なんだかんだ言って、三日目である。
ふつうなら、床入りの日となるはずだが、土方がそれを望んでいないから有り得ない。
だが、それでも、泊まっていかなければならなかった。雪花の面子がたたないのだ。
「今夜はお泊りになって下さいますか……?」
そう小さな声で言った雪花に、土方は視線を向けた。
いつもどおりの二人きりの部屋だ。
今日の雪花の装いは紅の繻子地に白い牡丹が刺繍されたもので、その名のとおり雪のように真っ白な肌に紅が映えて美しかった。つぶらな黒い瞳に見つめられると、酩酊しそうになる。
「あぁ」
少し掠れた声で答えてから、言葉をつづけた。
「今夜はここに泊まらせてもらうよ」
「嬉しい、です」
にっこり笑った雪花に、ちょっと安堵した。むろん、客商売の笑顔だとわかっているが、拒まれるよりはいい。
「そうだ、忘れていた」
土方は懐から包みを出すと、雪花にさしだした。不思議そうに受け取った雪花は包みを開いた。
「あ、お菓子」
「綺麗な花の形をしているからな、おまえが気にいりそうだと思ったんだ」
「私のために、わざわざ?」
ちょっと目をみはってから、雪花は笑顔になった。
「ありがとうございます。大切に頂かせてもらいますね」
「そんなたいしたものじゃねぇが」
土方はちょっと視線をさまよわせた。
「正直な話、何を贈ればおまえが喜ぶのか、わからねぇんだよな」
「? 遊び慣れておられるはずでは?」
「俺が? まぁ……遊んだ事は遊んだが、おまえみたいなのは初めてだ」
そう言ったとたん、雪花がぎくりとした様子になった。あきらかに、彼の言葉に動揺したようだった。
ちょっと固まってから、慌てた様子で問いかけてくる。
「わ、私、どこかおかしいですか。他の妓と違いますか」
「どこが? と言われてもな……まぁ、いいだろう。俺はそこが気にいっているんだから」
「……」
押し黙ってしまった雪花に、まずい事を言ったかと思った。沈黙が続くうちに、襖の向こうから遠慮がちな声をかけられる。
床入りの支度だ。
雪花はそれを聞くと立ち上がり、部屋を出ていった。土方は寝着に着替え、店の者に促されるまま褥に入った。さすが花魁の布団だけあって、ふかふかと厚みがある。
(大名の姫君そのものだな……)
そう思いながら、あの雪花はそのあたり浮世離れした感じがするのが、いいのかもしれないと思った。すれた女に飽きた男たちが夢中になるのか。
やがて、すっと襖が開き、雪花が戻ってきた。裲襠は脱いで緋襦袢だけの姿になっている。
それが初々しい感じがして可憐で、そのくせ艶めかしかった。
「……」
女を抱く気はないと断言したくせに、雪花のそんな姿を見せられると、身体が熱くなる。
それに、土方は内心小首をかしげた。
(おかしいな、俺、総司しか欲しくねぇはずなんだが……)
京にいる時も、京から江戸へ下る時も、女を抱く気にまったくなれなかった。
あれ程遊びつくしたからこそか、飽き飽きしていたのだ。それに、総司という最愛の者がいる以上、全くその気になれなかった。
義理立てするつもりはないが、総司以外、抱きたいと思わなかったのだ。まぁ、逆の意味で言えば、総司だけが欲しいということになる。
その熱情は、総司が目の前からいなくなったとたん、強まっていた。それと比例して、他の女にまったく興味がなくなったというか……その、まぁ、男として「……」という事になった次第なのである。
だから、土方はちょっと戸惑っていた。
「まずいなぁ……」
小さく呟いた土方に、雪花は小首をかしげた。
襦袢姿で横座りになり、土方を見つめている。長い睫毛が煙るようで、きれいに澄んだ瞳が美しかった。ふっくらとした桜色の唇や、細い指さきに、たまらなくなってくる。
「俺、おまえが欲しくなっちまった」
「!!!」
たまらず口にした途端、雪花がびくりと肩を跳ね上げた。慌てて身をすらせると、こわばった表情で彼を見てくる。
「い、言われた事と違います……っ」
「悪い、その気がなかったんだが、おまえの艶姿を見てたまらなくなったんだ」
「……っ」
怯えた顔で身を縮める雪花の様子に、土方は眉を顰めた。
そんなに床入りが嫌かと思う一方、花魁にしてはあまりにおかしい言動に、不信感が募りまくってきたのだ。
だが、考えてみれば、自分は馴染みの客でもなんでもない。
あれこれ追求するのも野暮な気がした。
これからずっとつきあっていくのならともかく、今だけの関係であるのなら、楽しく過ごせたらそれでいい。
何と言っても、雪花に逢うのさえ拒まれるのは、土方としても辛かった。
総司が手元にいない今、せめて、総司とよく似た声で話す彼女を見ていたい。
「すまん。勝手な事を言ったな」
土方は笑いかけた。
それでも怯えた顔の雪花にむかって、手をさしのべた。
「何もしやしねぇよ。おまえを抱いたりはしない、だから……来いよ」
「……」
雪花は警戒心いっぱいの表情で、土方を見た。彼の顔と手を何度も比べるように見てから、おずおずと手をのばしてくる。
とたん、その手が掴まれた。強引に引き寄せられる。
「あ」
驚いて声をあげた次の瞬間、逞しい両腕に抱きしめられた。
男の匂いに、気配に、雪花は目を見開いた。
いきなり抱き寄せられ、総司はかなり焦ってしまった。
慌ててきょろきょろして、自分の格好を確認する。
緋襦袢とはいえ、かなり厚めの生地だった。しかも、総司は胸のあたりに詰め物をしている。晒で固定されてあるが、いつずれてくるか、ちょっとヒヤヒヤものだった。襟元を押し開かれたらお終いなのだ。
(ど、どどどうしよう……!)
突然、やる気まんまんになってしまっている男を前に、パニクッてしまった。
しないって言ったくせに!
嘘つきー!
などと思っている暇はない。総司は必死になって男の胸元に手をあて、突っ張った。
「お話が違います!」
「だから、何もしないと言っているだろう」
「でも……っ」
「ただ、寝るだけだ」
「ね、寝るって……っ」
やばいやばいやばい。
男のどこか据わった目に、総司は冷や汗がたらたら流れる気がした。相当、ひきつった顔になっていたのだろう。
総司の顔を見つめていた土方が、不意に、笑った。総司から手を離して布団の上に仰向けになると、楽しげに笑い始める。
その様子に、ようやく総司も気がついた。
「!」
思わず勢い良く起き上がってしまった。
「からかいましたね!」
「いや、悪い悪い。おまえ、すげぇ初なんだな」
「ち、違います。私は花魁です。初なはず……っ」
「そうだよな。おかしな話だよな」
笑いをおさめて呟く土方に、総司は固まってしまった。奇妙な沈黙が落ちる。
それに、土方が肩をすくめた。
「ま、どちらでもいいが。俺は今だけの客だ、詮索するのも野暮だろう」
「……」
「とにかく、寝よう。俺も疲れた」
「……はい」
総司はこくりと頷くと、再び布団に身体を横たえた。
すると、土方が両腕でその細い身体を抱きすくめるようにしてくる。びくんっと竦みあがったが、すぐさま耳もとに優しく囁かれた。
「大丈夫だ……こうして寄りそっているだけだ」
「……」
「安心して、眠れ」
そっと、背中を男の大きな手が撫でてくれた。それが心地よい。
総司はうっとりとなり、思わず甘えるように男の広い胸もとに凭れかかった。とくんとくんと男の力強い鼓動が聞こえてくる。
(土方さん……)
いつの間にか、総司は彼のぬくもりに包まれ、眠りに落ちていった……。
絶対、おかしいだろう。
土方はそう思った。さすがに訝しく思い始めたのだ。
相手は、吉原でも指折りの雪花花魁だ。なのに、床入りには怯えるし、男慣れもしていない。
初な生娘同然の言動に、戸惑った。
(この娘、本当にまだ男を知らないのか……?)
夜明け前、土方が身支度を整えて帰ろうとすると、雪花は丁寧に挨拶をしてきた。当然ながら先に起きて既に身支度を整えているため、あの艶めかしい雪花花魁そのものだ。
愛らしく可憐な笑顔で見送る雪花に、何か言ってやろうかと思ったが、結局は何も言うことが出来なかった。
ある意味、きれいな黒目がちの瞳に見つめられ、そんな気も失せたと言っていい。
絹糸のような黒髪を結い上げ、艶やかな裲襠を華奢な身に纏った雪花は、例えようもなく美しかった。
とくに、その瞳の美しさは、まるで赤子の瞳のようだ。長い睫毛が瞬き、ゆっくりと、あの潤んだ美しい瞳で見上げられれば、大抵の男は骨抜きになってしまうだろう。
(俺もその一人か)
そんな事あるはずがなかった。
自分は、総司だけを愛しているのだ。惚れているのだ。
今更、吉原の花魁に岡惚れするような質でもなかった。それなりに遊んできている、遊女に惚れても仕方がないことはわかりきっていた。
なのに、どうしてか、雪花には無性に惹かれるのだ。無駄だと思いながら、こうして足繁く通ってしまっている。
連日、吉原へ行く土方に、斎藤も呆れているようだった。一度などイヤミを言われたのだ。
「何のために、江戸へ来たんですかねぇ。吉原で遊ぶためですか?」
うるせぇよ! の一言で封じた。
仕事もむろん手抜かりなくやっている。浅草で総司を探しつづけている。その上での遊びは、ほんの息抜きのはずが、今や土方にとって大きな喜びとなっていた。
彼女に逢うと、気持ちが浮き立つのだ
土方が何か楽しいことを話すと、雪花はころころと小娘のように笑った。鈴のような声で笑い、親しげに身を寄せてくれる。
それがまるで総司といるようで、ふわふわと幸せな心地になった。
むろん、わかっている。錯覚だ。
だが、それでも、土方は通い続けたのだ。
しかも、先日、初めて口づけたから尚の事だ。
接吻した瞬間の、雪花のびっくりした顔、その柔らかな唇の感触は、今も忘れられない―――
「!!!」
接吻したとたん、雪花は大きく目を見開いた。
今までのように頬や額ではない。今度こそ、しっかり唇を重ねてやったのだ。
小さな手が彼の胸もとにかかり、初めは押し返そうとした。が、次第に力がなくなり、縋るように彼の着物を掴んでくる。それが、めちゃめちゃ可愛かった。
土方はいったん唇を離すと、雪花の華奢な身体を膝上に抱きあげた。しゃらんと簪が鳴り、ふわりと裲襠が広がった。
「……あ」
小さく声をあげ、雪花は抗うそぶりを見せた。が、それを抱きすくめ、首筋に口づける。
「すげぇ可愛いな」
そう囁きざま、もう一度口づけた。唇を重ね、その小さな舌を吸う。とたん、腕の中で雪花の躰が蕩けるように柔らかくなった。
従順に口づけにこたえ、目を閉じる。口づけを終えた後も、うっとりと凭れかかってきた。可愛くてたまらない。
土方は何度も口づけながら、雪花を抱きすくめた。それに、雪花が不意に言う。
「あの……っ」
「何だ」
「これ、なんか……子供みたいですよね」
膝上に抱かれていることを、指しているのだろう。
「そうかな」
土方はくすっと笑った。それから、雪花をあやすように腕の中で揺さぶりながら、囁きかけた。
「初で男慣れしていないおまえだ。子供みたいなものだろ」
「男慣れしていないって……」
「本当の事だろうが」
「……」
納得したのか、言い返す気が失せたのか、雪花は無理に男の膝上から降りようとしなかった。おとなしく男の腕の中におさまっている。
傍から見れば、一幅の絵のようだった。
端正な顔だちの武家姿の男が、膝上に、艶やかで可憐な花魁を抱いているのだ。見る者がいないのが、もったいないほどだった。
あまりにも似合いの二人に、楼でも評判になっている。夜明け前、花魁は客を送り出す。その時、雪花が土方を送り出すさまが、まるで舞台上の美しい光景のようだと言われたのだ。
この間も菖蒲から言われた事を思い出し、雪花は頬を染めた。
「大丈夫なの?」
土方が帰った後、化粧を落とした総司がごろごろとまた寝転がっていると、そこに菖蒲が来たのだ。
声をひそめて、訊ねられた。
「何がです」
「総ちゃん、わかっているんでしょ。あのお客さんよ」
「土方さんのこと?」
小首をかしげた総司に、菖蒲は頷いた。
「そう。あのお武家さん、めちゃめちゃ総ちゃんに入れ込んでいるじゃない。毎日、来るなんて」
「うーん、まぁ……」
「いくらなんでも、そのうち床入りしなきゃいけなくなるでしょ。気が変わることもあるだろうし」
「……」
「というか、それより先にバレるわよ」
菖蒲の言葉に、むくりと起き上がった総司は、「うーん」と腕を組んだ。可愛い顔で考え込む。
「確かに、やばいですよね」
「そろそろ仮病でも使って、断る? 何も無理に会わなくていいのよ」
「その方がいいのかなぁ」
総司は小首をかしげた。
わかっている。
そろそろ手をひいた方がいいのだ。会わないほうがいいに決まっている。
このままではバレるのも時間の問題だし、それに、一縷の望みもない恋だ。
彼は自分のことを雪花花魁だと思っている。もしも惹かれ、惚れてくれたとしても、それは雪花花魁への想いだ。
あの雪花花魁が、自分が弟のように思ってきた総司だと知れば、いっぺんに冷めてしまうだろう。それどころか、騙された事への怒りと屈辱がこみあげるに違いない。
彼はとても誇り高い人だ。矜持が高く、自分にも厳しいが、他者にも厳しい。
叱られるぐらいで済むだろうと思っていたが、今はそれじゃすまないとわかり始めている。
それに、怒った土方がどんな風になるか、総司はよく知っていた。
(とても怖いから……本当に怖くてたまらなくなるから)
江戸へ帰りたいと言い出した時のことだ。
あの時、自分に向けられた鋭い瞳は、今でも忘れられなかった……。