後から考えれば、迂闊だったとしか云いようがない。
 だが、まさかあんな処で、攫われたりするとは思ってもみなかったのだ。
 気がついた時は、もう遅かった。
 会話の間に、確かめるつもりで視線をやったそこには、総司の姿はなくて。
「……総司?」
 歳三は眉を顰め、素早く視線を走らせた。だが、見える範囲に、あの華奢な少年の姿はない。
「申し訳ない」
 律儀に断ってから、歳三は敏捷な足取りで段を駆け下りた。杉林を抜ければ、視界が広がり、湖と鳥居が迫ってくる。だが、そこに人影は全くなかった。しんと静まり返っている。
「総司!?」
 大声でその名を呼んだが、むろんのこと答は返らなかった。
 歳三は鋭く息を呑んだ。
 あの弟が彼に何の断りもなく、どこかへ行くはずもないのだ。
 しかも、見れば、湖の畔に───
「!」
 何か落ちているのを見て拾いあげれば、それは総司の編み笠だった。
 とたん、歳三は心の臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。指のさきがすうっと冷たくなる。
 起こった事は明白だった。総司は自らこの場から消えたのではない。無理やり拐かされたのだ。
 それを考えたとたん、腹の底からどす黒い感情が込みあげた。以前、総司を傷つけられた時にも覚えた、昏い燻るような怒りだ。
「……っ」
 歳三はぎりっと奥歯を噛みしめた。そこへ、松山が走り寄ってくる。
「どうされました」
「総司が……弟が拐かされたようです」
「! 何と」
 松山は驚き、周囲を見回した。それから、口早に云う。
「まだ時はさほどたっておらん故、追いつけるかもしれません。宿にでも連れ込まれたら事だ。早く手分けして探しましょう」
 手下のもの達に指示してくれる松山に感謝しながら、歳三は勢いよく走り出した。方角から行って、旅籠がある方だろうと検討をつける。


(総司……!)


 奪われたものの大きさに、目眩がしそうだった。












 どさっと地面へ投げ出された。
 男が乱暴に総司の躯を小屋裏の地面へ投げ出したのだ。その衝撃で、総司は小さく呻いた。
「……う……」
 薄く目を開いても見知らぬ光景しかなく、何がどうなったのかわからない。
 無意識のうちに身を捩ると、肩を凄まじい力で掴まれた。
「勝手に動くな!」
 見上げると、若い男の顔が目に映った。青く痩せた顔だちで、額に青筋がたっているあたりがいかにも神経質そうだ。
 だが、その顔に、総司は見覚えがあった。
「あなた……確か、さっきの」
 手拭いを拾い、じっと自分を見ていた男だ。
 だが、いったい何故、その男が自分にこんな乱暴な事をしているのか。
 さっぱりわからぬまま、総司はゆるゆると首をふった。
「離して下さい」
「絶対に逃がさないっ!」
 男は上ずった声で叫んだ。肩を掴む手はわなわな震え、その目は血走っている。
 尋常でない男の様に、総司は目を見開いた。


(……怖い! 兄さん、助けて……!)


 体中が竦み上がり、身動き一つできなかった。逃げようと叫ぼうと思うのだが、自分の体の何もかもが云うことを聞いてくれない。
 総司はのろのろと首をふった。
「……っ、離し…て……」
「おまえはおれのものだ。やっと見つけた、おれに叶ったきれいなものを。おまえはおれに相応しいんだ」
「云ってる事の意味がわかりません。私は……っ」
「離すものか! おまえはおれのものだッ」
「ぃ、や…いやあっ!」
 凄まじい力で抱きしめてくる男に、総司はとうとう悲鳴をあげた。嫌悪感で、総毛立つ。
 躯中が細かく震えだし、吐き気までした。
 必死になってもがき、逃れようとする。
 その瞬間だった。
 不意に男が後ろから襟首を掴まれ、引きはがされた。そのまま地面へと叩きつけられる。
「……ッ!?」
 慌てて起き上がりかけた男の顎を下から殴りつけ、ひっくり返った処に、腹へ鋭く蹴りを入れた。そのまま、悲鳴をあげる男を容赦なく叩きのめしてゆく。
 無言で続けられる凄まじい暴行に、総司は呆然となった。
 端正な横顔は冷酷そのものであり、一切の表情がなかった。だが、それだけに尚更恐ろしい。背筋が寒くなるほど、鬼気迫るものがあった。
 他の者も同様らしく、皆、固唾を呑んだまま見守り、誰もとめるものはいない。
「……兄…さん…っ」
 ようやく絞り出した声は、とても弱々しかった。
 だが、歳三の肩がびくりと震えた。眦をつりあげた切れ長の目が、総司を見る。
 それに、必死になって云った。
「兄さん……もう、やめて。やめて下さい」
「……」
「私は大丈夫だから、だから……お願い」
「……殺したってあきたらねぇ」
 低い声で呟き、歳三は男の手を踏みつけた。ぎゃあっと悲鳴をあげる男の手をぎりぎり踏みつけながら、凄味のある声音で云いきった。
「二度と顔見せるんじゃねぇぞ」
「……っ」
「今度その汚ねぇ面を見せやがったら、三途の川へ叩き込んでやる」
 男は血まみれの顔で、がくがくと頷いた。
 それに薄い笑みをうかべ、歳三は男から退いた。総司の方をふり向くと、僅かに目を細める。
「兄さん……」
 小さく呼んだ総司に、歳三はまるで自分がどこか痛むように顔を顰めた。それから、歩み寄ると、総司の腕を掴んで覗き込む。
「どこも怪我はねぇか? 大丈夫か」
「は、はい」
 こくりと頷いた総司に安堵の息をつき、歳三はそれでも心配そうに華奢な少年の全身に視線を走らせた。
「痛い処はねぇか。無理やり連れてこられて、怖かっただろ」
「怖かった…です。でも……」
 怯えたように男の方を見やる総司に、歳三は小さく笑った。そっと頭を己の胸もとに抱き寄せてやりながら、囁きかける。
「もう心配ねぇよ。あれだけやっときゃ、弱い輩ほど手出しはしねぇ」
「そうじゃなくて、兄さん……」
「? 何だ」
「兄さんがあんな事をするなんて……」
 口ごもってしまった総司に、歳三の黒い瞳が翳った。
 先程の冷たい無表情とはまるで違う、どこか不安げな表情で可愛い恋人を覗き込んだ。
「……俺が怖いか」
 そう訊ねた歳三に、総司は俯いたまま小さく首をふった。だが、ぎゅっと両手を握りしめている。
 歳三は目を伏せ、柔らかな髪をそっと撫でた。
「あんな事……おまえには絶対にしねぇよ。だが、あれもおまえを守るためだ。可愛いおまえを守るためにだけ、俺は鬼になるんだ」
「鬼……に?」
 思わず問いかけた総司に、歳三は静かに頷いた。
「どんなおとなしい男だって、己が一番大切な者のためには鬼となるさ。俺にとっての一番は、おまえだ。だから、おまえを奪おうとする奴、傷つける奴は、何があっても絶対に許さねぇ」
 きっぱりと云いきった歳三を、総司は息をつめたまま見つめた。
 それに優しく笑いかけてから、歳三は総司の細い躯をそっと両腕に抱きあげた。驚いて身もがく総司に、
「何ともないって云いながら、おまえ足挫いてるだろ」
 と、あててみせる。
 それに、総司は男の腕の中でぴたりと動きをとめてしまった。大きな瞳を見開き、「どうして」と呟いている。
 歳三は思わず苦笑した。
「おまえの動きを見れば、わかるさ。とりあえず、早めに宿に入ろう」
「はい」
 ずっと事の成り行きを見守っていた松山に、歳三は頭を下げた。
「手伝って下さり、ありがとうございました。この礼は、いずれ又」
「いや、お互いさまですからお気にならさず」
 人の良い笑顔で、松山たちは見送ってくれた。それに二人して頭を下げてから、宿へ向う。
 湖に、陽の光がきらきらと輝いていた。












 宿へ入り、部屋に落ち着いたとたんだった。
 歳三は総司の細い腕を掴んで引き寄せると、息もとまるほどその華奢な躯を抱きしめた。
 まるでその躯の感触を確かめるように抱きすくめ、髪を背を、狂おしげに大きな掌で撫でてくる。
 額に頬に、彼の唇がふれるのを感じながら、総司は目を瞬いた。
「……兄さん?」
「……」
「兄さん、ね、どうしたの……?」
 問いかけに、歳三はしばらくの間何も答えなかった。だが、やがて大きくため息をつくと、総司の躯を膝上に抱きあげながら云った。
「……気が狂うかと思ったんだ」
「え?」
「おまえの姿が消えちまって、どこにもいなくて……拐かされたとわかって。どうして一瞬でも目を離したんだ、一緒に行かなかったんだって後悔して、おまえが今酷い目にあってるんじゃないか、怖がって泣いてるんじゃないかと思うと、もう頭がおかしくなっちまいそうで……」
「兄さん……」
 総司は目を見開いた。ふっくらした桜色の唇が震える。
 それを見下ろしながら、歳三はその白い手をとった。細い指さきを撫でてやりながら、言葉をつづける。
「俺は、本当におまえの事になると駄目だな。すぐ頭に血がのぼっちまって。松山さん達がいなかったら、到底探し出せなかっただろう」
「ごめんなさい、兄さん」
 総司は小さな声で謝った。
 どれだけ、この兄に心配をかけたかと思うと、胸の奥がつんっと痛くなる。
「心配かけて……本当にごめんなさい」
「おまえが謝る事じゃねぇよ」
 そう云うと、歳三は総司のなめらかな頬に優しく口づけてくれた。そのまま抱きすくめ、首筋にも口づけようとしてくる。
「あ」
 総司は恥ずかしくて身を捩った。とたん、足がずきっと響き、思わず顔をしかめる。
「! すまねぇ」
 歳三は慌てて身をおこし、総司の足に手をやった。先程手当はしてやったが、まだ少し痛むようだ。
「大丈夫か」
「大丈夫です。少し休んだら、平気になると思うから」
「無理するな」
「でも、お風呂はいいですよね。せっかくの温泉だもの」
「俺が抱いて連れていってやるよ」
「え、えぇっ!?」
 ごくごく当然のように云ってのけた歳三に、総司は耳朶まで真っ赤になってしまった。あわてて両手をふりまわす。
「! そ、そんなの絶対に嫌です! 恥ずかしくて出来るはずないでしょっ」
「何が恥ずかしいんだ。怪我してるなら当然だろ」
「でも、いや。絶対に嫌です。這ってでも自分で行きます」
「……」
 足を挫いている状態なら、抱いていった方がいいに決まっている。だが、本人がここまで嫌だというなら、無理強いする事はできないだろう。
 儚げで可憐な外見をしているが、これで総司はなかなかに強情なのだ。
「……わかったよ」
 歳三は不承不承だったが、頷いた。












 だが、当然ながらそう簡単に足の怪我が治るはずもなくて。
 総司は抱き上げられはしなかったが、歳三に支えてもらう形で、浴場へ向う事となった。
 入ってみると、幸いな事に他に人気はない。もともと、それ程大きな宿ではないので泊まり客も歳三たち以外、一組しかないという話だった。それも年配の夫婦連れであり、もうとっくの昔に湯を済ませていた。
「おまえの足の事もあるし、丁度良かったな」
 ほっとしたように笑う歳三に、総司はこくりと頷いた。
 歳三に手伝ってもらって着物を脱ぎ、風呂場へと足を踏み入れる。だが、その間、総司はずっと俯いたままだった。それを不審に思った歳三が訊ねかける。
「どうした、足が痛むのか」
「……いいえ、違います」
「じゃあ、どうしたんだ」
「どうしたって……その……」
 総司はなめらかな頬に血をのぼらせ、ますます俯いてしまった。そっと長い睫毛が伏せられる。
「に、兄さんと……お風呂なんて、久しぶりだから……」
「あぁ、そうだな」
「好きって云いあってから、その…初めてだし、それで……」
 恥ずかしそうに口ごもる総司に、歳三は頬が緩むのをおさえきれなかった。総司の細い肩を抱く手にも力がこもる。


 可愛くて可愛くてたまらなかった。
 どうしてやろうかと、わからなくなるぐらい、可愛い。
 こんなにも愛しい存在が己のものだという事が、世にも稀な僥倖に思えた。否、そうなのだ。
 総司は、自分にとってかけがえのない大切な宝物なのだから……。


「……可愛いな、総司」
 思わず歳三は身をかがめ、その紅潮した頬に口づけた。唇にふれるすべすべした肌の感触が心地よい。そのまま首筋へとすべらせ、そっと耳朶に歯をたてた。
「あ」
 ぴくんっと震える総司に、声をたてて笑う。
 だが、こんな処で事に及ぶ気は全くなかった。初めてなのだ。できるだけ心地よく、甘やかな一時にしてやりたい。
 歳三は躯を洗うと、湯の中へ身を沈めた。総司も髪や躯を洗ってから、ちゃぽんと湯へ入ってくる。
 窓から暮れなずむ茜色の空が覗き、爽やかな風が吹き込んできた。それがたまらなく心地よい。温泉独特の湯の匂いとあいまって、旅情というものを感じさせる。
「気持ちいいな」
 そう呟いた歳三に、湯を掌ですくっていた総司が微笑った。
「はい、とても気持ちいいです」
「あんな事があったが、やはり来て良かったと思うよ」
「私もです。兄さんと旅なんて……初めてですし」
「小さな旅は繰り返していたがな」
「え、そうなのですか」
「旅というか、引っ越しか。小さなおまえを連れて、あちこち逃げ回っていたから……」
 目を僅かに眇め呟く歳三に、総司は小さく息を呑んだ。


 あの辛い頃を越えたからこそ、今の二人があるのだが、あの頃どれだけこの兄に苦労をかけたかと思うと、いつもやるせない気持ちになってしまった。
 常に自分よりも総司の事だけを考え、守ってきてくれた歳三が、誰よりも好きだとあらためて思う。
 この兄が望むことなら、何でもしてあげたいと思うほどに……。


「……兄さん」
 そっと呼びかけると、歳三は「うん?」という風に小首をかしげた。
 それに、総司は長い睫毛を伏せたまま、小さな声で云った。
「あのね……私、わかっているのです」
「? 何が」
「この旅の意味。兄さんがどんな思いで、私を旅に連れてきたのか……」
「……」
 沈黙してしまった兄に、総司はおずおずと顔をあげた。大きな瞳でじっと見ると、歳三は慌てたように視線をそらせた。気のせいか、精悍な顔が少し赤らんでいる。
 それに、総司は言葉をつづけた。
「ずっと我慢させてきて、ごめんなさい。でも、怖かったのです。私も兄さんも、何かが変わってしまいそうで……怖くて、どうしても踏み出す事が出来なかった」
「……総司、俺は」
 歳三は云いかけ、一瞬だけ唇を噛みしめた。それから、僅かに目を伏せて答える。
「俺は、おまえの気持ちがよくわかるよ。怖いって思うのは当然だし、実際……俺も怖いんだ」
「兄さんが?」
 びっくりしたように目を見開く総司に、歳三は微かに笑ってみせた。
「あぁ、怖いさ。こんなにも綺麗で清らかなおまえを、本当に俺のものにしていいのか……汚してしまわないか、不安で不安でたまらねぇ。だからこそ、何だかんだ云いながら、手出しできなかったのさ」
「兄さん……」
「今だって、すげぇ緊張している。こうして風呂に入っていながら、おまえを身近に感じながら、どうしようってあれこれ考えてばかりだ」
 そう云ってから、歳三は総司の顔を覗き込んだ。かるく小首をかしげながら、訊ねてくる。
「こんな俺は情けねぇか? 呆れるか?」
「……そんなの」
 総司はふるふると首をふった。手をのばし、歳三の躯にぎゅっとしがみついた。湯の中で素肌がふれあい、心地よい。
「そんなの、情けなくなんかありません。兄さんも不安だったと云ってくれて、ほっとしたもの。心がかるくなったもの」
「総司……」
「兄さん、好き……だい好き」
 甘い声で囁いてくる総司に、歳三の瞳の色がとけるように優しくなった。華奢な躯を抱きすくめ、その桜色の小さな唇をふさぐ。
 柔らかく深く唇を重ね、甘い口づけに酔いしれた。手にふれるすべらかな肌は夢のように心地よく、口づけるたびに震える幼い恋人がたまらなく愛おしい。
「総司……早くおまえを愛したい」
 もうたまらないとばかりに囁きながら、頬に首筋に口づける歳三に、総司は耳朶まで真っ赤になった。男の逞しい胸もとに縋りつきながら、おずおずとだったが、こくりと小さく頷く。
 そのいじらしい仕草を見た瞬間、歳三は込みあげるような愛しさで、息さえ出来なかった。愛してると告げる事も、口づける事もできなくて、ただ、その少年の細い躯を抱きしめつづける。
 たちこめる湯気の中で、総司の手がおずおずと彼の背にまわされた。












 真夜中、ふと目が覚めた。
 部屋の薄暗さに、もうすぐ夜明けが近いのかなと寝返りをうとうとした瞬間、小さく身を竦めてしまう。
「……ぁ」
 思わずあげてしまった声に、おそるおそる様子を見たが、歳三は目を覚ましていないようだった。総司の躯を腕に抱いたまま、ぐっすり寝入っている。
 それにほっとしながら、総司は身をそっと丸めた。
 薄闇の中、歳三の寝顔を見つめる。
 髪が僅かに乱れているが、それさえも男の艶を感じさせる端正な顔だちだった。微かに開かれた唇の形のよさ、男にしては長い睫毛。すうっと通った鼻筋。何もかもが驚くほど美しいのだ。
 総司は思わずうっとりと見惚れ、だが、すぐに頬を赤らめた。
 寝着の合わせから覗いた男の逞しい肩に、爪痕を見つけたのだ。おそらく、あの時にしがみついた総司がつけたものなのだろう。記憶は定かではないが、背中なども爪痕だらけになっているに違いなかった。
 それが申し訳なく、一方でたまらなく気恥ずかしい。


(私、本当に兄さんに……)


 この躯に、本当に兄を受け入れたのだ。
 躯の隅々まで、優しく激しく愛された。
 それは、まるで夢のような一時だった。
 何かが変わってしまうと怯えていた総司だったが、それは間違いだとわかった。褥の中でも、兄は兄だった。男の欲望にその黒い瞳はしっとりと濡れていたが、それでも、優しい声で何度も睦言を囁き、抱きしめ、口づけてくれた。
 歳三が歳三である事にかわりがないのなら、何を恐れる事があるだろう。
 ここにいるのは、だい好きな兄なのだから。
 それ故、総司は心も躯も柔らかく開き、歳三を受け入れたのだ。
 むろん、苦痛がなかったと云えば嘘になる。だが、歳三は急がず総司を甘くとろかせた上で、慎重に躯を重ねてくれた。そのためか、思ったよりも苦痛は少なく、後半はわきあがる甘い疼きにすすり泣くばかりだった。
 そんな総司を、歳三は優しく抱きしめ、快楽の彼方へと導いたのだ。
 彼が果てる時にもらした吐息は、男の艶にみちていて、総司はそれだけで躯中が熱くなった。たまらず兄の背に両手をまわして縋りつくと、きつく抱きしめてくれた。汗ばんだ兄の躯も熱く火照っていて、総司は込みあげる幸せに泣きそうになった。
 今でも思い出せば頬が火照るが、それでも、幸せな気持ちだけは変わらなくて。
「……兄さん」
 そっと身を寄り添わせれば、歳三は夢心地のまま総司の躯を抱き寄せてくれた。すっぽりと守るように両腕で抱きすくめ、深い眠りへと落ちてゆく。
「だい好き……」
 小さな小さな声で囁いて、総司はそっと目を閉じたのだった。












 雀の声もちゅんちゅんと賑やかな朝だった。
 歳三は目を開いてから、しばらくぼんやりと天井を見上げていたが、すぐ我に返った。
 そこが家ではなく、箱根の宿である事を思いだしたのだ。
 そして、昨夜、自分はようやく───
 思わず身じろいだ瞬間、彼の腕の中で小さく声があがった。
「……ん」
 甘い、まるで仔猫のような声だ。
 それに歳三は、小さく微笑んだ。
 見下ろせば、白い褥にさらさらした絹糸のような黒髪が乱れている。布団からのぞく細い肩、かるく身を丸めるようにして彼の胸もとに顔をうずめて眠る少年。
 それは、誰よりも愛しい存在だった。
 大切な大切な、宝物だった。
 少年の日、この手で抱き上げた瞬間、花のように笑いかけてくれた赤子。あの時感じた嬉しさ、歓びは、今もこの胸の奥に宿っている。
 あの時、誓ったのだ。
 この子を守っていこうと。
 守って愛して、誰よりも幸せにしてやろうと……。
「……総司」
 歳三は頭を傾け、そっと少年の頬に口づけを落とした。すべすべした感触が唇に心地よい。
「愛してるよ、おまえだけを愛してる」
 そう囁きかけると、総司は小さく身じろいだ。まだ夢の中にあるのだが、それでも、桜色の唇で幸せそうに微笑んでくれる。
 幸せそうな可愛い寝顔を見つめていると、長い睫毛が小さく震えた。ゆっくりと目が開き、ぼんやりと歳三を見上げてくる。
「総司……おはよう」
 優しく髪を撫でながら微笑いかけてやると、総司は小さな声で「おはようございます」と挨拶した。
 それから、不思議そうに周囲を見回し、歳三に視線を戻したところで、今の状況や昨夜の事を思いだしたらしい。ぼんっと音が出そうなぐらい、顔から耳まで真っ赤になってしまった。
「!」
 慌てて布団の中へもぐりこむ。
 それに、歳三は思わず声をあげて笑ってしまった。
「総司、総司」
 すっぽりと両腕で抱きすくめてやりながら、甘い声で囁きかける。
「すげぇ可愛い……可愛くて可愛くて、仕方がねぇよ」
「や、兄さん、恥ずかし……っ」
「恥ずかしいものか。おまえはやっと俺のものになってくれたんだ。もう離さねぇ、総司。おまえはずっといつまでも俺だけのものだ」
 そう云った歳三に、総司はおずおずと顔をのぞかせた。目元をまだ赤く染めているさまが、可憐で、また色っぽい。
 ちゅっと音をたてて口づけてやると、総司は桜色の唇を震わせた。
「私、兄さんだけの…もの?」
「あぁ、そうだ」
「じゃあ、じゃあね。兄さんも、私だけのものに……なってくれるの?」
 そう訊ねた総司に、歳三は幸せのあまり息がつまるかと思った。可愛い恋人への愛しさに、たまらなくなる。
 思わず身をおこすと、羞じらうのにも構わずその華奢な躯を膝上に抱きあげた。ぎゅっと抱きしめ、頬をすりよせる。
「あたり前だ。俺はおまえだけのものだ」
「兄さん」
「ずっとずっと前から、俺はおまえだけのものだよ」
 どこか切なく掠れた声で囁いてくれる兄に、総司は大きな瞳を潤ませた。歳三の逞しい胸もとに身を寄せると、その鼓動が聞こえる。
 幼い頃から聞いてきたそれが、何だかいつもと違うように聞こえた。
 あたたかく包みこむだけでなく、これからずっと一緒に歩んでゆこう──と、そう云ってくれているような……。
「……眠くなってきたのか」
 眠そうに目をこすった総司に、歳三が柔らかく訊ねた。それに、ううんと首をふるが、苦笑しながら頬を撫でられる。
「昨日は無理させたからな……いいさ、もう少しおやすみ」
「でも……」
「いい子だ、総司……おやすみ」
 あやすように優しい声で囁かれ、次第に瞼も重くなってくる。総司は歳三の腕の中で身を丸くすると、再び、眠りに落ちていった。
 それを、そっと褥に寝かせてやる歳三の瞳が、とけるように優しくなった。


 愛しい愛しい宝物。
 おまえのためなら、何でも出来る。
 どんな残酷な事でも、どんな辛い事でも。
 だから、総司。
 これからも、ずっと。
 ふたり共に……いつまでも。


 歳三は目を伏せ、優しく唇を重ねた。
 甘い吐息までもが愛おしい。
 己も褥の中に身をすべりこませ、その細い躯をそっと抱きしめた。柔らかく波うつ髪が頬にふれる。
「……愛してるよ」
 心をこめて囁いた歳三は、総司を腕に抱いたまま、静かに目を閉じた。その広い背中に、少年の手がまわされる。
 そして。
 静かに深く、柔らかに。
 互いだけを見つめ、愛しあう恋人たちは、幸せな夢へと漕ぎだしていったのだった。



 小春日和の中で。




















[あとがき]
 これにて、「恋待蕾」完結とさせて頂きます。
 どうしても総ちゃんが歳三兄と身も心も結ばれた後というのが、想像できなくて、これは書けないなと思いましたので、完結とさせて頂きました。
 優美さま、優美さまの素敵なリクにより始まったシリーズ、完結させて頂く事になりました。申し訳ありません。そして、ありがとうございました。
 「恋待蕾」を読んで下さった皆様、本当にありがとうございました♪