。
「おーい、歳三さん」
空に近い辺り。屋根の上から、一人の男がにやにや笑いながら見下ろしていた。
「そんなとこでいちゃついてないで、さっさと上がってきなよ。もうすぐ棟梁が来ちまうぜ」
大工仲間の原田だった。
それに、同じ大工仲間の島田も笑っている。
歳三は苦笑すると、腕の力を緩めた。総司の方はもう耳柔まで真っ赤になってしまっている。
この大工仲間たちにも、総司はむろんよく可愛がられていた。棟梁である小島にも気にいられている。だが、総司は歳三と手先が器用でないため、大工などとても出来るものではなかった。それよりも───
「うまいなぁ」
昼飯時、皆は感嘆の声をあげた。
円座をかいた皆の真ん中には、重箱が幾つか並べられてある。かなり使いこまれた重箱だが、そこには質素だがおいしそうに調理された料理が綺麗に盛られてあった。総司が、小島の依頼を受け、十のつく日に作ってきているのだ。むろん、材料費や調理費はきちんと、頑固だが律儀者の小島から支払われている。
総司は本当に料理が上手だった。
その手にかかると、ただの野菜や魚も見事なほどの料理に変化してしまうのだ。まるで魔法をかけたようだった。
「小料理屋でも開いたらどうだい?」
原田が牛蒡の煮付けを食べながら云った。
「これだけ旨い料理が作れるんだ、繁盛すると思うぜ」
「冗談じゃねぇよ」
吐き捨てるように、歳三が云った。隣に坐っている総司の細い肩に手をまわし、ぐっと抱き寄せた。
「そんなきつい仕事、こいつにさせられるか」
「けど、いつかは総ちゃんもお嫁……いや、お婿に行かなきゃならねーだろ」
「……総司の婿入り先はもう決まってるさ」
形のよい眉を顰め、ちっとも嬉しくなさそうな表情で、歳三は答えた。それに、原田と島田があぁと頷いた。
「お磯ちゃんのとこか」
総司ともっとも仲のよいお磯は、小間物屋の一人娘だった。そこの両親も総司のことを大変気にいっているので、将来は婿入りを望まれている。
だが、それを歳三があまり喜んでいないのを、総司は何となく察していた。別にお磯を嫌っている訳ではない。ただこの話になると、いつも不機嫌になってしまうのだ。総司は、常のごとく何か苦いものでも含んだような表情になっている歳三を、不安そうに見上げた。
その視線に気づいた歳三がちらりと視線をむけ、僅かに苦笑した。そっと総司の背中を撫でてから、手をひいた。
だが、その端正な横顔には憂いと云ってもよい表情がうかべられている。僅かに伏せられた黒い瞳は、いったい何をどう考えているのか、読み取ることなど全くできなかった。
(兄さん……)
男の体温を肩越しに感じながら、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
まだ十四才の総司にとって、この九つ年上の兄はどこか謎めいた存在だった。物心がついた頃から、両親はいなかった。この兄が男手一つで育ててくれたのだ。だが、その両親のことも全く教えてくれず、歳三は何かたくさんの秘密を抱えていた。
よく訪ねてくる斉藤や君菊に対しての態度も奇妙だった。歳三自身に対する、斉藤と君菊の接し方も。
総司にはわからない事ばかりだったのだ……。
「じゃあ、兄さん」
昼ご飯の後、総司は風呂敷で重箱を包みながら云った。
「これで私は帰りますね。お仕事、頑張ってね」
「あぁ、おまえも気をつけて帰れよ」
くしゃっと髪を撫でてくれる歳三に笑いかけ、総司は踵を返した。他の皆にもぺこりと頭を下げてから歩き出す。後ろで響き始めた釘の音や鉋の音が、心地よかった。
見上げると、綺麗な秋の青空だ。
筆で描いたような雲がなんて美しいのだろうと思った。
その時だった。
「……」
総司はびくっと肩を震わせ、立ち止まった、思わずふり返る。
誰かの強い視線を感じたのだ。
だが、その相手は探すまでもなかった。往来の反対側から、一人の女性がじっと総司を見つめていたのだ。
美しい女だった。
商家の妻らしい身なりをした、上品で綺麗な女だった。余程の大店なのか品良く美しい着物を纏っている。
大きな瞳がまっすぐ総司を見つめ、その唇は何かもの云いたげに開かれていた。
「あの……?」
総司は思わず小首をかしげた。
歩み寄っていくと、一瞬、女は去ろうとしたが、すぐに踏みとどまった。驚いたことに涙で目を潤ませ、総司を見つめている。
「あの、何か私に……」
そう云いかけた瞬間だった。
不意にその腕がもの凄い勢いで掴まれたかと思うと、目の前に誰かが立ちふさがった。ぐいっとその背の後ろへ押しやられる。
総司は目を見開いた。
「兄さん……!」
だが、歳三はふり返らなかった。
今まで見たこともないような鋭い瞳で、まっすぐ女を見据えている。
「……何の用だ」
低い、凄味のある声だった。
自分には決して向けられた事のない兄の怒気にみちた声音に、総司は息を呑んだ。
歳三はゆっくりと目を細めた。
「こいつに近づくなと云っただろう」
「申し訳ありません。ですが、わたしどもはやはり……」
「やはり、何だ? まさか返せと云うつもりか」
男の声に嘲りがみちた。
「過ちを犯したのはそっちの方だろうが。今更などと、虫が良すぎる話だと思わねぇのか」
「……っ」
「俺は絶対に手放さねぇよ。とっとと帰って、旦那にそう伝えな……!」
吐き捨てるような口調で告げると、歳三は背を向けた。
総司の肩を抱き、強引に促して歩き出す。それに、総司はおずおずと従いながらも、後ろをふり返った。すると、あの女が今にも泣き出しそうな風情で見つめているのが、心に痛かった。
だが、総司の肩を抱く歳三の手に力がこめられ、より強く抱きよせられる。
驚いて見上げた総司は、兄の押し殺された低い声を聞いた。
「……絶対に返すものか……っ」
ぎりっと奥歯が噛みしめられた。
歳三の黒い瞳に、今まで見せられた事もない男の凄味と怒りを感じ、総司は思わず身を震わせた……。
総司は静かな寝息をたてていた。
それを確かめてから、歳三はそっと腕を抜いた。
幼い子供の頃から、ずっと一つの褥で休んできたのだ。歳三が少年の華奢な躯を抱きすくめ、総司は男の広い胸に顔をうずめて眠るのが習慣となっていた。正直な話、最近、歳三にとってこれは苦行に等しいものになりつつあったのだが。
「……まだまだ子供だものな」
歳三は苦笑し、総司の柔らかな髪を指さきで梳いてやった。さらさらと指の間を流れてゆく艶やかな髪の感触が心地よい。
しばらくそうしていたが、やがて、歳三は静かに褥から抜け出した。
枕元に置いてあった小袖を着流しにすると軽く帯を締めた。そのまま音をたてぬよう気をつけ、部屋を出てゆく。
庭へ出てみると、案の定、縁側に人影があった。
歳三の姿を見て立ち上がり、頭を下げた。
「……こんな夜更けに何だ、斉藤」
そう問いかけた歳三に、斉藤は僅かに目を伏せた。
「近藤さんから火急の知らせです」
「……近藤さんから?」
「えぇ。事が切迫してる故、今すぐ戻って欲しいと」
「そんな気、俺はさらさらねぇよ」
歳三は縁側に胡座をかいて坐ると、夜空にうかぶ月を見上げた。
「こうして、のんびり月を眺めてる方が性にあっている。俺は大工の棟梁になるのさ」
「そんな事が本当に許されますか? お信さん……いや、お信さまは今も土方さんが帰ってくるのを待っておられるとか」
「もう十年近く昔の話だぜ。あそこを飛び出したのは、俺が十四、総司が五つの時だ。おかげで、総司は何も覚えてない。はなから自分は町の生まれだと思いこんでいる。だが、それでいいのさ、それで俺たちは幸せなんだ」
斉藤はしばらく黙っていたが、やがて嘆息すると、静かな声で云った。
「……先日、近藤さんが襲われたそうです」
「!」
歳三は驚き、ふり返った。
「もちろん、あの人の剣術は相当なものだ。切り抜けたようですが、多人数相手に無傷ではいられなかった。今、傷が癒えるまで出仕も控えられているとか」
「傷は深いのか」
「いえ、さほどは。ですが、用心をとられたみたいです」
「そうか……」
きつく唇を噛みしめた歳三は、両手の指を固く組み合わせた。それを口元にやりながら、呟いた。
「何もかもが……一気に動き始めやがったな」
「? 何もかもとは、どういう意味です」
「総司のことだよ」
歳三はため息をつき、答えた。
「先日、油問屋の沖田屋の者が俺を訪ねてきた」
「沖田屋……大店ですね」
「お光という女で、入り婿をとって沖田屋を継いだらしい。で、そのお光が云うには、総司を……弟を返して欲しいという事だった」
「え!?」
斉藤は驚き、鋭く息を呑んだ。
思わず男の顔を見たが、歳三は僅かに目を伏せていた。その男にしては長い睫毛にかくれた瞳がどんな表情をうかべているのか、伺えない。
「今更冗談じゃねぇと追い返してやったがな。むろん、あのお光という女が悪い訳じゃない。悪いのは、当時、油問屋の女中だった母親だ。旦那と通じた挙げ句、孕んだ子供の始末に困って捨ててちまった。だが、それを拾ったのが俺たちだという事を、しっかり確かめていやがったのさ」
「ですが、どうして今頃になって……」
「昨年、そのさんざん女遊びしまくった先代がぽっくり逝ったらしくてな、もともと異母弟の事を聞いてその行方を気にしていたお光が探し始めたらしい。何しろ、お光は一人娘だし、しかも子供の出来ん躯だそうだ。となれば、総司は立派な跡取りという事になるからな」
そう呟くと、歳三は立ち上がった。
夜風に吹き乱される黒髪をうるさそうに指さきでかき上げ、切れの長い目を細めた。
「……だが、そんなこと俺の知った事じゃねぇよ」
「土方さん……」
「俺は総司を絶対に手放さねぇ。ここまで手塩にかけて育ててきたんだ、今更手放せるはずがねぇだろうが」
「ですが、土方さん」
斉藤は一瞬躊躇いはしたが、それでもはっきりと云った。
「これは好都合ではないのですか。正直な話、あなたにとって総司は文字通りの足枷になる。弱みにもなる」
「斉藤、よせ」
鋭い声音が遮った。が、斉藤は怯まなかった。
「やめませんよ、すべて本当の事ですからね」
「……」
「事は、近藤さんへの襲撃で一気にまた表面化するでしょう。十年前の騒動がくり返されるかもしれない。それが何故かわかりますか」
「……源之助君が元服を迎えられるからだろう」
「そうです。結局、どんなに遠く離れても、あなたは縁を絶ちきれるはずもない。何か事があれば、すぐあなたの身へ──その周辺へ及んでくるんです。総司の身が危険に晒されていいのですか?」
「いいはずねぇだろ。けど……」
「土方さん、いつまでも火の粉を払ってる訳にはいかないんですよ。その大元である火を消さなければ、本当の解決にはならない」
「そんな事云われずとも……!」
思わず、歳三は大声で云い返しかけた。だが、すぐハッと我に返ると、慌てて家の奥の方へ視線をやった。家の奥はしんと静まり返り、物音一つしない。
しばらく様子を伺っていたが、総司が起きた気配がない事を確かめた歳三は、ほっと安堵の息をついた。
「……」
きつく唇を噛みしめ、目を伏せた。体の両脇で拳がぐっと固く握りしめられた。
「……斉藤」
「はい」
「おまえは今日、俺に引導を渡しに来たのか」
「違います。ただ近藤さんからの知らせを伝えにきただけです」
「なら……もう少し待ってくれ」
低い声で云った歳三の横顔を、斉藤は静かな瞳で見つめた。
しばらく何も云わずそうしていたが、やがて、ゆっくりと黙礼した。そのまま踵を返すと、ゆっくり歩み去ってゆく。
足音一つたてず去る斉藤を見送る事もなく、歳三も背をむけた。縁側から上がると、家の中へ戻った。
できるだけ静かに障子を開いた歳三は、とたん鋭く息を呑んだ。
「……兄さん……?」
小さな声がそっと呼んだのだ。
薄闇の中、小柄な体が上半身を起こしているのが見えた。
(……総司……!)
危うく叫ぶところだった。さぁっと血の気がひいてしまう。
総司にだけは聞かれたくない話だった。何があっても総司にだけは明かさず、墓場までもっていこうと誓った秘密だった。
それが、もし聞かれたとしたら───
「……」
じんわりと冷や汗が背を這うのを感じながら、歳三は立ちつくした。
そんな兄の前で、総司は両手で目をこすった。
「……兄さん……どこ、行ってたの?」
「……」
「何だか寒い気がして起きたら、兄さんがいないんだもの。それで、私……」
「……それで……?」
おそるおそる訊ねた歳三に、総司はまだ眠たげな声で答えた。
「兄さんを捜しに行こうかなぁと思ったんだけど、そしたら、ちょうど兄さんが戻ってきたんです。ねぇ……どこへ行っていたの?」
「……」
その瞬間、歳三は全身の力が抜けるような安堵感をしみじみと味わった。
総司は何も聞いていないのだ。秘密は守られたのだ。
夜には絶対に来るなと斉藤に云っておこうと強く思った。こんな冷や汗をかくのはもう二度と御免だった。
「すまねぇ」
歳三は褥の上に跪きながら、云った。
そっと少年の華奢な躯を腕の中に引き寄せ、抱きすくめてやる。
「ちょっと水を飲みにいったついでに、月を眺めていたのさ」
「月を? 綺麗なお月さまでした?」
「あぁ……すげぇ綺麗だったよ」
そう優しい声で囁きながら、歳三は総司の躯を抱いたまま、ゆっくりと横になった。さらりと総司の髪が褥に流れた。
歳三はそれをしなやかな指さきで梳いてやった。
「さぁ……おやすみ。朝までずっと一緒にいるから」
「はい」
総司は素直にこくりと頷いた。
可愛い笑顔を見せてから、少しだけごそごそと身動きし、歳三の胸もとに顔をうずめた。仔猫のように躯を丸め、ゆるやかに眠りへ落ちてゆく。
「……」
長い睫毛がなめらかな頬に翳りを落とし、甘い寝息をもらす桜色の唇がまるで口づけを誘うようだった。だが、どんなに強い誘惑にかられたとしても、歳三は接吻をしようとしなかった。それだけはするまいと己を懸命に戒めていたのだ。
誰よりも何よりも、己の命よりも、総司が大切だった。
彼のすべて、彼の命そのものだった。
総司だけは穢れ一つ知らぬまま、幸せになって欲しかった───
「……総司、愛してるよ……」
静かな低い声で囁くと、歳三は総司の細い躯をより引き寄せた。
そして、この世の誰よりも愛おしい存在をそっと抱きしめたのだった……。
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