朧月夜だった。
吉原では艶めかしいいつもの夜がくり広げられていた。
男たちは道を歩き、酔いさざめいている。ずらりと道に並んだ店の中でも同様で、美しい女たちが男たちを誘い込む。
だが、そんな女たちなど、土方の目に入らなかった。というより、ただ一人しか見えなかったのだ。
彼の傍らに、ひっそりと坐っている花魁。
薄桜色の織りも鮮やかな着物を纏っている。華やかな帯で飾られた柳腰に、ほっそりとした項、袖先から覗く細い指さき。白い玉肌はまるで絹のように、なめらかだ。
艶やかな黒髪は結い上げられ、金色や紅の簪に飾られている。頬に翳りを落とす煙るような長い睫毛に、潤んだ黒い瞳、紅をさした蕾のような唇。
さんざん遊び尽くし、美女など見飽きるほど見てきた土方でも、思わず息を呑んでしまう、美しさ、可憐さだった。まさに、春の花のようだ。
「雪花、か」
茶屋でその名を聞いた時、美しいと思った。儚げな感じに惹かれ、指名していた。
だが、禿や新造たちを引き連れて現れた花魁を見た瞬間、息を呑んだ。
あまりの美しさ、可憐さに。
もともと新撰組の新入り隊士たち募集のために戻ってきた江戸だった。その際、ほんの息抜きにと立ち寄った吉原なのだ。
失った恋の痛手をいやすためでもあったかもしれない。
土方は先日、一つの恋を失っていた。長年、可愛がり、愛してきた若者を失ったのだ。その傷は今なお、じくじくと痛み続けている。
「……」
呼ばれたと思ったのか、雪花がゆるりと彼を見上げた。長い睫毛が瞬き、ふわりと小首をかしげた。
「いや、何でもねぇ」
土方はそう答えてから、ふと気がついた。
呼び出し花魁は、初会は口もきかぬものだったが、昨今はそうではないはずだった。が、この花魁は先程から一言も話していない。
「おまえは、もしかして……口がきけねぇのか」
思わずそう訊ねた土方に、一瞬、雪花は目を見張った。が、すぐに首をふる。
そして、言った。
「口はきけんす。話せんす」
甘く澄んだ声だった。それに、どきりとする。
あの、失った恋人によく似た声音だったのだ。そう言えば、顔立ちもどこか似ている。大きな瞳が、あの若者自身のものと重なった。
むろん、全部、気のせいなのだろう。最近、土方は失った若者の面影ばかりを、あちこちに探し求めるようになっていた。自分でも情けねぇと思うが、無意識であるため自制しようがない。
「怒ったのか」
そう訊ねると、雪花は首をふった。結い上げた髷で簪が涼やかな音をたてる。
「怒っていんせん」
「そうか」
土方はしばらく黙ったまま、杯を口に運んだ。やがて、酒にも飽きると、からりと杯を投げ出した。そのまま傍の雪花の手を掴む。白い手はとけそうに細く、柔らかだった。
「おまえの部屋に入れてくれるか」
「……」
一瞬、戸惑ったように雪花の瞳が揺れた。が、すぐに、こくりと頷いた。
「支度がありんす」
「わかっている。ここで待てばいいか」
雪花は黙ったまま、視線を新造たちに向けた。すると、禿たちが立ち上がり、雪花が立ち上がるのを助ける。
新造が頭を下げた。
「お部屋へご案内させて頂きます」
「あぁ」
土方は部屋へ向かった。呼び出しの遊女とは幾度か床をかわしたことがあるが、今日はどうも妙な感じだった。
あの雪花に、違和感を覚えているのだ。
部屋は豪奢な三間続きだった。どこぞの姫君のような部屋だ。土方は脇息に凭れかかりながら、ぼんやりと紫煙をくゆらせた。
日々、多忙にしている彼だが、少し時が空いてしまうと、すぐさま恋しい者の事を思い出してしまう。
失われた存在を。
(……総司)
今回、江戸へ来た理由の一つは新入り隊士の募集だったが、もう一つは総司を探すためだった。否、むしろ、土方にとってはこっちの方が本題だったと言ってもよい。
総司は京で病を得た後、江戸へ帰った。と、いう事になっている。
だが、後日、江戸にいるお光から、総司が帰ってきていないという事を知らされたのだ。むろん、試衛館にも戻っていない。
総司は行方知れずになってしまったのだ。否、行方知らずならよい。いつかは見つかるだろから、だ。
だが、沈痛な面持ちの近藤に、旅立つ前、言われた。
考えたくないが、見つからない以上、最悪の場合も考えた方がよいと……。
「お待たせしました」
新造の声に、土方は我に返った。
見れば、しずしずと花魁が部屋に入ってくるところだ。自分の部屋だからか、少しくつろいだ様子になっている。
禿たちも同じようにぞろぞろと入ってきて坐った。それが鬱陶しくてたまらない。
土方は思わず言ってしまった。
「悪いが、二人だけで話すことはできねぇか」
「……」
「話すだけだ、無体な事はしねぇよ」
「……」
雪花はじっとつぶらな瞳で土方を見つめた後、すっと視線を流した。それが合図だったのか、一斉に禿たちや新造たちが立ち上がり、部屋を出ていく。
二人きりになったのを確かめてから、土方は言った。
「おまえ、ここに来て日が浅いのか」
「どうしてでありんすか」
「何か、もの慣れていねぇというか……まぁ、俺の気のせいかもしれないが」
「すみんせん」
「おまえが謝る事じゃねぇよ。あぁ、そうだ、その廓言葉だ」
ふと気がついた。
「その廓言葉が慣れていないって気がするんだ。おまえに似合わねぇ」
「……」
「まぁ、廓言葉を上手く使えん花魁もいるだろう。けど、聞いていて落ち着かない。俺の前だけでいいから、廓言葉はやめねぇか」
「……はい」
小さな声で、雪花は答えた。それを、土方はじっと見つめた。
年の頃は、まだ二十歳もいっていないだろう。小柄で華奢な身体つきは、男の庇護欲をそそった。
「おまえの名を聞いて、強引に呼び出してしまったが、おまえは……名のとおり綺麗だな」
「ありがとうございます」
「そうだ、こんなものを手にいれた。おまえは好きか?」
土方は懐に入っていたものを思い出した。
先程、この吉原に来る前、買い求めたものだ。
むろん、この雪花に渡すためではなく、総司が気にいりそうだと目にとまったものだった。だが、それを今、雪花に渡そうとしている己の心境が理解できなかった。
可愛らしい花の形をした根付だった。桃の花が象られ、愛らしい。
雪花の顔がぱっと明るくなった。幼い子供のような笑顔になる。
「わぁ、可愛い……!」
手にとり、嬉しそうに眺める。
「私、こういうもの好きなのです。とても可愛いですね」
弾んだ声で言ってから、はっと我に返ったようだった。慌てて言い直す。
「と、とても可愛らしい物ですわ」
「……」
「あの……?」
おそるおそるといった様子で訊ねてくる雪花に、笑いがこみあげた。くすっと笑ってしまう。
きょとんとしている彼女の前で、土方は言った。
「俺の名は、土方だ。ふるつもりの客の名など、覚えてもいないだろう」
「え、いえ……その」
もごもごと口ごもってしまった雪花の様子に、土方は、やはりそうだったかと思った。
吉原での格式の高さなど、昨今ではあまり見かけなくなっているが、それでも位の高い遊女であれば客を選ぶことが出来る。
ましてや、花魁だ。客を選ぶことも出来るだろう。
彼女は、土方を初めからふるつもりでいたに違いない。なのに、この部屋にまで通してくれたのは、気が変わったのか何なのか。
「俺を客とするかどうかは、おまえの気持ち次第だ」
「……」
雪花の瞳が揺れた。それを見つめてから、土方は立ち上がった。
「また来る」
そう言って、部屋を出ていこうとする。
すると、後ろから声をかけられた。
「……またいらして下さりますよう、お待ち申し上げております」
丁寧な口調だが、気持ちは篭っていない気がする。通り一遍の挨拶なのだろう。
土方は、それもまた仕方がないことかと思いつつ、部屋を出た。
……あ、あぶなかったぁー!
総司は、まだバクバクする心の臓をおさえながら、何度も呼吸を繰り返した。
あまりに突然の出会いすぎて、もう頭の中が真っ白になった気がする。廓言葉で話していた時はまだ良かったが、素で喋るようになった途端、ボロが出てしまった。
「で、でも、大丈夫かな」
総司は小首をかしげ、鏡の中を覗き込んだ。
美しく化粧された少女めいた花魁の顔が映る。どこからどう見ても、人気のある雪花花魁の顔にしか見えなかった。それに、ちょっと安堵する。
艶やかで美しい雪花花魁。
だが、その中身は、元新撰組一番隊組長、筆頭師範代も務めた天才剣士である沖田総司だった。むろん、女ではない。
ならば、なぜ、このような事をしているかと言えば、この店の女将に大きな恩があるためだった。
江戸へ戻ってきてすぐ、総司は、厄介事に巻き込まれてしまった。
その可愛らしい容姿のためか、やくざ者の男に目をつけられ、つきまとわれたのだ。迷惑をかけたくなかったため、試衛館にもお光の元にも戻らず、宿屋で日々を過ごしていた。
そんなある夜、総司は吉原近くでまたその男につきまとわれ、仕方なく大門の中へ逃げ込んだ。大門をくぐれば、異なる世界だ。大勢の男女で賑わい、艶めかしい雰囲気だった。
総司は、こういう処で土方も遊んでいるのだと思うと、胸がちくりとしたが、考えないようにしながら逃げ回った。最悪な事に、その夜、男は本気で総司をものにしようとしていたのか、柄の悪そうな手下まで幾人も連れていた。
とうとう囲まれて襲われそうになった時、助けてくれたのが、たまたま店の外に出てきていた女将菖蒲だったのだ。
菖蒲はさっぱりとした姉御肌の女で、総司の状況を見ると、「無粋だねぇ」とあざ笑い、店の男たちに言って彼らを大門の外へ叩き出してくれた。
むろん、総司自身の腕だけでも男たちを叩きのめすことは出来たが、それでも江戸に帰ってばかりで揉め事は起こしたくなかった。
事が明らかになれば、新撰組の名も話さなければならなくなるだろう。それを聞いた土方がどう思うか、考えるだけで、身がすくむ思いがしたのだ。
女将は総司を店の中で泊まらせてくれ、いろいろと優しくしてくれた。剣の腕がすぐれているということを聞くと、用心棒がわりにここへ居着かないかと誘ってくれた。
そこまで甘えていいのかと思ったが、菖蒲や他の店の者たちの強い勧めもあり、結局、総司は吉原に居つくことになった。
むろん、用心棒と言っても、刀は厳禁なので、遊女に暴力をふるおうとした客などを木刀で叩きのめしたりしている。
そんなある日、事が起こった。
ある旗本に落籍されることが決まっていた花魁が、逃げ出したのだ。いわゆる、足抜けだ。すぐさま追手がかけられたが、未だ見つかっていない。当然、数日のうちに見つかるはずではあった。今まで、足抜けが成功した遊女など、ほとんどいないのだ。
問題は、見つかるまでの間だった。
身請け話が決まっている花魁が逃げ出すなど、前代未聞だ。公に出来るはずもない。
その状況を打開するため、菖蒲がとんでもない事を思いついた。
「総司さん、お願いがあるのだけど」
神妙な顔つきでやってきた菖蒲を見た時、総司はいやーな予感がした。何しろ、呼び名がやばい。
総司「さん」だなんて、今まで呼ばれたこともなかった。年上で、なかなか仇っぽい美女である菖蒲は、総司をめろめろに可愛がりまくり、総ちゃん総ちゃんと呼んでいたのだ。
「何、ですか」
ちょっと引き気味に訊ねると、菖蒲はぺこりと頭を下げた。手まであわせている。
「この通り! ちょっとの間でいいから、雪花になってくれない?」
「雪、花って……はぁッ!?」
思わず叫んでしまった。
「何を言っているんですか。雪花って、雪花花魁のことでしょう? 何で私が」
「だって、総ちゃん、雪花にそっくりだもん。化粧したらわからないぐらい」
「私、化粧なんかした事ありませんし、だいたいわかっています? 私、娘じゃないんですよ」
「わかっているわよ。こんな美人さんなのにねぇ、美少女にしか見えないけど」
「菖蒲さんッ」
「とにかくお願い! うちの命運がかかっているのよ」
「言っていることはわかりますけど……」
総司は、うんざりしつつ答えた。
「花魁になんかなれる訳ないでしょう? どうやって客の相手をするのです。それに、と、床入りがあるし……っ」
頬を染めて口ごもってしまった、純粋で初な総司なのである。
それに、菖蒲はにっこり笑った。
「大丈夫! 床入りは絶対ないから」
「どうしてそう言い切れるのです」
「だって、ふればいいのよ。もともと、身請け話が決まっているんだから、客をとる必要もないしね。で、逢ったりお酌したりするだけして、後は断ればいいの」
「そんな巧いこといきますか」
「大丈夫。だから、お願い!」
菖蒲が必死になって頼んでくるのに、総司は「うーん」と腕を組んで考え込んだ。