青天の霹靂!
まさにこれがそうなのだ、と。
その時、歳三は思った。
「家を出るッ!?」
唖然とした顔で聞き返した歳三に、彼の可愛い可愛い──それこそ目の中にいれても痛くないぐらい可愛い弟、総司は、こっくりと頷いた。
長い睫毛を瞬かせ、大きな瞳でこちらをじっと見上げている。
今日の昼飯である握り飯をさし出した姿勢のままで、ちょっと手をのばしている姿は、いじらしくて一途で一生懸命で。もう、めちゃくちゃ可愛いのだが。
だが、しかし。
そのぷるんとした桜色の唇からもれた一言は、とんでもないものだった。
「はい、家を出るつもりです」
「……」
目を見開いて絶句している歳三の前で、総司は言葉をつづけた。
「あのね、お料理屋さんで修行をしようと思うのです。お仕事がしたいのです」
「……修行」
「うん。で、そこでは皆、お弟子さん住み込みだから……私もきちんとそうしようと思って。兄さんから独り立ちするにも、いい機会かな?と思って。だって、私……もう十五だし、それに」
「いや、ちょっと待てよ」
ようやく当初の衝撃から立直った歳三は、片手をあげてみせた。それから、問いかける。
「料理屋で修行するって?」
「はい」
「家を出て、そこに住み込むって?」
「はい」
「独り立ちするのに、いい機会だって?」
「そう思うんです。だって……」
「冗談じゃねぇよッ!」
突然、歳三が総司の言葉を遮り、叫んだ。
それに、総司がびくっとして目を見開く。
そんな弟の細い肩を掴み、歳三は荒々しく華奢な躯を引き寄せた。
「おまえは俺の弟だろう? いや、恋人だろっ? なのに、何でこの家を出なきゃいけねぇんだ!」
「だって」
総司は男の腕の中で、俯いた。その傾けられた項は細く、雪のように白い肌がどこか艶めかしくて、男の庇護欲をかきたてる。
「私……もう十五だし」
「だから?」
「そろそろ独り立ちして、きちんと働きたいのです。これ以上、兄さんに迷惑をかけたくないの」
「だから、何で迷惑になるんだ。俺は、おまえが好きなんだぞ。好きあってる二人が一緒にいるのは当然のことで、迷惑とかそういう事じゃ全然ねぇだろうが!」
「それはそうなんだけど、でも……」
口ごもってしまった総司に、歳三は形のよい眉を顰めた。
いったい、何だって、この可愛い弟が突然こんな事を云い出したのか、さっぱりわからない。
時があるのならよくよく話を聞いてやるところだが、生憎、今は慌ただしい朝だ。今請け負っている仕事は絶対に外せないものであるし、少し納期が迫ってきている。
一刻も早く仕事場へ行かなければならなかった。
「とにかく、話は後だ」
歳三は草鞋に足をつっこんで履きながら、口早に云った。
「帰ってから、おまえの話ちゃんと聞いてやるよ。けど、どのみち家を出るなんざ、絶対に許さなねぇからな」
「兄さん……」
「じゃ、いってくる」
何かまだ云いたげな総司を残し、歳三は家を出た。が、知らず知らずのうちに眉間に皺を刻み、険しい表情になってしまう。
(……まったく、何を考えているんだか。さっぱりわからねぇ)
はぁっとついたため息は、晴れ渡った朝の空に思いがけずよく響いた。
「……で、帰ってきたら、いなかったと」
斉藤はうんざりしたような表情で、そう云った。
それに、縁側に腰かけた歳三はがっくりと肩を落とし、手の中に顔をうずめたまま頷いた。
時は過ぎて、その日の夜である。
夕刻、帰宅してから駆けずり回っていたために、歳三は汗だくになっていた。先程も、お光の処から戻ったばかりだ。
「お光さん処にもいなかった訳ですね」
「……あぁ」
「となると、どこか……うーん、お磯ちゃんの処は」
「いの一番に聞いたら、あっちも大騒ぎだ。俺が総司を苛めたんじゃないかと、さんざん怒られたよ」
「苛めたのですか?」
「そんな事する訳ねぇだろうがっ」
思わず顔をあげて叫んだ歳三に、「そうですよねぇぇ」と頷きながら、斉藤はぐるりと部屋の中を見回した。それから、訊ねる。
「荷物はどうなっていたのです?」
「……荷物?」
「だから、総司の着物とか色々ですよ」
「!?」
やはり総司の事となると、この明敏な男も頭が回らなくなるのだろう。まったく確かめようともしていなかったのだ。
だんっと音をたてて、縁側から家の中へ駆けあがった。総司がいつも身の回りの着物などを入れている葛籠の蓋を、勢いよくあげてみる。
とたん、低い呻きがその唇からもれた。
「……無くなってる……!」
「全部ですか」
「そうじゃねぇが、ここ最近使っていた着物がない。それから、他にも身の回りの物も幾つか……」
「じゃあ」
深々と、斉藤はため息をついた。
「覚悟の家出ですね」
「──」
斉藤の言葉に、葛籠の中をぼうっと見下ろしていた歳三は、弾かれたように顔をあげた。
形のよい眉を顰め、まるでどこかが痛むような表情だ。
「……家…出……?」
「そうです。どう見ても、これは家出でしょう。朝云ってたとおり、実際に総司は家を出た訳です。たぶん、あなたから離れて独り立ちするために」
「そんな…こと!」
歳三はバンッと床を掌で荒々しく叩いた。
「そんな事、許した覚えはねぇよッ」
「とは云っても……」
「だいたい、朝いきなりだぞ! 突然、あいつは家を出たいとか、独り立ちしたいとか、云い出したんだ。こっちはもう驚くばかりで、唖然として」
「まぁ、そりゃ驚くでしょうね。けど、何で?」
「は?」
「いや、何でいきなりそんな事を、総司は云い出したのでしょうね」
腕を組んで柱に寄りかかり、斉藤は訝しげに呟いた。
それは実際、歳三がもつ疑問でもあった。
いったい、何故?
「……全然わからねぇよ」
「土方さんがわからないんじゃ、オレもわかりませんよ」
「……」
「まぁ何はともあれ、探すしかありませんよね」
凭れていた柱から背を起こしながら、斉藤は云った。
それに、歳三は乱れた前髪を片手でかきあげながら、僅かに目を細めた。きっと、その唇が固く引き結ばれる。
「……料理屋めぐり、だな」
「江戸にいったい何軒あるか考えただけで、気が遠くなりますけどね」
ため息をついた斉藤に、歳三はぴしゃりと云いきった。
「当然、おまえも手伝うんだぞ」
「……了解」
返事をしつつ、斉藤は喉もとまで出かかった問いかけをごくりと飲み込んだ。
だが、それは胸の奥底でじりっと疼く。
探すのはいい。
見つけるのもいい。
だけど、その後は?
いったい……どうするつもりなのですか?
口に出せぬ問いかけに、答が出せるはずもなかった。
さて、時は遡って。
その日の夕刻である。
茜色の陽光が射し始めた中を、総司はとぼとぼと歩いていた。
細い腕に抱えた風呂敷包みには着替えなどが入っている。どこから見ても家をでてきた格好だった。
だが、今夜どこに泊るのかさえ決まっていない。
「……どうしよう」
総司は道ばたで立ち止まると、しゅんとなって俯いた。
宣言どおり家を出てきたはいいが、前々から話をつけておいた料理屋へ行ってみると、そこの板前さんが倒れてしまって、弟子取りどころの騒ぎではなくなっていたのだ。
とりあえずお大事にと出てきた総司だったが、この後どうすればいいのか、全く途方にくれてしまっている。
今頃、兄は家へ帰り、総司の不在に気づいている事だろう。
きっと心配してるだろうなぁと、兄の端正な顔を思いうかべた、とたん、不安と懐かしさがこみあげ、じわっと涙が目に滲んでくる。
本当は、だい好きな兄のもとへ駆け戻りたかった。
独り立ちなんかしたくないし、本心を云ってしまえば、ずっとずっと兄の腕の中で甘えて、幸せにまどろんでいたかった。
(……でも)
総司はきゅっと唇を噛みしめた。
でも、それではいけないのだ。いつまでたっても、兄のお荷物。足枷になってしまうのだ。
早く独り立ちして、しっかりして、迷惑かけないようにして。
そうしたら、きっと……
「……兄さんも、本当の幸せ、掴めるものね」
小さく呟き、ぎゅっと荷物を両手で抱え直した。とたん、風がびゅうっと吹いて、思わずぶるぶるっと身震いしてしまう。
あらためて見回せば、もう日も沈みかけていた。あちこちの店も暖簾をしまい始めている。
総司は怖さと心細さで、泣き出しそうになった。
決意はいいのだが、実際問題として、これからいったいどうすればいいのか。いきなり飛び込んで雇ってくれそうな処など、ありそうもない。
なら、今夜は野宿──そんなこと、兄である歳三に大事に大事に、それこそ真綿で包みこむように育てられていた総司に、出来るはずもなかった。
出来るはずもないのだが──
「……野宿しか、ないのかなぁ」
総司はため息をつきながら、またとぼとぼと歩き出した。
とたん、すぐ傍の大きな石に足をひっかけ、思いっきり転んでしまう。
「あっ」
慌てて両手を地面に突こうとしたその瞬間、ふわりと誰かに抱きとめられた。力強い手が総司の躯を引き起こしてくれる。
「……危ねぇな」
伝法な口調が総司の耳を打った。何だか前にも経験したような状況だと思いつつ、顔をあげる。
とたん、総司は「あっ」と声をあげた。
それに、相手も気が付いたのか、すぐ笑顔になった。
「よぉ、また逢ったね」
「あの……あのっ、以前、神社で甘酒を」
「そうそう、あの時は途中で男前の兄さんにかっさらわれちまったけど、今日も一人かい?」
「え、えぇ」
こくりと頷いた総司に、男は優しく笑った。くしゃっと髪を撫でられる。
「もう日も暮れちまってる、危ねぇから早く帰った方がいいぜ」
「そ…うなんですけど」
総司は口ごもり、俯いてしまった。その手に抱えた荷物に、男の視線がとまる。
「ふうん」
にやりと笑った。
「もしかして、家出かい? あの兄さんと痴話喧嘩でもした?」
「ち、痴話喧嘩!…は違いますけど、でも、家出は……その……っ」
「早く帰って仲直りした方がいいと思うけどねぇ」
「それは出来ません!」
先程まで口ごもっていたのとは打って変わり、そこだけはきっぱりと断言した総司に、男は目を丸くした。じっと眺めてから、声をあげて笑い始める。
「そうかい、出来ねぇのか」
「はい」
「そりゃ困ったね。けど、あんた、今夜とまる場所もねぇんだろ?」
「……う、それは……その……っ」
たちまちまた口ごもってしまった総司に、男は苦笑した。ちょっと肩を回しながら考えていたが、やがて、ぽんぽんっと総司の頭を軽く叩いた。
「ま、色々事情があるって訳だ。仕方ねぇ、おれが一肌脱いでやりますか」
「え?」
「おれんとこに泊めてやるよ。と云っても、おれも居候だけどね」
「居候……って、どなたの?」
それに、男はにやっと笑ってから、小指を一本たててみせた。その意味ぐらい、総司にもわかる。
「お、女の人ですか……! それは……ちょっと……」
まずいのではないかと云いかけた総司に、男は、違う違うと首をふってみせた。
「他にも沢山いるから大丈夫」
「は?」
「つまり、おれのイロは宿屋の女将なんだよ。で、その一室におれは居候させて貰ってる訳」
「宿屋の女将さん……」
何だ、そうなのかと、総司は安堵した。というか、他に選ぶことも出来ない。
兄のもとへ戻りたくとも戻れないのは、絶対的な事実なのだから。
「……よろしくお願いします」
そう云ってぺこりと頭を下げた総司に、男はこちらこそと笑った。
男が話した宿屋はこじんまりとした商いだが、なかなか繁盛していた。
丁寧に手をかけられた宿屋の建物にも重みと、若い女主の気質だろうか、華やぎと明るさがそこそこにあふれている。
ひっそり掲げられた看板に「穂波」と達筆で記されてあった。
「八郎さん」
暖簾をくぐったとたん、女の声がかけられた。
それに総司が顔をあげると、小柄な女がこちらへ歩いてくる処だった。
女より娘と呼ばれるに相応しい若さだが、さすがに一宿屋の女将をはってるだけあって、雰囲気に凜とした強さがある。
「どこへ行ってたの? 急にいなくなるから、びっくりしたわ」
「悪い悪い、ちょっとやぼ用でな」
わるびれぬ様子もなく笑った八郎に、肩をすくめた女将は、きれいな瞳を総司にむけた。
にっこり笑いかける。
「いらっしゃい」
「え……あ、はい。お邪魔します」
「外は寒かったでしょう? 早くあがって」
二人を招きいれた女将は廊下を歩きながら、総司に悪戯っぽい笑顔で云った。
「あたしがあっさり上げたから、びっくりした?」
「え……えぇ」
「八郎さんね、しょっちゅう人を拾ってくるの。だから、あたしも馴れてるのよ」
「そうなんですか……」
「まぁ絵師なんてやってるし、その相手って事もあるんだけど」
「絵師?」
不思議そうに問いかけた総司に、女将はこくりと頷いた。
「そうよ。なかなかの売れっ子絵師なんだけど……知らない?」
「私、そういう方面には疎くて……」
「あ、それから」
女将が云った。
「あたしは小稲っていうの。この宿屋の女将で、八郎さんの恋人よ。よろしくね」
小稲はにっこり笑いかけた。ぱっと花が咲いたような笑顔だ。
それに、総司は慌ててぺこりと頭を下げた。
「す、すみません。こちらから名乗るべきなのに、あの、私は総司と云います」
「総司さんは、お幾つ?」
「え、十五です」
「じゃあ、あたしより五つ年下ね。十五かぁ、可愛い♪」
うふふっと笑った小稲に、総司は何だか磯子のことを思い出してしまった。可愛らしい顔だちでありながら、勝ち気でちゃきちゃきしてて、姉さん女房的な感じがよく似ている。
そんな小稲と総司に、後ろから八郎が声をかけた。
「おいおい、誘惑するなよ〜? この子には、怖い兄さんがついてるんだ」
「あら。ちゃんといい人いるんだ」
そう云いながら小稲は、一つの部屋の障子を開けた。
小さいが、きちんと片付けられた小綺麗な部屋だった。文机の上に置かれた花瓶に挿された花が、可憐だ。
「八郎さんが連れてきた人は、いつもここに泊ってもらうんだけど、いいかしら?」
「はい」
こっくり頷いた総司に、小稲はほっとしたように微笑んだ。手早く押し入れから布団を出して、あれこれ揃えながら云ってくれる。
「お夕飯は、そろそろだから、後で下へ降りてきてね。私の部屋で一緒に食べましょう?」
「ありがとうございます」
「じゃあ、後でね」
八郎と小稲が部屋を出てゆくと、急にしんと静まり返った気がした。が、よくよく耳をすましてみると、遠くの方で人のざわめきが聞こえる。
やはり、繁盛している宿屋だけあって、総司が歳三と住まう家と比べれば、随分賑やかだった。
だが、その賑やかさが、今の総司には安堵できる。何しろ、先程までは人恋しさで泣き出しそうになっていたのだから。
「本当に……良かった。八郎さんと逢えて」
総司は床に腰を下ろし、ほっと息をついた。
とりあえず今夜は、八郎と小稲の親切で、野宿せずに済むこととなった。だが、むろんの事、ずっとという訳にはいかないのだ。
あくまで、今夜だけのこと。
ここでもまた人に頼っていたら、いつまでたっても独り立ち出来ないのだから。
「明日はきちんと料理屋をまわって、弟子入りの口を探そう……」
総司は決意のこもった口調で呟くと、祈るようにぎゅっと両手を握りしめたのだった。
その夜、総司は夢を見た。
と云っても、内容は、実際にあった出来事だ。
夢にまで見るという事は、それだけ衝撃だったのだろう。気にかけていたのだろう。
だが、それも当然のことだった。
何故なら、この家出も兄から独り立ちするという決意も何もかも、すべてはそこから始まったのだから……。
『そりゃ……男として辛いねぇ』
『あぁ』
『つまりは、なかなかそこまで意識してもらえねぇって事だろ?』
『かもな』
苦々しい口調で、歳三が答えていた。
それに驚き、総司は思わず足をとめた。
その日、総司は外出していた。
買い物を終えて気がつけば、そこは兄の仕事場近くだった。なので、ついでに声をかけていこうと立ち寄ったのだ。
すると、ちょうど休憩時だったらしく、原田と歳三が言葉をかわしていた。それに、思わず息をひそめる。
聞こえてきた内容に、なぜか自分は姿を現してはいけないという気がしたのだ。歳三たちは、総司に聞かせたくない話をしているのだという気がした。そして、それは思い違いではなかったのだ……。
『あんたさ』
原田がため息まじりに云った。
『いっそ、見合いでもしてみたらどうだい? あんたの立場というか状況ってのを、総司にわからせるためにもさ』
『……そういうやり方は、好きじゃねぇ。それに、総司が』
『けどさぁ、あんたそのままじゃ辛いまんまだろ』
『まぁな』
『総司も、えーと、今年で幾つだっけ?』
『十五だ』
『十五かい。それじゃ、もう大人扱いしても構わねぇだろうが。どこぞの娘っこなら働きにも出てるし、嫁にも行ってる年頃だ』
『いや、俺はまだ……』
『まだ…か』
原田はため息をついた。
『まったく、よく我慢するねぇ。けど……ほんと辛いだろ』
それに、歳三が苦笑する気配がした。
『もう……馴れたよ』
少し自嘲まじりの声。
総司はそれ以上聞いていられなかった。逃げるように、だが息をひそめたままその場を離れると、足早に歩いた。必死になって両手で口許をおさえた。
(だめ、だめ……だめ)
泣いたら、駄目。
ここで泣いたら、本当にまだまだ子どもだから。
兄さんに迷惑かけてばかりいる、子どもだから。
私がいるから……私みたいな弟がいつまでたっても子どもだから、兄さんは見合いも出来ない。
辛いなんて。そんなふうに思っていたなんて、全然知らなかった。
兄さんはいつも優しくて、私のことを誰よりも愛してくれて。
でも、だから、私は甘えてばかりいたんだ。もう十五なのに、兄さんの立場や気持ちも考えず、自分のことばっかり考えていた。
兄さん、私のことを重荷に感じていたんだ。早く大人になって欲しかったんだ。
あぁ……どうして、もっと早くこの事に気づいてあげなかったのだろう。
今のままでいいはずがなかったのに。
(……ごめんなさい、兄さん)
総司は夢の中でも、何度も何度も謝っていた。
翌朝、目が覚めてみると、頬が涙に濡れていた。鏡を覗き込めば、瞳は潤んでしまっている。
それを慌ててごしごし手の甲で擦りながら、総司はため息をついた。
忘れられるはずなんて、ない。
だい好きで、だい好きで、今だって一瞬でいいから逢いたいと願ってしまう恋しい人。
たった一人の、兄さん。
でも。
だい好きだからこそ、愛しているからこそ、これ以上重荷にはなりたくなかった……。
