あの時、土方は怒りを露わにしたのだ。
総司が療養したいから江戸へ戻ると言った時だった。
はじめ、土方は「療養なら京でも出来るだろう」と、相手にもしなかった。
だが、総司が何度も「帰りたい」とくり返すうち、苛立ってきたのだろう、とうとう怒鳴りつけられた。
「おまえは、そんなにここを離れたいのかよッ」
一喝されて、思わず息を呑んだ。はっと身を固くして彼を見上げる。
おそらく泣きそうな顔をしていたのだろう。視界がぼやけた。
それに対し、忌々しげな表情で、土方は顔をそむけた。長い沈黙が落ちた。
切れの長い目の眦はつりあがり、固く口元は引き結ばれている。
「……っ」
男の端正な顔にある怒りの表情に、総司は躰を固くした。
殺気だったものさえ感じたのだ。彼がまったく譲歩する気がないのは、明らかだった。
それでも、総司も諦めることができなかった。苦しい恋をつづけていくことに、限界を覚えていたのだ。
必死に勇気をふるいおこした。
小さな声だったが、はっきりと言った。
「私は……江戸へ帰りたいのです。江戸で療養したいと望んでいます」
「だから、何で江戸なんだ」
土方は眉を顰めた。
「京でも出来るし、それに、有馬や紀州の方でもいいだろう。わざわざ遠い江戸へ帰る必要が……」
「遠いからいいのです、江戸は」
「言っている意味がわからねぇよ。とにかく、俺は絶対に許さん」
きっぱりと言い切り、土方は立ち上がった。部屋を出ていこうとする。それで話を打ち切ろうとしたのだろう。
だが、総司は立ち上がり、彼に追いすがってしまった。袂を掴んで、叫ぶ。
「私、土方さんの言うことなんか、聞かないから! 絶対、江戸へ帰っ……!」
「総司ッ! いい加減にしろ!」
振り向きざま、一喝された。
間が悪いことに、土方はもう障子を開いてしまっていた。そのため、二人の声が響いたらしく、外の隊士たちが驚いたようにこちらを見ている。
それに気づいた土方は、鋭い瞳で総司を見下ろした。怒りがその瞳を黒ずませ、ぞっとするような冷たさがある。
怯えた総司の表情に気づいたのか、土方は眉を顰めた。そのまま荒々しく袂を払い、部屋を出ていってしまう。
「……」
遠ざかる足音を聞きながら、総司はきつく唇を噛みしめた。ぎゅっと両手を握る。
……怖かった。
あれ程怒った土方は、初めて見たと言ってもよい。
仕事上でも、土方はいつも冷静だった。感情を露わにしたことは全くない。私的な場では怒られた事などないし、いつも優しく甘やかしてくれた。
だからこそ、総司は、初めて向けられた彼の怒りに、驚いてしまったのだ。
だが、それでも、ここを離れようという気持ちは揺るがなかった。土方もわかっていたとおり、総司はかなり頑固な方で、自分の意思を決して曲げることがなかったのだ。
そのため、何度も主張しつづけた。江戸へ帰りたい、と。
土方もとうとう根負けしたのか、しぶしぶだったが、了承してくれた。総司は彼の気が変わらぬうちにと急いで支度をし、許可が出た翌朝には京を発った。
それが尚更不快だったのだろう。
玄関まで見送りにきてくれたが、一言も口をきかなかった。あれこれ心配する近藤や斎藤たちをよそに、ずっと無言を通していたのだ。
それに、総司は自分が引き起こした事とはいえ、気落ちしたまま京を発ったのだが。
(でも、結局、ここで土方さんに逢って……)
運命なのかなぁと思う。
それとも、好きで好きで仕方がない自分の気持ちを知った神様が、ちょっとした悪戯をしかけてくれたのか。
「でもね」
総司は小さな声で言った。
「私……あの人に会いたいし」
思わず出てしまった本音に、菖蒲はびっくりして目を丸くした。
「何、総ちゃん、惚れちゃったの?」
「というか、もうずっと前から惚れているのです」
「???」
「実は、知り合いなんですよ。子供の頃からの」
「え、ええぇえっ!?」
菖蒲は仰け反った。
あの新撰組副長と知り合いって、この可愛い総ちゃんが何で!? なのである。
化粧を落としても可愛くて可憐で、大きな瞳とぷるんとした桜色の唇の総司は、どこからどう見ても、愛らしい小動物にしか見えない。
なのに、あの新撰組副長と、どこをどうしたら知り合う事があるのか。
混乱している菖蒲の前で、総司は、はぁっとため息をついた。
「詳しい事は省きますけど、あの土方さんは私の兄代わりの人なのです」
「え! そ、そうなの」
それなら少しは理解できるかもしれないと思った。だが、ふと思いもする。
兄代わりと言っても色々とあるのだ。
それに、今さっき惚れていると総司が言ったことからすると、もしかして……念兄弟!?
「土方さんは、まったくこっちの正体に気づいていませんけどね。で……その、私の片思いの相手でもある訳です」
「片思い……あ、念兄弟じゃないんだ」
ちょっとがっかりした気分で、菖蒲は呟いた。
とっても似合いの二人に、いろいろと妄想してしまったのだ。それに、総司が顔を赤くして手をふる。
「まさか! 土方さんは女の人にしか興味ないし。京でもとっても人気があって」
「ふうん」
「私が勝手に好きになって、想っているだけなのです……」
恥ずかしそうにそう言う総司は、そこらの花魁も顔負けの可愛さ、可憐さで。
本当に片思いなのかなぁと思いつつ、菖蒲は総司の話を聞いた。
「だから逢いたいって気持ちもあるんですよね。でも、バレたらやばいだろうなぁとも思うし。めちゃめちゃびっくりするだろうし」
「そりゃ、びっくりするでしょうねぇ」
頷いてから、菖蒲は小さく笑った。
「でも、恋しているから余計に、あぁ見えるのね」
「? 何がです」
「土方様と総ちゃんよ、とってもお似合いだもの」
「え」
「楼でも評判なのよ。二人が寄り添っているところ、錦絵か芝居のようだって」
「そ、そうなんですか」
総司は思わず頬を赤らめてしまった。どうも、とか、なんか恥ずかしいなぁとか、もごもご口ごもっている。
そのまんざらでもない様子に、菖蒲はやれやれと肩をすくめた。
これでは逢うなと禁じる訳にはいかない。だが、雪花花魁がいないとバレることも楼として非常に困るのだ。
「とにかく、この先も逢うつもりなら、総ちゃん自身がしっかりしてね」
「しっかりって?」
「だから、土方様に押し倒されないようにすること! それだけは死守しなさいよ」
「う、うーん……」
総司は、先日の布団に強引に引っ張り込んだ時の彼の様子を思い浮かべ、自信なさげに頷いたのだった。
というわけで、今も総司は困っていた。
この間は回避できたのだが、今、総司は土方に接吻されてしまったのだ。
しかも、けっこう濃厚な奴を!
挙句、膝上で抱っこまでされてしまっている。
押し倒し寸前って状況ではないだろうか。この状況は非常にやばくないのだろうか。
「……あのー」
しばらくたってから、総司はおずおずと言った。相変わらず土方は総司の身体を膝上に抱いたまま、髪を撫でたり頬に口づけたりしている。
それが心地いいが、ちょっとくすぐったい。
「足、痺れません?」
「……」
土方が目を見開いた。と思ったとたん、笑い出す。
「そんなに重いはずねぇだろ。おまえ、すげぇ軽いぜ?」
「だって、足痺れちゃ、え、あ、痺れてしまいそうでございますし……私も、その」
「あぁ、体勢が辛いか。なら、こうしよう」
土方は総司の身体を畳の上に下ろすと、後ろからすっぽりと抱きすくめた。男のぬくもりを背から感じることになる。
また、耳もとや首筋に口づけたりする土方に、総司はくすぐったそうに首をすくめた。
「なんか、ちょっと擽ったいのですが」
「そのうち気持ちよくなってくるさ」
「??? そういうものですか」
「そういうものだ」
土方は答えたきり、くっくっと喉を鳴らして笑っている。それに、ちょっと、むっとした。
「私、莫迦にされています?」
「いや、そんな事ねぇよ。けど、本当におまえは面白いな」
「やっぱり、莫迦にしている!」
「違うって……そうだな、可愛いなぁと思っているんだ」
「可愛い?」
総司は不思議そうに男を振り返った。
とたん、濡れたような黒い瞳に間近で見つめられ、どきりと心の臓が跳ね上がった。
だが、すぐハッと我に返り、総司は慌てて前へ向き直った。俯くと、今度は項に口づけられた。ぞくりと身体の芯が熱くなる。
それに戸惑いつつ、言った。
「そんな、私が可愛いなんて……」
「売れっ子花魁が何を言っている」
「そ、そうですけど、でも」
もごもごと口ごもってしまった。
売れっ子花魁だったのは、雪花自身だ。ここにいる総司ではない。
それを実感したとたん、何だか切なくなった。
片思いしている男が、可愛いと思うのは、こういう綺麗で可愛い花魁なのだ。
剣に夢中で生意気で(我儘とも言われたし)痩せっぽっちの総司ではなかった。
しゅんとなってしまった総司に、気づいたらしい。
軽く覗き込むようにしながら、土方は訊ねた。両腕で抱きすくめたまま、子供をあやすように軽く揺さぶってくる。
「どうした、可愛いと言われるのは嫌か」
「別に嫌ではありません。ただ、あまり実感がなくて……化粧もしているし」
「化粧は花魁なら当然だろう」
「でも、本当にそう思うのです。これで可愛いと言われても」
「じゃあ、素顔を見せてくれるか」
「えっ」
男の言葉に、身体がこわばってしまった。おそるおそる振り返ると、土方は真剣な顔で総司を見つめている。
黒曜石のような鋭い瞳に見つめられ、かぁっと頬が熱くなった。慌てて視線を戻し、俯いた。
小さな声で答える。
「そんなこと……出来ません。お客様に、花魁が素顔を見せるなど……」
「だよな。俺も野暮な事を言っちまった。忘れてくれ」
「……」
それきり会話は途切れてしまった。
何を思っているのか、土方は総司の項や首筋、頬に口づけたり、抱きすくめたりしている。
だが、それ以上のことは決してしようとしない。総司が拒むことを知っているからなのか。それとも、優しさなのか。
彼のぬくもりが、たまらなく心地よい。
(どうしよう……私、もっと土方さんのこと好きになっちゃう)
彼に恋していると思っていた。
だが、今こうして抱きしめられていると、もっともっと好きになってしまうのだ。人を愛するのに、限界というものはないのだろうか。
それが怖いとさえ、思った。
(土方さん、大好き……)
心の中でそっと囁いて、総司は彼の腕の中で目を閉じた。
土方は浅草の街を歩いていた。
相変わらず、総司探しをしているのだ。新入り隊士の募集の方も順調で、この分なら予定どおり京へ戻れそうだった。そのため、少し焦りが出てきている。
(何とか、早く見つけねぇと……)
吉原にも通っている。雪花花魁とはどんどん仲良くなっているし、この間は接吻までしてしまった。後に待っているのは床入りだろうが、そっちは少し難しそうな気がする。
だが、彼自身、それほど女を抱きたいと思っている訳ではなかった。総司が行方しれずになってから、その気がまったく失せてしまっている。というか、あれ程愛した総司への裏切りになる気がしたのだ。
恋人でも念兄弟でもないのに、何を考えているのかと思うが、自分の中で決めた事ゆえ守っていこうと思っている。
こう見えても、土方はかなり律儀な男なのだ。約束を守ることに関しては、己自身にも他者にも厳しい。
「……」
土方は例の菓子屋の前を通りかかった。すると、中から出てきた小女が呼び止める。
「あの、お武家さま」
「何だ……あぁ、この間の」
「先日のお話ですが、お見かけしました」
「えっ、本当か!」
思わず声が大きくなった。が、その自分の取り乱しぶりに気づき、慌てて、冷静になれと自分に言い聞かせる。
一つ息を吸ってから、小女に問いかけた。
「どこで、いつ見たんだ」
「今朝です。それで、今からお知らせに行こうと思っていたところで」
「そうか。で、どこでだ」
「あっちのお堂の近くです。今、ここから見えている屋根の……」
「あぁ、あれか。わかった、礼を言う」
土方は小女の手に礼金を渡すと、そのまま踵を返した。急いでそのお堂へ向かって歩いてゆく。
むろん、わかっていた。今は昼前であるため、今朝いた総司がそこに居続けるはずがないことも。
それでも、、いてもたってもいられなかったのだ。
ところが。
「……え」
土方は目を見開いた。
そこに、総司がいたのだ。
綺麗な黒髪を一つに結い上げ、さらりと細い背に流している。以前より髪がのびたように見えた。華奢な身体に纏った着物は質素だが、清潔なものだ。
総司はお堂の近くで何か文を読んでいたが、やがて、視線をあげた。一瞬だけ、土方と目があう。
だが、不思議なことに、総司の顔に何の表情も浮かばなかった。そのまま、すっと視線をそらし、歩みさっていく。
それを土方は慌てて追いかけた。
「総司!」
大声で呼んでみたが、総司は振り返ろうともしない。それに、かっと頭の奥が熱くなった。無視して逃げ切ろうとしているのかと思ったのだ。
人をかきわけつつ走りより、その細い腕を掴んだ。びくりと肩を跳ね上げた総司が振り返る。
「おまえ……っ」
振り返った総司の瞳を見た瞬間、土方は息を呑んだ。