うららかな小春日和だった。
 場所は穂波の板場。
 とんとんと響く音も軽やかに、総司は手早く料理の支度をしていた。その手つきは慣れたもので、しかも今日は何かいい事があったのか、その可愛らしい顔はとても嬉しそうだ。
「えらく機嫌がいいね」
 板場に顔を覗かせた伊庭がそう声をかけると、総司はびっくりしたようにふり返った。
「あ、八郎さん、こんにちは!」
「よぉ」
 手をあげてから、すたすたと伊庭は中へ入ってきた。黙然と料理をつづける板前の源三郎にも声をかけてから、総司にもう一度問いかける。
「で、いったいどうしたんだい」
「え?」
「えらく機嫌がいいからさ」
「そ、そうですか?」
 総司は目を丸くし、両手で頬をおさえた。その仕草がまたとんでもなく可愛らしい。
「別に何もありませんけど」
「ふうん、そうかねぇ。ま、どうせ又あの兄さんの事だろうけど」
「に、兄さんの事って……」
 頬を上気させて俯いてしまった総司は、まさにその通りと返答しているようなもので、伊庭は思わず苦笑した。が、いつまでもからかっていても可哀想だと、話をかえてやる。
「そう云えば、今度の二十日、何か用事あるかい?」
「二十日、ですか」
「あぁ。この裏で祭りがあって、穂波でも色々宴会をやるんだよ。おまえさんもどうかと思ってさ」
「……あ」
 とたん、総司は長い睫毛を瞬かせた。ちょっと困ったように視線をおとし、口ごもる。
「すみません……その日は……」
「何だ、用事あるのかい」
「えぇ……兄さんと、箱根へ」
 総司の言葉に、伊庭は驚いた。


 いや、何も箱根へ湯治に行くこと自体に驚いたのではない。
 この時代、箱根への湯治は江戸庶民にとって定番の旅であったし、楽しみの一つでもあった。
 だが、それよりも何よりも。
 旅に誘われたという事が何を意味しているのか、総司はわかっているのだろうか。


「……えーと、そりゃまた羨ましいね」
 ちょっと躊躇いがちに探りをいれてみると、総司は嬉しそうに笑った。
「はい! 湯治は私も初めてなので、とっても楽しみなのです」
「ふうん、兄さんと二人きりの旅かい」
「そうですけど?」
 総司は不思議そうに小首をかしげた。それに、伊庭は苦笑してしまう。
 やっぱり、全然わかっていないようだった。
 本当に、なかなか先が思いやられる。
 あの兄がどんな切羽詰まった状態で旅を計画したか、わかっていれば、こんなに呑気ににこにこ笑っていられないだろうに。
「……ま、頑張ってな」
 ぽんぽんっと肩を叩いた伊庭に、総司は不思議そうにしながらも、「はい」と素直に頷いた。












 一方、歳三の方はである。
「湯治の旅、ですか」
 そう呟いた斉藤に、形のよい眉を顰めた。
「……何だよ、その意味ありげな云い方は」
「いえ、別に」
 斉藤は削っていた簪を取り上げ、陽にかざしながら小さく笑った。
「所変われば気も変わるってとこですね」
「それを云うながら、品もだろ」
「いやいや、二人きりの湯治。楽しんできて下さいよ」
 そう云った斉藤に、歳三は肩をすくめた。壁に凭れかかり、腕を組んでいる。
 切れの長い目が古くからの友人をどこか探るように眺めた。
「二人きりって辺りに、嫌味を感じるな」
「本当の事でしょう。まぁ、土方さんもとうとう痺れをきらしたってとこですかね」
「痺れをきらしたというより……」
 ため息をついた。
「てんでわかってねぇ相手じゃ、いい加減、俺も切れそうになっちまってな」
「無理強いはいけませんよ」
「そんな事するものか。けど、このままじゃ埒があかねぇし」
「場所を変えればと思った訳ですね。名案だとは思いますが、そういう下心、総司はわかっているのですか?」
「……下心って、えらい云われようだな」
「事実でしょう。で、知っているのですか?」
「これで勘づいてくれるような総司なら、こんな苦労しねぇよ」
「確かに」
 苦笑しながら答える歳三に同情を覚えつつ、斉藤は、いたいけで可憐な総司を思い浮かべた。


 この界隈でも人気ものの可愛らしい少年は、その実、とっても鈍い処があるのだ。
 とくに、この総司を溺愛している兄の秘かな煩悶には、全く気が付いてないらしい。


「あんまり鋭いのも困りますけど、あそこまでいくと……奥手で初なだけに、なかなか男として手を出しがたいものがあるでしょうね」
「……やけに理解ある言葉だな」
「そりゃ、オレも男ですから。土方さんの立場には、少しだけ同情しますよ」
「少しだけ、かよ」
「当然。結局の処、土方さんは、あの可愛い総司を全部自分のものにしてしまうのでしょう。羨ましく思うならともかく、同情なんてありえない話ですよ」
「……あいつは俺だけのものだ」
「はいはい、わかっています」
 今更、念押しされなくとも。
 斉藤は、独占欲丸出しの男に苦笑しつつ、手を動かした。美しい簪が出来上がってゆく。
 それを眺め、歳三は感嘆の声をあげた。
「いつもながら見事なものだな。おまえ、口は悪いが、手先は器用だからな」
「口の悪さと手先の器用さは、何の関係もないと思いますが」
「そうだな」
 くすっと笑い、歳三は凭れていた壁から身を起した。出ていこうとするその背に、斉藤は声をかけた。
「そろそろ、総司が帰ってくる頃ですか」
「旅の支度もあるしな」
「まぁ、あれこれ思惑はともかく、初めての旅でしょう。とりあえずは楽しんできて下さい」
「あぁ」
 歳三はふり返らぬまま、ひらりと手をふった。そのまま戸口から出てゆく。
 男の逞しい背を見送った斉藤は、手元の簪に視線をおとした。
 きれいで繊細な花の模様は、あの可憐な少年を思わせる。そして、今度の旅が終わって帰ってくる頃には、その身も心も完全に歳三だけのものになってしまっているのだ。
 初めから手の届く花ではなかったが、それでも、摘まれる時は遅ければいいと心のどこかで思っていた事は確かだった。
 片恋ゆえの切なさだったが。
「……二人きりの旅、か……」
 斉藤は一人小さく笑った。












 綺麗な囀りを残し、鳥が空に宙を描いていった。
 それを大きな瞳で追い、総司が声をあげる。
「兄さん、見て!」
「あぁ」
「綺麗な鳥ですね。青空に……ほら、声も綺麗」
 そう云った総司は歳三をふり返ると、嬉しそうに微笑ってみせた。
 結い上げた髪はさらさらと風に揺れ、見上げる大きな瞳はきらきらと輝いている。笑みをうかべた桜色の唇は、ふっくらと果実のようだ。
 華奢な躯に旅装束を纏ったその姿はまるで絵のようで、思わず見惚れるほどの可憐さだった。その証拠に、すれ違う男女のほとんどがうっとり見惚れるような視線を投げかけてゆく。
 もっとも、その半分は歳三にも向けられているのだが、そんな事全く意識の外だ。
「旅って楽しいですね」
 うきうきした口調で、総司が云った。歳三の隣に並んで歩きながら、にこにこ笑う。
「こうして兄さんと一緒に歩いて、色んなものを見られて、本当に私は幸せです」
「そうか。なら、来て良かったな」
「はい」
 こっくり頷く総司を見ながら、歳三は頬が緩むのをおさえられなかった。
 本当に可愛くて可愛くて、仕方がないのだ。目に入れても痛くないぐらい可愛い総司と、一緒の二人きりの旅。
 これが幸せでなかったら、何が幸せだと云うのか。
 下心ありのため少し罪悪感がひそむ旅なのだが、それをさし引いても、やはり連れてきて良かったと、歳三はしみじみ思った。
 こんなにも喜んでくれるなら、旅ぐらい、何度でも連れてきてやりたい! と、心から思う。
「あっ、兄さん。お茶屋さん」
 漂ってくる甘い団子の匂いに、総司が嬉しそうな声をあげた。弾むような足取りで駆け寄っていき、「兄さん、早く早くー!」と手をふっている。
 その可愛らしい様に、歳三は「あぁ、今行くよ」と優しく微笑みながら、大切な恋人のもとへ歩み寄っていったのだった。












 湯治の前に、箱根神社へ参ろうという事になった。
 大きな杉に囲まれた参道を歩けば、鳥の囀りや木の葉の揺れる音しか聞こえず、清々しい心地になる。ふり返ってみた目に、湖に聳える鳥居が幻想的で美しかった。
「とても気持ちいいですね」
 総司は苔むした段を昇りながら、歳三に笑いかけた。
 少し疲れてきたのか、なめらかな頬は上気し、白い額が汗ばんでいる。それを総司は手拭いでぬぐおうとした。
 とたん、小さく声をあげた。
「あ」
 手拭いが滑り落ち、風にのって下へ舞い降りてしまったのだ。
 慌てて追うために駆け下りた総司は、商人風の若い男がそれを拾うのを見た。
「すみません」
 声をかけると、男は顔をあげたのだが、とたん、その細い目を大きく見開いた。可憐な総司の姿に、一瞬、見惚れたような表情になる。
 だが、すぐ無言のまま手拭いを総司の手に押しつけると、そのまま参道を下っていってしまった。
 それでも総司は「ありがとうございます」と明るく礼を云い、歳三の傍に戻った。小さく笑いかけると、髪を撫でてくれる。
「少し疲れているみたいだな」
「ううん、大丈夫です」
「無理をするな」
 そう云うと、歳三は優しい仕草で手をさしのべた。
「俺の手に掴まれ、ひっぱってやるよ」
「そんな、兄さんに迷惑かけられません」
「いいから、ほら早くしろ」
 まるで新妻の手を引くがごとくの歳三の行動に、総司はなめらかな頬を染めた。おずおずと手をさし出せば、柔らかく握りしめてくれる。


(兄さん……)


 いつも優しい兄だが、今回の旅ではことさら優しかった。
 総司を常に労り、慈しんでくれるのだ。守るように抱きよせてくれる男の腕の中、総司はたまらなく幸福だった。
 うっとりと彼の逞しい胸もとに頭を凭せかけ、寄りそってゆく。
 そうして寄りそい参道をゆく二人の姿はとても似合いで、すれ違う参拝客たちも皆、ちらちらと見ていった。仇っぽい女も歳三に熱い視線を送っていたが、むろんの事、歳三の眼中には総司しかない。
 本堂の前まで辿りつくと、二人して並んで手をあわせた。
「何を願ったのですか?」
 そう訊ねる総司に、歳三は悪戯っぽく笑った。
「何だと思う?」
「家内安全?」
「えらく地味だな。だが、あたってなくもねぇ」
 くすくす笑った歳三は手をのばし、総司の細い肩を抱きよせた。その柔らかな髪に、ちゅっと口づけを落しながら囁く。
「おまえの幸せを願ったのさ」
「あ」
 総司のなめらかな頬がぽっと赤く染まった。それがたまらなく可愛らしい。
 細い指が男の着物の袂を掴んだ。
「……私も」
 小さな羞じらう声に、歳三は目を細めた。
「私も…です。兄さんの幸せを……」
「……総司」
 今すぐ、思いきり抱きしめたくなった。抱きしめ、その柔らかで甘い唇を奪ってやりたい。
 だが、いくら何でも神社の本殿前で事に及ぶほど、歳三の常識も人並み外れではなかった。しぶしぶ、その甘くていい匂いのする細い躯を離し、優しい声で促してやる。
「そろそろ宿に行こうか」
「はい」
 総司はこくりと頷いた。
 二人して、また参道をゆっくりと下ってゆく。今度は、杉の木の向こうに湖がきらきらと輝き、赤い鳥居がそこに映えて、とても美しかった。
 総司は早くもっと近くで見たくてたまらなくなる。
 その時だった。
「これは! 小島組の若棟梁ではございませんか」
 行き違おうとした数人連れの先頭に立っていた男が、突然、歳三に声をかけてきたのだ。それに、歳三も驚いたように見てから、あぁと親しげに笑顔になる。
「松山組の」
 どうやら同じ大工の棟梁で、しかもかなり親しい間柄のようだった。狭い江戸でなく、こんな処で会うとは奇遇だと、二人して笑いあう。
 やがて、二人は参道の脇によると、やはり大工を生業とする者同士、この間の大名邸の改築がどうのと仕事の話を始めてしまった。
 歳三も、総司の次にだが、仕事の事となると目の色が変わる。本当に、大工という仕事を心から愛しているのだ。
 だが、傍にいる総司は少し困ってしまった。早く鳥居を見たいが、兄の邪魔だけにはなりたくない。
「……あの、兄さん」
 そっと袂をひいた。ふり返った歳三に、小首をかしげてみせる。
「先に降りて、鳥居見てきてもいい?」
「え。あぁ、それなら……」
「いいの。兄さんはゆっくりお話してて。ね?」
 総司はにこっと笑いかけてから、踵を返した。とんとんと身軽に降りてゆく総司の背に、歳三が声をかけた。
「俺の目の届く処にいるんだぞ」
「はぁい」
 そう返事しつつ、ちょっと唇を尖らせてしまう。


(兄さんったら、いつまでも子ども扱いして)


 そろそろ大人扱いして欲しかった。
 かわいい弟でなく、恋人として対して欲しかったのだ。でなければ、総司も覚悟の決めようがない。
 実は、今度の旅が意味するものを、知っていたのだ。知らぬ顔をしながら、兄がどんな気持ちでこの旅を決めたのか、よくわかっていた。
 兄が自分に何を望んでいるのかも。
 だが、わかったからと云って、はいそうですかとすぐ受け入れられるものではない。総司だって、怖いのだ。
 想像するだけで顔が赤くなってしまう事だが、もし……体を繋げたら、何かが変わってしまいそうだった。
 閨の中で、兄が男として振る舞う様を、見るのが怖い。男としての顔を見せられるのが怖い。
 総司にとって、兄はいつまでもだい好きな兄であり、そうであって欲しかった。だが、きっと体を繋げれば、少なくとも自分にとっての兄は男になってしまう。
 それがたまらなく怖かった。


(このままじゃ、兄さんも辛いままだってわかっているんだけど……)


 総司は石段を下りきると、鳥居の方へ歩いていきながら思った。
 湖から風が吹きつけ、少年の柔らかな髪をさらさらとかき乱してゆく。それを片手でおさえながら、総司は大きな瞳で鳥居を見上げた。
 真っ赤な鳥居が湖と山々に映え、まるで絵のようだ。
「……きれい」
 思わず小さく呟いた。
 その瞬間、だった。
 いつのまに現われたのか、殺気じみた気配が傍らに迫っていた。
 ふり返った時には、もう遅い。
「……っ!」
 強烈な一撃を鳩尾に食らわされ、総司は小さく呻いた。そのまま、ぐったりと意識を失い、地面へ倒れこむ。
 細い躯は素早く担ぎあげられた。人気がない事を確かめ、男はあっという間に総司を背負って駆けだしてゆく。
 男の肩先で、少年の細い手が力なく揺れた……。