「え? コンサートツアー?」
 総司は思わず聞き返した。
 それに、磯子がスケジュール帳をめくりながら答える。
「そうなの。全国ツアーじゃないのはちょっと残念だけど、スケジュールの関係でね」
「って、どこをまわるの?」
「九州よ。まだ、総ちゃん、ツアーしたことがないエリアだから」
「九州! 行ったことない!」
 総司は目を輝かせた。嬉しそうに満面の笑顔になる。
 誰もが見とれてしまうぐらい、かわいい天使の笑顔だ。
「とってもおいしいものが沢山あるんでしょ? わぁ、楽しみだなぁ」
「グルメ旅行に行くんじゃないんだから」
「でも、コンサートするなら、いっぱい食べて体力つけなくちゃ。おいしいものがある方がいいじゃない」
「ま、そうよね」
 頷きながら、磯子は違和感を覚えていた。なんとなーくいやな予感がして、訊ねる。
「あの、総ちゃん……わかってると思うんだけど」
「なぁに?」
「コンサートツアーなんだから、少なくとも一ヶ月ぐらいは九州をまわることになるのよ」
「もちろん、わかってるよ!」
 総司は元気いっぱい答えた。軽く歌を歌いながら、スタジオにおいてあるキーボードを鳴らしたりしている。
 その脳天気そうな、しかも天然な姿に、磯子はますます嫌な予感が強まった。
「じゃあ、もちろん、わかっているわよね? その間、土方さんと逢えないってこと……」
「……」
 ぴたりと総司の歌が止まった。
 見れば、キーボードに手をおいたまま、固まっている。
 どうしようかと思っていると、総司がゆっくりとふり返った。
 既に、涙目になっている表情に、やっぱり認識していなかったのかと実感する。
「……やっぱり、わかってなかったのね」
「ど、どうしよう……っ」
「どうしようと言われても……」
 やれやれと、磯子は肩をすくめた。


 どうすることも出来ない話なのだ。
 いくら土方と総司が離れがたい仲というか、べたべたの新婚夫婦のような間柄だとわかっていても、これは仕事! コンサートツアーはなんとしても成功させなければいけない大仕事である以上、恋人たちには我慢をしてもらう必要があった。


「いい? 総ちゃん」
 磯子は身を乗り出した。
「総ちゃんもわかっていると思うけど、これは仕事なの。そうである以上、土方さんがどんなに止めても、それを聞いちゃダメよ。彼のわがままは、我社の敵です」
「敵って……そんな、土方さん、わがまま言わないよ」
「じゃあ、解決じゃない」
 にっこり笑ってみせた。
 むうっとふくれてしまった総司に、磯子は言葉をつづける。
「総ちゃんの彼氏はわがまま言わないんでしょ。なら、コンサートツアーだって、1ヶ月離れ離れるになることだって、快く了解してくれるわよ」
「いっちゃん……」
「とにかく」
 パタンと手帳を閉じながら、磯子は言った。
「これはもう決定事項だからね。プロジェクトは走り始めているの。きっちり土方さんにも話をつけておくのよ」
「……う、うん」
 できるのかなぁと思いながら、総司は、こくりと頷いた。












「いやだ」
 間髪入れずに帰ってきた答えが、それだった。
 総司が「一ヶ月ぐらい、コンサートツアーに行くんだけど」と言い出したとたん、土方はきっぱり答えたのだ。
「いやだ」
 と。
 まるで子供のような返事に、総司は目を見開いてしまった。
 土方のことだから、どんな反応を見せるのかまったく予想がついていなかったが、こんな子供みたいな反応を見せられるとは考えてもいなかったのだ。
「えーと、あの……」
 総司は視線をさまよわせ、どうしようと悩んでしまった。


 磯子が言うとおり、これは仕事なのだ。彼と離れたくないことは確かだが、それでも、仕事である以上、仕方がないことと割り切る他なかった。
 だが、総司はそれで納得できても、土方にすればきっと納得できないことなのだろう。
 もともと、お互い忙しくて逢うことも少ない。
 なのに、挙句、一ヶ月も逢えないのでは怒って当然だと思った。


(怒っているというより……不機嫌、かな)


 総司はちらりと大きな瞳で、土方の様子を伺った。
 土方は今、キッチンで夕食の支度をしているところだった。
 帰ってきたばかりなのでスーツの上着だけを脱いでワイシャツを腕まくりし、腰に黒いギャルソンエプロンをつけているさまが、うっとりと見惚れてしまうほど格好いい。
 艶やかな黒髪が額に僅かに乱れている様が、男の色香を感じさせた。微かに伏せられた長い睫毛の翳りに、きれいに澄んだ黒い瞳が黒曜石のようだ。
 だが、不機嫌な証に、僅かに眉が顰められていた。
 いつもなら、総司に優しく笑いかけてくれるのに、今は視線を落とし、「いやだ」と言ったきり何も言おうとしない。
「あ、あのね」
 総司は一生懸命、言葉をつづけた。
「ぼくもコンサートツアー自体はとても楽しみだし、歌うの好きだし、仕事だから行かなくちゃと思っているけど、でも、土方さんと一ヶ月も離れるということは、淋しいのが本音で……」
「……じゃあ」
 視線を落としたまま、手を動かしながら土方が言った。
「行くのやめちゃえば?」
「そ、そんな事できるはずないでしょ」
 びっくりして目を見開いた。
「お仕事だし、たくさんの人が待ってくれているし、それに、あの」
「総司」
 不意に、低い声で名前を呼ばれ、総司は背筋をぴんと伸ばしてしまった。


 いつもいつも、彼は優しくて甘くて、とんでもなく可愛がってくれる恋人だけど、時々、別人のように厳しい顔をみせたりすることがあるのだ。
 それは大抵、検事のお仕事をしている時だったり、それに関係することだったりするのだが、総司にすれば、そのギャップに戸惑ってしまうことは確かだ。
 いつもの甘甘の彼とは違う雰囲気に、微妙に緊張してしまう。


「な、何でしょう」
 心なしか上ずった声で、聞き返した。
 土方がようやく顔をあげた。濡れたような黒い瞳で総司を見つめる。
 それから、あっさりと言った。
「冗談だから」
「え?」
「今の全部、冗談。コンサートツアーが仕事だってこともわかっているし、おまえの一存でどうこうなるって事じゃないこともわかっている」
「……」
「だから、全然構わないよ。一ヶ月九州に行くんだろ? 気をつけていっておいで」  
「……」
 急展開にまったくついていけなかった。
 突然、態度を変えた男に、戸惑ってしまう。
「えーと、あの、土方さん、でもね」
 意味のない言葉をならべてから、総司は彼を見上げた。
「ぼく、毎日、電話するから。ちゃんと電話して、それで、あの」
「あ、俺、その頃、日本にいないから」
「へ?」
 彼の言葉に、総司はきょとんとした。意味がわからず、小首をかしげる。
「日本に……いない?」
「あぁ。ちょうど同じ頃かな、俺、二ヶ月ぐらい海外出張なんだ」
「に、二ヶ月って……嘘!?」
「ほんと。ドイツに行っているから、電話するの難しいよ」
「嘘でしょ! ドイツなんて九州より遠いじゃない」
「そうかな、飛行機ですぐだよ。直行便で行くし、東回りじゃないし」
「そういう問題じゃなくてッ」


 完全に、立場が逆転してしまっていた。
 先ほどまで総司が長く東京を離れるから、土方をなだめるはずだったのに、彼の方がもっと長い期間、自分の傍を離れると言うのだ。


 それも、なんてことないように言ってのける恋人の冷たさに、総司は腹がたってくるのを覚えた。
 ぎゅっと両手を握りしめる。
「土方さん、冷たいんだ。ぼくと二ヶ月も離れて淋しくないの?」
「そりゃ淋しいよ。でも、仕方がない、仕事だから」
「……」
 さっき総司が言った言葉をそのまま返され、思わず黙りこんでしまった。
 これは彼特有の意地悪じゃないのだろうか、もしかして、本当は出張なんてなくて、コンサートツアーに行く総司に意地悪するために言っているんじゃないかと思ってしまう。
 だが、そんな気持ちを察したのだろう。
 土方は総司を見つめると、にっこり笑いかけた。
「悪いけど、これ、意地悪でも嘘でもないから。あまり詳しいことは話せないけど、ドイツと国際協力して捜査をすることになっているんだ。そのための海外出張だよ」
「そんなの全然聞いてない……」
「ごめん。なかなか言い出せなかったんだよ。でも、まぁちょうどいいんじゃないかな」
「ちょうどいいって、だって、土方さんの方が長い! それじゃ、ぼくが帰ってきても土方さん、いないんでしょ?」
「まぁ、二ヶ月の出張を一ヶ月にするのは難しいだろうね」
 あっさり言った土方は、ぱぱっとサラダをつくると、出来上がった料理をテーブルに並べ始めた。
「そろそろチキンも焼きあがるから、ほら、総司、席に座って」
「食欲ない……」
「困ったなぁ」
 土方は苦笑すると、総司に歩み寄った。そっと髪にふれ、額に口づけを落とす。
 そんな彼に総司は思わずしがみついてしまった。背中に両手をまわして、ぎゅっと抱きつく。
 あたたかくて広い胸もとに顔をうずめ、拗ねきった声で言った。
「やだ」
 さっきの彼のように。
「二ヶ月も離れるなんて……絶対やだ」
「ごめんね」
 土方はやさしく総司を抱きすくめてくれた。まるで子供にするように頭を撫で、ぽんぽんと背中をかるく叩いてくれる。
「仕事だからさ、わかってくれると嬉しいな」
「わからないもん……そんなの、全然わかんない」
「うーん、困ったなぁ」
 全然困った風でもなく言ってのける土方に、頬がふくらんでしまうのを感じた。
 確かに、自分がわがままを言っているのはわかっている。
 でも、これはフェイントすぎるだろう。いくらなんでも二ヶ月なんて。


(ぼくは一ヶ月だけだもの、土方さんよりはマシだもの)


 比べても仕方がないことを考えつつ、総司は顔をあげた。
 すると、土方はきれいな顔でにっこりと笑いかける。黒い瞳が深く澄んで、とてもきれいで優しい笑顔だ。
 ぼうっと見上げていると、ちゅっと音をたててキスされた。
「やっぱり可愛いね」
「何」
「拗ねている総司もかわいいよ」
「す、拗ねてなんかっ」
「じゃあ、怒っているのかな? どっちにしろ可愛いね。まぁ、可愛い総司をいただくのは後にして、今はご飯を食べよう。冷めてしまうよ」
 そう言うと、土方はあっさりと総司の身体を離してしまった。さっさとキッチンの奥へ歩いていき、オーブンの扉を開けている。
 それに、総司の機嫌はますます急降下してしまった。
 仕事よりも料理よりも、自分の方が気にされていない気がしてしまったのだ。
 だが、その料理は、彼が総司の健康を考えてつくってくれた料理で……だとすると、彼は総司のことを考えてくれていることになって……でも、仕事がやっぱり優先だから、ドイツへの海外出張をやめる気なんてなくて、自分だってツアーに行くのだから何も言えないし……
「……」
 頭がこんぐらがってきた総司は、もう何も考えたくない気分で席に座ったのだった。












「へぇ、土方さんは海外出張か」
 斉藤は軽い口調で言ってから、総司のむすっとした様子に慌てて口をつぐんだ。
 コンサートの前、控室にいるところへ斉藤が陣中見舞いを持ってきてくれたのだ。いろいろと九州の美味しい食べ物などを持ってきてくれたのはよかったが、斉藤の言葉は頂けない。
「海外出張、それもすぐそこのアジアとかじゃなくて、ドイツですよ! めちゃめちゃ遠いじゃないですか」
「そうかな、直行便で行けばそんなに時間かからないよ」
「……」
 ほとんど土方と同じような言葉を返され、ますます落ち込んでしまった。なんだか、拗ねているのは自分だけで、傍から見ればたいしたことではなくて、とんでもなく自分が子供な気がしてしまったのだ。


 今頃、ドイツでばりばり働いているだろう彼。
 外国人と並んでもひけをとらない長身で、すらりと引き締まった身体つきで、端正な顔だち。
 あれでは日本どころか、どこでもモテてしまうだろう。
 芸能人である自分よりも、数倍人を惹きつける魔力のようなものを持っている気がする彼。
 なのに、彼は容姿端麗だけでなく、頭の切れも抜群なのであの若さで東京特捜部のエース検事なんてやっているし、家事も一切プロ並みの腕前で、本当に総司にしてみれば非の打ち所がない彼なのだ(あくまで、総司にしてみればと、真実を知らなければの話)。


「土方さん、ぼくに……飽きちゃったのかなぁ」
 思わず呟いた。
 それに、斉藤が呆れたように声をあげる。
「そんな事、天地がひっくり返ってもありえないよ」
「本当? だって、ぼく、こんなことで駄々こねちゃうぐらい子供だし、それに、前なら土方さん、長期の出張なんて絶対入れなかったのに、今回は楽しそうに出かけちゃうし」
「……」
 斉藤は思わず沈黙してしまった。


 実は実はなのだが、ここだけの話、土方の出張には裏話があったのだ。


 今回の出張は確かに、土方が言っていた通りドイツとの合同捜査ということもあった。
 だが、それだけでなく、スナイパーとしての大仕事も含まれていたのだ。
 確実に仕留めなければいけない相手であるため、超一流の腕をもつ土方が選ばれた訳であり、当然のことながら、総司の言葉のように土方が楽しく出かけた訳ではなかった。
 何しろ、土方はとことんプライドが高い男だ。とくに、総司の前では甘く優しい恋人だし、不機嫌な様子も極力見せないようにしている。
 それは全部、可愛い可愛い総司に正体を見破られないための方策だったが、一方で、今回のような事があると、己の感情を表に出すことが難しくなってしまうのだ。
 むろん、土方は大人の男だし、冷静であり、また、検事としての仕事にもスナイパーとしての仕事にも、自信と矜持がある。
 一切妥協は許さないし、手を抜くこともない。
 そのため、今回の案件もしっかりと仕事をこなしてくる事は当然なのだが、己自身の感情の持って行き場がないというのも事実だった。


 その証に、総司の前では優しい物分かりのいい恋人でいた反動か、実際、出発前に斉藤が逢った土方はとんでもなく不機嫌だった。
 たまたま用件があって空港に行ったのだが、出発ロビーで不機嫌そうに眉を顰め、高々と足を組んで座りながら仕事関係のタブレットを見ている男の姿に、回れ右したくなったことは事実だ。
 不幸にして、周囲に仲間の検事たちがいなかったため、斉藤はとんだとばっちりを受けてしまった。
 何も八つ当たりされたりする訳ではないが、不機嫌な土方というのは、とんでもなく扱いにくいシロモノなのだ。
「……土方さん」
 傍に立ち、声をかけると、土方は顔をあげた。
 だが、とっくの昔に近づいてくる斉藤に気づいていたことは間違いない。何しろ、彼は超一流のスナイパーなのだから。
「出張、ご苦労様です」
「あぁ」
「仕事、ダブルで行かれるみたいですね」
「……」
 いつも以上に言葉数が少ない土方にげっそりしつつも、斉藤は手にしていたフラッシュメモリを差し出した。
「これ、近藤さんからの餞別です。内容は見ればわかるとの事なので」
「そうか」
 フラッシュメモリを受け取ると、土方はそれをスーツの内ポケットに滑りこませた。そのまま、また視線をタブレットに戻してしまう。
 結局のところ、土方とかわした会話は、「あぁ」と「そうか」だけだった。
 それに、何だかなーと思いつつ、斉藤は手をあげた。
「じゃあ、オレ、行きますんで」
「……」
 無言のままの土方にため息をつきつつ、触らぬ神に祟りなしとばかりに、さっさとその場から逃げ出した。
 だが、不意に後ろから声をかけられた。
「斉藤」
 びしりと鞭打つような声に、止まりたくなかったが、足が止まった。ふり返ると、土方はこちらに視線を向けていない。


 呼ばれたことは確かだったので、どうしようかと一瞬悩んだ。
 ここで逃げるのも戻るのも、どちらにしろ、とばっちりを受けることは確かだろう。
 しかし、逃げる方がよりまずい気がした。
 そもそも、この凄腕スナイパーから逃げられるはずがない。
 まさか、空港で銃をぶっぱなしたりしないだろうが、後ろからタブレットを投げつけられることぐらいは考えられるのだ。


 しぶしぶだったが、斉藤は土方の所まで戻った。
「何ですか、忘れ物ですか」
「あぁ」
 土方はようやく顔をあげた。