夜空に流れる雲が、月明かりを隠した。
闇が落ちる。
それに、総司は目をあげた。
夜目のきく歳三は恐らくこちらを見つめているだろうが、総司はその視線さえ感じる事ができない。
突然、彼がどこかへ行ってしまったような不安に襲われた。
思わず中腰になり、呼んだ。
「歳三さま」
「……」
「歳三さま、そこにおられますか……?」
その問いかけに、歳三がふっと笑うのを感じた。思わず安堵の息をもらす。
「……ぁ」
のばされた手に彼がふれ、柔らかく握りこまれるのがわかった。
いつのまにか、歳三は総司のすぐ傍に跪いていたのだ。それは、月明かりが再び射しこんだ時、その目で確かめることが出来た。
見つめる総司に、歳三はゆるく首をふった。
「俺はどこにも行かぬ」
「でも」
総司は躊躇った。その言葉を口に出すのが恐ろしかったのだ。
「私はあなたの……」
「おまえが刺客であっても、今尚、俺の命を狙っていようとも、それでも何処にも行かぬ」
静かな声で、つづけた。
「おまえは、俺が鬼となり国を滅ぼす事を恐れた父上が、万が一の時のために差し向けられた刺客であろう。俺が鬼になれば始末するように……そう命じられたはず」
「……はい」
総司はこくりと頷いた。長い睫毛が伏せられ、なめらかな頬に翳りを落とす。
躊躇いがちにだったが、懸命に答えた。
「私は、お屋形さまの命を受けておりました。歳三さまが鬼となれば、国は滅ぶ。常に傍にあり、それを防ぐようにと」
「それも……もはや無用だ」
歳三は自嘲するような口調で、呟いた。
「俺は一族を根絶やしにされても尚、鬼とならなかった。明日には、この国を後にしているだろう。ならば、おまえの役目は終わったのではないか」
「……」
「もはや、おまえが俺についてくる理由はない」
そう云いきった歳三に、総司は弾かれたように顔をあげた。
大きな瞳で彼を見つめ、ふるりと首をふった。男の手を縋るように握りしめる。
「私…は、私は、あなたと共に参りとうございます」
「……」
「この身は確かに、刺客としてお傍にありました。ですが、心は違います。心は、あなたを誰よりもお慕いしておりました。もし、歳三さまが鬼となられたなら、あなたを斬った刃で、私は……」
総司はひたと彼を見つめた。
「果てる覚悟でおりました。今も、生きるも死ぬも、歳三さまと共にありたいと願っております」
「総司……」
歳三はきつく唇を噛みしめた。
総司が己自身の父がさしむけた刺客である事は、とうの昔に知っていた。
だが、それを知った時、己でも苦笑したのだが、総司に対する愛は薄れるどころか、より濃く深まっていったのだ。
いずれ、己の腕の中にあるこの可憐な存在が、我が身を滅ぼすだろう。
その定めを知った瞬間、穏やかなせせらぎのようだった愛は、絶望と憎しみ、怒りと混ざりあい、飛沫をあげ叩きつける激流へと変っていった……。
(ただ可愛くいとしいだけではない。危うく恐ろしい存在だと感じていたからこそ、俺は……)
苦い笑みをうかべた歳三をどう解釈したのか、総司の大きな瞳がたちまち涙をうかべた。
すぐ泣いてしまう処は、幼い頃から変わらない。
「お願いです、歳三さま」
総司は、男の腕の中に我が身を寄せた。逞しい胸もとに縋りつき、懸命に願う。
「お傍にある事を、お許し下さい。どうか、歳三さま」
「総司……本当によいのか」
歳三はゆっくりと、その細い躯に腕をまわした。抱き寄せてやりながら、問いかける。
「おまえは沖田家の嫡男だ。おまえが味方になるかどうか、それはこの争いを左右する事だろう。おまえ自身、沖田家に戻れば、今までどおり安寧な日々が過ごせるはず。それなのに」
「歳三さま」
「俺は……もう何も持っておらん」
低い声で、歳三は呟いた。
見上げる総司に気づき、微かに笑ってみせた。
「そうだ。何一つ持っておらんのだ。身分も家も家族さえ失った俺にあるのは、この身一つのみだ。それでも、おまえは俺についてくると云うのか。この先、惨めに野たれ死にするやもしれぬ俺に……」
「私は申し上げました」
総司は深く澄んだ瞳でまっすぐ彼を見つめた。そのなめらかな頬に淡く朱がのぼっている。
「どんな地獄でも、歳三さまとなら共に参ります、と。歳三さまのお傍にいられるなら、私はもう何も望まないのです」
「総司……」
「それに、私も何一つもっておりませぬ。そればかりか、あなたの命を狙ってきた身、こんな私がお傍にいたいと願うこと自体、思い上がった事だとわかっております。でも、それでも……歳三さまの傍でなければ、私は生きてゆけませぬ」
歳三の黒い瞳が微かに潤んだ。だが、それを隠すように顔をそむけると、小さく呟いた。
「おまえは……本当に物好きだな」
「物好き……? そうでしょうか」
不思議そうに訊ねる総司に、歳三は苦笑した。それから、腕の中の細い躯を抱きなおすと、その髪に頬に指さきでふれた。
柔らかくふれ、その後を辿るように口づけてゆく。
「……好きだ」
囁きかけた歳三の腕の中、総司は目を閉じた。その耳もとに唇を寄せ、白い耳朶をそっと甘咬みする。
「おまえだけが好きだ。誰よりも……愛しいと思うておる」
「歳三…さま……」
その言葉は、総司の心を、瞳を濡らした。きれいな涙が、頬をゆっくりとつたい落ちてゆく。
それは、歓びの涙だった。
ようやく叶った、届いた──恋の歓びだった。
「私も……私も、あなたをお慕いしております。歳三さま、あなただけを」
涙に潤んだ瞳で、愛しい男を見つめた。
そっと囁けば、唇を重ねられる。
初めてふれた口づけに、身をすくめた。だが、すぐ男の両腕に優しく抱きすくめられ、深く唇を重ねられれば、強ばりもとけてゆく。
月明かりの中、そっと横たえられた時、総司は微かに震えた。
優しくあたえられる口づけが、抱擁が、何よりも愛おしい。
「……歳三さま……」
総司は男の背に手をまわすと、そっと静かに目を閉じた。
朝の光が射し込んでいた。
本堂の外からは風に樹木が揺れる音、鳥の囀りが聞こえてくる。朝特有の冷たく澄んだ空気が清々しかった。
総司は微かに目を開いた。
一瞬、そこが何処なのかわからず、ぼんやりと目の前の光景を眺める。だが、すぐ、はっとして身を起した。
「歳三さま……!」
どこにも男の姿はなかったのだ。
しんと静まりかえった朝の光景の中、総司だけが一人とり残されている。
「あ」
総司は目を見開き、両手で唇をおおった。
たまらない悔恨が込みあげた。
昨夜、歳三は総司と契りをかわそうとしなかったのだ。
口づけと抱擁だけをあたえられた。
何故と自ら訳を問うのもはしたなく、黙ったまま寄りそう他なかったのだが。
やはり、無理にでも抱いてもらえば良かったのか。
こんな一人とり残されるのならば、せめて身も心も彼のものになりたかった。
最後に、一度なりとも抱いてほしかった。
(それとも、いったん刺客となりながら、こんな身勝手な事を望むような私だから、歳三さまは捨て去られてしまったの……?)
総司の目に涙がうかんだ。
俯けば、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちてゆく。
それがまた情けなくて、きつく唇を噛みしめた。その時だった。
「……何を泣いている」
低い声が本堂の中に響いた。それに弾かれたように顔をあげれば、本堂の入り口に歳三が佇んでいた。
切れの長い目で、こちらを見つめている。
「──」
総司が泣き濡れた目を見開くと、どこか苦しげに顔を歪めた。そのまま、本堂の中へあがってくる。
総司の前に腰をおろすと、無造作に握り飯をさし出した。
「朝飯だ。近在の農家で手にいれてきた」
「歳三…さま」
それを受けとろうしない総司に、歳三は短く舌打ちした。
男の怒りを感じとり身を竦める総司を誤解し、その黒い瞳がより苛立ちをうかべる。
握り飯を手元に戻しながら、吐き捨てた。
「泣くほど嫌なら、今すぐ俺のもとから去れ」
「歳三さま」
総司は顔をあげ、大きく目を瞠った。
それに、歳三は言葉をつづけた。
「昨夜の事は、悪い夢を見たのだと思えば良い。幸い躯の契りは交わしておらぬ故、おまえは今も清らかだ」
「私…私は……っ」
男の冷たい言葉に、総司は激しく首をふった。また涙があふれるのを感じ、たまらなくなる。
誤解している彼の心をほぐしたかった。
だが、その術がわからない。
「……」
俯いたまま涙をこぼしている総司に、歳三はため息をついた。そのまま無言で飯を口にはこび始める。
今日は国境を越えなければならないのだ。今度いつ食事にありつけるやもしれぬ。
体力をつけておかなければならなかった。
「おまえも食せ」
「……」
「総司……云い方がきつかったのなら、謝る。だが、俺はおまえに無理強いしたくないのだ」
「無理強い…など、されておりませぬ……っ」
しゃくりあげるように、総司が答えた。
膝上に置いた両手を握りしめ、涙をいっぱいにためた瞳で男を見つめた。ふっくらした桜色の唇が震える。
「私は……無理強いされて、ここにいるのではありませぬ。歳三さまをお慕いし、お傍にありたいと願ったから、だから」
「なら、何故泣く」
「……起きたら……傍に……」
「え?」
訝しげに眉を顰めた歳三に、総司は耳朶まで真っ赤になってしまった。長い睫毛を伏せ、小さな声で恥ずかしそうに打ち明けた。
「朝……傍に歳三さまがおられなかったので、きっと捨てられてしまったのだと、もう行ってしまわれたのだと思って……」
「総司」
「とたんに、たまらなく悲しくなったのです。昨夜、契りを交わして下さらなかったのは、それ故なのかと……」
「……すまん」
歳三は不意に両手をのばすと、少年の華奢な躯を引き寄せた。腕の中におさめ、ぎゅっと抱きしめる。
あたたかな彼のぬくもりに、総司は目を見開いた。
男の着物を涙が濡らしたが、それに構わず、歳三はその小さな頭を己の胸もとに引き寄せた。
「つまらん誤解をした。許せ」
「……歳三さま」
「おまえを置いて行かぬ。俺は……不器用な男だから、うまく云えん。だが、それでも、おまえを愛しいと思う気持ちだけは真実だ。それだけは信じてくれ」
黙ったまま男の腕の中におとなしくおさまっている少年が、誰よりも愛しい。
その事を胸痛くなるほど感じながら、歳三は柔らかな髪を優しく撫でた。額に、頬に、瞼に、唇をそっと押しあてる。
「好きだ、総司。おまえだけを誰よりも、ずっと……愛しいと思うてきた」
「歳三、さま……」
「だからこそ、だ。こんな処でおまえと契りたくなかった。どこかへ落ち着き、互いをしっかり見られるようになってからと思ったのだ」
「え……」
目を瞠った総司に、歳三は静かな声で云い聞かせた。
「わかるな? おまえを大事に思うからこそだ」
そう云ってから、歳三は少し困ったように笑った。
「だが、ずっと堪えてきたとはいえ、昨夜はさすがに辛かったぞ。何しろ、好きあった相手を抱いて眠るのだ。まさに苦行だったな」
「あ……」
たちまち、総司はなめらかな頬を紅潮させた。恥ずかしそうに首をふると、男の逞しい胸もとへ顔をうずめる。
その愛しい小さな躯を抱きすくめ、歳三は囁いた。
「俺は……もう、おまえ以外は何も望まぬ。多くのものを失ったが、おまえが俺の傍にいることを選んでくれた。ずっと愛してきたおまえが俺と共にいてくれる。その事がどれ程俺にとって幸せか、おまえにはわからぬであろう」
「歳三さま……」
そっと彼の名を、総司は呼んだ。その躯を抱きしめ、歳三は静かに唇を重ねた。
次第に深く濃厚になってゆく口づけに、総司はうっとりと目を閉じた。
朝の光の中、抱きあう恋人たちは美しく清らかで、まさに神に祝福されたかの如くだった……。
国境へ抜けるには、幾多もの山を越えて行かなければならなかった。
だが、それも後少しで終わりだ。今、二人の前には険しい山が聳え立っている。
この山を越えれば、もう国境だった。
険しい山道に入る前、歳三は馬から降りた。川で水を水筒に汲むためだった。
「……総司」
優しい手つきで少年を助け下ろしてやり、つれて川原へ降りた。
昼下がりの柔らかな日射しが二人をあたたかく包みこんだ。
辺りには川の潺と鳥の声のみが響き、とても静かだ。
「いいものだな……」
ふと、歳三が呟いた。
それに総司が見上げると、男はこちらに端正な横顔を見せ、その黒い瞳を周囲ののどかな光景へ向けていた。
「歳三さま?」
「いや……」
歳三は僅かに目を伏せると、少し照れたように笑った。
「いいものだと思ったのだ。あれ程酷い事にあっても尚、恋しいおまえと共に、こうして柔らかな日射しの中に佇んでいれば、心穏やかになることができる。鳥の囀りを聞き、山々と共に、おまえと共に……俺はこれから生きてゆくのだろう。それは、国主の息子としてあるよりも余程幸せな事だと思うのだ」
「……共に参ります」
総司はそっと歳三の傍に寄りそった。手をのばし、彼の手を握りしめる。
「私も、あなたと共にあれるのなら、幸せです。それ以外は何も望みませぬ」
「総司……」
歳三は優しく少年の細い躯を抱きしめた。それから、髪を撫でてやってから、手をひき、馬を繋いでおいた場所へ戻ってゆく。
馬は川岸の樹木に繋いであった。
だが、その近くまで来たとたん、突然、歳三が足をとめた。
「? 歳三さま?」
不思議そうに見上げる総司を、歳三は素早く己の背に庇った。そのまま、鋭い視線を周囲に走らせる。
眦をつりあげ、叫んだ。
「何やつだ! 出て参れ」
そのとたん、だった。
ざぁっと音が鳴ったかと思うと、茂みの影から大勢の男たちが現われたのだ。どれも矢や槍を構えた足軽だった。
彼らは大きく歳三たちを取り囲むと、構えた。
その中を、ゆっくりと一人の恰幅のいい男が歩み出た。
「……伯父上」
絞り出すような声で呻いた歳三に、小島は鋭い双眸をむけた。
悠然とした笑みを口許にうかべる。
「もはや、ここまでだ。歳三」
「……」
「親殺し、兄殺しの罪故に、おまえには死んでもらわねばならん」
「罪を被せられて、か」
「国のためだ。この乱世、義諄のように安寧としていては、たちまち国は攻め入られ滅ぼされてしまう。それを、嫡男の喜六も全く理解せなんだ」
「だから、殺めたと云うのか。父上も兄上も……伯父上はその手で!」
歳三はそう糾弾したが、小島は平然としていた。
周りを固めているのは事情をよく知る配下の者ばかりのため、何ら動じる事がないのだろう。
「すべて、この国のためだ。民のためだ」
「ならば、佐藤一族を根絶やしにしたのも、国のためか」
「あれは呪われた忌むべき一族だ。もとは義諄もあのようではなかった。それを、佐藤一族が取り入り、骨抜きにしてしまったのだ」
「それは伯父上の考えであろう! 俺にとっては大事な血族だった。戦いも争いも悪も知らぬ人々だった。なのに、伯父上は……っ」
激情のあまり言葉をつまらせた歳三に、小島は目を細めた。
「もはや、あれこれ論じる時ではない。おまえはここですべての罪をかぶり、死ぬより道はないのだ」
「……」
歳三は激しく燃える瞳で、小島を睨みつけた。
小島は自らが正義だと信じているのだ。
強い信念をもっている。
そういう人間程恐ろしいものはなかった。
国を強くするためという大義名分のためならば、何をしても良いという不文律が、彼の中で成り立っているに違いない。
その小島にとって、歳三は、目障り極まりない存在だった。
だが、歳三にとっても、小島は一族の仇だ。一度は斃そうと決意した相手だった。
ここでおとなしくやられる気など、毛頭ない。
歳三は総司を背に庇ったまま、躯を開いた。刀の柄に手をかけ、身構える。
その時だった。
「……歳三さま」
静かな声で、総司が呼びかけた。それから、するりと彼の傍らから歩み出てしまう。
それに、歳三は驚いた。
「総司、下がれ」
「いいえ」
ゆるく首をふってから、また一歩歩み出た。
「総司?」
ふり返った総司は、僅かに目を伏せた。
そして、ゆっくりと笑ってみせた。
「──」
思わず息を呑んだ。
まるで、人格が異なってしまったような微笑だった。
その目は冷淡に光り、桜色の唇は妖しい笑みをうかべていた。滴るほど艶やかなくせに、どこか歪み狂った笑み。
姿が可憐なだけに、その表情はぞっとするものがあった。
「……総…司……?」
意味がわからず手をのばした歳三を、総司は物珍しいものを見るようなまなざしで眺めた。
すっと身をかわし、薄い笑みをうかべる。
「やはり、気づいておられなかった」
「……何を」
「私は、お屋形さまに差し向けられた刺客であると同時に、別の務めも帯びていたのです」
「別の務め?」
眉を顰めた歳三に、総司は淡々とした口調で云った。
「歳三さまの行動を、私は逐一小島さまにお知らせしておりました。むろん、此処へ小島さまをお呼びしたのも、この私」」
「──」
総司の言葉に、歳三の目が大きく見開かれた。
本気で、意味がわからなかったのだ。何を云われたのかもわからず、ただ、聞き返してしまう。
「どういう…事だ……?」
訊ねた男に、総司はくすっと笑った。
「おわかりになりませんか? それとも、わかりたくない?」
僅かに小首をかしげた。桜色の唇が、妖しい笑みをかたちどる。
きれいに澄んだ声が、残酷な事実を告げた。
違える事なく、明確に。
「私は、小島さまよりさし向けられた間者なのです」
「──」
呆然と立ちつくす男の前で、可憐な裏切り者は、鈴のような笑い声をあげた……。
