……お信は、母に似てはいなかった。
 だが、それでも、幼い頃、歳三はお信に亡くなった母の姿を重ねていた。
 まだ年ゆかぬ少女だったお信は、誰よりも歳三を慈しみ愛してくれた。あれほど愛してくれた存在は、他にないだろう。
 歳三にとって、お信は姉であり母であり、かけがえのない肉親だった。
 他族の者と決して交わらぬ佐藤一族。
 その中から初めて他の血を交えた存在である姉弟。
 ともすれば孤立しがちな存在だったが、お信はその気丈で明るい性格により、自らの居場所をつくりあげた。立場の弱い弟を守るため、佐藤一族の当主彦五郎の妻となり、影ながら歳三を支えつづけた。


 その一方で、お信はいつも何かを恐れているようだった。
 事あるごとに、噛んで含めるように、歳三へ云いきかせたのだ。


 人によい行いをなさい。己を常に律しなさい。
 あなたの中にある力を、悪へ使ってはなりませぬ──と。


 佐藤一族は人の心を読むという力の他に、悪というものを持たぬ人々だった。争うこと、憎むこと、騙すことを、拒んだ。そのため、戦うことさえせぬ人々だったのだ。
 その悪を知らない、優しく美しい里が。
 今、業火に燃えていた────











「歳三さま!」
 総司が思わず叫んだが、もう遅かった。
 歳三はまるで何かに操られるように馬から飛び降りると、燃えさかる里へむかって一散に駆けだしたのだ。
 家も、田畑も、轟音をたてて燃えさかっていた。
 女子どもも容赦なく斬られたらしく、あちこちに無残な亡骸がある。
 酷たらしい地獄絵図に叫び狂いそうになりながら、歳三は必死に里の中心を目指した。
 姉のお信夫婦が住んでいる邸があるのだ。
 だが、そこも既に火の海だった。むしろ、一番初めに火を放たれたらしく、ほぼ焼け落ちてしまっている。
「……姉上、姉…上……っ!」
 歳三は絶叫し、その燃えさかる邸の中へ駆け入ろうとした。その躯に後ろから誰かがしがみついた。
「いけませぬ、歳三さま!」
 ふり返ると、彼を追ってきた総司が縋りついていた。必死になって懇願している。
「もはやどうしようもありませぬ。この有様では、里は佐藤一族もろとも滅ぼされたのでしょう」
「だが、何故……!?」
 そう叫んでから、はっと息を呑んだ。目を見開く。
「俺のせい…か。反逆の汚名を着せられた俺のせいで、姉上たちが……」
「主殺しの罪を着せられた以上、こうなる事は必定。歳三さまを追いつめるためにも、一族郎党もろとも罰したに違いありませぬ」
「なら、あの伯父が! 小島の伯父が姉上たちを殺したというのか……!」
 歳三は呻き、のろのろと両手で喉もとを掴んだ。
 あまりの無残な出来事に、目の前の光景さえ信じられないのだ。
 愕然とした表情で炎を凝視する歳三に、総司は口早に云いつのった。
「とにかく、一刻も早くここを去りましょう。いつ追手に見つかるやもしれませぬ」
「……」
「歳三さま!」
 鋭い声で呼ばれ、歳三は我に返った。きつく唇を噛みしめると、身をひるがえす。
 炎に包まれた里を駆け抜けてゆきながら、歳三は周囲の光景に一切目をむけようとしなかった。
 見れば、立ち止まってしまう事がわかっていたからだ。
 佐藤一族は、歳三にとって血族だった。何があっても受け入れ、愛してくれる人々だった。それが今、無残にも根絶やしにされたのだ。
 燃えさかる里から去る歳三の瞳に涙はなかった。
 だが、しかし。
 死者を焼く業火を宿したかの如く、彼の黒い瞳には昏い炎が燃えあがろうとしていた……。











 夜も明けた。
 二人がいる峡谷にも鳥の囀りが響きわたり、川のせせらぎに陽の光がきらきらと眩い。
 だが、その美しい光景も、歳三の目には全く入っていなかった。
 先程から、川岸の岩の上に腰を下ろし、じっと両手を組んだまま瞑目している。
 総司はその傍らに控えながら、男の端正な横顔を見つめた。不安が心の奥底に渦巻いていた。


 彼の事を思うならば、いっそこのまま国外へ逃げて欲しい。
 だが、そのような事、彼の気性が許さぬだろう。
 歳三は兄弟の誰よりも誇り高く、また気性も激しかった。汚名を着せられ、血族を皆殺しにされ、おめおめと引き下がるような男ではない。
 だが、叶う相手ではない事もまた確かだった。小島は老獪な策謀家なのだ。それは今、こうして歳三の退路を確実に絶ってゆく事からもよくわかる。
 だが、総司が恐れているのは、それだけではなかった。


「……歳三さま」
 そっと声をかけた総司に、歳三はゆっくりと目を開いた。
 黒い瞳が総司をとらえる。
 それを見た瞬間、総司は鋭く息を呑んだ。まるで心の臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。
「!」
 歳三の瞳は、ぞっとするほど冷たかった。それは、まさに残酷な狂気をたたえた双眸だった。


 箍が外されたのだ、と思った。
 お信がずっと恐れていた事が起きたのだ。
 佐藤一族は、悪を知らない人々だった。だからこそ、力をもっていたとも云える。だが、その血が他と交わった時、歳三という存在が生まれた。
 人は誰もが悪をもつ、それがどんな小さなものであれ。そして、その悪と力が融合した時、どれほど恐ろしい事が起こるか。それをお信は歳三の身におこる事として予見し、恐れていたのだ。
 今、歳三は父と兄を殺され、血族を根絶やしにされた。その怒りと憎悪が凄まじいものである事は、容易に想像できた。
 そして、それが歳三の中に秘められた力と結びついた時、鬼が生まれるのだ。
 邪悪で恐ろしい魔物が───


「……!」
 思わず、総司は両手をさしのべていた。そのまま彼の躯にしがみつき、きつく抱きつく。
 黙ったまま受けとめる男の躯にむしゃぶりつくように抱きつきながら、叫んだ。
「歳三さま、お願い、どこにも行かないで……!」
「……」
「私はお傍におります。何があっても、私だけは歳三さまのお傍に」
「……」
 歳三は無言のまま、宙を見据えた。眦がつり上がり、その黒い瞳は底光りしている。
 ぎりっと奥歯を食いしばった。
 男の中で邪悪な狂気の身じろぎを感じ、総司は息をつめた。
 いつもの彼が戻ってきてくれる事を願い、無我夢中でしがみついた。必死に懇願する。
「お願いです、歳三さま」
「……」
「このまま、国を去りましょう。どこか遠い地で二人静かに暮らしましょう? 私は歳三さまと共になら、どこへでも参ります」
「──」
 不意に、歳三が総司の躯を乱暴に突き放した。そのまま立ち上がり、背を向けてしまう。
「……ぁ」
 総司は呆然と目を見開いた。


 もう、駄目なのだろうか。
 私の言葉は、この愛しい人の心に届かない……?


 半ば泣きだしそうになり、坐りこむ総司の前で、歳三は渓谷の彼方へと目を据えた。きつく拳が固められている。
 やがて、低く呟いた。
「……逃げはせぬ」
「歳三さま」
「このまま逃げる事などできるものか。この手で仇を討つまでは、一族の恨みを晴らすまでは、決して逃げぬ」
「ならば……」
 総司は喘いだ。恐ろしさと不安で、声が震えてしまう。
「歳三さまは、戦われると云われるのですか。鬼になられると……っ」
「……」
「歳三さまもわかっておられるはずです。感じておられるはず」
 目を伏せた。ぎゅっと両手を握りしめる。
 もう一度彼の躯に縋りつきたかったが、また振り払われたらと思うと、怖くてできなかった。
「お信さまが恐れられていたこと。あなたの中にある力がどれ程大きなものであるか、それが憎しみや怒りと結びついた時、いったいどうなるのか。あなたは、小島殿たちはおろか、この国までも滅ぼしてしまう……」
 そう云った総司に、歳三はふり返った。切れの長い目で少年を見据え、鋭く問いかけた。
「何故、知っている」
「……」
「総司、おまえは何故、俺の力の事を知っているのだ」
「……以前、お信さまに打ち明けられました。お信さまは今日あることを先見しておられたのかもしれませぬ。何度もくり返されていました。自分たちが死しても、その仇を討とうとは思わぬようにと……」
「ならば、このまま見過ごせと云うのか!」
 歳三はかっと激した。
「何の罪もない一族すべてを皆殺しにされながら、何もせぬままこの国を立ち去れと!」
「歳三さま……」
 両手を組み合わせ見守る総司の前で、歳三はきつく唇を噛みしめた。その引き締まった頬は、怒りのため青褪めている。
 低い掠れた声が、呟いた。
「俺は……今まで己の中にある力を理解していなかった。いや、今も本当の意味ではわからん。だが、それでも、この力を使えば、あの伯父たちを滅ぼすことが出来るのだ。仇を討てる、なのに」
「お信さまは、歳三さまの幸せのみを願っておられました」
 総司は懸命に言葉をつづけた。
「何よりも恐れておられたのは、あなたが鬼と化す事。それだけはならぬと、幾度も……」
「何故! どうして……姉上は」
 歳三は両手で顔を覆い、呻いた。
「俺に仇を討つなと命じるのだ。俺の幸せなど、もはや何処にあるのかもわからぬ。今の望みは、小島の伯父を討つ事だけなのに」
「ならば、歳三さまは……鬼になられるのですか」
 震える声で問いかけた総司に、歳三は答えなかった。黙ったまま、目を伏せている。
 その端正な横顔を見つめ、総司はすうっと息を吸い込んだ。一瞬、目を閉じてから、云った。
「歳三さまが鬼となられるなら……」
「……」
「今すぐ、私を殺めて下さいませ」
「……総司」
 歳三は驚いたように顔をあげた。
 それを、総司は懸命に見つめ返した。指さきが冷たく、心の臓が激しく鼓動を打った。
 それでも、愛する男だけを見つめた。
「私をこの場で殺められた後、事を成して下さいませ。私は、歳三さまを心からお慕いしております。歳三さまの幸せを何よりも願っております。ですが、幸せなど望まぬとおっしゃられるのなら、歳三さまが鬼となられるのなら、その前に……」
 声が震えた。
 だが、総司は懸命に涙をこらえ、言葉をつづけた。
「どうか……私を殺めて下さいませ」
 そう告げた総司は、息を呑むほど美しかった。
 清々しい峡谷の光景の中、じっと祈るように両手を組み、潤んだ瞳で彼を見つめている姿は儚くも美しい。
 それは、命がけの恋ゆえの美しさだった。
 総司は今、歳三に命をあずけたのだ。その美しく清廉な姿形のまま、純粋で清らかな少年の心を捧げたのだ。
 それを拒むことができるほど、歳三が総司にかけてきた想いは浅くなかった。
 幼い頃から愛しんできたこの少年を、歳三は、この世の何よりも大切に思ってきたのだ。
 己自身の命よりも。
「……総司……!」
 歳三は不意に両手をのばすと、その細い躯を乱暴に引寄せた。背中が撓るほど抱きしめ、柔らかな髪に頬をすり寄せる。
 男の腕の中、少年が小さく喘いだ。その息づかいさえ愛しく感じながら、歳三は告げた。
「おまえが大事だ。おまえを愛しく思うておる」
「歳三さま……」
「おまえを殺める事など、出来るものか……!」
 歳三は、総司の頬を大きな両掌で包みこんだ。そっと仰向かせ、低い声で誓うように囁きかける。
「おまえのために生きる。これからは……総司、おまえのために」
「……っ」
 男の言葉に、総司は息を呑んだ。


 この人は今、私のために生きると、そう云ってくれたのだ。
 他の誰でもない、こんな私のために。


「歳三さま……」
 涙がこぼれた。
 男の背に手をまわし、そのぬくもりを感じる。こちらに踏みとどまってくれた彼が愛しかった。
 何よりも誰よりも、愛おしかった……。











 とりあえず国境を目指す事にした。
 何よりもこの国を出るのが先決なのだ。だが、歳三も総司も昨夜は一睡もしていない。疲れ切っていた。
 夕刻、とある廃寺に辿りついた時にはもう限界を超えていた。
 とくに総司の方が酷かった。もともと華奢な躯つきの少年なのだ。いくら鍛錬を重ねていても、無理がある。
 二人は支えあうように本堂の奥へ進み、そのまま倒れこんだ。互いの躯に手をまわし抱きあったまま、眠ってしまう。
 疲労のためか、その眠りはまるで落ちるようだった。
 まだその寺は廃されて間もないらしく、割合、小綺麗だった。とくに本堂の中は全く荒らされておらず、磨かれた板間が広がっている。
 そこで、歳三と総司はつかの間の休息を得た。
 男の腕の中で眠る総司はもとより、あれほど復讐と怒りに燃えていた歳三も、若者らしく健やかな眠りを存分に貪っている。
 だが、夜半頃、歳三はふと目を覚ました。
「……」
 本堂を出て、その脇にある井戸端へ向った。
 桶で水をくみ上げて顔をあらい、ついでにくるくると着物を脱いでしまうと、手拭いで躯を拭い始めた。月明かりの中、黙々と己の躯を清めてゆく。
 それはまるで、己の中にいったんは目覚めた邪悪を払うための行為のようだった。
「……」
 気がつけば、いつのまにか総司が起きて来ていた。じっとそこに佇み、歳三の様子を見つめている。
 歳三は馬に常備している替えの着物を取り出すと、それを手早く纏った。総司にも小袖を渡しながら、云う。
「少し大きいだろうが、これに着替えろ」
「はい」
 立ち去る男の背を見送ってから、総司は同じように手拭いで躯を拭い、着物を纏った。
 確かに歳三の着物はかなり大きかったが、それでも帯を高めに締めれば何とかなった。袴だけは己のものを付け直し、本堂へ戻る。
 群青色の小袖を着流した歳三が、他の包みを開いていた。中から食べ物が次々とあらわれる様に、総司が驚く。
「歳三さま、これは」
「昼間、通りすがりの百姓家で手にいれておいた。むろん、金は払った」
「いつのまに」
「おまえが水を飲んでいる間だ」
 くすっと笑い、歳三はにぎり飯に手をのばした。総司も手にとり、少しずつ口に運びはじめる。
 今までとは量も質も比べものにならなかったが、それでも、久しぶりの食事に力がわいた。
 二人とも若いのだ。睡眠と食事をとれば、たちまち躯に力も漲る。
「明日、ここを出て国境に向うつもりだ」
 食事の後、歳三が淡々とした口調で云った。それに、傍らに端座した総司は頷いた。
「国を出て……それから、どうするか」
 歳三は立ち上がると、柱に背を凭せかけた。開け放した戸口から射しこんだ月明かりが。すらりとした男の躯を包みこむ。
 微かに笑った。
「刀を捨て、商人にでもなるか」
「命さえあれば、どうとでもなります」
「そうだな……おまえの云うとおりだ」
 しばらくの間、歳三は黙ったまま月明かりの光景を眺めていた。白い光が端正な横顔をふちどる。
 それを見上げた総司の前で、歳三はゆっくりと背をむけた。
 短い沈黙の後、低く呼びかけた。
「……総司」
「はい」
「おまえは……ここから帰れ」
「え」
 総司は戸惑ったように、彼の背を見つめた。それにふり返る事のないまま、歳三は淡々とした口調で言葉をつづけた。
「沖田の家へ戻れと云ったのだ」
「──」
 総司は大きく目を見開いた。


 いったい、何を云われたのかわからない。
 何故?
 ここまで来て、どうして今更……?


 思わず震える手で袴を握りしめた。
「私が……私が、何か到らなかったのでしょうか」
「……」
「歳三さまのお気に障るようなことを、何か」
「何もない」
 静かな声で、歳三は答えた。
 それに、総司は縋るように叫ぶ。
「なら、何故!?」
「……それを」
 感情を押し殺した声が、呟いた。
「俺に、問うのか」
 え?と息を呑んだ総司の前で、歳三はゆっくりとふり返った。月の光の中、冴え冴えとした黒い瞳が、総司を見据えている。
 しばらく押し黙った後、歳三は薄い笑みを口許にうかべた。目を瞠る総司に対し、静かな口調でつづける。
「総司、おまえは、幼なじみでも念兄弟でも、小姓でもない」
「……」
「おまえは……亡き父上が俺にさしむけた刺客だ」



 そう、彼に告げられた瞬間。
 総司の目が光った。
 それをみとめた歳三が、鋭い視線を返す。



 見つめあう二人の間に、突き刺す刃のような光が落ちた───。