「そう、そう──上手いな」
「綺麗になってますか?」
「あぁ、これなら店にも出せるだろう」
「やった! 嬉しいっ」
嗄れた男の声と、可愛らしい声が土間に響いていた。
ちゅんちゅんと雀の声も賑やかな、清々しい朝だ。
廊下を歩いていた八郎は小首をかしげ、通りかかった小稲を呼びとめた。
「よ、おはようさん」
「おはよう。えらく早起きね」
「あの子の事が気になってな」
「総司さんのこと?」
くすっと小稲は笑った。それから、土間の方へ視線をやる。
八郎も戸口から覗きながら、呟いた。
「何か、とけ込んでるねぇ」
「えらく源さんが気にいっちゃって……まぁ、うちの板前の手伝い、この間やめちゃった処だから」
「けどさ、源さんは温厚だが、仕事には厳しい人だろうが」
「それがね、あの子、源さんも目を瞠るほどの腕の持ち主だったのよ」
小稲はうきうきした口調で、楽しそうに云った。
「朝、わたしがここへ来てみたら、もう二人して一生懸命朝餉の支度をしていて。何でも、早起きした総司さんがここへ来て、何か手伝わせて欲しいって云ったらしいの。で、手伝わせてみたら、びっくりするぐらい上手で」
「ふうん」
「総司さん、料理屋に弟子入りする予定だったらしいわね。それで、まぁしばらくの間だけでいいから、ここで働いてみたら?って云ったんだけど……」
小稲はかるく小首をかしげた。
「何か、まずかった?」
不意に、八郎が渋面をつくったのだ。がしがしと手拭いで首筋を拭いながら、うーんと唸っている。
「どうしたのよ、八郎さんが連れてきた子じゃない」
「それはそうだが……あの子、家出みたいだしなぁ。しかも、すげぇ可愛がってる風の兄貴がいるのさ」
「あら、だったらご挨拶にいかなくちゃ」
「それはやめといた方がいいだろうな」
「どうして?」
不思議そうな小稲に、八郎は苦笑をうかべた。
「前にオレがあの子に甘酒馳走したら、ものすごい形相で現われてひっ攫って行ったんだ。下手すりゃ、殴られるところだった」
「それって……本当の兄弟というより、もしかして……」
「恋人同士ってとこじゃねぇか」
そう呟いた八郎に、小稲は「あら〜♪」と目を輝かせた。嬉しそうに声を弾ませながら、訊ねてくる。
「ね、ね? その相手の人って、男前だった?」
「あ……うん。まぁな」
「そうよね! 絶対そうだと思ったのよ」
「何で」
「だって、あの子、あーんなにも可愛いのよ。余程いい男が寄り添わなきゃ、似合わないもの」
「じゃ、オレは?」
「八郎さんは遊び人風だからいけるけど、それもあたし限定」
くすっと笑った小稲は、八郎に頬を指さきで突っついた。
「だから、ね? 浮気しちゃ駄目よ」
「あたり前だろ」
苦笑してから、八郎はふと視線を厨房の方へやった。彼に気がついた総司が慌てて「おはようございます!」と元気よく挨拶してくる。
それに「おはよ」と手をあげてから、小稲に云った。
「ま、あっちの方はオレが何とかするわ」
「何とかって……相手さんの居場所、わかってるの?
「いや、わかってねぇけど……たぶん、そのうちここに現われるだろうよ」
「あら、まぁ」
小稲は楽しそうに微笑んだ。きらきら光る瞳で、一生懸命働いている総司の方を見やる。
「あの子、愛されてるのねぇ」
「そりゃもう、どっぷりとな」
肩をすくめた八郎は、この後の騒動を思って、ちょっとため息をついた。
総司は外へ出ると、「んー」とのびをした。
今日も青空が広がり、とても心地がよい。
そよそよとわたってくる風が髪を柔らかく吹き乱し、それを総司はかるく手でおさえた。
後ろをふり返ってみれば、賑やかだった。出立も終わった後、昼飯前の一時は部屋の後片付けやら何やらで大変なのだ。
総司も少しは手伝ったが、それよりも板場の方をと云われ行ってみれば、源三郎に「これを買ってきてくれ」とおつかいを頼まれた。柚が足らないのだという。その他にも細々としたものがあり、総司はまとめて買ってくる事にしたのだ。
この穂波へきて、もう三日の時が過ぎていた。
総司は毎日、忙しく過ごしている。板場で源三郎に料理を習い手伝い、あっという間に終わる日々だった。忙しいがとても充実して、楽しい。
もっとも夜になれば、兄を想って枕を濡らすことはしばしばで、今もほんの少し思い出しただけで、じんわり涙がにじんでしまいそうだった。
(……兄さん)
愛しいと、大好きだと。
そう思うからこそ、離れなければいけなかった。
大好きな人の幸福を願うのは当然だから。足枷になっているのなら、早く離れてあげなければいけないから。
だから。
(これで良かった…んだよね? 私さえ消えれば、それで……)
そう自分に云いきかせて。だが、そのすぐ傍から、はぁっとため息がもれた。
とたん、傍らから声がかけられた。
「総司」
どきんっとしてふり返った総司は、その姿を見たとたん、ほっと息をついた。
暖簾をかきわけ、八郎が出てくる処だったのだ。優しく微笑みながら、話しかけてくる。
「どうしたんだい、こんな処に突っ立って」
「いえ……おつかいに行こうと思って」
「源さんに頼まれたのかい?」
「えぇ」
「じゃ、オレも一緒に行こうかな」
そう云ってくれた八郎に、総司は嬉しそうに笑った。
むろん、一人でも買い物ぐらい行けるが、八郎はいつも面白い事や楽しい事を話してくれるので、一緒にいると明るい気持ちになれるのだ。
兄の事を考えれば気が沈みがちな総司にとって、八郎の気遣いはとても嬉しかった。
「はい」
こっくり頷いた総司に、八郎は小さく笑った。二人ならんでゆっくり歩き出そうとする。
その時、だった。
「!」
不意に、総司の目が大きく見開かれた。すうっと息を吸い込む音がしたかと思うと、顔色が真っ青になってしまう。
突然、棒立ちになってしまった総司に、八郎は眉を顰めた。
「? どうしたんだ……?」
訊ねかけ、その理由に、ようやく気がついた。
彼らの真っ正面、往来の角の処に、一人の若い男が佇んでいたのだ。
すらりとした長身に、紺木綿の印半纏をまとっている。
その端正な顔だちは憔悴の色が濃く、だが、黒い瞳は獣のように鋭い光を放っていた。固く引き結ばれた口許が、男の中で押し殺された激情を伺わせる。
黒い怒りの炎が、しなやかな男の躯を包み込んでいるような──そんな印象さえあたえた。
「……に、兄さん……」
総司が怯えたように、ぎゅっと両手を握りしめた。
それに、八郎はちらりと視線をやってから、吐息をついた。
そろそろ来る頃じゃないかと思っていたが、やはりそうだ。きっと連れ戻しに来たのだろう。だが、おそらく総司自身は帰る事を望んでない。
なら、どちらの味方をするのか、決まりきっていた。
「……」
歳三はまっすぐ総司だけを見つめたまま、歩み寄ってきた。もともと武家の出だけあって、一分の隙もない身ごなしだ。
それに、総司はおずおずと俯いた。
「兄さん……」
「……総司」
低い声だった。
怒りを堪えている事がよくわかる、低い声だ。
それに、総司の華奢な躯がびくりと震えた。
「ご、ごめん…なさい……っ」
「……」
「あの、勝手に家を出て……で、でも、私は……」
「帰ろう、総司」
弟の言葉を遮り、歳三はすっと片手をさし出した。それを、総司は俯いたまま、兄の大きな手だけを見つめる。
いつもいつも。
この手にひかれて、歩いてきた。
総司を守り、慈しみ。
愛してくれた、だい好きな人の手……。
「俺たちの家に帰ろう。おまえが帰るべきは、あそこしかないんじゃねぇのか」
「兄さん……」
「随分探したんだ。まさか、宿屋にいると思わなかったから手こずっちまった。けど……もう気も済んだだろう、俺と一緒に帰ろう」
「……」
歳三の言葉に、総司は不意に顔をあげた。
大きな瞳で兄を見つめ、ふるりと首をふった。
「気が済んでなんか……ない」
「総司」
「そういう事じゃないから。私、独り立ちしたくて、家を出たの。だから、もう帰らない」
「総司、いい加減にしろ。勝手に家を出て、俺が心配しねぇはずないだろうが。どれだけ探し回ったと……」
「わかってる、勝手に家を出たことは謝ります。でも! あの前の夜に話したでしょう? 独り立ちしたいって、大人になりたいって。だから、私は家を出たのです。気が済むとか、済まないとか、そういう問題じゃない」
大人びた口調で一気に云いきった総司を、歳三は唖然とした表情で見下ろした。
しばらくの間、そうやって目を見開いたまま眺めていたが、やがて、ゆっくりと、その顔を苦痛じみたものに歪めた。
喉奥から、押し殺されたような声がもれる。
「……俺が嫌に、なったって訳か……」
「兄さん」
「俺が嫌になった。だから、独り立ちなんて云いだしたのだろう? なら、はっきりそう云えばいい!」
「兄さん、私は……っ」
総司は言葉をつまらせた。
今でも、だい好き。
好き、愛してる。
だけど、兄さんの幸せを本当に願うのなら、今ここで「嫌いになった」と嘘をついた方がいいのだろうか。
たとえ一瞬でも兄を傷つける事になっても、後々の事を考えれば───
総司は息を吸い込んだ。
ゆっくりと、ある言葉を口にしようとする。
その瞬間だった。
「……ちょっと待った」
不意に、二人の間に声が割り込んだ。
見上げれば、いつのまにか、八郎がするりと総司の前に立ちふさがっていた。総司の小柄な躯を背に庇うような格好だった。
「二人とも頭熱くなりすぎだ。まずい事を口にしねぇうちに、今日はいったんおさめた方がいいんじゃねぇのかい」
「……」
歳三の目がすうっと細められた。
頭に血がのぼっていたため、今まで総司しか目に入っていなかったのだ。だが、相手が誰か、すぐわかったのだろう。
低い声が唸るように呟いた。
「……おまえは、あの時の……」
「正月に神社で会った男だよ。今回、ひょんな縁から総司を引き取る事になってね」
「引き取る? どういう意味だ」
「この宿で一緒に暮らしているのさ」
後ろの宿の方へ顎をしゃくってみせた八郎に、歳三も総司も顔色を変えた。
総司は、いくら何でもそんな云い方は誤解を招くー!と真っ赤になってしまったし、歳三は歳三で、告げられた言葉の重大さと総司の様子に、完全に誤解してしまっている。
わなわなと握りしめた拳が震えた。
「……何だ…と……っ」
「だから、総司はこの宿でオレと一緒に暮らしてるんだ。けっこう楽しくやってるぜ?」
「おまえ……総司に手を出したのか」
「は? あぁ、そういう事ね。いや、まだ三日じゃさすがに」
あっけんからんと笑ってみせる八郎に、歳三の怒りは爆発寸前だった。今にも殴りかかりそうな兄の様子に、総司ははらはらして八郎の腕に手をかけた。
「八郎さん、あの……っ」
だが、その呼びかけ自体に、歳三は怒りの炎を燃え上がらせたようだった。きっと唇を引き結んだかと思うと、不意に前へ踏み込み、総司にむかって手をのばしてくる。
しかし、その手が総司にふれる事はなかった。
総司はびくっと躯を震わせかと思うと、八郎の背に隠れてしまったのだ。
「!?」
それを見た歳三の目が大きく見開かれた。
総司は己を拒み、他の男の背に逃げたのだ。
(……総…司……っ)
みるみるうちに、歳三の瞳が絶望の色に染められた。身の内を焦がすような嫉妬と怒りに、言葉も出ない。
そんな兄の様子に総司はすぐさま気づいたが、今更どうする事もできなかった。
避けたのは、嫌ったためなんかではない。
むしろ、好きだからだった。
だい好きだからこそ、兄の手にふれられれば、すべてが零れ落ちてしまう。心の中のものを全部、吐露して、みっともなく弱い自分を彼に見せてしまう。
本当は、ずっと傍にいたかった。
兄の腕の中で、優しい夢だけを見ていたかった。
だけど、でも。それじゃ、駄目だから。
いつまでも子どものままでいられるはずがないから。
だから────
「……ごめん…なさい」
小さな小さな声で告げた言葉に、応えは返らなかった。
おずおずと見上げてみれば、歳三は昏く沈んだ瞳でこちらを見つめていた。黒い炎がその瞳の奥で燃えるのを感じた瞬間、ふっと視線をそらせてしまう。
そのまま無言で背をむけ、歩き出した。後はもうふり返る事なく、去ってゆく。
(……兄さん……)
愛しい男の背を見つめ、総司は今にもこぼれそうな涙をこらえて、きつく唇を噛みしめた……。
「……成る程ね」
穂波に戻ってから、総司は八郎にすべてを話した。
巻き込んでしまった以上、何も話さない訳にはいかなかったのだ。
八郎は胡座をかき、片方の膝に頬杖をついた格好で聞いていたが、総司が話し終わると、僅かにため息をついた。
「そういう事情で家出をして……で、オレが巻き込まれちまった訳か」
「すみません」
「いや、いいけど。ややこしくしたのは、こっちみたいだし」
くすっと笑ってから、八郎は背をのばし「うーん」とかるくのびをした。
それから、総司の方をちらりと見やる。
「けどさ、これからどうするつもりなんだい?」
「……出来れば、ここで働かせて貰えれば……」
「それは、小稲も源さんも喜ぶだろうけど、あんたはそれでいいのかい?」
「……」
「本心は、あの兄さんの処に帰りたいんだろ?」
「……」
総司は深く俯いてしまった。膝上に置いた小さな手をぎゅっと握りしめている。
それを八郎は眺めた。
「あのさ」
「……はい」
「背伸びするの、やめたらどうだい?」
「え」
顔をあげた総司に、八郎は静かな声で云った。
「おまえさん、すげぇ無理してる。必死になって大人になろうとしている。けど……それって、いい事なのかい?」
「でも、私はもう十五です。働きに出るのも……」
「そりゃわかるよ。働きに出るのはいい事だ。けど、だからって、好きあった相手の元から逃げ出す事はねぇだろ」
「それは……私が兄さんの足手まといになるから……」
「足手まといになると、直接云われたのかい? さっきの様子じゃ、到底そうは思えなかったけどね。むしろ、おまえさんがいなきゃ生きてけないって感じだった。あの兄さんにとって、おまえさんは生き甲斐って奴なんじゃないのかい」
「……」
「思い出してみな」
大きな瞳でじっと見つめる総司にむかって、八郎は言葉をつづけた。
「おまえさんが今まで、あの兄さんから貰った言葉を。どんな風に云われてきたか、何を云われたか。その中で、一つでもおまえさんを邪魔に思ってるようなのがあったのなら、そりゃ仕方がねぇ。けど、そうでないのなら、あの兄さんがおまえさんの事をどれだけ大切にしてるか、よくよくわかるはずだと思うがね」
「……」
「今度のことで、どれだけあの兄さんが傷ついたかって事もさ」
「──」
黙り込んでしまった総司に、八郎は手をのばした。ぽんぽんっとかるく頭を叩いてやってから、優しい声で云った。
「よく考えてみな」
「八郎さん……」
「おれの目から見れば、おまえさんは無理して自分の気持ちを抑えすぎてるって気がするよ」
そう云ってから八郎は立ち上がった。部屋を横切り、静かに出てゆく。
遠ざかる足音を聞きながら、総司は目を閉じた。
(兄さんが私にくれた言葉……)
そんなの、数え切れない程だった。
まるで、ひらひら降り舞う花びらのように、彼があたえてくれた言葉。
幸せ。
夢。
優しさ。
『……好きだ、総司』
『俺はおまえがいないと生きていけねぇんだ。おまえがいるからこそ、俺は生きてゆける……総司、おまえは俺の宝物だ』
『総司、総司……好きだ……』
兄の甘やかに低められた声が耳奥に蘇ったとたん、総司の目に涙があふれた。
白いなめらかな頬を、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてゆく。
それを拭いもせぬまま、総司は嗚咽をあげて泣いた。
「兄さん……兄さん……兄…さん……!」
たまらなく逢いたかった。
どうしようもなく、兄に逢いたかった。
何がどうなっても構わない。何を犠牲にしても、それがどんなに悪い事であっても。
彼を好きだと思う気持ちだけは、絶対に変えられないのだから。
総司は不意に立ち上がると、部屋を飛び出した。廊下ですれ違った小稲が何か云っていたが、それに返事をする余裕もなく走り抜ける。
慌ただしく下駄に足を突っ込み、外へと駆け出した。
そして。
暖簾をくぐった瞬間、総司の目が大きく見開かれた……。
